野の風景(4)
休憩に入った頃には、閉めた窓の内側が薄く曇っていた。
「暑かったですね」
樹が袖口を引き、手首を出した。
「窓、少し開けようか」
「先生が冷えない程度に」
奈緒が通りかかり、窓を細く開けた。冷たい空気が足元へ入ってくる。外の太鼓は、もう聞こえなかった。
私は弓の毛を見た。張った白い毛の端に、何本か短く切れたものが出ている。指で触れずに眺めていると、樹が自分の弓を持ち上げた。
「毛替えですか」
「そろそろ行こうかなと思って」
「俺、先週行っちゃいました」
「早いね」
「この先、混みそうなので。楽器も見てもらいました」
潤が、紙コップを持ってこちらへ来た。
「工房?」
「うん。来週あたり」
「俺も行きたい。予約、まだ?」
「まだ」
「一緒に取る?」
私は弓から顔を上げた。
「取ろうか」
「行ける日、あとで合わせよう」
「うん」
樹は自分の弓へ目を落とし、親指で革の巻いてあるところを撫でた。
「先生、もう戻ってきますよ」
入口を見ると、片桐先生が上着を腕に掛けていた。
私は弓を持ち直した。工房の窓と、その近くの紅茶の店が、ふと頭に浮かんだ。ポットを置く時の小さな音まで思い出してから、譜面をめくる。
「バッカナール。最初から」
理沙が背筋を伸ばした。
先生の手が上がると、オーボエの音が現れた。さっきの野原の呼び交わしとは違う、近くでこちらを見ているような音だった。旋律の曲がり方を聴いていると、次にどこへ行くのか、知っているはずなのに待たされた。
やがて、弦が入った。
細かい動きが重なり、部屋の空気が一度に熱を持つ。私は肩を下げたまま、右手だけを動かそうとした。けれど、音が増すにつれて、弓が少しずつ長くなっていく。
先生が止めた。
「弦、頑張る場所を間違えないで」
前のほうで、誰かが笑った。
「大きく動けば勢いが出る、というものではないでしょう。今の倍、続けられる動きで」
樹が弓を弦へ置き直した。私も、さっき使った幅を半分ほどにしてみた。
同じところを、弦だけで弾く。自分たちの音しかないと、粒の揃わないところがよくわかる。先生は指揮をしながら、空いている左手で小さな幅を示した。
「そこで膨らまない。次まで取っておく」
弓を小さくすると、腕は楽になったが、音まで弱くなりかけた。私は弦へ触れるところを確かめ、少しだけ重さを預けた。隣の樹の音が変わる。後ろから来る音も、少しずつ輪郭を持ち始めた。
管と打楽器が加わると、同じ動きが急に別のものになった。
低い響きが押してくる。金管の音がその上へ立つ。私はそこへ乗ろうとして、また弓を広げかけた。先生の左手が見え、戻した。
勢いは、自分一人で作らなくてもあった。
静まる箇所では、先生が旋律を受け渡すパートを順に確かめた。吹いている人の音が終わる前に、次の人が息を取る。弦がその下を支える時も、さっきまでの熱を全部捨てるわけではなかった。形を変えて、次の音へ残しておく。
「最後、行きます」
先生が言った。
私は椅子に座り直した。右腕の外側が少し重い。樹が弓を持つ指を一度開き、また握った。
潤はチェロの位置を直し、先生を見ていた。
振り下ろされた手に、全員が入った。
音が重なり、譜面台の向こうから押し寄せてくる。私は目の前の音符を追いながら、次の拍には先生へ目を戻した。弓を返す。隣と揃える。まだ先がある。
最後の音で、先生の手が閉じた。
響きが止まり、誰かが大きく息を吐いた。私も弓を下ろした。手のひらが湿っていた。
「うん。もう一回やりたいところだけど」
先生が時計を見た。部屋のあちこちから、笑いともため息ともつかない声が漏れる。
「今日はここまで。今の終わりを、本番では幻想のあとに弾きます。余分な力を使わないことも、練習してください」
椅子が動き始めた。金管のほうで、誰かが「三つ目、食べる元気ある?」と聞いている。
樹はそちらを見た。
「あります」
「あるんだ」
奈緒が笑った。
私は弓のねじを緩めた。張っていた毛が、少しずつ柔らかくなる。今日一日、何度も音を受け取り、返し、次の音へ渡してきた右手が、ようやく静かになった。ケースへ収める前に、弓をもう一度だけ眺めた。
