野の風景(6)
工房の窓には、まだ同じ二挺のヴァイオリンが並んでいた。扉を押すと、小さな鐘が鳴った。
堀江さんが顔を上げる。
「おかえり」
「ただいま、って言いそうになりました」
「言ってもいいよ」
奥の弟子が笑った。
作業台の横に、私たちのケースが置かれている。二本の弓は、柔らかな布の上に並んでいた。新しい毛は、傾きはじめた午後の光を受けて、白く浮かんでいる。
「弾いてみて。気になることがあったら、今のうちに」
私は鞄を置き、ケースを開いた。
いつもの場所に収まっているガイセンホーフを持ち上げる。顎当てに触れ、肩へ載せると、さっきまで食事をしていた身体が、少しずつ弾く時の形へ戻っていった。
弓のねじを回し、毛の張りを確かめる。指先に伝わる硬さが、来た時とは違っていた。
まず、開放弦をゆっくり弾いた。
弦へ置いた毛が、ためらいなく音を連れてくる。いつものつもりで力を掛けると、少し強すぎた。右手を緩め、もう一度返す。音は、工房の木の壁に触れてから、静かに戻ってきた。
「どう?」
「弾きやすいです」
「さっきより、肩も下がったね」
言われて、私は弓を止めた。
堀江さんは私の右肩を見ていた。
「毛が減ってくると、知らないうちに頑張るから」
「はい」
もう一度、弓を置いた。
短い音階のあと、ブラームスの旋律を少しだけ弾く。指が覚えているところだった。いつもより小さな音で弾いても、途中で痩せずに続いていく。細い光が途切れずに窓辺へ伸びていくようだった。
弓を離すと、潤がこちらを見ていた。
何も言わなかったけれど、その顔を見て、もう少し弾きたくなった。
「大丈夫です」
「うん。じゃあ、そっちも」
潤は椅子に座り、チェロを構えた。
低い弦から、ゆっくり上がっていく。さっき慎重になったところを、今度は止まらずに通った。低い音が床を伝い、足元から身体へ戻ってくる。もう一度弾いてから、左手の位置を確かめるように指板を見る。
「どうかな」
「さっきより、楽です」
「少し調整したからね。しばらく弾いて、また気になったら持っておいで」
「ありがとうございます」
堀江さんはうなずき、チェロの向きを少し変えて、手を入れたところを潤に説明した。
潤が真剣に聞いているあいだ、私は弓を眺めていた。形も重さも、もちろん変わっていない。それでも、右手に残った感触は、来る時とは違った。握りしめなくても音が立ち上がる。その軽さが、胸の奥にも少し残っていた。
「今度の演奏会まで、よく弾くんだろうけど」
堀江さんが、二人へ言った。
「楽器の具合が変わったら、早めにね」
「はい」
返事が重なった。
彼は眼鏡の奥で目を細めた。
代金を払い、弓をしまった。潤もチェロをケースへ収める。
奥では、弟子の一人がもう次の弓を手に取っていた。毛を張る小さな音が、店の奥でかすかに響いた。
「チケット、あとで送ります」
「待ってるよ。二枚ね」
「はい。チラシも」
「そっちは何枚か。ちゃんと見えるところに置いておくから」
入口の脇には、演奏会のチラシが数枚並んでいた。知っている大学の名前もある。自分たちのものがそこへ加わるのを想像して、少し嬉しくなった。
「ありがとうございました」
「気をつけて」
外へ出ると、秋の空気が頬に触れた。
工房の中に残っていた木と松脂の匂いが、扉の向こうへ薄れていく。潤がチェロを背負い直し、私はケースの持ち手を握った。二時間ぶりの重さが、手のひらへ戻ってくる。けれど、さっきまでの重さとは違っていた。弓の毛が弦を捉えた感触が、まだ指の内側に残っている。
「いつもの感じになったね」
「うん」
潤は肩紐の位置を直してから、私のケースを見た。
「持とうか」
「チェロあるでしょう」
「あるけど」
「大丈夫」
彼はうなずいた。
それでも、歩き出すまで私を待っていた。
工房の門を出ると、通りの街路樹が夕方の光を受けていた。黄色くなった葉の間から、低い日差しが細くこぼれている。風が吹くたび、葉が擦れ合い、弓を返した時のような乾いた音を立てた。
