↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
PR
21/42

野の風景(3)

会館の玄関まで戻っても、焼きそばの匂いがついてきた。ソースの焦げた甘さに、油の重たさと、青のりの青い香りが混じっている。廊下を歩くたび、服の袖からふっと立ち上った。


 扉を閉めると、外の拡声器の声が一枚の壁の向こうへ遠のいた。代わりに、階段の踊り場には、誰かが運んだ楽器ケースの革の匂いと、古いワックスの匂いがこもっていた。上から、靴底が段を打つ音が近づいてくる。


 階段の途中で、下りてきた樹と会った。

「戻ってたんですね」

「二つ目まで食べた?」

「食べました」

「三つ目は?」

「練習のあとにします」

 潤が笑った。喉の奥で短く鳴るような笑いだった。


 樹は私たちの手元へ目を落とし、足を止めた。潤が抱えている大根の袋から、白い先端が少しだけ覗いている。

「それ、何ですか」

「大根」

「見ればわかりますけど」

「未央が買った」

「千堂先輩が持つんですね」

「会館まで」

 私は小さな瓶の入った袋を持ち上げた。袋の中で、瓶が小さく揺れた。

「こっちは私」

「そっち、軽そうですね」

「じゃあ、大根持ってくれる?」

「そこは千堂先輩に任せます」

 樹は笑いながら身を引き、階段の端を空けた。すれ違う時、潤の袋が手すりに当たり、紙がくしゃりと鳴った。


 二階の練習室には、さっきより人が増えていた。

 扉を開けた途端、外の祭りの匂いに代わって、松脂と木の匂いが鼻へ入ってくる。開け放した窓からは、模擬店の呼び込みと、遠くで鳴る太鼓の音が細く流れ込んでいた。その下で、椅子を引く音、譜面をめくる音、誰かが弓を弦へ軽く当てる音が重なっている。


 窓際では奈緒が譜面を揃えていた。紙の束を机の角へ何度も軽く打ちつけ、ずれた端をきれいに合わせている。潤は大根の袋を壁際へ置き、私はその隣に瓶の袋を並べた。袋の中で、瓶がまた小さく鳴った。


 楽器のケースを開けると、内張りの布から乾いた木の匂いが立ち上った。譜面を取り出した拍子に、間へ挟んでいた黄色いスコアが膝へ滑り落ちる。表紙が膝に当たり、ぱたんと音を立てた。


「あ、それ、幻想のスコアですか」

 顔を上げると、ヴァイオリンの一年生が立っていた。肩から下げたケースの金具が、動くたびに小さく揺れている。


 入団する前から弾いていた子で、夏合宿でも左手はよく動いていた。ただ、合奏になると隣の上級生を見てから弓を置くことが多かった。今度の秋定が、初めての本格的な舞台になる。練習室の音が一度に押し寄せると、どこから聴けばいいのか迷ってしまうのだろう。


