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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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22/42

野の風景(4)

休憩に入った頃には、閉めた窓の内側が薄く曇っていた。


「暑かったですね」

 樹が袖口を引き、手首を出した。

「窓、少し開けようか」

「先生が冷えない程度に」

 奈緒が通りかかり、窓を細く開けた。冷たい空気が足元へ入ってくる。外の太鼓は、もう聞こえなかった。


 私は弓の毛を見た。張った白い毛の端に、何本か短く切れたものが出ている。指で触れずに眺めていると、樹が自分の弓を持ち上げた。

「毛替えですか」

「そろそろ行こうかなと思って」

「俺、先週行っちゃいました」

「早いね」

「この先、混みそうなので。楽器も見てもらいました」


 潤が、紙コップを持ってこちらへ来た。

「工房?」

「うん。来週あたり」

「俺も行きたい。予約、まだ?」

「まだ」

「一緒に取る?」

 私は弓から顔を上げた。

「取ろうか」

「行ける日、あとで合わせよう」

「うん」


 樹は自分の弓へ目を落とし、親指で革の巻いてあるところを撫でた。

「先生、もう戻ってきますよ」

 入口を見ると、片桐先生が上着を腕に掛けていた。


 私は弓を持ち直した。工房の窓と、その近くの紅茶の店が、ふと頭に浮かんだ。ポットを置く時の小さな音まで思い出してから、譜面をめくる。


「バッカナール。最初から」


 理沙が背筋を伸ばした。

 先生の手が上がると、オーボエの音が現れた。さっきの野原の呼び交わしとは違う、近くでこちらを見ているような音だった。旋律の曲がり方を聴いていると、次にどこへ行くのか、知っているはずなのに待たされた。


 やがて、弦が入った。

 細かい動きが重なり、部屋の空気が一度に熱を持つ。私は肩を下げたまま、右手だけを動かそうとした。けれど、音が増すにつれて、弓が少しずつ長くなっていく。


 先生が止めた。

「弦、頑張る場所を間違えないで」

 前のほうで、誰かが笑った。

「大きく動けば勢いが出る、というものではないでしょう。今の倍、続けられる動きで」


 樹が弓を弦へ置き直した。私も、さっき使った幅を半分ほどにしてみた。

 同じところを、弦だけで弾く。自分たちの音しかないと、粒の揃わないところがよくわかる。先生は指揮をしながら、空いている左手で小さな幅を示した。


「そこで膨らまない。次まで取っておく」


 弓を小さくすると、腕は楽になったが、音まで弱くなりかけた。私は弦へ触れるところを確かめ、少しだけ重さを預けた。隣の樹の音が変わる。後ろから来る音も、少しずつ輪郭を持ち始めた。


 管と打楽器が加わると、同じ動きが急に別のものになった。

 低い響きが押してくる。金管の音がその上へ立つ。私はそこへ乗ろうとして、また弓を広げかけた。先生の左手が見え、戻した。


 勢いは、自分一人で作らなくてもあった。


 静まる箇所では、先生が旋律を受け渡すパートを順に確かめた。吹いている人の音が終わる前に、次の人が息を取る。弦がその下を支える時も、さっきまでの熱を全部捨てるわけではなかった。形を変えて、次の音へ残しておく。


「最後、行きます」

 先生が言った。


 私は椅子に座り直した。右腕の外側が少し重い。樹が弓を持つ指を一度開き、また握った。

 潤はチェロの位置を直し、先生を見ていた。


 振り下ろされた手に、全員が入った。

 音が重なり、譜面台の向こうから押し寄せてくる。私は目の前の音符を追いながら、次の拍には先生へ目を戻した。弓を返す。隣と揃える。まだ先がある。


 最後の音で、先生の手が閉じた。


 響きが止まり、誰かが大きく息を吐いた。私も弓を下ろした。手のひらが湿っていた。

「うん。もう一回やりたいところだけど」

 先生が時計を見た。部屋のあちこちから、笑いともため息ともつかない声が漏れる。

「今日はここまで。今の終わりを、本番では幻想のあとに弾きます。余分な力を使わないことも、練習してください」


 椅子が動き始めた。金管のほうで、誰かが「三つ目、食べる元気ある?」と聞いている。

 樹はそちらを見た。

「あります」

「あるんだ」

 奈緒が笑った。


 私は弓のねじを緩めた。張っていた毛が、少しずつ柔らかくなる。今日一日、何度も音を受け取り、返し、次の音へ渡してきた右手が、ようやく静かになった。ケースへ収める前に、弓をもう一度だけ眺めた。