私たちは並んで歩いた。ケースの角が時々揺れ、チェロの肩紐が潤の上着を擦る。その小さな音まで、さっきの工房から続いているように聞こえた。
アーケードの入口で、私は立ち止まった。来る時には消えていた飾りに、小さな灯りがついている。
まだ空は明るいのに、灯りはもう夕暮れの色を帯びていた。パン屋の扉が開き、紙袋を持った人が出てくる。焼きたての匂いが、冷えはじめた空気へ混じった。その向こうで、雑貨屋の店員が窓辺の人形を一つ動かしていた。
「もう点いた」
「暗くなるの、早くなったな」
潤も見上げた。
アーケードの屋根の下では、外の光が少しずつ薄れている。灯りの輪が足元へ落ち、二人の影を短く重ねていた。
工房へ向かう時には、秋定が終わるとすぐ年末になる、と話した。
さっき店でもらった予約案内が、鞄の中に入っている。そこに書かれた日付は、もう、ただ先にあるだけのものではなかった。今日の帰り道と、これからの予定をつなぐ、小さな目印になっていた。
「きのことじゃがいも、いつ出るかな」
「聞けばよかったな」
「次の一週間の予定、店のインスタに載ることがあるの」
「じゃあ、見ておく」
「私も見るよ」
「うん」
私はケースを持ち替えた。
持ち手が指へ食い込む。潤はそれに気づいたのか、歩く速さを少し落とした。夕方の光が、彼の横顔の輪郭を薄く縁取っている。
駅前へ近づくにつれ、人の流れが増えていた。店先の明かりが一つずつ灯り、ガラスに映った街が、実際の通りより少し早く夜へ向かっていく。
信号を待つあいだ、ケースを足元へ下ろす。
潤は一度、私の手を見た。それから、信号へ目を戻した。
さっき、門から通りへ出る時には、手の甲が触れた。
今は二人とも楽器を持っている。私は空いているほうの手を、上着のポケットへ入れた。指先が少し冷たかった。ポケットの中で手を握ると、弓を持った時の感触がよみがえった。
「今日、来てよかった」
信号を見たまま、潤が言った。
「弾きやすくなった?」
「うん」
そこで一度、言葉が切れた。
車のライトが、濡れていない路面を白く横切っていく。信号機の赤が、潤の頬に淡く映っていた。
彼がこちらを向く。
「それも」
私は顔を上げた。
潤はもう信号を見ていた。横顔はいつもと同じだったけれど、肩紐を持つ指が、一度だけ動いた。
「私も」
青になった。
人の流れが一斉に動き出す。私はケースを持ち上げ、潤と横断歩道へ踏み出した。足元に落ちた街路樹の葉が、靴の下で小さく鳴った。
改札の前で、乗る電車を確かめた。ホームは別々だった。
駅の天井には白い照明が並び、外の夕暮れを切り離すように明るかった。あと数分で来る電車の時刻を見てから、私は潤へ向き直った。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
全練がある。いつもの練習室で、また会う。
それだけのことなのに、今日は少し惜しかった。工房からここまで、音の余韻を二人で運んできたような気がした。
「チラシ、送る前に連絡するね」
「わかった」
私は改札を通った。
階段へ向かう前に振り返ると、潤はまだこちらを見ていた。駅の明かりの中で、チェロケースの黒い輪郭だけがはっきりしている。片手を少し上げる。私も手を上げてから、ホームへ下りた。
電車に乗り、ケースを膝のあいだへ立てた。
鞄からスマートフォンを出すと、メッセージが届いていた。
『今日はありがとう』
送られた時刻は、ついさっきだった。
私は画面を見たまま、少し笑った。
『こちらこそ。またキルシェ行こうね』
そして、もう一文追加する。
『クリスマスケーキ予約したいから、秋定が終わったら、また行きたいな』
送ってから、窓の外を見た。
電車がゆっくり動き出す。駅の屋根が途切れると、暮れかけた空が車内へ流れ込んだ。街の灯りが窓を横切り、弓の毛のような細い線になって後ろへ伸びていく。