「来週、火曜は?」
低い声がした。
潤がチェロを支えたまま、こちらを見ていた。
「午後なら空いてる」
「俺も」
「じゃあ、工房に聞いてみるね」
「うん」
短い約束だった。けれど、その二つの音は、今日の練習で聴いたどの旋律よりも長く残った。
私はケースの内蓋を閉じた。
練習中、何度も見た彼の右手が、今はチェロの首を静かに支えている。音が終わったあとも、次の音を待つような手だった。私もその手を見ながら、今日教わったことを思い出していた。急がず、閉じすぎず、相手の音がどこへ向かうのかを聴いてから、自分の音を返すこと。
火曜の午後に、私たちは工房へ行く。
弓の毛を張り替え、楽器の響きを確かめ、そのあとで紅茶を飲む。まだ決まっていない時間の先に、いくつもの小さな音が浮かんでいた。扉の開く音、ポットを置く音、言葉が途切れたあとの沈黙。そのどれもが、今日の音楽の続きになる気がした。
窓の外では、祭りの片づけが始まっていた。遠くで台車の車輪が鳴り、誰かの声が一度だけ上がって、すぐに消えた。練習室には、さっきまでの響きがまだ薄く残っている。イングリッシュホルンの呼びかけも、低い弦の支えも、最後に全員で重ねた音も、消えたあとに次の音を待つ余白として、静けさの中に沈んでいた。
私はケースを持ち上げた。
潤もチェロを背負う。並んで扉へ向かうと、廊下の先から冷たい空気が流れてきた。
火曜は、まだ来ていない。
それでも、今日の最後に交わした二つの声は、もう次の旋律の最初の音になっていた。
*
火曜の午後、駅前の時計の下で待っていた潤は、私を見つけると片手を上げた。背中のチェロケースが、歩き出す拍子に少し傾く。私は人の流れを抜け、彼の隣へ並んだ。
「待った?」
「今来たところ」
「ほんと?」
「同じくらいの電車だったなら、待ってないだろ」
「じゃあ、待ってたってことじゃない?」
私が笑うと、潤も口元だけで笑った。
「未央が来るまでなら、待ったうちに入らない」
「何それ」
「事実」
「じゃあ、遅れてもよかったんだ」
「それは困る」
さらりと言ってから、潤は少しだけ前を向いた。私は聞き返す代わりに、彼の歩幅へ合わせた。
彼は私のケースへ目を落とし、それから確かめるように顔を上げた。
「堀江さん、何時だっけ」
「一時半。二人分、空けてくれたって」
「よかった。間に合いそうだな」
「この時間なら、ゆっくり歩いても、ちょうど着きそう」
「じゃあ、案内して」
「最初からそのつもり」
そう言うと、潤は私の歩幅に合わせて速度を落とした。
駅前の大通りを渡ると、歩道が少し狭くなった。潤が半歩前へ出て、向こうから来る自転車を避ける。すれ違いざま、彼の肩が私の腕に軽く触れた。
「ごめん」
「今のは自転車のせい」
「そういうことにしておく」
「潤のせいにしたほうがよかった?」
「それはそれで、あとで気にする」
「気にするんだ」
「未央のことなら」
言ってから、潤は自転車のほうへ視線を向けた。
私は返事の代わりに、ケースの持ち手を握り直した。練習へ行く時と同じように楽器を持っているのに、今日は鞄に譜面が入っていなかった。その分だけ、肩が軽い。隣を歩く潤の気配も、いつもより近く感じた。
アーケードの入口には、まだ灯りのついていない飾りが吊られていた。パン屋の前を通ると、焼けた生地の匂いがする。向かいの雑貨屋では、木でできた小さな家と、赤い帽子の人形がショーウィンドーに並んでいた。
「もうクリスマスのもの出てる」
「早いな」
「毎年、そう思う」
「で、気がつくと終わってる」
「秋定が終わると、急に年末になるよね」
「今年も?」
「今年も」
潤がうなずいた。少し間を置いてから、私の顔を覗き込む。
「未央、最近、ちゃんと休めてる?」
「それ、堀江さんにも聞かれるかな」
「聞かれたら、俺が証人になる」
「何の?」
「休んでない証人」
「それじゃ意味ないよ」
「じゃあ、休ませる側になる」
「どうやって?」
「まず、今日は練習しない」
「工房に行くだけで?」
「それでも、いつもよりはまし」
私が笑うと、潤は視線を前へ戻した。耳のあたりが、少し赤く見えた。
