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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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野の風景(6)

工房の窓には、まだ同じ二挺のヴァイオリンが並んでいた。扉を押すと、小さな鐘が鳴った。

 堀江さんが顔を上げる。


「おかえり」

「ただいま、って言いそうになりました」

「言ってもいいよ」


 奥の弟子が笑った。

 作業台の横に、私たちのケースが置かれている。二本の弓は、柔らかな布の上に並んでいた。新しい毛は、傾きはじめた午後の光を受けて、白く浮かんでいる。


「弾いてみて。気になることがあったら、今のうちに」


 私は鞄を置き、ケースを開いた。

 いつもの場所に収まっているガイセンホーフを持ち上げる。顎当てに触れ、肩へ載せると、さっきまで食事をしていた身体が、少しずつ弾く時の形へ戻っていった。

 弓のねじを回し、毛の張りを確かめる。指先に伝わる硬さが、来た時とは違っていた。


 まず、開放弦をゆっくり弾いた。

 弦へ置いた毛が、ためらいなく音を連れてくる。いつものつもりで力を掛けると、少し強すぎた。右手を緩め、もう一度返す。音は、工房の木の壁に触れてから、静かに戻ってきた。


「どう?」

「弾きやすいです」

「さっきより、肩も下がったね」


 言われて、私は弓を止めた。

 堀江さんは私の右肩を見ていた。


「毛が減ってくると、知らないうちに頑張るから」

「はい」


 もう一度、弓を置いた。

 短い音階のあと、ブラームスの旋律を少しだけ弾く。指が覚えているところだった。いつもより小さな音で弾いても、途中で痩せずに続いていく。細い光が途切れずに窓辺へ伸びていくようだった。


 弓を離すと、潤がこちらを見ていた。

 何も言わなかったけれど、その顔を見て、もう少し弾きたくなった。


「大丈夫です」

「うん。じゃあ、そっちも」


 潤は椅子に座り、チェロを構えた。

 低い弦から、ゆっくり上がっていく。さっき慎重になったところを、今度は止まらずに通った。低い音が床を伝い、足元から身体へ戻ってくる。もう一度弾いてから、左手の位置を確かめるように指板を見る。


「どうかな」

「さっきより、楽です」

「少し調整したからね。しばらく弾いて、また気になったら持っておいで」

「ありがとうございます」


 堀江さんはうなずき、チェロの向きを少し変えて、手を入れたところを潤に説明した。

 潤が真剣に聞いているあいだ、私は弓を眺めていた。形も重さも、もちろん変わっていない。それでも、右手に残った感触は、来る時とは違った。握りしめなくても音が立ち上がる。その軽さが、胸の奥にも少し残っていた。


「今度の演奏会まで、よく弾くんだろうけど」


 堀江さんが、二人へ言った。


「楽器の具合が変わったら、早めにね」

「はい」


 返事が重なった。

 彼は眼鏡の奥で目を細めた。


 代金を払い、弓をしまった。潤もチェロをケースへ収める。

 奥では、弟子の一人がもう次の弓を手に取っていた。毛を張る小さな音が、店の奥でかすかに響いた。


「チケット、あとで送ります」

「待ってるよ。二枚ね」

「はい。チラシも」

「そっちは何枚か。ちゃんと見えるところに置いておくから」


 入口の脇には、演奏会のチラシが数枚並んでいた。知っている大学の名前もある。自分たちのものがそこへ加わるのを想像して、少し嬉しくなった。


「ありがとうございました」

「気をつけて」


 外へ出ると、秋の空気が頬に触れた。

 工房の中に残っていた木と松脂の匂いが、扉の向こうへ薄れていく。潤がチェロを背負い直し、私はケースの持ち手を握った。二時間ぶりの重さが、手のひらへ戻ってくる。けれど、さっきまでの重さとは違っていた。弓の毛が弦を捉えた感触が、まだ指の内側に残っている。


「いつもの感じになったね」

「うん」


 潤は肩紐の位置を直してから、私のケースを見た。


「持とうか」

「チェロあるでしょう」

「あるけど」

「大丈夫」


 彼はうなずいた。

 それでも、歩き出すまで私を待っていた。


 工房の門を出ると、通りの街路樹が夕方の光を受けていた。黄色くなった葉の間から、低い日差しが細くこぼれている。風が吹くたび、葉が擦れ合い、弓を返した時のような乾いた音を立てた。