「うん」

「スコアって、どれを選べばいいんですか?」

 私は膝の上の表紙を見た。黄色い紙は角が擦れ、何度も開かれた跡が残っている。

「買おうと思ってる?」

「はい。全練で、ほかのパートが何をしてるのか、もう少しわかったらいいなと思って」

 私は隣の椅子から鞄を下ろした。椅子の脚が床を擦り、低い音を立てる。

「座る?」

「ありがとうございます」


 黄色い表紙を開くと、第三楽章のページの角が少し折れていた。指で伸ばし、二人の間へ向ける。紙が擦れる音に、一年生が少し身を寄せた。

「これはオイレンブルク。持ち歩くには便利だけど、細かいところを見るには、ちょっと小さいかな」

 一年生がページへ顔を近づけた。髪が肩から滑り、譜面の端に影を落とす。

「先輩、これで読めるんですか」

「読む時は近くなる」

「今も近いよ」

 奈緒が譜面を抱えたまま、こちらへ来た。紙の束が胸元でかすかに揺れている。

「未央、それ見てると、だんだん下向くんだよね」

「そう?」

「話しかけても気づかないくらい」

「それ、大きいスコアでも同じじゃないですか」

 戻ってきた樹が言った。手には折り畳んだ譜面台があり、金具が歩くたびにかちゃかちゃ鳴っている。

「小野寺くんもでしょ」

「俺は返事してます」

「返事だけね」

 奈緒が言うと、一年生も笑った。笑い声が、窓から入る太鼓の音に一瞬重なった。


「家でじっくり見るなら、もう少し大きいのもいいと思う」

 私はページを押さえた。開いた紙が風でめくれかけ、指先でそっと止める。

「できれば、中を見て、自分が読みやすいのを選ぶといいよ。表紙だけだとわからないから」

「先輩たちは、どうやって読んでるんですか?」

「奈緒は?」

 聞くと、奈緒は持っていた譜面を椅子へ置いた。紙の束が座面に触れ、乾いた音を立てる。

「私は、入る前がよくわからないところから。誰を聴けばいいのか探して、自分の譜面に書く」

「最初から全部じゃなくていいんですか」

「次の練習で困りそうなところだけでも、役に立つよ」

 奈緒はスコアを覗き、指先で一つの段を示した。爪が紙の上を軽く叩く。

「ここなら、私はこの動きを覚えておくかな」

 私は自分の譜面を開いて、その小節を探した。周囲では誰かが音を合わせていて、細いAの音が空気の中をまっすぐ伸びている。

「私も、うまく弾けなかったところから見ることが多い。ほかの音がわかると、弾き方を変えられることもあるし」

「俺、ほかのパート見てるうちに、違うところまで読んじゃうんですよね」

 樹が言った。

「それで、自分の練習が残る」

「先に練習すれば?」

「そうなんですけど」


「何見てるの?」

 美帆がヴィオラのケースを持って入ってきた。ケースの底が床へ触れ、どん、と鈍い音がする。

「スコア、どれを買うかって話」

「私、録音聴きながら見るの好き」

 一年生が美帆へ顔を向けた。

「全部、追えますか?」

「見失うよ」

 迷いのない返事だった。

 奈緒が笑い、美帆はケースを椅子へ載せた。留め具を外すと、黒い布と木の匂いがふわりと広がる。

「でも、知ってるところに来たら戻れる。ヴィオラが入るところとか」

「ほかを見るために開いたんじゃないの」

「途中までは見てるよ」

 美帆もスコアを覗いた。椅子の周りに人が増え、肩や譜面の端が近づいてくる。私は少し身体を引いて、ページが見えるようにした。


「借りてから買うのもいいと思います」

 入口から声がした。

 チェロの二年生、中川里枝だった。潤の次にトップを務めることになっている。背負っていたケースを下ろすと、床に置かれたケース同士が触れ、低い音が響いた。里枝は髪を耳へ掛けた。すっきりした顔立ちの美人で、落ち着いた話し方もあって、入団した頃から大人びて見えた。

「図書館にあるものを見て、小さいのを持ち歩きたいのか、家で大きいのを開きたいのか、試してみてもいいんじゃない?」

「里枝は、どっち?」

 私が聞くと、里枝は鞄からスコアを出した。表紙の角が、ケースの縁に当たって少し擦れている。

「家には大きいのがあります。これは持ってくる用です」

「二冊あるんだ」

「大きいほうを毎回運ぶのは、ちょっと」

 そう言って、里枝はチェロのケースへ目を向けた。大きなケースは、壁際で場所を取っている。


 一年生は二冊のスコアを見比べた。

「迷いますね」

「急いで決めなくてもいいよ。今日はこれ、練習が始まるまで見てていいから」

 私が黄色いスコアを差し出すと、横から潤が譜面台を寄せた。脚が床を擦り、周囲の音が一瞬途切れたように感じる。

「大きいのなら、こっちも見てみる?」

 載せたスコアは、私のものよりずっと大きかった。表紙を開くと、紙の重みで譜面台がわずかに沈む。同じ第三楽章を開くと、ページの中の音符にも余白にも、少しゆとりがある。

