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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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野の風景(2)

土曜のキャンパスは、いつもの道がわからなくなるほど人で埋まっていた。

 正門から続くテントの列に、焼きそば、お好み焼き、揚げたてドーナツの看板が並んでいる。どこかで油のはねる音がして、その向こうから拡声器の声が重なった。通り過ぎた学生の紙皿から、ソースの匂いがした。


 楽器は先に会館へ置いた。

 練習室にはまだ数人しかいなかったが、窓の外から聞こえる音楽に合わせて、誰かが開放弦を鳴らしていた。音程が合わない、と笑っていたのは樹だった。


 その樹が、今は私たちの少し前を歩いている。

「先輩、何食べます?」

「まだ決めてない」

「俺、さっきから全部食べたいんですけど」

「全部は無理でしょ」

「三つくらいなら」

 潤が横から口を挟んだ。

「練習で眠くなるぞ」

「千堂先輩、それ毎年言いますね」

「毎年眠そうだから」

「今年は大丈夫です」


 言い終わらないうちに、樹の足が止まった。

 鉄板の前で、焼きそばを持ち上げている人がいる。隣では目玉焼きがいくつも並び、白身の縁が薄く焦げていた。

「……一つ目、決まりました」

「もう一つ目なんだ」

「候補です、候補」

「買ってくれば?」

 潤が言うと、樹は少し迷ってから列の最後尾へ向かった。

「じゃあ、先に食べてます。あとで合流しますね」

「食べ過ぎないように」

「それは無理です」


 樹に手を振り、私たちは通路の端へ寄った。

 潤も看板を見上げている。人を避けて横へ動いた時、私の肩が潤の腕に触れた。すぐに離れたのに、触れた場所だけが妙に残った。潤も気づいたのか、わずかに腕を引いた。その動きがかえって意識されて、私は看板へ視線を逃がした。

「買わないの?」

「あとで。先に演劇のところへ行くんだろ」

「うん。でも、ほかも見たい」

「じゃあ、見てからにしよう」


 潤はそう言って、私が歩き出すのを待った。

 待たれているとわかると、急に自分の足の運びまで気になった。私は何でもないふりをして歩き出した。

 練習の用事なら、潤と二人で歩くことはいくらでもあった。今日はどこへ行くかも決めていない。人の流れに押されながら、看板を一つずつ見ていく。隣を歩く潤の歩幅が、いつもより少しだけゆっくりだった。私に合わせているのだと思うと、胸の奥が小さく騒いだ。


 通路が狭くなったところで、前から大きな袋を持った人が来た。

 私は一歩後ろへ下がり、潤の背中側へ寄って、その人を通した。袋が過ぎると、潤が振り返った。

「いる?」

「いるよ」

「見えなくなった」

「そんなに小さくないです」

 潤は何も言わずに笑った。私は隣へ戻り、さっきより少し近くを歩いた。腕が触れそうになるたび、どちらからともなく半歩ずつ間を調整した。そのたびに、離れたいのか近づきたいのか、自分でもわからなくなる。


 模擬店の列が途切れた先に、野菜の箱が並んでいた。

 土の残ったじゃがいも、葉を短く切ったにんじん、丸々とした玉ねぎ。その隣では、大根が白い胴を揃えて横たわっている。テントの上に「農学部実験農場・出張直売」と書かれた看板があった。


「あ、未央先輩」


 箱の向こうから、コントラバスの二年生、ナターシャこと遠藤香穂子が顔を上げた。上着の袖をまくり、腰にエプロンを巻いている。手には、開きかけの紙袋を持っていた。

「香穂子、こっちに来てたんだ」

「今日は出張組です。農学祭は向こうでやってます」

「朝から?」

「はい。野菜と一緒に来ました」


 香穂子は笑いながら、紙袋へじゃがいもを入れた。隣の学生が空になった箱を重ねている。売り場の奥には農学祭の案内が貼られ、実験農場や牛馬舎の写真が並んでいた。

「向こうは遠いもんね」

「バスで来てもらうことになりますから。こっちでも少し売ろうって」

 香穂子は袋を待っていた人へ渡した。

「ありがとうございます」


 その間に、私は大根の値札を見た。

 一本の値段だった。家の近くのスーパーなら、半分に切られたものについていそうな数字が書かれている。

「……安い」

「今朝持ってきた分です。立派でしょう」


 香穂子が一本持ち上げた。

 白い胴は途中から細くなるが、そこまでが長い。葉のつけ根も瑞々しかった。

 煮たらおいしそうだった。

 家に持って帰れば、母も喜ぶと思う。


 私は大根を見てから、会館のあるほうを見た。

「楽器と、これか……」

 潤も大根を見た。

「持てなくはないだろ」

「持てるけど、練習室に置いておくことになる」

「ケースの横でいいんじゃない」

「私の席に大根があるの、変でしょ」

「じゃあ、俺の席の横に置く」

「もっと変だよ」


 潤が笑った。

 その笑い方を見ていると、なぜか大根を買うことまで悪くない気がしてくる。私が迷っているのを、潤は急かさずに見ていた。その視線が大根よりも気になって、私は値札へ目を戻した。

