野の風景(2)
土曜のキャンパスは、いつもの道がわからなくなるほど人で埋まっていた。
正門から続くテントの列に、焼きそば、お好み焼き、揚げたてドーナツの看板が並んでいる。どこかで油のはねる音がして、その向こうから拡声器の声が重なった。通り過ぎた学生の紙皿から、ソースの匂いがした。
楽器は先に会館へ置いた。
練習室にはまだ数人しかいなかったが、窓の外から聞こえる音楽に合わせて、誰かが開放弦を鳴らしていた。音程が合わない、と笑っていたのは樹だった。
その樹が、今は私たちの少し前を歩いている。
「先輩、何食べます?」
「まだ決めてない」
「俺、さっきから全部食べたいんですけど」
「全部は無理でしょ」
「三つくらいなら」
潤が横から口を挟んだ。
「練習で眠くなるぞ」
「千堂先輩、それ毎年言いますね」
「毎年眠そうだから」
「今年は大丈夫です」
言い終わらないうちに、樹の足が止まった。
鉄板の前で、焼きそばを持ち上げている人がいる。隣では目玉焼きがいくつも並び、白身の縁が薄く焦げていた。
「……一つ目、決まりました」
「もう一つ目なんだ」
「候補です、候補」
「買ってくれば?」
潤が言うと、樹は少し迷ってから列の最後尾へ向かった。
「じゃあ、先に食べてます。あとで合流しますね」
「食べ過ぎないように」
「それは無理です」
樹に手を振り、私たちは通路の端へ寄った。
潤も看板を見上げている。人を避けて横へ動いた時、私の肩が潤の腕に触れた。すぐに離れたのに、触れた場所だけが妙に残った。潤も気づいたのか、わずかに腕を引いた。その動きがかえって意識されて、私は看板へ視線を逃がした。
「買わないの?」
「あとで。先に演劇のところへ行くんだろ」
「うん。でも、ほかも見たい」
「じゃあ、見てからにしよう」
潤はそう言って、私が歩き出すのを待った。
待たれているとわかると、急に自分の足の運びまで気になった。私は何でもないふりをして歩き出した。
練習の用事なら、潤と二人で歩くことはいくらでもあった。今日はどこへ行くかも決めていない。人の流れに押されながら、看板を一つずつ見ていく。隣を歩く潤の歩幅が、いつもより少しだけゆっくりだった。私に合わせているのだと思うと、胸の奥が小さく騒いだ。
通路が狭くなったところで、前から大きな袋を持った人が来た。
私は一歩後ろへ下がり、潤の背中側へ寄って、その人を通した。袋が過ぎると、潤が振り返った。
「いる?」
「いるよ」
「見えなくなった」
「そんなに小さくないです」
潤は何も言わずに笑った。私は隣へ戻り、さっきより少し近くを歩いた。腕が触れそうになるたび、どちらからともなく半歩ずつ間を調整した。そのたびに、離れたいのか近づきたいのか、自分でもわからなくなる。
模擬店の列が途切れた先に、野菜の箱が並んでいた。
土の残ったじゃがいも、葉を短く切ったにんじん、丸々とした玉ねぎ。その隣では、大根が白い胴を揃えて横たわっている。テントの上に「農学部実験農場・出張直売」と書かれた看板があった。
「あ、未央先輩」
箱の向こうから、コントラバスの二年生、ナターシャこと遠藤香穂子が顔を上げた。上着の袖をまくり、腰にエプロンを巻いている。手には、開きかけの紙袋を持っていた。
「香穂子、こっちに来てたんだ」
「今日は出張組です。農学祭は向こうでやってます」
「朝から?」
「はい。野菜と一緒に来ました」
香穂子は笑いながら、紙袋へじゃがいもを入れた。隣の学生が空になった箱を重ねている。売り場の奥には農学祭の案内が貼られ、実験農場や牛馬舎の写真が並んでいた。
「向こうは遠いもんね」
「バスで来てもらうことになりますから。こっちでも少し売ろうって」
香穂子は袋を待っていた人へ渡した。
「ありがとうございます」
その間に、私は大根の値札を見た。
一本の値段だった。家の近くのスーパーなら、半分に切られたものについていそうな数字が書かれている。
「……安い」
「今朝持ってきた分です。立派でしょう」
香穂子が一本持ち上げた。
白い胴は途中から細くなるが、そこまでが長い。葉のつけ根も瑞々しかった。
煮たらおいしそうだった。
家に持って帰れば、母も喜ぶと思う。
私は大根を見てから、会館のあるほうを見た。
「楽器と、これか……」
潤も大根を見た。
「持てなくはないだろ」
「持てるけど、練習室に置いておくことになる」
「ケースの横でいいんじゃない」
「私の席に大根があるの、変でしょ」
「じゃあ、俺の席の横に置く」
「もっと変だよ」
潤が笑った。
その笑い方を見ていると、なぜか大根を買うことまで悪くない気がしてくる。私が迷っているのを、潤は急かさずに見ていた。その視線が大根よりも気になって、私は値札へ目を戻した。