「見やすいですね」

「うん。でも重い」

「いつも持ってきてるんですか」

「必要な日は。指揮する時にも使うから」

「だいたい必要な日ですよね」

 里枝が言い、潤はうなずいた。

「そうなるな」


 一年生は大きいほうへ顔を向けたまま、自分の譜面を取り出した。紙をめくる音が、近くで鳴っていた弦の調弦音に混じる。

「練習番号も、同じですか?」

「違うものもあるから、そこは買ったら確かめたほうがいい。番号だけで探せなければ、前後の音を見て」

 潤が彼女の譜面とスコアを並べ、同じところを指した。指先が二つの紙の上を行き来する。

 私はその横から、自分の黄色いスコアも開いた。三冊を見比べると、同じ音楽なのに、ページの中での位置がずいぶん違っていた。小さな譜面では音符が密集し、大きな譜面では休符の白さまで見える。


「全部わかってから練習に来ようとしなくていいからね」

 私が言うと、一年生が顔を上げた。

「わからないところがあったら聞いて。私もわからなかったら、調べるから」

「俺にも聞いていいですよ」

 樹が言った。

「答えられるところなら」

「そこ、先に言うんだ」

 奈緒が笑った。

「わかったふりするよりいいでしょう」

「それはそう」

 一年生は笑いながら、黄色いスコアを受け取った。紙の端を両手で大事そうに持つ。

「ありがとうございます。少し見てみます」


 彼女は隣の椅子へ移り、スマートフォンを出した。イヤホンを片耳だけにつけ、開いたページへ指を置く。画面から流れ始めた音は、こちらにはほとんど聞こえない。ただ、彼女の指先が音楽に合わせてゆっくり右へ動いた。


 奈緒は自分の席へ戻り、美帆もヴィオラを取り出した。里枝が潤にボウイングのことを聞き、二人の声が低く交わされる。樹は持っていた譜面台を、自分の席へ運んだ。


 私は潤のスコアへ目を戻した。

「やっぱり、見やすいね」

「未央もこっちにする?」

「鞄に入らない」

「それは困るな」

 潤は笑ったが、スコアを閉じなかった。窓から入った風がページを揺らし、潤が片手で押さえる。

 私がまだ見ているのに気づいて、開いたまま譜面台の向きを少し変えてくれた。

「どこ?」

「ここ。今日、やるかな」

「先生に聞かないと」

「そうだね」


 水曜の六時には、二人で互いの音を聴いた。

 最初の頃は、音が重なると自分の音を見失わないようにするだけで精いっぱいだった。けれど、何度も同じ小節を合わせるうちに、潤が少し息を吸う気配や、弓を返す直前のわずかな間まで、音の手前でわかるようになっていた。潤のほうも、私が入り口を探している時には急がず、私の音が立ち上がるまで低い音を細く残してくれる。言葉にしなくても、互いの音の置き場所を待てるようになっていた。


 その時に気づいたことを、今日はほかの音の中で確かめたかった。低い弦の動きも、その上へ入ってくる管の音も、もう少し早く見つけられる気がした。練習室のあちこちで、音が一つずつ立ち上がっては消えていく。弓が弦を擦る音、キーを押す音、誰かの短い咳。その全部の中から、自分が探している音を拾う。隣に潤がいなくても、どこで彼の音が来るのかを、身体が先に覚えている気がした。


 私は譜面の余白を探し、鉛筆を手に取った。芯が紙へ触れ、細い線が静かな音を残した。


「千堂先輩」

 樹が持ってきた譜面台を広げた。

「そのスコア、大根と一緒に置かないでくださいね」

「置かないよ」

「先輩も、譜面見てると周り見なくなるので」

 私は顔を上げた。

 潤と目が合い、二人で笑った。笑いが収まったあとも、潤はすぐに視線を譜面へ戻さなかった。私が次にどこを見るのか、もうわかっているような目だった。


 窓の外では、模擬店の最後の呼び込みが続いていた。ソースの匂いが、開いた窓からまた少しだけ入り込んでくる。

 部屋の向こうで、誰かがAを鳴らした。

 細く澄んだ音が、ざわめきの上をまっすぐに伸びていった。


     *


 私は椅子から立ち、ヴァイオリンを肩へ載せた。理沙のオーボエが鳴らすAへ、開放弦の音を重ねる。わずかにうねっていた響きが、指で糸巻きを動かすと静まった。隣で樹が弓を置き、後ろの席からも同じ音が集まってくる。