 私たちは並んで歩いた。ケースの角が時々揺れ、チェロの肩紐が潤の上着を擦る。その小さな音まで、さっきの工房から続いているように聞こえた。


 アーケードの入口で、私は立ち止まった。来る時には消えていた飾りに、小さな灯りがついている。

 まだ空は明るいのに、灯りはもう夕暮れの色を帯びていた。パン屋の扉が開き、紙袋を持った人が出てくる。焼きたての匂いが、冷えはじめた空気へ混じった。その向こうで、雑貨屋の店員が窓辺の人形を一つ動かしていた。


「もう点いた」

「暗くなるの、早くなったな」


 潤も見上げた。

 アーケードの屋根の下では、外の光が少しずつ薄れている。灯りの輪が足元へ落ち、二人の影を短く重ねていた。


 工房へ向かう時には、秋定が終わるとすぐ年末になる、と話した。

 さっき店でもらった予約案内が、鞄の中に入っている。そこに書かれた日付は、もう、ただ先にあるだけのものではなかった。今日の帰り道と、これからの予定をつなぐ、小さな目印になっていた。


「きのことじゃがいも、いつ出るかな」

「聞けばよかったな」

「次の一週間の予定、店のインスタに載ることがあるの」

「じゃあ、見ておく」

「私も見るよ」

「うん」


 私はケースを持ち替えた。

 持ち手が指へ食い込む。潤はそれに気づいたのか、歩く速さを少し落とした。夕方の光が、彼の横顔の輪郭を薄く縁取っている。


 駅前へ近づくにつれ、人の流れが増えていた。店先の明かりが一つずつ灯り、ガラスに映った街が、実際の通りより少し早く夜へ向かっていく。

 信号を待つあいだ、ケースを足元へ下ろす。

 潤は一度、私の手を見た。それから、信号へ目を戻した。


 さっき、門から通りへ出る時には、手の甲が触れた。

 今は二人とも楽器を持っている。私は空いているほうの手を、上着のポケットへ入れた。指先が少し冷たかった。ポケットの中で手を握ると、弓を持った時の感触がよみがえった。


「今日、来てよかった」


 信号を見たまま、潤が言った。


「弾きやすくなった?」

「うん」


 そこで一度、言葉が切れた。

 車のライトが、濡れていない路面を白く横切っていく。信号機の赤が、潤の頬に淡く映っていた。


 彼がこちらを向く。


「それも」


 私は顔を上げた。

 潤はもう信号を見ていた。横顔はいつもと同じだったけれど、肩紐を持つ指が、一度だけ動いた。


「私も」


 青になった。

 人の流れが一斉に動き出す。私はケースを持ち上げ、潤と横断歩道へ踏み出した。足元に落ちた街路樹の葉が、靴の下で小さく鳴った。


 改札の前で、乗る電車を確かめた。ホームは別々だった。

 駅の天井には白い照明が並び、外の夕暮れを切り離すように明るかった。あと数分で来る電車の時刻を見てから、私は潤へ向き直った。


「じゃあ、また明日」

「うん。明日」


 全練がある。いつもの練習室で、また会う。

 それだけのことなのに、今日は少し惜しかった。工房からここまで、音の余韻を二人で運んできたような気がした。


「チラシ、送る前に連絡するね」

「わかった」


 私は改札を通った。

 階段へ向かう前に振り返ると、潤はまだこちらを見ていた。駅の明かりの中で、チェロケースの黒い輪郭だけがはっきりしている。片手を少し上げる。私も手を上げてから、ホームへ下りた。


