野の風景(1)
水曜は、最後の授業が少し長引いた。
教室を出てから時計を見ると、まだ間に合う時間だった。それでも、会館までの道をいつもより早く歩いた。植え込みの向こうに模擬店の骨組みが並び、学生が二人、折り畳んだ机を運んでいる。足元に落ちた銀杏の葉を踏むと、乾いた音がした。
玄関の掲示板には、大学祭の案内が増えていた。《最後の舞踏会》のポスターは、その隣に残っている。今日は立ち止まらず、二階へ上がった。
練習室の扉は開いていた。
潤は窓際でチェロを出していた。まだコートを着たままで、私を見ると、ケースに置いていた弓を持ち上げた。
「間に合った」
「まだ五分ある」
「授業、終わらなくて」
鞄を椅子へ置く。冷たい外の空気が、コートの袖の中に残っていた。潤は自分のコートを脱ぎ、空いている椅子の背へ掛けた。
「ここでいい?」
向かい合わせに置かれた二脚の椅子を示す。
「もう少し、斜めがいいかな。弓、見えるように」
「こう?」
「うん」
潤が椅子を動かす間に、私はヴァイオリンを出した。
いつもの席から見るより、チェロが大きい。楽器の肩に添えられた左手も、弓の毛が弦へ触れるところも、顔を上げればすぐに見えた。前なら、そこまで近くで見ることを少し気にしたかもしれない。今日は譜面を置く位置を決めるように、自然に視線を向けた。
潤が顔を上げたので、目が合う。先に逸らす理由もなく、私はそのまま譜面を台へ置いた。
開放弦を鳴らし、音を合わせる。
潤のAの上へ自分の音を重ねると、二つの響きが細かく揺れた。糸巻きに触れ、もう一度弾く。揺れが収まってから、私は譜面を開いた。
「土曜のところからでいい?」
「その少し前からにしよう。いきなりだと、たぶんまた合わない」
「それはそう」
潤はチェロの譜面を置き、脇にスコアを開いた。私は鉛筆で、自分の譜面の入りを指す。
「ここまで、一度そっちだけ聴いてもいい?」
「いいよ」
返事が思ったより近くに落ちた。
弓が上がる。
私は楽器を膝へ下ろした。
チェロだけで聴くと、思っていたより動いていた。
全練では、自分の指が忙しくなるところだった。低い音が続いていることはわかっていても、どの音から力をかけ、どこで少し緩めているのかまでは聴けていなかった。
潤の右手が弓元へ近づく。返す前に音がわずかに膨らみ、そのまま次へつながった。
「あ、そこで返してるんだ」
言うと、潤が止まった。
「もう少し先だと思ってた?」
「うん。だから、こっちの返しと重なると思ってた」
私はヴァイオリンを上げ、同じところを弾いた。潤は譜面を見ず、私の右手を見ている。
「そっちは、そこで少し残すんだな」
「残したい。でも、そのあと遅れる」
「じゃあ、俺の次の音を聴いてからだと遅いかも」
潤が短く弾いた。
今度は音だけでなく、弓を返す前の動きを見た。潤の音を待つというより、その音がどこへ向かうのかを探すように耳を澄ませた。
「ここ?」
「うん。その辺で、もう来てほしい」
「やってみる」
潤はうなずいたが、すぐには弓を下ろさなかった。私が本当にわかったのか、確かめるように見えた。
私はその視線から逃げずに、弓を持ち直した。
二人で弾くと、最初は私が早かった。
潤が顔を上げる。私も弓を止めた。
「今のは待ってよ」
「来てほしいって言ったじゃない」
「まだ俺が行ってない」
「わかった。もう一回」
潤が笑い、譜面を戻した。
その顔を見たら、さっきまで急いで歩いていたことが、ようやく身体から抜けた。音を合わせるために止まったはずなのに、止まること自体が前ほど気まずくなかった。
むしろ、潤が笑うのを待っていたような気がして、私は譜面へ目を落とした。
今度は、弓を返す手前から聴いた。
低い音が次へ向かう。その動きを途中で拾い、私も弓を進めた。合った、と思ったところで気を緩めると、二小節先でずれた。
「そこ、私」
「うん。今の前はよかった」
潤がもう一度、始めの音を置く。
私も入る。揃ったところを確かめるために止まらず、その先まで弾いた。チェロの音が私の音の下を通り、次には私のほうが先へ出る。譜面台の向こうで、潤が少し身体を起こした。