 木管が合わせ、低い弦が続いた。潤はチェロを膝の間へ収め、少し顔を傾けて聴いていた。弓を引く右手が止まり、左手が糸巻きへ上がる。さっきまで開いていた大きいスコアは、もう鞄にしまわれていた。


 最後の音が消える頃、片桐先生が入口に立っていた。腕に抱えたスコアを指揮台へ置き、窓のほうを見る。

「外は、まだ賑やかだね」

「閉めますか」

 入口に近い団員が聞いた。

「そうだね。少しだけ、こちらに集中しよう」


 窓が閉まると、呼び込みの声が急に遠くなった。先生は上着を椅子の背へ掛け、スコアを開いた。

「今日は幻想の三楽章から。ほかの楽章は、先週残ったところを拾います。そのあと、バッカナール」

 譜面をめくる音が広がった。私は第三楽章を開き、譜面台の高さを少し上げた。隣の樹もページを揃える。さっきスコアを見ていた一年生は、黄色い本を鞄へしまってから、私のほうを見た。目が合うと、小さくうなずいた。


「オーボエは今日はその席で。ホールでは、裏へ下がってやってみましょう」

 理沙が返事をした。その隣で、四年生の先輩がイングリッシュホルンを持ち直す。先輩は合宿の初日が院試で、後半になってから大きな楽器ケースを提げて来てくれた人だった。今はもう、毎週その席にいる。


 先生の右手が上がった。

 練習室が静かになる。私は弓を膝の上へ置き、休符の先を見た。


 イングリッシュホルンの最初の音は、思っていたより近かった。深い響きの中に、息が細く通っている。旋律が途切れると、理沙のオーボエが返した。明るい音が、椅子の並ぶ部屋の上を渡ってくる。


 二人はすぐ隣に座っていた。それでも、同じ声には聞こえなかった。先輩の音が少し沈むところへ、理沙の音が届く。返されたものを受け取って、また先輩が吹き始める。私は休符を数えながら、その交代を聴いた。


 先生が左手を上げ、理沙の音の終わりを待った。けれど、次の呼びかけへ移る手前で、右手が止まった。

「もう一度。今、返事をするほうが少し急いだ」

 理沙が楽器を膝へ下ろした。

「はい」

「相手が終わるのを待つだけじゃなくて、何を言ったのか聴いてから返してみて」

 先生は先輩へ顔を向けた。

「最初のほうも、返事を待てるように。終わりを閉じすぎないで」


 再び、右手が上がった。

 先輩の音が伸びる。今度は、その終わりにまだ何かが残っていた。理沙はすぐには入らなかった。先生の手の中にある間を見て、息を取り、音を返した。


 さっきより短い旋律に聞こえた。急いだのではなく、途中で一度も途切れずに、向こうまで届いたようだった。


 私の指が、膝の上の弓を握り直した。

 水曜にも、似たことがあった。潤の音が終わったから入るのではなく、その音を聴いているうちに、自分が何を弾きたいのか決まってくる。返すまでのわずかな時間に、こちらも変わる。


 先生の手が弦のほうへ向いた。私は弓を上げ、息を吸った。


 静かな旋律が、弦の中へ入ってきた。隣の弓、その後ろの弓が、視界の端で動く。私は譜面から少し目を上げ、先生の手を見た。音を保とうとすると、右肩に力が入りかける。弓を持つ指を少し緩め、先のほうへ送った。