 電車に乗り、ケースを膝のあいだへ立てた。

 鞄からスマートフォンを出すと、メッセージが届いていた。


『今日はありがとう』


 送られた時刻は、ついさっきだった。

 私は画面を見たまま、少し笑った。


『こちらこそ。またキルシェ行こうね』


 そして、もう一文追加する。


『クリスマスケーキ予約したいから、秋定が終わったら、また行きたいな』


 送ってから、窓の外を見た。

 電車がゆっくり動き出す。駅の屋根が途切れると、暮れかけた空が車内へ流れ込んだ。街の灯りが窓を横切り、弓の毛のような細い線になって後ろへ伸びていく。


 手のひらには、ケースの持ち手の感触がある。

 その奥に、ほんの一度触れた指先の温度も、まだ覚えていた。


     *


 水曜の全練で、最初に気づいたのは、弓を使いすぎていたことだった。


 工房では軽く音が出たのに、全員の中へ入ると、いつもの力の掛け方へ戻ってしまう。私は弓をいったん弦から離し、右肩を下げた。


「そこから、もう一度」


 片桐先生が譜面へ目を落とした。


 構え直した潤と、視線が合った。彼が私の弓を見る。私は小さくうなずいて、先生へ向き直った。


 合図とともに、音が動き出す。

 弓を急がせずに待つと、隣の音がよく聞こえた。奥から来る管の響きも、自分たちの音へ重なる前に、どこを通ってきたのかわかる気がした。


 先生の左手が、少し開いた。


 私はその動きへ音を預けた。


     *


 最後の和音が消えてからも、片桐先生はしばらく手を下ろさなかった。


「今のを覚えておいてください。音量を抑えただけでは、ああはなりませんから」


 誰かが譜面に書き込む音がした。


「周りを聞いた結果、自分の音が変わる。そこまでやって、初めて合奏です」


 先生が指揮棒を置くと、張っていた空気がほどけた。椅子が動き、管楽器の水を抜く音があちこちで聞こえる。


 私は鉛筆を取り、さっきの箇所に小さく印をつけた。

 その横へ何と書くか迷っていると、潤が譜面台を持ってきた。


「弓、どう?」

「楽。だから、ちょっと油断してた」

「俺も」


 彼は譜面台の脚を畳みながら笑った。


「今度の管分奏、聴きに来ない?」

「管分奏?」

「前半、直人が振るんだ。牧神とレプレ。後半は俺で、幻想とバッカナール」


 私は鉛筆を止めた。


「私が行ってもいいの?」

「もちろん」

「管分奏、行ったことないよ」

「だから、来てみれば」


 潤は畳んだ譜面台を片手へ持ち替えた。


「弾かないで聴くと、わかることもあると思う」

「潤の指揮も?」

「……それも」


 昨日も聞いた返事だった。

 私が笑うと、潤はわずかに眉を寄せた。


「何」

「ううん。行く。場所、地区センターだよね」

「うん。大会議室。あとで時間送る」


 壁際では、奈緒が管の人たちへ順番に声をかけていた。原稿、という言葉だけが、何度かこちらまで届く。


「潤、捕まる前に出した?」

「出した」

「ほんとに?」

「未央まで確認しなくても」


 奈緒がこちらを振り返った。

 潤は口を閉じ、譜面台を片づけに行った。


 楽器をしまい、忘れ物がないか見てから、私たちは練習室を出た。廊下の向こうでは、まだ誰かが笑っていた。扉が閉まると、その声が急に遠くなる。


 玄関脇の守衛室には灯りがついていた。

 窓の前を通りかけた時、守衛のおじさんが顔を上げた。


「お疲れさん」


「お疲れさまです」


 私と潤が答えると、おじさんは椅子から少し身を起こした。


「ちょっといいかい」


 私たちは足を止めた。

 おじさんは廊下を一度見てから、私たちへ目を戻した。


「最近、なにか変わったことないか?」


 すぐには、返事が出なかった。


 隣で潤が、チェロの肩紐を持ち直した。


「変わったこと、ですか」

「うん。ここを使ってて、気になることとか」


 おじさんの声は、いつものように大きくなかった。

 私は守衛室の窓口へ半歩近づいた。


「何かあったんですか?」


 おじさんは少し口を開き、それから首を振った。


「いや。何かあったら、遠慮しないで言ってくれればいいから」

「はい」

「遅くまで残ることもあるだろう。帰る時も、なるべく一人にならないようにな」


 潤が静かにうなずいた。


「ありがとうございます」


 おじさんは私にも目を向けた。

 私がうなずくまで待ってから、ようやく椅子へ座り直した。


「気をつけて帰って」