私はそれを見て、音を渡した。受け取ってもらえるとわかっていたわけではない。ただ、潤なら聴いていると思った。
音が重なった瞬間、潤の目がわずかに細くなった。うまくいった合図なのか、それとも次を促しているだけなのか、まだ判断はつかない。それでも、私は弓を止めなかった。
区切りまで来ると、二人とも弓を下ろした。
「今の?」
私が聞く。
「うん。今の」
潤はスコアへ鉛筆を置いたが、何も書かなかった。
「全練でも、これくらい聴こえるといいんだけど」
「そこは、私もちゃんと聴く」
「聞こえなかったら?」
「弓を見る」
答えてから、顔を上げた。
潤はまだこちらを見ていた。
「じゃあ、見えるように弾く」
「変に大きく動かないでよ」
「そういう意味じゃない」
「わかってる」
言いながら、わかっているのはどこまでなのか、自分でも少し曖昧だった。
私は譜面へ目を戻した。余白の「チェロを聴く」の下に、弓、と小さく書き足す。書き終えてから、鉛筆を置く場所まで潤に見られているような気がして、少しだけ笑った。
「何?」
「別に」
「今、笑った」
「書いたから」
「何を?」
「秘密」
潤は聞き返さなかった。ただ、鉛筆へ伸ばしかけた指が、一度だけ止まった。
廊下で人の声がした。
まだ六時半を少し過ぎたところだった。扉の前を誰かが通り、隣の部屋の鍵を開ける。潤はそちらへ一度顔を向けてから、スコアを戻した。
「もう一回、つなげる?」
「うん」
今度は、さっきより前から始めた。
自分が弾いている間にも、向こうの音が聞こえる。潤が私の音を待っているところもわかった。以前なら、自分の音を外さないことだけで精一杯だった。今は、弾きながらでも、潤の音がどこにあるかを探せる。
うまくいった場所を通り過ぎ、その先へ進むと、初めて合わせるところなのに、弓を置く場所に迷わなかった。
潤の視線が一度だけ上がる。私はそれを見て、ほんの少しだけ弓を深くした。返事の代わりに、それで十分な気がした。
最後の音が消えるまで、私は楽器を下ろさずにいた。
潤の弓が弦を離れた。
「また、やろうか」
口にしてから、少し早かったかと思った。
潤はすぐにうなずいた。
「やろう」
そのあとで、譜面を閉じずに笑った。
その返事を聞くと、次に合わせる場所がもう決まっているような気がした。次も、今日の続きとして始められる気がした。
*
全練のあとは、窓を閉めるだけで部屋が急に静かになった。
第三楽章の譜面を片づけながら、私は最後に弾いたところを思い返していた。今日は途中を何度も戻り、終わりまでつなげたのは一度だけだった。それでも、終わったあとの静けさが、いつもより長く残っている。音が消えたあとも、潤の指揮の動きが目の奥に残っていた。
樹が隣の譜面台を畳んだ。
「今日、早く来てたんですね」
「潤と、土曜のところ合わせてた」
「ああ。今日、弾きやすかったです」
「後ろも揃ってたよ」
「先輩の弓、わかりやすかったので」
樹はそう言って、畳んだ譜面台をまとめて持ち上げた。私も椅子を運び、壁際へ重ねる。
向こうでは、理沙がオーボエのケースを閉じていた。隣の奏者と明日の予定を話している。楽器をしまうと、さっきの音を出していた人も、私たちと同じように鞄の肩紐を探し始めた。
潤の姿を探すつもりはなかったのに、視線が何度か玄関のほうへ向いた。
玄関で靴紐を結び直していると、潤が下りてきた。
「帰る?」
「うん」
それだけのやり取りなのに、待っていたことを見つけられたような気がした。
扉を押すと、風が頬へ当たった。私はマフラーを引き上げる。潤もコートの前を留め、私の隣へ来た。
昼間に運ばれていた机が、テントの下に並んでいた。
まだ飾りのついていない骨組みを、外灯が白く照らしている。奥の一つだけ明かりがついていて、人影が看板を持ち上げていた。
「大学祭、見に行けるかな」
私が言うと、潤はテントのほうを見た。
「練習前なら」
「演劇の人たち、模擬店出すんだって」
