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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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19/42

野の風景(1)

 水曜は、最後の授業が少し長引いた。

 教室を出てから時計を見ると、まだ間に合う時間だった。それでも、会館までの道をいつもより早く歩いた。植え込みの向こうに模擬店の骨組みが並び、学生が二人、折り畳んだ机を運んでいる。足元に落ちた銀杏の葉を踏むと、乾いた音がした。

 玄関の掲示板には、大学祭の案内が増えていた。《最後の舞踏会》のポスターは、その隣に残っている。今日は立ち止まらず、二階へ上がった。


 練習室の扉は開いていた。

 潤は窓際でチェロを出していた。まだコートを着たままで、私を見ると、ケースに置いていた弓を持ち上げた。

「間に合った」

「まだ五分ある」

「授業、終わらなくて」

 鞄を椅子へ置く。冷たい外の空気が、コートの袖の中に残っていた。潤は自分のコートを脱ぎ、空いている椅子の背へ掛けた。

「ここでいい?」

 向かい合わせに置かれた二脚の椅子を示す。

「もう少し、斜めがいいかな。弓、見えるように」

「こう?」

「うん」

 潤が椅子を動かす間に、私はヴァイオリンを出した。

 いつもの席から見るより、チェロが大きい。楽器の肩に添えられた左手も、弓の毛が弦へ触れるところも、顔を上げればすぐに見えた。前なら、そこまで近くで見ることを少し気にしたかもしれない。今日は譜面を置く位置を決めるように、自然に視線を向けた。

 潤が顔を上げたので、目が合う。先に逸らす理由もなく、私はそのまま譜面を台へ置いた。


 開放弦を鳴らし、音を合わせる。

 潤のAの上へ自分の音を重ねると、二つの響きが細かく揺れた。糸巻きに触れ、もう一度弾く。揺れが収まってから、私は譜面を開いた。

「土曜のところからでいい?」

「その少し前からにしよう。いきなりだと、たぶんまた合わない」

「それはそう」

 潤はチェロの譜面を置き、脇にスコアを開いた。私は鉛筆で、自分の譜面の入りを指す。

「ここまで、一度そっちだけ聴いてもいい?」

「いいよ」

 返事が思ったより近くに落ちた。

 弓が上がる。

 私は楽器を膝へ下ろした。


 チェロだけで聴くと、思っていたより動いていた。

 全練では、自分の指が忙しくなるところだった。低い音が続いていることはわかっていても、どの音から力をかけ、どこで少し緩めているのかまでは聴けていなかった。

 潤の右手が弓元へ近づく。返す前に音がわずかに膨らみ、そのまま次へつながった。

「あ、そこで返してるんだ」

 言うと、潤が止まった。

「もう少し先だと思ってた?」

「うん。だから、こっちの返しと重なると思ってた」

 私はヴァイオリンを上げ、同じところを弾いた。潤は譜面を見ず、私の右手を見ている。

「そっちは、そこで少し残すんだな」

「残したい。でも、そのあと遅れる」

「じゃあ、俺の次の音を聴いてからだと遅いかも」

 潤が短く弾いた。

 今度は音だけでなく、弓を返す前の動きを見た。潤の音を待つというより、その音がどこへ向かうのかを探すように耳を澄ませた。

「ここ?」

「うん。その辺で、もう来てほしい」

「やってみる」

 潤はうなずいたが、すぐには弓を下ろさなかった。私が本当にわかったのか、確かめるように見えた。

 私はその視線から逃げずに、弓を持ち直した。


 二人で弾くと、最初は私が早かった。

 潤が顔を上げる。私も弓を止めた。

「今のは待ってよ」

「来てほしいって言ったじゃない」

「まだ俺が行ってない」

「わかった。もう一回」

 潤が笑い、譜面を戻した。

 その顔を見たら、さっきまで急いで歩いていたことが、ようやく身体から抜けた。音を合わせるために止まったはずなのに、止まること自体が前ほど気まずくなかった。

 むしろ、潤が笑うのを待っていたような気がして、私は譜面へ目を落とした。


 今度は、弓を返す手前から聴いた。

 低い音が次へ向かう。その動きを途中で拾い、私も弓を進めた。合った、と思ったところで気を緩めると、二小節先でずれた。

「そこ、私」

「うん。今の前はよかった」

 潤がもう一度、始めの音を置く。

 私も入る。揃ったところを確かめるために止まらず、その先まで弾いた。チェロの音が私の音の下を通り、次には私のほうが先へ出る。譜面台の向こうで、潤が少し身体を起こした。