香穂子も大根を持ったまま、肩を揺らしている。
「袋、丈夫なのありますよ」
「そういう問題かな」
「帰りの問題は解決します」
「練習中の問題が残るの」
「俺が見てる」
潤が何気なく言った。
「大根を?」
「大根も」
「……それなら、少し安心」
言ってから、私は自分で妙な返事をしたと思った。潤も一瞬だけこちらを見たが、すぐに大根へ視線を戻した。
私はもう一度値札を見た。この一本を買わずに帰って、明日半分の大根を買うのは、少し悔しい気がした。
「……取り置きって、できる?」
「できますけど、販売は練習が始まる前に終わっちゃいます」
「ああ、そうか」
潤が箱の中を覗いた。
「俺、会館まで持とうか」
「そのあとは?」
「帰りは未央が持つ」
「いちばん大変なところじゃない」
「俺もチェロがあるから」
「それなら、最初から持つ気がないじゃない」
「持つ気はある。最後までとは言ってない」
「ずるい」
「買うなら、少しくらい頼っていいだろ」
その言葉に、返事が遅れた。
潤は大根の葉を見ていて、こちらを見ていない。そんなふうに何でもないことのように言われると、かえって顔を見たくなった。
私は思わず笑った。
ヴァイオリンと大根でも悩んでいるのに、チェロまで加わっては、何をしに来た人かわからなくなる。
「一本、ください」
「ありがとうございます」
香穂子は笑顔で袋を広げた。
代金を払う間に、潤がその袋を受け取る。上から葉のつけ根が少し出ていた。
「似合うね」
私が言うと、潤は袋へ目を落とした。
「何が」
「大根」
「未央の買い物だろ」
「持ってるのは潤でしょ」
「じゃあ、未央が持つ?」
「……そのままでいいです」
潤は少しだけ目を細め、袋を持ち直した。
私は笑いながら、隣の机へ目を向けた。麹や大豆を使った加工食品が並んでいる。瓶や袋につけられた説明を読もうとすると、潤が大根を持ったままこちらを見る。
「まだ買う?」
「見るだけ」
「さっきも見てた」
「今度は本当に」
「それ、買う人の言い方だろ」
「潤がそう言うから、買う人になってるのかも」
「俺のせい?」
「半分くらい」
「じゃあ、残り半分は未央のせいだな」
小さな瓶を一つ手に取った。
香穂子がこちらを見て、何も言わずに新しい紙袋を広げた。
「……これもください」
「やっぱり」
「だって、潤が持ってくれるから」
「そういう理由?」
「そういう理由」
代金を払い、瓶を袋へ入れた。私が袋の口を押さえているところへ潤が手を伸ばし、その指が私の指に重なった。
二人とも、一瞬だけ動きを止めた。
指先が触れただけなのに、周囲の音が遠のいた気がした。
「……持つよ」
「うん」
潤が袋を受け取り、私も手を離した。離れた指先が、今度ははっきりと名残惜しかった。
香穂子がちらりと私たちを見た。
「会館までなら、私も一緒に持ちますよ」
「大丈夫。潤が持つから」
「決定なんだ」
「もう持ってるし」
「そうだな」
潤は袋を二つまとめて持ち上げた。
「香穂子も、あとでね」
「はい。練習までには片づけて行きます」
会館へ向かう人の流れに戻ると、潤が少しだけ速度を落とした。
「重くない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「未央が気にするほどじゃない」
「でも、持ち替えたくなったら言って」
「そのときは言う」
「言わないで我慢しそう」
「未央もだろ」
「私は……」
「ほら」
潤が笑った。
私は言い返せず、代わりに彼の持つ大根の袋の持ち手を、一つだけ指でつまんだ。潤がこちらを見る。
「少しだけ」
「うん」
二人で同じ袋を持つ形になり、歩幅が自然に揃った。
袋の重さはほとんど潤が引き受けているのに、持ち手を共有しているだけで、隣にいる理由ができたように思えた。潤の手が少し動くたび、私の指にもその揺れが伝わる。
中庭へ入るまで、私はそのままにしていた。
*
演劇サークルたちの模擬店は、会館に近い中庭にあった。
テントの前に小さな机が並び、温かい飲み物とスープ、パンのセットを出している。手書きの看板には、参加しているサークルの名前がいくつも連なっていた。
その下で、燕尾服の人が紙コップを運んでいた。
「あ」
私が足を止めると、潤もそちらを見た。
白い手袋はしていなかった。袖口には、あの銀色の飾りがついている。
「この前の」
「うん」
役者は机へコップを置き、こちらへ顔を向けた。
「いらっしゃいませ。二名様ですか」
声を聞くと、舞台の扉の前に立っていた姿が戻ってきた。