「あの芝居の?」
「うん。ほかのサークルと一緒に。最終日は衣装を着る人もいるって、受付に書いてあった」
「あの格好で料理するのか」
「給仕じゃない? 白い手袋で焼きそばは作れないでしょ」
潤が笑った。
私も、銀色の盆を持っていた役者を思い浮かべた。昼間の模擬店で会ったら、あの声も違って聞こえるかもしれない。そう思いながら、隣で笑う潤の声を聞いていた。
笑い声が途切れたあとも、私はすぐには次の言葉を探さなかった。潤も同じように黙っていた。
テントの列を過ぎると、足音がよく聞こえるようになった。
「今日の三楽章さ」
潤が言った。
「うん」
「最初のほう、もう少し待てたかも」
「待ってたよ。いつもより」
「まだ、次を出したくなる」
私は潤の横顔を見た。今は指揮棒を持っていない。その手はコートのポケットへ入りかけて、チェロの肩紐を直した。
「こっちは弾いてるから、あんまり待たれると困るけど」
「知ってる」
「でも、今日くらいなら、ちゃんと次の音を聴けた」
潤がうなずく。
そのうなずきが、合奏の話だけに向けられたものではないように思えて、私はすぐに前を向いた。
枝の上に残った葉が、風で一度に鳴った。
合奏の間だけでなく、こうして歩いている時にも、潤の言葉を急いで返さずにいられるようになっていた。
「最後の、返事が来ないところ」
言いかけると、潤が歩く速さを少し緩めた。
「うん」
「今日、弾き終わってからも、待ってた気がする」
楽譜では、その先がどうなるか知っている。
それでも、音が消えた時には、どこかからもう一度あの声が聞こえるような気がしていた。先生がいれば、先生の手を見ればいい。今日は潤の指揮だったから、最後までそちらを見ていた。
「俺も」
潤が言った。
「切るの、少し迷った」
「見てた」
「わかった?」
「うん」
潤は何か言おうとして、やめた。
その沈黙を、私は埋めようとしなかった。音の切れ目を待つように、隣を歩いた。
言葉にしないままでも、さっきの最後の音を二人で覚えているような気がした。
少し先で、自転車が一台、私たちを追い越した。
道の端へ寄る時に、私の袖が潤の袖に触れた。そのまま二、三歩進み、道が広くなっても、すぐには離れなかった。
離れようと思えば、すぐに離れられた。けれど、どちらもそうしなかった。
「今日、誘ってよかった」
前を向いたまま言った。
潤の足音が一つ遅れる。
「二人で弾いたこと?」
「ほかに何があるの」
「いや」
声が少し笑っていた。
「俺も、よかった」
短い返事だった。それ以上を聞くのが怖いような、聞かなくてもわかるような気がした。
バス停の明かりが見えてきた。
私は鞄からスマートフォンを取り出し、交通系ICのアプリを開いた。残高を確認してから、画面を消す。次のバスまで、まだ数分ある。
「ここでいいよ」
「バス来るまでいる」
「寒いでしょ」
「未央も寒いだろ」
それはそうだった。
私はスマートフォンをコートのポケットへしまい、潤と並んで立った。道路の向こうから車の音が近づき、また遠ざかる。大学の構内は、ここからではよく見えなかった。
何か話さなければと思うのに、話し始めると、この時間が終わってしまいそうだった。潤も黙ったまま、時々道路の先へ目を向けている。けれど、帰る方向を見ているようには見えなかった。
バスが来ると、前の人に続いて乗り込んだ。入口の読み取り機へスマートフォンをかざす。短い電子音がして、私は後ろのほうの空いている席へ向かった。窓の外では、潤がまだバス停に立っていた。私が顔を向けると、小さく手を上げる。私も手を上げた。扉が閉まり、バスが動き出す。潤の姿が遠ざかり、外灯の白い光に紛れていった。
背もたれに身体を預けると、会館で弾いた最後の音を、もう一度思い出した。さっきまで隣にいた潤の、肩紐を押さえる手も、白くなる息も、まだ目の奥に残っている。
私はスマートフォンをコートのポケットへしまい、窓から外を見た。次の水曜も、六時に行けるだろうか。時間割を思い浮かべながら、膝の上の鞄を抱え直した。