 低い弦が聞こえた。

 潤だけの音は、わからなかった。チェロとコントラバスの響きが重なり、床に近いところで支えている。その中に、彼が弓を返す時の気配を探しかけて、私は自分の次の音へ戻った。


 先生の手が止まった。

「ファースト、今のところ。音はきれいだけど、一つずつ置き直しているね」

 私は弓を下ろした。

「弓を返すたびに、話を最初から始めなくていい。行き先まで、もう少し長く見て」

「はい」

「低い弦も一緒に。上が何をしているか、聴いてください」


 樹が譜面の余白へ鉛筆を走らせた。私も書こうとして、いったん手を止める。次に弾く音符から、少し先まで目でたどった。そこまで行くために、今の弓をどれくらい使うのか。さっきは、目の前の一音を保つことばかり考えていた。


 先生が準備の手を上げる。

 私は鉛筆を置き、樹と一度だけ目を合わせた。


 二度目は、低い弦が先に耳へ入った。そこへ自分の音を載せると、弓を返しても、旋律の続きが手から離れなかった。後ろの席もついてくる。音が少し膨らんだところで先生の左手が下がり、私は弓の速さを抑えた。


「そう。そのまま」


 先生の声が、響きの間から聞こえた。


 楽章の中ほどまで進むと、さっきまで穏やかだった音の重なりが変わった。同じ譜面を何度も弾いているのに、今日は低い音の動きがよく聞こえた。自分の旋律の下で、別のものが少しずつ近づいてくる。私はその変化に引かれて、弓を速くした。


 数小節先で、止まった。

「今、走りました」

 先生は私たちを見た。

「不安になったら速くなる、では、ここから先が全部同じになってしまう」

 樹が小さく息を吐いた。

「音が増えても、拍の中にいてください。何が変わったのかは、響きで聞こえるから」


 私は譜面の上に置いていた指を引いた。聴こえたものへ反応したつもりだった。けれど、自分が動いた分だけ、ほかの音を聴く余裕がなくなっていた。


 後ろで奈緒が、セカンドの団員へ短く何かを伝えた。美帆が弓を立て、先生を見る。潤は里枝の譜面を指してから、自分の席へ戻った。


 もう一度、同じところから。

 私は低い弦の動きを聴きながら、先生の右手を見た。音が近づいても、拍は変わらない。自分の音を少し細くすると、内側で動くヴィオラが聞こえた。さっきはそこまで耳が届いていなかった。


 不安は、急がなくても残った。

 むしろ、次の拍を待つあいだに、さっきよりはっきりした。


 終わりの近くで、先生は一度止めた。

「最後まで行きましょう。弦は、音を切ったあとも聴いていて」


 イングリッシュホルンが、もう一度呼びかけた。

 理沙は楽器を持ったまま、吹かなかった。


 最初に聴いた二人のやり取りを、耳が覚えていた。ここであの明るい音が返ってくれば、と一瞬思う。けれど、先生の手は理沙へ向かわず、先輩の旋律を支えていた。


 奥でティンパニが鳴った。

 音の底が揺れ、練習室の空気が重くなる。イングリッシュホルンの声がその中に残り、やがて消えた。私は弓を膝へ下ろしたかったが、まだ動かなかった。


 先生の両手が止まった。

 誰もすぐには譜面をめくらなかった。廊下で扉が閉まる音がした。


「はい」

 先生が腕を下ろした。

「今の終わりは、忘れないでください。ホールで距離ができた時に、どう聞こえるか。また確かめましょう」


 私は楽器を肩から下ろした。顎に触れていたところが、少し熱かった。

 潤は譜面へ何かを書いていた。顔を上げた時、こちらを見た。私はうなずいた。彼もうなずき、鉛筆を置いた。


 そのあと、第四楽章と第五楽章の、前の練習で残った箇所をいくつか合わせた。静かな音を保っていた右手が、今度は短い動きを繰り返す。先生は低い弦を先に弾かせ、そこへ管を加え、最後に私たちを入れた。全員で弾くと見えなくなるずれが、少ない人数でははっきり聞こえた。


 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。