 香穂子も大根を持ったまま、肩を揺らしている。

「袋、丈夫なのありますよ」

「そういう問題かな」

「帰りの問題は解決します」

「練習中の問題が残るの」

「俺が見てる」

 潤が何気なく言った。

「大根を?」

「大根も」

「……それなら、少し安心」


 言ってから、私は自分で妙な返事をしたと思った。潤も一瞬だけこちらを見たが、すぐに大根へ視線を戻した。

 私はもう一度値札を見た。この一本を買わずに帰って、明日半分の大根を買うのは、少し悔しい気がした。

「……取り置きって、できる?」

「できますけど、販売は練習が始まる前に終わっちゃいます」

「ああ、そうか」


 潤が箱の中を覗いた。

「俺、会館まで持とうか」

「そのあとは?」

「帰りは未央が持つ」

「いちばん大変なところじゃない」

「俺もチェロがあるから」

「それなら、最初から持つ気がないじゃない」

「持つ気はある。最後までとは言ってない」

「ずるい」

「買うなら、少しくらい頼っていいだろ」


 その言葉に、返事が遅れた。

 潤は大根の葉を見ていて、こちらを見ていない。そんなふうに何でもないことのように言われると、かえって顔を見たくなった。


 私は思わず笑った。

 ヴァイオリンと大根でも悩んでいるのに、チェロまで加わっては、何をしに来た人かわからなくなる。

「一本、ください」

「ありがとうございます」


 香穂子は笑顔で袋を広げた。

 代金を払う間に、潤がその袋を受け取る。上から葉のつけ根が少し出ていた。

「似合うね」

 私が言うと、潤は袋へ目を落とした。

「何が」

「大根」

「未央の買い物だろ」

「持ってるのは潤でしょ」

「じゃあ、未央が持つ?」

「……そのままでいいです」


 潤は少しだけ目を細め、袋を持ち直した。

 私は笑いながら、隣の机へ目を向けた。麹や大豆を使った加工食品が並んでいる。瓶や袋につけられた説明を読もうとすると、潤が大根を持ったままこちらを見る。

「まだ買う?」

「見るだけ」

「さっきも見てた」

「今度は本当に」

「それ、買う人の言い方だろ」

「潤がそう言うから、買う人になってるのかも」

「俺のせい?」

「半分くらい」

「じゃあ、残り半分は未央のせいだな」


 小さな瓶を一つ手に取った。

 香穂子がこちらを見て、何も言わずに新しい紙袋を広げた。

「……これもください」

「やっぱり」

「だって、潤が持ってくれるから」

「そういう理由?」

「そういう理由」


 代金を払い、瓶を袋へ入れた。私が袋の口を押さえているところへ潤が手を伸ばし、その指が私の指に重なった。

 二人とも、一瞬だけ動きを止めた。

 指先が触れただけなのに、周囲の音が遠のいた気がした。

「……持つよ」

「うん」

 潤が袋を受け取り、私も手を離した。離れた指先が、今度ははっきりと名残惜しかった。


 香穂子がちらりと私たちを見た。

「会館までなら、私も一緒に持ちますよ」

「大丈夫。潤が持つから」

「決定なんだ」

「もう持ってるし」

「そうだな」


 潤は袋を二つまとめて持ち上げた。

「香穂子も、あとでね」

「はい。練習までには片づけて行きます」


 会館へ向かう人の流れに戻ると、潤が少しだけ速度を落とした。

「重くない?」

「大丈夫」

「本当に?」

「未央が気にするほどじゃない」

「でも、持ち替えたくなったら言って」

「そのときは言う」

「言わないで我慢しそう」

「未央もだろ」

「私は……」

「ほら」

 潤が笑った。

 私は言い返せず、代わりに彼の持つ大根の袋の持ち手を、一つだけ指でつまんだ。潤がこちらを見る。

「少しだけ」

「うん」


 二人で同じ袋を持つ形になり、歩幅が自然に揃った。

 袋の重さはほとんど潤が引き受けているのに、持ち手を共有しているだけで、隣にいる理由ができたように思えた。潤の手が少し動くたび、私の指にもその揺れが伝わる。

 中庭へ入るまで、私はそのままにしていた。


     *


 演劇サークルたちの模擬店は、会館に近い中庭にあった。

 テントの前に小さな机が並び、温かい飲み物とスープ、パンのセットを出している。手書きの看板には、参加しているサークルの名前がいくつも連なっていた。


 その下で、燕尾服の人が紙コップを運んでいた。

「あ」

 私が足を止めると、潤もそちらを見た。

 白い手袋はしていなかった。袖口には、あの銀色の飾りがついている。

「この前の」

「うん」


 役者は机へコップを置き、こちらへ顔を向けた。

「いらっしゃいませ。二名様ですか」

 声を聞くと、舞台の扉の前に立っていた姿が戻ってきた。

 けれど、すぐ後ろから「スープあと三つ!」と声が飛び、彼は振り返って「了解!」と答えた。盆も銀色ではなく、茶色い食堂のトレーだった。