「来週、火曜は?」


 低い声がした。

 潤がチェロを支えたまま、こちらを見ていた。


「午後なら空いてる」

「俺も」

「じゃあ、工房に聞いてみるね」

「うん」


 短い約束だった。けれど、その二つの音は、今日の練習で聴いたどの旋律よりも長く残った。


 私はケースの内蓋を閉じた。

 練習中、何度も見た彼の右手が、今はチェロの首を静かに支えている。音が終わったあとも、次の音を待つような手だった。私もその手を見ながら、今日教わったことを思い出していた。急がず、閉じすぎず、相手の音がどこへ向かうのかを聴いてから、自分の音を返すこと。


 火曜の午後に、私たちは工房へ行く。

 弓の毛を張り替え、楽器の響きを確かめ、そのあとで紅茶を飲む。まだ決まっていない時間の先に、いくつもの小さな音が浮かんでいた。扉の開く音、ポットを置く音、言葉が途切れたあとの沈黙。そのどれもが、今日の音楽の続きになる気がした。


 窓の外では、祭りの片づけが始まっていた。遠くで台車の車輪が鳴り、誰かの声が一度だけ上がって、すぐに消えた。練習室には、さっきまでの響きがまだ薄く残っている。イングリッシュホルンの呼びかけも、低い弦の支えも、最後に全員で重ねた音も、消えたあとに次の音を待つ余白として、静けさの中に沈んでいた。


 私はケースを持ち上げた。

 潤もチェロを背負う。並んで扉へ向かうと、廊下の先から冷たい空気が流れてきた。


 火曜は、まだ来ていない。

 それでも、今日の最後に交わした二つの声は、もう次の旋律の最初の音になっていた。


     *


 火曜の午後、駅前の時計の下で待っていた潤は、私を見つけると片手を上げた。背中のチェロケースが、歩き出す拍子に少し傾く。私は人の流れを抜け、彼の隣へ並んだ。


「待った?」

「今来たところ」

「ほんと?」

「同じくらいの電車だったなら、待ってないだろ」

「じゃあ、待ってたってことじゃない?」

 私が笑うと、潤も口元だけで笑った。

「未央が来るまでなら、待ったうちに入らない」

「何それ」

「事実」

「じゃあ、遅れてもよかったんだ」

「それは困る」

 さらりと言ってから、潤は少しだけ前を向いた。私は聞き返す代わりに、彼の歩幅へ合わせた。


 彼は私のケースへ目を落とし、それから確かめるように顔を上げた。

「堀江さん、何時だっけ」

「一時半。二人分、空けてくれたって」

「よかった。間に合いそうだな」

「この時間なら、ゆっくり歩いても、ちょうど着きそう」

「じゃあ、案内して」

「最初からそのつもり」

 そう言うと、潤は私の歩幅に合わせて速度を落とした。


 駅前の大通りを渡ると、歩道が少し狭くなった。潤が半歩前へ出て、向こうから来る自転車を避ける。すれ違いざま、彼の肩が私の腕に軽く触れた。

「ごめん」

「今のは自転車のせい」

「そういうことにしておく」

「潤のせいにしたほうがよかった?」

「それはそれで、あとで気にする」

「気にするんだ」

「未央のことなら」

 言ってから、潤は自転車のほうへ視線を向けた。

 私は返事の代わりに、ケースの持ち手を握り直した。練習へ行く時と同じように楽器を持っているのに、今日は鞄に譜面が入っていなかった。その分だけ、肩が軽い。隣を歩く潤の気配も、いつもより近く感じた。


 アーケードの入口には、まだ灯りのついていない飾りが吊られていた。パン屋の前を通ると、焼けた生地の匂いがする。向かいの雑貨屋では、木でできた小さな家と、赤い帽子の人形がショーウィンドーに並んでいた。


「もうクリスマスのもの出てる」

「早いな」

「毎年、そう思う」

「で、気がつくと終わってる」

「秋定が終わると、急に年末になるよね」

「今年も?」

「今年も」

 潤がうなずいた。少し間を置いてから、私の顔を覗き込む。

「未央、最近、ちゃんと休めてる?」

「それ、堀江さんにも聞かれるかな」

「聞かれたら、俺が証人になる」

「何の?」

「休んでない証人」

「それじゃ意味ないよ」

「じゃあ、休ませる側になる」

「どうやって?」

「まず、今日は練習しない」

「工房に行くだけで?」

「それでも、いつもよりはまし」

 私が笑うと、潤は視線を前へ戻した。耳のあたりが、少し赤く見えた。


 角のサッカーバーは、まだ扉が閉まっていた。窓に貼られた試合の予定を潤がちらりと見た。二階のドイツ語会話学校から、誰かの笑い声が降りてくる。ここを通る時はいつも、知らない言葉が少しだけ耳に残った。