手のひらには、ケースの持ち手の感触がある。
その奥に、ほんの一度触れた指先の温度も、まだ覚えていた。
*
水曜の全練で、最初に気づいたのは、弓を使いすぎていたことだった。
工房では軽く音が出たのに、全員の中へ入ると、いつもの力の掛け方へ戻ってしまう。私は弓をいったん弦から離し、右肩を下げた。
「そこから、もう一度」
片桐先生が譜面へ目を落とした。
構え直した潤と、視線が合った。彼が私の弓を見る。私は小さくうなずいて、先生へ向き直った。
合図とともに、音が動き出す。
弓を急がせずに待つと、隣の音がよく聞こえた。奥から来る管の響きも、自分たちの音へ重なる前に、どこを通ってきたのかわかる気がした。
先生の左手が、少し開いた。
私はその動きへ音を預けた。
*
最後の和音が消えてからも、片桐先生はしばらく手を下ろさなかった。
「今のを覚えておいてください。音量を抑えただけでは、ああはなりませんから」
誰かが譜面に書き込む音がした。
「周りを聞いた結果、自分の音が変わる。そこまでやって、初めて合奏です」
先生が指揮棒を置くと、張っていた空気がほどけた。椅子が動き、管楽器の水を抜く音があちこちで聞こえる。
私は鉛筆を取り、さっきの箇所に小さく印をつけた。
その横へ何と書くか迷っていると、潤が譜面台を持ってきた。
「弓、どう?」
「楽。だから、ちょっと油断してた」
「俺も」
彼は譜面台の脚を畳みながら笑った。
「今度の管分奏、聴きに来ない?」
「管分奏?」
「前半、直人が振るんだ。牧神とレプレ。後半は俺で、幻想とバッカナール」
私は鉛筆を止めた。
「私が行ってもいいの?」
「もちろん」
「管分奏、行ったことないよ」
「だから、来てみれば」
潤は畳んだ譜面台を片手へ持ち替えた。
「弾かないで聴くと、わかることもあると思う」
「潤の指揮も?」
「……それも」
昨日も聞いた返事だった。
私が笑うと、潤はわずかに眉を寄せた。
「何」
「ううん。行く。場所、地区センターだよね」
「うん。大会議室。あとで時間送る」
壁際では、奈緒が管の人たちへ順番に声をかけていた。原稿、という言葉だけが、何度かこちらまで届く。
「潤、捕まる前に出した?」
「出した」
「ほんとに?」
「未央まで確認しなくても」
奈緒がこちらを振り返った。
潤は口を閉じ、譜面台を片づけに行った。
楽器をしまい、忘れ物がないか見てから、私たちは練習室を出た。廊下の向こうでは、まだ誰かが笑っていた。扉が閉まると、その声が急に遠くなる。
玄関脇の守衛室には灯りがついていた。
窓の前を通りかけた時、守衛のおじさんが顔を上げた。
「お疲れさん」
「お疲れさまです」
私と潤が答えると、おじさんは椅子から少し身を起こした。
「ちょっといいかい」
私たちは足を止めた。
おじさんは廊下を一度見てから、私たちへ目を戻した。
「最近、なにか変わったことないか?」
すぐには、返事が出なかった。
隣で潤が、チェロの肩紐を持ち直した。
「変わったこと、ですか」
「うん。ここを使ってて、気になることとか」
おじさんの声は、いつものように大きくなかった。
私は守衛室の窓口へ半歩近づいた。
「何かあったんですか?」
おじさんは少し口を開き、それから首を振った。
「いや。何かあったら、遠慮しないで言ってくれればいいから」
「はい」
「遅くまで残ることもあるだろう。帰る時も、なるべく一人にならないようにな」
潤が静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
おじさんは私にも目を向けた。
私がうなずくまで待ってから、ようやく椅子へ座り直した。
「気をつけて帰って」
玄関を出ると、冷たい空気が頬に当たった。
階段の下で、私は会館を振り返った。練習室の窓には、まだ灯りが残っている。
「どうしたんだろう」
潤も同じ窓を見ていた。
「何か、気になってるんだろうな」