けれど、すぐ後ろから「スープあと三つ!」と声が飛び、彼は振り返って「了解!」と答えた。盆も銀色ではなく、茶色い食堂のトレーだった。
「この前、お芝居見ました」
私が言うと、役者の顔が明るくなった。
「ありがとうございます。土曜ですか?」
「はい」
「今日、その衣装なんですね」
潤が言った。
「最終日なので。せっかく作ったんで、もう一回着ようって」
彼は袖口を少し引いた。
「ただ、これで洗い物すると怒られるんですよ。衣装係に」
テントの奥では、赤い肩掛けをした人が、普通のエプロンをつけてパンを袋へ入れていた。全員が舞台の格好をしているわけではなかった。
「スープのセット、二つください」
私が言うと、役者はすぐに頷いた。
「ありがとうございます。席、あちら空いてます」
示された机へ向かう。
潤が袋を二つ、机の横へ置き、私の椅子を引いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「大根、足元に置くと蹴るから」
「蹴らないよ」
「未央は、考え事してると周り見ないから」
「それは潤もでしょ」
「だから、端に置いた」
潤が袋の位置を少し直した。大根の白い胴が、袋の口から覗いている。
「潤も座って」
「うん」
潤が笑い、向かいに座った。
私は財布を鞄へしまった。木の葉が一枚、机の端へ落ちてきた。指で払うと、そのまま足元へ滑っていく。
「怖かった人が、スープ運んでる」
「それ、本人に言わなくてよかったな」
「褒めてるんだけど」
「たぶん、わかってる」
湯気の立つ紙の器が運ばれてきた。
パンは小さな袋に入り、器の横に木の匙が添えられている。私は両手で器を包んだ。指先が温まり、肩の力が抜けた。
「熱いですよ」
役者が言った。
「ありがとうございます」
潤も会釈をする。
役者は空いたトレーを持ち上げたが、すぐには戻らなかった。
「公演、最後どう思いました?」
不意に聞かれて、私は顔を上げた。
「……誰が帰ったのかなって」
「ああ」
「二人分、足音がしましたよね。でも、扉が開く音はしなかったから」
役者は少し笑った。
「そこ、よく聞かれます」
「答えは決めてあるんですか」
潤が聞いた。
「脚本の人は、あるみたいです。でも俺たちには、最後まで言わなかったんですよ」
私は舞台の暗闇を思い出した。
客席で隣にいた潤も、同じ音を聞いていた。今はその潤の前に、スープの湯気が上がっている。さっきまで一緒に袋を持っていた手が、器の横に置かれていた。
「じゃあ、演じてる人も知らないんですね」
「俺は、誰かを帰してるつもりでした」
役者は言い、テントのほうへ顔を向けた。
「誰を帰すかで、扉の前に立つ感じが変わるんで。そこは各自で考えようって」
奥から彼を呼ぶ声がした。
「すみません、ごゆっくり」
軽く頭を下げて、戻っていく。長い上着の裾が、机の角を避けて揺れた。
私は匙を取った。
スープには柔らかい玉ねぎと、小さく切ったじゃがいもが入っていた。一口飲むと、思っていたより熱くて、少しだけ息を吐いた。
「潤は、誰が帰ったと思う?」
「まだ決められない」
「私も」
「でも、帰れたならいいな」
私は匙を器へ戻した。
潤はパンの袋を開けていた。こちらを見ずに言ったので、聞き返すまでに少し間が空いた。
「二人とも?」
「うん」
私はそれ以上、聞かなかった。
潤も説明せず、パンを半分に割った。その片方を私のほうへ差し出す。
「食べる?」
「私のもあるよ」
「じゃあ、半分交換」
「同じパンなのに」
笑いながら受け取り、自分のパンも半分にして渡した。潤はそれを、何でもない顔で食べ始めた。
遠くから拍手が聞こえた。
中庭の向こうで、誰かの演奏が終わったらしい。拡声器の声が続き、人の笑い声がその後ろへ重なった。
机の下で、靴が何かに触れた。
潤の足かと思い、少し引いた。潤は器を持ち上げたところで、こちらを見ていない。
袋は机の横にある。足に触れる位置ではなかった。
落ちた枝でも踏んだのだろう。
私は足元を覗こうとして、やめた。引いた足を椅子の下へ戻し、両足を揃えて置いた。
「次、どこ行く?」
潤が聞いた。
「食べてから考える」
「全部は無理だぞ」
「それは樹に言って」
潤が笑う。
向かいで潤がスープを飲んでいる。練習の時とは違って、急いで譜面へ戻る必要はなかった。
机の横には、大根の袋と、小さな瓶の入った袋が並んでいる。
会館までの残りの道も、潤は持ってくれるのだろう。けれど、片方くらいは自分で持とうと思った。さっきと同じように、一緒に持ってもいい。
私は潤にもらったパンを、もう一口、ゆっくり食べた。