 アーケードを途中で抜け、細い通りへ入った。

 堀江弦楽器工房の看板は、建物の壁に小さく掛かっていた。窓の向こうにはヴァイオリンが二挺並び、片方の下に、手書きの札が置かれている。入口の鉢植えは、前に来た時より枝が伸びていた。


 私は扉を押した。

 小さな鐘が鳴る。奥で動いていた手が止まり、眼鏡越しの目がこちらを向いた。


「こんにちは」

「いらっしゃい」


 堀江さんは手元の道具を置いた。


「二人とも、時間ぴったりだね」

「電車が遅れなかったので」

 私が言うと、潤がすぐ横で小さく息を吐いた。

「未央が迷わなかったので」

「だから迷ってないって」

「今日は、ちゃんと連れてきました」

「連れてきたのは私でしょ」

「そうだった?」

「そうだよ」

 堀江さんは私たちを見比べ、わずかに笑った。


「チェロも持ってきたんだ」

「少し見てもらえますか」

「いいよ。そこで開けて」


 工房には、薄く木の匂いがしていた。壁には楽器の型が掛かり、棚の上には、まだ色のついていないヴァイオリンが横たわっている。奥の作業台で、弟子の一人が椅子を引いた。もう一人は立ったまま、手元の小さな部品へ顔を近づけていた。


 堀江さんが私たちをここで迎えるようになって、もう何年にもなる。ジュニアオケの練習帰りには、母と来た。ケースを台へ載せるのにも背伸びが要った頃、堀江さんは何も言わず、低い椅子を寄せてくれた。


 今は自分で、留め具を外す。

「久しぶりだね、その子」

 堀江さんがケースを覗いた。

「元気です」

「君に聞いたんじゃないよ」

「私も元気です」

 私が言うと、潤が隣で肩を揺らした。

「そこ、毎回言うよな」

「だって、聞かれた気がするから」

「聞かれてないのに?」

「堀江さんは、楽器だけに聞いてるわけじゃないかもしれないし」

 堀江さんは眼鏡の奥で目を細めた。

「二人とも、変わらないね」


 ヴァイオリンを渡すと、堀江さんは窓から入る光へ向けて傾けた。表の板を見て、横を見て、指先を縁へ添える。その手の中にあると、自分の楽器が少し違って見えた。弾いている時には顔を近づけられないところまで、よく見える。


「変わったことは?」

「特には。弓が、そろそろ」

「うん。弓も出して」


 堀江さんがこのガイセンホーフを紹介してくれた日のことは、よく覚えている。いくつか弾かせてもらったあと、私がもう一度この楽器へ手を伸ばすと、堀江さんは椅子へ座り直した。何が気に入ったのか、すぐには聞かれなかった。私が弾き終えてから、「どう?」とだけ言った。


 今日は弓を受け取り、毛の端と先を見ていた。


「よく弾いたね」

「合宿もあったので」

「今度は何をやるんだい」

「幻想です」

「全部?」

「はい」

「大変だな」

「潤も一緒です」

 私が言うと、潤がこちらを見た。

「俺のこと、先に言うんだ」

「だって一緒に来たから」

「そういう理由?」

「ほかにある?」

 問い返すと、潤は一瞬だけ黙り、弓のケースへ視線を落とした。

「……一緒に来たこと、そんなに大事?」

「大事じゃなかったら、言わないよ」

「そっか」

 潤はそれだけ言って、弓のねじを指先でなぞった。


 堀江さんは潤へ顔を向けた。

「そっちも忙しいね」

「はい。弓、お願いします」

 潤は少し早口で答えた。


 潤の弓が、私のものの隣へ置かれた。長さも形も違う二本を、堀江さんは順に手に取った。ねじを少し回し、戻す。弟子を呼び、私の弓を渡した。


「こちらを先に。外す前に、見ておいて」

「はい」

 弟子は両手で受け取った。


 堀江さんは潤の弓を台へ置き、チェロのほうへ回った。


「最近、どう?」

「上のほうが、少し弾きにくい気がして」

「前から?」

「ここ二週間くらいです」

「どの辺り」

 潤が指板の上を示す。堀江さんはその位置を見てから、椅子を引いた。


「ちょっと弾いてみて」


 潤は椅子に座ってチェロを構え、渡された別の弓を持った。短い音階を弾き、もう一度、上がっていく。練習室で聞くより、ずっと近い音だった。壁に掛かった楽器や、並んだケースのあいだへ、低い響きが広がる。