私はケースを持つ手に、少し力を入れた。
聞き返せばよかったのかもしれない。けれど、窓口でのおじさんの顔を思い出すと、もう一度戻る気にもなれなかった。
「未央」
潤に呼ばれ、顔を上げた。
「行こう」
彼は階段の下で待っていた。
私はうなずき、隣へ並んだ。
*
地区センターの大会議室は、思っていたよりも明るかった。
高い窓の下に机が寄せられ、空いた床へ椅子と譜面台が並んでいる。フルートの向こうにオーボエ、その奥にクラリネットとファゴット。金管のベルが、天井の照明を映していた。
弦楽器の椅子がないだけで、いつもの顔ぶれが違って見える。自分の置き場所まで、少しわからなくなった。
「こっち」
潤が、後ろに置かれた椅子を指した。
私は鞄からスコアを出し、彼の隣へ座った。膝の上でページを開く。楽器を持たずに練習へ来たのは、久しぶりだった。手が空いているせいか、落ち着かなかった。
「本当に、座って聴いてていいんだね」
「それ以外、何するつもりだった?」
「譜面台運ぶとか」
「終わったら頼む」
前のほうで、直人がこちらを見つけた。
「ようこそ」
「お邪魔するね」
「潤に聞いた。今日は弦のこと、考えなくていいから」
私は開いたスコアへ目を落とした。
弾かないなら、どこを見ればいいのだろう。自分の出番も、弓を置く場所もない。
直人が笑う。
「気になるところは、あとで教えて」
「急に責任が増えた」
「そんなに増やしてないよ」
直人は指揮台の代わりに置かれた低い台へ上がった。
「じゃあ、牧神から」
話し声が止まり、遥がフルートを構えた。
直人はすぐには振り始めなかった。
遥を見て、彼女が息を吸うのを待つ。その肩がわずかに動いた時、直人の手も動いた。
最初の音が、大会議室へ流れた。
いつもの合奏では、自分の出番までに数える小節だった。
今日は数えなくていい。そのことが、かえって戸惑わしかった。音が始まる前の息まで、聞こえてしまう。
遥の息が旋律を運び、ほかの楽器が加わると、その線の見え方が変わった。自分が弾いている時には、内側から押し出していた音が、外から聞くと、誰かの音を受けて形を変えている。
直人の右手は、思っていたより小さく動いていた。
左手が向けられた先で、音の端が少し柔らかくなる。指揮が音を動かしているというより、音の行き先を先に空けているようだった。
いったん止めると、直人は遥へ顔を向けた。
「そこ、最後まで言い切らなくてもいいかな」
「次へ残す感じ?」
「うん。そのあとを、こっちが受け取れるように」
彼がオーボエとクラリネットのほうへ手を向ける。
理沙が譜面へ書き込み、隣のアングレの先輩と短く何かを確かめた。
「前の音が終わるのを待ってから入ると、離れちゃうんだよね。一度、少し重なるつもりでやってみよう」
もう一度、同じところへ戻った。
さっきより、息の行き先がよくわかった。
音が消えてから次が来るのではなく、消えかけたところへ次の音が触れていく。私は譜面の余白へ鉛筆を置いたが、何も書かずに、そのまま聴いた。
弾いていないのに、身体の中で音を追っている。けれど、いつものように弓を動かせないぶん、追いつけないところがあった。
レプレになると、椅子の背から離れる人が増えた。
直人も構えを変えた。拍の始まりをはっきり示しながら、金管が鳴るところでは、身体ごと音を受ける。
弦合奏へ来た時に見た指揮と、同じ人のものなのに違っていた。音の中にいないからこそ、直人がどこを聞いているのかが見える気がした。
「今の、いいです。ただ、そこで全部使い切らないで」
直人が胸の前で両手を開いた。
「まだ先があるから。次に大きくなる余地を残しておきたい」
「ここ、もう結構頑張ってるんだけど」
後ろから声がした。
「聞こえてる。だから、頑張る場所を少し先へずらそう」
何人かが笑った。
直人も笑ってから、譜面をめくった。
「その手前から、もう一度」