「この前、お芝居見ました」

 私が言うと、役者の顔が明るくなった。

「ありがとうございます。土曜ですか?」

「はい」

「今日、その衣装なんですね」

 潤が言った。

「最終日なので。せっかく作ったんで、もう一回着ようって」

 彼は袖口を少し引いた。

「ただ、これで洗い物すると怒られるんですよ。衣装係に」


 テントの奥では、赤い肩掛けをした人が、普通のエプロンをつけてパンを袋へ入れていた。全員が舞台の格好をしているわけではなかった。

「スープのセット、二つください」

 私が言うと、役者はすぐに頷いた。

「ありがとうございます。席、あちら空いてます」


 示された机へ向かう。

 潤が袋を二つ、机の横へ置き、私の椅子を引いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

「大根、足元に置くと蹴るから」

「蹴らないよ」

「未央は、考え事してると周り見ないから」

「それは潤もでしょ」

「だから、端に置いた」

 潤が袋の位置を少し直した。大根の白い胴が、袋の口から覗いている。

「潤も座って」

「うん」


 潤が笑い、向かいに座った。

 私は財布を鞄へしまった。木の葉が一枚、机の端へ落ちてきた。指で払うと、そのまま足元へ滑っていく。

「怖かった人が、スープ運んでる」

「それ、本人に言わなくてよかったな」

「褒めてるんだけど」

「たぶん、わかってる」


 湯気の立つ紙の器が運ばれてきた。

 パンは小さな袋に入り、器の横に木の匙が添えられている。私は両手で器を包んだ。指先が温まり、肩の力が抜けた。

「熱いですよ」

 役者が言った。

「ありがとうございます」

 潤も会釈をする。


 役者は空いたトレーを持ち上げたが、すぐには戻らなかった。

「公演、最後どう思いました?」

 不意に聞かれて、私は顔を上げた。

「……誰が帰ったのかなって」

「ああ」

「二人分、足音がしましたよね。でも、扉が開く音はしなかったから」


 役者は少し笑った。

「そこ、よく聞かれます」

「答えは決めてあるんですか」

 潤が聞いた。

「脚本の人は、あるみたいです。でも俺たちには、最後まで言わなかったんですよ」


 私は舞台の暗闇を思い出した。

 客席で隣にいた潤も、同じ音を聞いていた。今はその潤の前に、スープの湯気が上がっている。さっきまで一緒に袋を持っていた手が、器の横に置かれていた。


「じゃあ、演じてる人も知らないんですね」

「俺は、誰かを帰してるつもりでした」

 役者は言い、テントのほうへ顔を向けた。

「誰を帰すかで、扉の前に立つ感じが変わるんで。そこは各自で考えようって」


 奥から彼を呼ぶ声がした。

「すみません、ごゆっくり」

 軽く頭を下げて、戻っていく。長い上着の裾が、机の角を避けて揺れた。


 私は匙を取った。

 スープには柔らかい玉ねぎと、小さく切ったじゃがいもが入っていた。一口飲むと、思っていたより熱くて、少しだけ息を吐いた。

「潤は、誰が帰ったと思う?」

「まだ決められない」

「私も」

「でも、帰れたならいいな」

 私は匙を器へ戻した。

 潤はパンの袋を開けていた。こちらを見ずに言ったので、聞き返すまでに少し間が空いた。

「二人とも?」

「うん」


 私はそれ以上、聞かなかった。

 潤も説明せず、パンを半分に割った。その片方を私のほうへ差し出す。

「食べる?」

「私のもあるよ」

「じゃあ、半分交換」

「同じパンなのに」

 笑いながら受け取り、自分のパンも半分にして渡した。潤はそれを、何でもない顔で食べ始めた。


 遠くから拍手が聞こえた。

 中庭の向こうで、誰かの演奏が終わったらしい。拡声器の声が続き、人の笑い声がその後ろへ重なった。


 机の下で、靴が何かに触れた。

 潤の足かと思い、少し引いた。潤は器を持ち上げたところで、こちらを見ていない。

 袋は机の横にある。足に触れる位置ではなかった。

 落ちた枝でも踏んだのだろう。

 私は足元を覗こうとして、やめた。引いた足を椅子の下へ戻し、両足を揃えて置いた。


「次、どこ行く?」

 潤が聞いた。

「食べてから考える」

「全部は無理だぞ」

「それは樹に言って」

 潤が笑う。


 向かいで潤がスープを飲んでいる。練習の時とは違って、急いで譜面へ戻る必要はなかった。

 机の横には、大根の袋と、小さな瓶の入った袋が並んでいる。

 会館までの残りの道も、潤は持ってくれるのだろう。けれど、片方くらいは自分で持とうと思った。さっきと同じように、一緒に持ってもいい。


 私は潤にもらったパンを、もう一口、ゆっくり食べた。


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