角のサッカーバーは、まだ扉が閉まっていた。窓に貼られた試合の予定を潤がちらりと見た。二階のドイツ語会話学校から、誰かの笑い声が降りてくる。ここを通る時はいつも、知らない言葉が少しだけ耳に残った。
アーケードを途中で抜け、細い通りへ入った。
堀江弦楽器工房の看板は、建物の壁に小さく掛かっていた。窓の向こうにはヴァイオリンが二挺並び、片方の下に、手書きの札が置かれている。入口の鉢植えは、前に来た時より枝が伸びていた。
私は扉を押した。
小さな鐘が鳴る。奥で動いていた手が止まり、眼鏡越しの目がこちらを向いた。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
堀江さんは手元の道具を置いた。
「二人とも、時間ぴったりだね」
「電車が遅れなかったので」
私が言うと、潤がすぐ横で小さく息を吐いた。
「未央が迷わなかったので」
「だから迷ってないって」
「今日は、ちゃんと連れてきました」
「連れてきたのは私でしょ」
「そうだった?」
「そうだよ」
堀江さんは私たちを見比べ、わずかに笑った。
「チェロも持ってきたんだ」
「少し見てもらえますか」
「いいよ。そこで開けて」
工房には、薄く木の匂いがしていた。壁には楽器の型が掛かり、棚の上には、まだ色のついていないヴァイオリンが横たわっている。奥の作業台で、弟子の一人が椅子を引いた。もう一人は立ったまま、手元の小さな部品へ顔を近づけていた。
堀江さんが私たちをここで迎えるようになって、もう何年にもなる。ジュニアオケの練習帰りには、母と来た。ケースを台へ載せるのにも背伸びが要った頃、堀江さんは何も言わず、低い椅子を寄せてくれた。
今は自分で、留め具を外す。
「久しぶりだね、その子」
堀江さんがケースを覗いた。
「元気です」
「君に聞いたんじゃないよ」
「私も元気です」
私が言うと、潤が隣で肩を揺らした。
「そこ、毎回言うよな」
「だって、聞かれた気がするから」
「聞かれてないのに?」
「堀江さんは、楽器だけに聞いてるわけじゃないかもしれないし」
堀江さんは眼鏡の奥で目を細めた。
「二人とも、変わらないね」
ヴァイオリンを渡すと、堀江さんは窓から入る光へ向けて傾けた。表の板を見て、横を見て、指先を縁へ添える。その手の中にあると、自分の楽器が少し違って見えた。弾いている時には顔を近づけられないところまで、よく見える。
「変わったことは?」
「特には。弓が、そろそろ」
「うん。弓も出して」
堀江さんがこのガイセンホーフを紹介してくれた日のことは、よく覚えている。いくつか弾かせてもらったあと、私がもう一度この楽器へ手を伸ばすと、堀江さんは椅子へ座り直した。何が気に入ったのか、すぐには聞かれなかった。私が弾き終えてから、「どう?」とだけ言った。
今日は弓を受け取り、毛の端と先を見ていた。
「よく弾いたね」
「合宿もあったので」
「今度は何をやるんだい」
「幻想です」
「全部?」
「はい」
「大変だな」
「潤も一緒です」
私が言うと、潤がこちらを見た。
「俺のこと、先に言うんだ」
「だって一緒に来たから」
「そういう理由?」
「ほかにある?」
問い返すと、潤は一瞬だけ黙り、弓のケースへ視線を落とした。
「……一緒に来たこと、そんなに大事?」
「大事じゃなかったら、言わないよ」
「そっか」
潤はそれだけ言って、弓のねじを指先でなぞった。
堀江さんは潤へ顔を向けた。
「そっちも忙しいね」
「はい。弓、お願いします」
潤は少し早口で答えた。
潤の弓が、私のものの隣へ置かれた。長さも形も違う二本を、堀江さんは順に手に取った。ねじを少し回し、戻す。弟子を呼び、私の弓を渡した。
「こちらを先に。外す前に、見ておいて」
「はい」
弟子は両手で受け取った。
堀江さんは潤の弓を台へ置き、チェロのほうへ回った。
「最近、どう?」
「上のほうが、少し弾きにくい気がして」
「前から?」
「ここ二週間くらいです」
「どの辺り」
潤が指板の上を示す。堀江さんはその位置を見てから、椅子を引いた。
「ちょっと弾いてみて」