 私はそれを見て、音を渡した。受け取ってもらえるとわかっていたわけではない。ただ、潤なら聴いていると思った。

 音が重なった瞬間、潤の目がわずかに細くなった。うまくいった合図なのか、それとも次を促しているだけなのか、まだ判断はつかない。それでも、私は弓を止めなかった。


 区切りまで来ると、二人とも弓を下ろした。

「今の?」

 私が聞く。

「うん。今の」

 潤はスコアへ鉛筆を置いたが、何も書かなかった。

「全練でも、これくらい聴こえるといいんだけど」

「そこは、私もちゃんと聴く」

「聞こえなかったら?」

「弓を見る」

 答えてから、顔を上げた。

 潤はまだこちらを見ていた。

「じゃあ、見えるように弾く」

「変に大きく動かないでよ」

「そういう意味じゃない」

「わかってる」

 言いながら、わかっているのはどこまでなのか、自分でも少し曖昧だった。

 私は譜面へ目を戻した。余白の「チェロを聴く」の下に、弓、と小さく書き足す。書き終えてから、鉛筆を置く場所まで潤に見られているような気がして、少しだけ笑った。

「何?」

「別に」

「今、笑った」

「書いたから」

「何を?」

「秘密」

 潤は聞き返さなかった。ただ、鉛筆へ伸ばしかけた指が、一度だけ止まった。


 廊下で人の声がした。

 まだ六時半を少し過ぎたところだった。扉の前を誰かが通り、隣の部屋の鍵を開ける。潤はそちらへ一度顔を向けてから、スコアを戻した。

「もう一回、つなげる?」

「うん」

 今度は、さっきより前から始めた。

 自分が弾いている間にも、向こうの音が聞こえる。潤が私の音を待っているところもわかった。以前なら、自分の音を外さないことだけで精一杯だった。今は、弾きながらでも、潤の音がどこにあるかを探せる。

 うまくいった場所を通り過ぎ、その先へ進むと、初めて合わせるところなのに、弓を置く場所に迷わなかった。

 潤の視線が一度だけ上がる。私はそれを見て、ほんの少しだけ弓を深くした。返事の代わりに、それで十分な気がした。


 最後の音が消えるまで、私は楽器を下ろさずにいた。

 潤の弓が弦を離れた。

「また、やろうか」

 口にしてから、少し早かったかと思った。

 潤はすぐにうなずいた。

「やろう」

 そのあとで、譜面を閉じずに笑った。

 その返事を聞くと、次に合わせる場所がもう決まっているような気がした。次も、今日の続きとして始められる気がした。


     *


 全練のあとは、窓を閉めるだけで部屋が急に静かになった。

 第三楽章の譜面を片づけながら、私は最後に弾いたところを思い返していた。今日は途中を何度も戻り、終わりまでつなげたのは一度だけだった。それでも、終わったあとの静けさが、いつもより長く残っている。音が消えたあとも、潤の指揮の動きが目の奥に残っていた。

 樹が隣の譜面台を畳んだ。

「今日、早く来てたんですね」

「潤と、土曜のところ合わせてた」

「ああ。今日、弾きやすかったです」

「後ろも揃ってたよ」

「先輩の弓、わかりやすかったので」

 樹はそう言って、畳んだ譜面台をまとめて持ち上げた。私も椅子を運び、壁際へ重ねる。

 向こうでは、理沙がオーボエのケースを閉じていた。隣の奏者と明日の予定を話している。楽器をしまうと、さっきの音を出していた人も、私たちと同じように鞄の肩紐を探し始めた。

