野の風景(5)
小さな門を入ると、玄関までの石畳に、鉢植えの葉が一枚落ちていた。白い壁に濃い木の窓枠。扉の脇には、黒い文字で「シュヴァルツキルシェ」と書かれた看板が掛かっている。
その下の黒板を見て、私は足を止めた。
「ほうれん草とベーコン」
「今日のキッシュ?」
「うん」
明日の欄には、海老とホタテのホワイトソースキッシュ、とあった。
潤も黒板を見た。
「明日も気になる?」
「ちょっと」
「ちょっとか」
「でも、今日のもおいしいの」
そう言うと、潤は黒板から私へ目を移した。からかうような顔をしていたけれど、すぐに口元を緩める。
「じゃあ、今日は今日のを楽しもう」
「うん」
扉を開けると、暖かい空気と、焼いた生地の匂いがした。奥の窓際で、二人連れの女性が紅茶を飲んでいる。椅子の背には薄い上着が掛かり、テーブルの上のポットには、布のカバーが被せられていた。
入口のショーケースには、六種類のケーキが並んでいた。白いクリームのあいだから見える、焦げ茶色のスポンジ。艶のあるチョコレートを載せたものと、洋梨を薄く重ねたもの。奥には、いつものキルシュトルテがある。
「いらっしゃいませ。お二人ですか」
「はい」
「お好きな席へどうぞ」
私は窓際の小さなテーブルを選んだ。鞄を隣の椅子に置いてから、足元を見た。いつもなら、ケースをどちらへ置くか考えるところだった。
潤は向かいへ座り、長い脚を少し引いた。
「チェロ、置く場所を見ちゃった」
「私も」
顔を見合わせて笑った。笑いが収まってからも、潤はすぐに視線を外さなかった。私もなぜか、先に目を逸らすのが惜しい気がした。
窓から差す光が、彼の瞳の端に淡く残っている。ほんの数秒のことなのに、その視線がいつまでも消えず、私はメニューを開くことでようやく目を伏せた。
窓からは工房へ続く通りが見えた。さっき歩いてきた道を、自転車が一台通っていく。
最初のページにはキッシュのセットがあった。紅茶のページには、茶葉の名前と短い説明が並んでいる。下のほうに、ロンネフェルトの文字があった。
私は行を一つずつ追った。
「どれにする?」
「未央は?」
「キッシュにはダージリンがいいかな。でも、ケーキの時はミルクティーが飲みたい」
「じゃあ、俺はアッサムにする」
「潤、ミルクティー好き?」
「飲むよ。ケーキの時、こっちも飲めば」
彼はメニューのアッサムの欄を指で示した。
私はその指先を見てから、顔を上げた。
「いいの?」
「ポットだろ」
「そうだけど」
「一人で全部飲まなくてもいいし」
何でもないことのように言って、潤は食事のページへ戻った。
けれど、彼の指はメニューの端にしばらく残っていた。私が返事をするのを待っているようにも見えた。
「じゃあ、少しもらう」
「うん」
それで決まった、というように、潤は小さくうなずいた。
私はもう一度、ダージリンの説明を読んだ。さっきまで迷っていたのに、今はどちらも楽しみになっていた。
注文を取りに来た店員さんに、キッシュを二つと、それぞれの紅茶を頼んだ。
「ケーキも、あとでいただきたいんですけど」
「お取り置きできますよ。お決まりでしたら」
私はショーケースを振り返った。
潤もそちらを見る。
「洋梨のにしようかな」
「俺は、キルシュトルテ」
「そちらはキルシュワッサーをしっかり使っていますが、お車ではありませんか」
「電車です」
「では、大丈夫ですね。お食事のあとにお持ちします」
店員さんが戻っていくと、潤は私のほうを見た。
「ここ、よく来る?」
「工房に来た時とか。奈緒たちとも来るよ」
「みんな知ってるんだ」
「クリスマスのケーキも人気なの。去年、奈緒が予約してた」
カウンターの脇には、クリスマスケーキの予約案内が置かれていた。写真のケーキは、白い生クリームに大きな苺が並んでいる。切り分けた一片には、この店らしいココア色のスポンジが見えた。
「未央は?」
「去年は予約しそびれちゃった。今年は、忘れないうちにって思ってる」
「まだ間に合うな」
「うん。秋定が終わってから、って思うと忘れるから」
潤は案内を一度見て、それから窓の外へ目を移した。
「予約が始まったら、早めに取っておけば」
「そうだね」
「俺も、覚えておく」
「潤が?」
「未央が忘れそうなら」
冗談のような言い方だったが、私は返事をするまで少し間が空いた。
潤は気まずそうに視線を窓へ戻した。私は予約案内の端を指でなぞりながら、胸の奥がわずかに温かくなるのを感じていた。
紙の上を滑る指先が止まる。顔を上げると、潤はまだ窓の外を見ていた。けれど、耳のあたりが少し赤い。私はそれを見なかったことにするように、案内をそっとテーブルの中央へ戻した。