 玄関を出ると、冷たい空気が頬に当たった。

 階段の下で、私は会館を振り返った。練習室の窓には、まだ灯りが残っている。


「どうしたんだろう」


 潤も同じ窓を見ていた。


「何か、気になってるんだろうな」


 私はケースを持つ手に、少し力を入れた。

 聞き返せばよかったのかもしれない。けれど、窓口でのおじさんの顔を思い出すと、もう一度戻る気にもなれなかった。


「未央」


 潤に呼ばれ、顔を上げた。


「行こう」


 彼は階段の下で待っていた。

 私はうなずき、隣へ並んだ。


     *


地区センターの大会議室は、思っていたよりも明るかった。


 高い窓の下に机が寄せられ、空いた床へ椅子と譜面台が並んでいる。フルートの向こうにオーボエ、その奥にクラリネットとファゴット。金管のベルが、天井の照明を映していた。


 弦楽器の椅子がないだけで、いつもの顔ぶれが違って見える。自分の置き場所まで、少しわからなくなった。


「こっち」


 潤が、後ろに置かれた椅子を指した。

 私は鞄からスコアを出し、彼の隣へ座った。膝の上でページを開く。楽器を持たずに練習へ来たのは、久しぶりだった。手が空いているせいか、落ち着かなかった。


「本当に、座って聴いてていいんだね」

「それ以外、何するつもりだった?」

「譜面台運ぶとか」

「終わったら頼む」


 前のほうで、直人がこちらを見つけた。


「ようこそ」

「お邪魔するね」

「潤に聞いた。今日は弦のこと、考えなくていいから」


 私は開いたスコアへ目を落とした。

 弾かないなら、どこを見ればいいのだろう。自分の出番も、弓を置く場所もない。


 直人が笑う。


「気になるところは、あとで教えて」

「急に責任が増えた」

「そんなに増やしてないよ」


 直人は指揮台の代わりに置かれた低い台へ上がった。


「じゃあ、牧神から」


 話し声が止まり、遥がフルートを構えた。


 直人はすぐには振り始めなかった。

 遥を見て、彼女が息を吸うのを待つ。その肩がわずかに動いた時、直人の手も動いた。


 最初の音が、大会議室へ流れた。


 いつもの合奏では、自分の出番までに数える小節だった。

 今日は数えなくていい。そのことが、かえって戸惑わしかった。音が始まる前の息まで、聞こえてしまう。


 遥の息が旋律を運び、ほかの楽器が加わると、その線の見え方が変わった。自分が弾いている時には、内側から押し出していた音が、外から聞くと、誰かの音を受けて形を変えている。


 直人の右手は、思っていたより小さく動いていた。

 左手が向けられた先で、音の端が少し柔らかくなる。指揮が音を動かしているというより、音の行き先を先に空けているようだった。


 いったん止めると、直人は遥へ顔を向けた。


「そこ、最後まで言い切らなくてもいいかな」

「次へ残す感じ?」

「うん。そのあとを、こっちが受け取れるように」


 彼がオーボエとクラリネットのほうへ手を向ける。

 理沙が譜面へ書き込み、隣のアングレの先輩と短く何かを確かめた。


「前の音が終わるのを待ってから入ると、離れちゃうんだよね。一度、少し重なるつもりでやってみよう」


 もう一度、同じところへ戻った。


 さっきより、息の行き先がよくわかった。

 音が消えてから次が来るのではなく、消えかけたところへ次の音が触れていく。私は譜面の余白へ鉛筆を置いたが、何も書かずに、そのまま聴いた。


 弾いていないのに、身体の中で音を追っている。けれど、いつものように弓を動かせないぶん、追いつけないところがあった。


 レプレになると、椅子の背から離れる人が増えた。


 直人も構えを変えた。拍の始まりをはっきり示しながら、金管が鳴るところでは、身体ごと音を受ける。

 弦合奏へ来た時に見た指揮と、同じ人のものなのに違っていた。音の中にいないからこそ、直人がどこを聞いているのかが見える気がした。


「今の、いいです。ただ、そこで全部使い切らないで」


 直人が胸の前で両手を開いた。


「まだ先があるから。次に大きくなる余地を残しておきたい」


「ここ、もう結構頑張ってるんだけど」


 後ろから声がした。


「聞こえてる。だから、頑張る場所を少し先へずらそう」


 何人かが笑った。

 直人も笑ってから、譜面をめくった。


「その手前から、もう一度」


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