 潤の姿を探すつもりはなかったのに、視線が何度か玄関のほうへ向いた。


 玄関で靴紐を結び直していると、潤が下りてきた。

「帰る?」

「うん」

 それだけのやり取りなのに、待っていたことを見つけられたような気がした。

 扉を押すと、風が頬へ当たった。私はマフラーを引き上げる。潤もコートの前を留め、私の隣へ来た。


 昼間に運ばれていた机が、テントの下に並んでいた。

 まだ飾りのついていない骨組みを、外灯が白く照らしている。奥の一つだけ明かりがついていて、人影が看板を持ち上げていた。

「大学祭、見に行けるかな」

 私が言うと、潤はテントのほうを見た。

「練習前なら」

「演劇の人たち、模擬店出すんだって」

「あの芝居の?」

「うん。ほかのサークルと一緒に。最終日は衣装を着る人もいるって、受付に書いてあった」

「あの格好で料理するのか」

「給仕じゃない? 白い手袋で焼きそばは作れないでしょ」

 潤が笑った。

 私も、銀色の盆を持っていた役者を思い浮かべた。昼間の模擬店で会ったら、あの声も違って聞こえるかもしれない。そう思いながら、隣で笑う潤の声を聞いていた。

 笑い声が途切れたあとも、私はすぐには次の言葉を探さなかった。潤も同じように黙っていた。


 テントの列を過ぎると、足音がよく聞こえるようになった。

「今日の三楽章さ」

 潤が言った。

「うん」

「最初のほう、もう少し待てたかも」

「待ってたよ。いつもより」

「まだ、次を出したくなる」

 私は潤の横顔を見た。今は指揮棒を持っていない。その手はコートのポケットへ入りかけて、チェロの肩紐を直した。

「こっちは弾いてるから、あんまり待たれると困るけど」

「知ってる」

「でも、今日くらいなら、ちゃんと次の音を聴けた」

 潤がうなずく。

 そのうなずきが、合奏の話だけに向けられたものではないように思えて、私はすぐに前を向いた。

 枝の上に残った葉が、風で一度に鳴った。

 合奏の間だけでなく、こうして歩いている時にも、潤の言葉を急いで返さずにいられるようになっていた。


「最後の、返事が来ないところ」

 言いかけると、潤が歩く速さを少し緩めた。

「うん」

「今日、弾き終わってからも、待ってた気がする」

 楽譜では、その先がどうなるか知っている。

 それでも、音が消えた時には、どこかからもう一度あの声が聞こえるような気がしていた。先生がいれば、先生の手を見ればいい。今日は潤の指揮だったから、最後までそちらを見ていた。

「俺も」

 潤が言った。

「切るの、少し迷った」

「見てた」

「わかった?」

「うん」

 潤は何か言おうとして、やめた。

 その沈黙を、私は埋めようとしなかった。音の切れ目を待つように、隣を歩いた。

 言葉にしないままでも、さっきの最後の音を二人で覚えているような気がした。


 少し先で、自転車が一台、私たちを追い越した。

 道の端へ寄る時に、私の袖が潤の袖に触れた。そのまま二、三歩進み、道が広くなっても、すぐには離れなかった。

 離れようと思えば、すぐに離れられた。けれど、どちらもそうしなかった。

「今日、誘ってよかった」

 前を向いたまま言った。

 潤の足音が一つ遅れる。

「二人で弾いたこと?」

「ほかに何があるの」

「いや」

 声が少し笑っていた。

「俺も、よかった」

 短い返事だった。それ以上を聞くのが怖いような、聞かなくてもわかるような気がした。


 バス停の明かりが見えてきた。

 私は鞄からスマートフォンを取り出し、交通系ICのアプリを開いた。残高を確認してから、画面を消す。次のバスまで、まだ数分ある。

「ここでいいよ」

「バス来るまでいる」

「寒いでしょ」

「未央も寒いだろ」

 それはそうだった。

 私はスマートフォンをコートのポケットへしまい、潤と並んで立った。道路の向こうから車の音が近づき、また遠ざかる。大学の構内は、ここからではよく見えなかった。


 何か話さなければと思うのに、話し始めると、この時間が終わってしまいそうだった。潤も黙ったまま、時々道路の先へ目を向けている。けれど、帰る方向を見ているようには見えなかった。


 バスが来ると、前の人に続いて乗り込んだ。入口の読み取り機へスマートフォンをかざす。短い電子音がして、私は後ろのほうの空いている席へ向かった。窓の外では、潤がまだバス停に立っていた。私が顔を向けると、小さく手を上げる。私も手を上げた。扉が閉まり、バスが動き出す。潤の姿が遠ざかり、外灯の白い光に紛れていった。


 背もたれに身体を預けると、会館で弾いた最後の音を、もう一度思い出した。さっきまで隣にいた潤の、肩紐を押さえる手も、白くなる息も、まだ目の奥に残っている。


 私はスマートフォンをコートのポケットへしまい、窓から外を見た。次の水曜も、六時に行けるだろうか。時間割を思い浮かべながら、膝の上の鞄を抱え直した。


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