クリスマスには、この通りにも灯りがつく。まだ二か月近く先のことなのに、今日はその頃の景色を思い浮かべやすかった。
キッシュは、縁の広い白い皿に載ってきた。添えられたサラダの向こうに、厚みのある一切れがある。表面のチーズはところどころ濃い焼き色がつき、切り口にはほうれん草の緑とベーコンが見えた。
「お皿も温かくなっていますので、お気をつけください」
フォークを入れると、上のチーズが少し伸びた。外側の生地はさくりと崩れ、中の卵は柔らかい。湯気の立つ一口を、少し冷ましてから食べた。
思わず、頬が緩んだ。
「おいしい」
「うん」
潤は二口目を切りながら、断面を見ていた。
「ちゃんとお昼になるな」
「なるでしょう。毎日、一ホール焼くんだって」
「遅いと、なくなる?」
「うん。前に来た時、最後の一切れだったことある」
「今日は二つあってよかった」
潤はそう言ってから、私の皿をちらりと見た。
私はその視線に気づき、フォークを持つ手を少し止めた。
「何?」
「いや。未央がそんなに嬉しそうに食べるなら、二つあってよかったなって」
「そんなに?」
「うん。さっきから、顔が違う」
「どんな顔?」
「言わない」
潤は笑いながら、先に視線を落とした。
私は少しだけ頬が熱くなるのを感じて、キッシュへ目を戻した。
けれど、フォークを動かす前に、向かいからまた視線を感じた。顔を上げると、潤は今度こそ皿を見ていた。見間違いだったのかもしれない。それでも、胸の奥には小さな波紋が残った。
ベーコンの塩気とチーズのあいだに、ほうれん草の味がする。いつもおいしいのに、そのたびに、ちゃんと嬉しかった。
「これが一番好き?」
「一番は、きのことじゃがいも」
「そっちも食べてみたいな」
「じゃがいもがほくほくして、きのこの匂いもして。秋に食べると、特に好き」
「今度、あるといいな」
今度、と言われて、私は皿から目を上げた。
潤はキッシュを食べていた。私の視線に気づくと、フォークを止める。
「何?」
「ううん」
少し迷ってから、私は言った。
「今度、ちゃんと覚えておくね」
「何を?」
「きのことじゃがいものキッシュがある日」
「俺も覚えておく」
「二人で覚えてたほうが、忘れないでしょう」
潤は一度瞬きをして、それから静かに笑った。
「そうだな」
ダージリンを一口飲んだ。口の中に残ったバターの味に、紅茶の香りが重なる。
私はカップを置いてから言った。
「また来ようね」
「うん」
潤は、すぐに答えた。
その返事があまりに自然で、私はカップの取っ手に触れたまま、しばらく手を離せなかった。
潤も何か言いかけたように唇をわずかに動かしたが、結局、言葉にはしなかった。沈黙の中で、テーブルの上に置かれた二人の手だけが近くにあった。触れてはいない。それでも、指先の距離が妙に意識された。
食べ終わった皿が下げられても、私たちは席を立たなかった。ポットのカバーを外し、残っている紅茶を確かめる。練習の休憩なら、そろそろ誰かが譜面台の前へ戻る頃だった。
今日は、目の前の潤も椅子に深く座ったままだった。
「土曜、帰ってから弾いた?」
「弾かなかった」
「珍しい」
「頭の中では、鳴ってたけど」
「バッカナール?」
「それも。三楽章も」
「私も、しばらく残ってた」
彼はうなずいた。
窓際の女性がポットを持ち上げ、向かいのカップへ紅茶を注いだ。遠くで食器の触れる音がした。
「今日は?」
「今は、鳴ってない」
潤はそう言って、テーブルの上へ目を落とした。
私も少し、自分の中を探してみた。店に入るまで頭のどこかにあった練習のことが、いつの間にか遠くなっていた。
「私も」
答えると、潤の口元が緩んだ。
「静かだな」
「うん」
「こういうのも、悪くない」
「うん」
短い会話のあと、二人ともすぐには次の言葉を探さなかった。
沈黙が気まずくないことに、私は少し驚いた。潤も同じように感じているのか、カップの縁を指でなぞりながら、穏やかな顔をしていた。
その指が止まるたび、私は自分の指先まで意識してしまう。何かを話さなくても、向かいにいることだけで時間が満ちていた。
ケーキが運ばれてきた。
私の皿には、薄く切った洋梨を扇のように重ねたケーキ。白いクリームとココアスポンジが、きれいな層になっている。潤のキルシュトルテには、クリームの上に赤いさくらんぼが一つ載っていた。
彼がポットを持ち上げた。
「ミルクティーにする?」
「うん」
私の空いたカップへ、アッサムが注がれた。小さなミルクピッチャーを受け取り、少しずつ加える。濃い紅茶の中に白い筋が広がり、柔らかな色になった。