潤は椅子に座ってチェロを構え、渡された別の弓を持った。短い音階を弾き、もう一度、上がっていく。練習室で聞くより、ずっと近い音だった。壁に掛かった楽器や、並んだケースのあいだへ、低い響きが広がる。
私は自分のケースの横へ立って聴いた。
いつもなら、自分も弾きながら聞いている。今日は潤の左手を、最初から最後まで見ていられた。上がっていく指が、あるところで少し慎重になる。堀江さんも、そこを見ていた。
潤が弾き終えると、こちらを見た。
「変じゃなかった?」
「ううん。いつも通り」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
「でも、ここで聞くと違うね」
「何が?」
「音。近いから」
「未央が近くにいるからじゃなくて?」
冗談めかして言ったものの、潤はすぐに目を逸らした。
「……それも、少しは」
「何それ」
「聞かなかったことにして」
彼は小さく笑ったが、弓を持つ手はまだ緊張していた。
「そこを、もう一度弾いてみて」
堀江さんに言われ、潤は指を戻した。今度は堀江さんが駒と指板を確かめながら聴いた。
「わかった。少し預かるよ」
「お願いします」
「ヴァイオリンも置いていく?」
私がうなずくと、堀江さんは二つのケースを見た。
「じゃあ、まとめて見ておこう。二時間くらい見ておいて。三時半に戻ってきてくれる?」
「はい」
「急がなくていいからね」
潤が借りた弓を返し、エンドピンをしまって、チェロを堀江さんへ渡した。私は鞄を肩に掛け直した。大きな荷物を二つ置くと、工房の入口までがいつもより近く感じた。
「よろしくお願いします」
堀江さんはもう作業台へ戻りかけていたが、振り向いた。
「演奏会、いつ?」
「来月の半ばです」
「そう。あとで案内を置いていって」
「持ってきます」
「今日は持ってないの?」
私は鞄の中を思い浮かべた。潤も、自分の鞄へ手を掛けてから止めた。
「二人ともか」
堀江さんの口元が、少しだけ動いた。
「楽器は忘れなかったんだね」
私は笑いながら、鞄の口を閉じた。
「チラシとチケット、あとで送ります。何枚ご用意しましょうか」
堀江さんは奥の作業台へ顔を向けた。
「君たち、行く?」
「行きたいです」
私の弓を受け取った弟子が答えた。もう一人も顔を上げる。
「僕、もう買いました」
「誰から?」
潤が聞いた。
「ヴィオラの方から。この前、調整に来た時に」
「仕事が早いね」
堀江さんが言った。
「じゃあ、こちらは二枚。チラシも何枚か入れておいて。店に置くから」
「ありがとうございます」
「楽しみにしてるよ」
そう言って、堀江さんは作業台へ戻った。
扉を閉めてから、私は笑った。
「持ってくればよかった」
「俺も、机にある」
「帰ったら、忘れないうちに封筒へ入れよう」
「送る前に連絡して。俺もチラシ持っていく」
「うん」
潤も笑った。扉の前で笑い声が重なり、私は先に歩き出した。すぐに潤が隣へ追いつく。
楽器を持たずに二人で歩くのは、少し不思議だった。背中を気にせず振り向けるし、すれ違う人のために大きく身体を引かなくてもいい。潤の手も空いていた。いつもケースの肩紐を押さえているほうの手が、今日は歩くのに合わせて揺れている。
「お昼、食べた?」
私が聞くと、潤は首を振った。
「未央は?」
「まだ。ここで食べようと思って」
「どこ?」
「近くに、紅茶のお店があるの。キッシュがおいしい」
「じゃあ、そこにしよう」
「ケーキもあるよ」
「デザートは別腹だもんな」
「ケーキ、食べるんだ」
「未央が食べたいなら」
「私が食べたいって言った?」
「顔に書いてある」
「どんな顔?」
「食べたい顔」
「それ、答えになってない」
「じゃあ、見に行けばわかる」
「今、話をそらした」
「そうかも」
振り返った潤の目が、すぐに前へ戻る。
「ほら、早く行かないと売り切れる」
「私のため?」
「……売り切れたら、未央が残念がるから」
「やっぱり私のためじゃない」
「そういうことにしておいて」
私はその言い方に、さっきの自転車の時と同じものを感じた。潤の歩幅に合わせて、少しだけ速度を上げる。
私は通りの先を見た。
小さな洋館の窓に、午後の光が当たっていた。