 私は自分のケースの横へ立って聴いた。

 いつもなら、自分も弾きながら聞いている。今日は潤の左手を、最初から最後まで見ていられた。上がっていく指が、あるところで少し慎重になる。堀江さんも、そこを見ていた。


 潤が弾き終えると、こちらを見た。

「変じゃなかった?」

「ううん。いつも通り」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんか」

「でも、ここで聞くと違うね」

「何が?」

「音。近いから」

「未央が近くにいるからじゃなくて?」

 冗談めかして言ったものの、潤はすぐに目を逸らした。

「……それも、少しは」

「何それ」

「聞かなかったことにして」

 彼は小さく笑ったが、弓を持つ手はまだ緊張していた。


「そこを、もう一度弾いてみて」

 堀江さんに言われ、潤は指を戻した。今度は堀江さんが駒と指板を確かめながら聴いた。

「わかった。少し預かるよ」

「お願いします」

「ヴァイオリンも置いていく?」

 私がうなずくと、堀江さんは二つのケースを見た。


「じゃあ、まとめて見ておこう。二時間くらい見ておいて。三時半に戻ってきてくれる?」

「はい」

「急がなくていいからね」


 潤が借りた弓を返し、エンドピンをしまって、チェロを堀江さんへ渡した。私は鞄を肩に掛け直した。大きな荷物を二つ置くと、工房の入口までがいつもより近く感じた。


「よろしくお願いします」

 堀江さんはもう作業台へ戻りかけていたが、振り向いた。


「演奏会、いつ?」

「来月の半ばです」

「そう。あとで案内を置いていって」

「持ってきます」

「今日は持ってないの?」

 私は鞄の中を思い浮かべた。潤も、自分の鞄へ手を掛けてから止めた。


「二人ともか」

 堀江さんの口元が、少しだけ動いた。

「楽器は忘れなかったんだね」


 私は笑いながら、鞄の口を閉じた。


「チラシとチケット、あとで送ります。何枚ご用意しましょうか」


 堀江さんは奥の作業台へ顔を向けた。


「君たち、行く?」

「行きたいです」


 私の弓を受け取った弟子が答えた。もう一人も顔を上げる。


「僕、もう買いました」

「誰から?」


 潤が聞いた。


「ヴィオラの方から。この前、調整に来た時に」

「仕事が早いね」


 堀江さんが言った。


「じゃあ、こちらは二枚。チラシも何枚か入れておいて。店に置くから」

「ありがとうございます」

「楽しみにしてるよ」


 そう言って、堀江さんは作業台へ戻った。


 扉を閉めてから、私は笑った。


「持ってくればよかった」

「俺も、机にある」

「帰ったら、忘れないうちに封筒へ入れよう」

「送る前に連絡して。俺もチラシ持っていく」

「うん」


 潤も笑った。扉の前で笑い声が重なり、私は先に歩き出した。すぐに潤が隣へ追いつく。

 楽器を持たずに二人で歩くのは、少し不思議だった。背中を気にせず振り向けるし、すれ違う人のために大きく身体を引かなくてもいい。潤の手も空いていた。いつもケースの肩紐を押さえているほうの手が、今日は歩くのに合わせて揺れている。


「お昼、食べた?」

 私が聞くと、潤は首を振った。

「未央は?」

「まだ。ここで食べようと思って」

「どこ?」

「近くに、紅茶のお店があるの。キッシュがおいしい」

「じゃあ、そこにしよう」

「ケーキもあるよ」

「デザートは別腹だもんな」

「ケーキ、食べるんだ」

「未央が食べたいなら」

「私が食べたいって言った?」

「顔に書いてある」

「どんな顔?」

「食べたい顔」

「それ、答えになってない」

「じゃあ、見に行けばわかる」

「今、話をそらした」

「そうかも」

 振り返った潤の目が、すぐに前へ戻る。

「ほら、早く行かないと売り切れる」

「私のため?」

「……売り切れたら、未央が残念がるから」

「やっぱり私のためじゃない」

「そういうことにしておいて」

 私はその言い方に、さっきの自転車の時と同じものを感じた。潤の歩幅に合わせて、少しだけ速度を上げる。


 私は通りの先を見た。

 小さな洋館の窓に、午後の光が当たっていた。


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