潤は私がピッチャーを置くのを待って、自分のカップにもミルクを入れた。
「入れすぎてない?」
「大丈夫」
「前より少ない」
「覚えてたの?」
「見てたから」
何気なく言われた言葉に、私はカップを持つ手を止めた。
潤は自分の紅茶を見ている。けれど、耳が少し赤くなっていた。
「じゃあ、次はもう少し入れてもいいかも」
「うん。次はそうしよう」
洋梨のケーキを一口食べて、紅茶を飲む。
果物の甘さのあとに、温かなミルクと紅茶が残った。
「こっちにしてよかった」
「ダージリンは?」
「あれもよかった。両方」
「じゃあ、よかった」
潤は小さく笑い、自分のケーキへフォークを入れた。
キルシュトルテの断面から、濃い赤色のさくらんぼが見えた。
「お酒、結構わかる?」
「うん。香りがする」
「おいしい?」
「食べる?」
私は一瞬、彼の皿を見た。
潤は皿を少し中央へ寄せた。まだフォークを入れていない側が、こちらを向いている。
「じゃあ、少し」
「どうぞ」
端を小さく切って、口へ運んだ。クリームのあとから、さくらんぼとお酒の香りが広がる。自分のケーキとは違う、少し大人の味だった。
「ほんとだ」
「だろ」
「私のも、どうぞ」
今度は私が皿を寄せた。
潤は洋梨の載ったところを少し切り、ゆっくり食べた。
「これもおいしいな」
「でしょう」
二つの皿を、しばらくテーブルの真ん中に置いていた。
どちらを誰が選んだのかはわかっているのに、もう自分の分だけを食べている感じがしなかった。
フォークを置く位置も、カップを持ち上げるタイミングも、いつの間にか相手に合わせている。そんな小さなことが、今日は不思議と心地よかった。
皿を戻す時、私の指が潤の指先に触れた。ほんの一瞬だったのに、互いに手を引くまでの間が、必要以上に長く感じられた。
潤は何も言わず、私も何も言わなかった。ただ、離れた指先に残った温度だけが、しばらく消えなかった。
紅茶を飲み終える頃には、窓から差す光が少し傾いていた。潤が腕時計を見た。
「そろそろ、戻る?」
「もうそんな時間?」
「あと十五分くらい」
「二時間って、結構あると思ったのに」
彼は時計から顔を上げた。
「また来ればいいよ」
さっきキッシュを食べながら交わした約束と、同じような言い方だった。
私はうなずいて、最後の一口を飲んだ。
「次は、きのことじゃがいものキッシュがある日に」
「うん。未央が忘れないように、俺から連絡する」
「本当に?」
「本当に」
潤は少しだけ身を乗り出して言った。
その距離が近く感じられて、私は返事の代わりに笑った。潤もつられるように笑い、先に視線を逸らした。
けれど、逸らされた視線の先を追うように、私はしばらく彼の横顔を見ていた。潤が気づいて振り返る。目が合ったまま、どちらもすぐには笑わなかった。
やがて彼が小さく息を吐き、私はようやく目を伏せた。
椅子から立つ時、潤が私の鞄を取って渡してくれた。受け取った持ち手は軽い。工房へ戻れば、またいつものケースを持つことになる。
その前に、私は予約案内を一枚もらった。
「これ、忘れないようにする」
「俺にも見せて」
「もう見たでしょう」
「予約の締め切りを確認したい」
潤は案内を受け取り、私の隣で日付を確かめた。肩が触れそうな距離だったが、どちらも動かなかった。
彼は案内を返す時、紙の端が私の指に触れないように、少しだけ持ち方を変えた。その慎重さが、かえって近く感じられた。
私は紙に手を添えながら、彼の指の動きを見ていた。潤もそれに気づいたのか、すぐには手を引かなかった。紙を挟んだまま、指先だけがわずかに近いところで止まる。
やがて彼が紙を離し、私は案内を鞄へしまった。
外へ出ると、頬に触れる空気が冷たかった。
潤は玄関の脇で待っていた。私が隣へ並ぶと、二人で門へ向かった。
歩き出してすぐ、潤の手の甲が私の手にかすかに触れた。
どちらも何も言わなかった。けれど、次に離れるはずだった距離は、ほんの少しだけ近いままだった。
もう一度、手の甲が触れた。今度は偶然なのか、そうでないのか、私にはわからなかった。潤も確かめるようにこちらを見たが、何も言わず、視線を前へ戻した。
私は手を引かなかった。潤も離れなかった。
触れ合ったままではない。ただ、触れられる距離を、二人とも選んで歩いていた。
黒板には、明日のキッシュの名前がまだ書いてある。
私はもう一度だけ見て、それから潤と、工房のある通りへ曲がった。
振り返らなくても、潤が隣にいることがわかる。
言葉のないまま歩く時間が、さっきまでの店内の沈黙と同じように、静かで、けれど確かなものとして残っていた。




