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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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野の風景(7)

 休憩に入ると、私はようやくスコアを閉じた。


「面白い」

「よかった」


 潤が隣で、水のボトルを開けた。


「直人、弦合奏の時と少し違うね」

「自分でも吹いてるから、息が足りなくなるところもわかるし」

「うん。でも、楽にしてくれるだけじゃないんだね」

「楽にはならないな」


 私は笑いかけて、ふと黙った。

 弾いていないのに、さっきの音がまだ身体のどこかに残っている。けれど、それを自分の音として確かめる手段はなかった。


 近くを通った宮田が、その言葉にうなずいた。


「息があるうちに、もっとやれってことだからね」


 直人が戻ってきた。


「そういう言い方すると、僕がひどいみたいじゃない」

「違った?」

「少し違う」


 宮田は笑いながら、ファゴットのところへ戻った。


 直人は空いていた椅子の背へ手を掛けた。


「次のホール練習、二人とも予定、大丈夫?」

「うん」

「大丈夫」


 私たちが答えると、彼はうなずいた。


「集合時間はもう一度回すけど、搬入もあるから、練習開始より早めになると思う」

「ハープのお二人も来るんだよね」

「うん。二台入った状態で合わせられるから、その時間は大事にしたい」


 理沙がこちらへ来た。


「三楽章、ホールでは場所も試すんですよね」

「その予定。どこまで聞こえるかも含めて、先生と確認しよう」


 隣へ来たアングレの先輩が、理沙へ言った。


「今日は、お互いの顔を見ないでも入れるようにしておこうか」

「はい」


 理沙が少し真剣な顔になった。


 私はその言葉を聞きながら、さっきの二つの音を思い出した。顔を見なくても入る。そのために、音が終わる前から相手を待つ。弾いている時には当たり前だと思っていたことが、外から聞くと、ずいぶん細い糸の上に成り立っているように感じられた。


 直人は腕時計を見てから、思い出したように続けた。


「あ、あと奈緒から。プログラムの原稿、締め切り近いからね。まだの人は、本人に連絡しておいて」

「出したよ」


 遥が少し離れたところから答えた。


「ありがとう。直接伝えてある?」

「ある。直人、伝言係になってるね」

「捕まえられる人には言っておいてって」


 トロチューのほうでも、原稿の話が始まった。

 私は潤へ顔を寄せ、声を落とした。


「幻想、奈緒は何て?」

「受け取りました、って」

「それだけ?」

「何を期待してるんだよ」


 私は笑って、スコアを膝へ戻した。

 潤は立ち上がり、ボトルを鞄へしまった。


「じゃあ、行ってくる」

「うん」


 隣の椅子が空いた。

 潤が前へ歩いていくのを見てから、私は幻想のスコアを開いた。


 弾かない自分が、どこまでこの曲の中にいられるのか、まだわからなかった。


     *


 潤は譜面を確かめると、全員へ目を向けた。


「三楽章から。最初、お願いします」


 理沙とアングレの先輩は、今日はどちらも席にいる。

 先輩が楽器を構えた。潤の手が動き、あの旋律が始まる。


 私は、自分がまだ弾かない小節を目で追った。

 いつもなら、そこへ向けて左手を準備し、弓を置く。今日はページの上を目だけが進んでいく。


 少し離れたところから、理沙が応える。

 同じ部屋にいるのに、二つの音のあいだには距離があった。先輩の音を聞いてから息を吸う、そのわずかな時間まで見える。


 潤が止めた。


「理沙、今の入り、少し待った?」

「はい。先輩の音を聞いてからと思って」

「聞いてるのはわかった。でも、音が終わる前に、もう返事を考えていてほしい」


 理沙が先輩を見る。

 先輩は楽器を下ろし、うなずいた。


「もう一回、私からやろう」

「お願いします」


 潤が構え直した。


 二度目は、理沙の息が早く用意されていた。

 旋律の終わりへ、次の音が届く。私はさっきより先の小節まで、止まらずに目を動かした。


 音がつながった瞬間、譜面の上では離れていた二つの旋律が、ひとつの流れとして見えた。自分が弾いていないからこそ、そのつながりを最後まで聞けた気がした。


 潤の手も、二人のあいだをつないでいた。


 そのあと、ほかの楽章から必要な箇所を取り出して合わせ、最後にバッカナールへ移った。


 冒頭で理沙が姿勢を整える。

 さっきの三楽章とは違う息が、楽器へ入っていった。


 速いところへ進むと、大会議室の響きが一気に厚くなった。私はスコアを追いながら、背筋を伸ばした。

 自分も弾いている時には、こんなふうに鳴っているのだろうか。


 けれど、弾いている時の自分は、こんなふうに全体を聞けていない。指の位置や弓の速さに追われて、音がどこから来てどこへ消えるのかまで考えられない。


 そのことに気づくと、少しだけ心細くなった。


 潤が止める。


「速くなると、短い音が全部同じに聞こえる。動いていく音と、そこで響かせる音を分けたい」


 彼は譜面を示し、いくつかのパートへ順に話した。

 指揮台を下りてからも、まだ次のことを考えている顔をしている。


 工房やキルシェで見た潤を思い出した。

 同じ手が、今日は何人もの音の入り口を示していた。


「もう一度、お願いします」


 私は鉛筆を置いた。

 今度はページを追うよりも、まず音を聴こうと思った。


 潤が息を吸う。

 楽器を構えた人たちが、その動きを見ていた。


 その瞬間、私は初めて、空いた両手の置き場所を見つけた気がした。


 譜面の上ではなく、音が生まれる少し前。

 誰かの息が次の音を待ち、誰かの手がその行き先を空ける、その場所に、私は耳を澄ませた。


 潤の手が上がる。


 次に始まる音を、ただ聴くのではなく、どこへ渡すのかまで聴いてみたいと思った。弓を持っていない今だからこそ、見えるものがある。けれど、いつかまた弓を持つ時には、今日見えたものを、自分の音の中へ返したい。


 合図の直前、私はスコアから顔を上げた。


 音が始まる前の静けさが、もう空白には聞こえなかった。


     *


搬入口の扉が開くと、台車の車輪が床の継ぎ目を越える音がした。

 沢村が後ろを振り返る。


「そこで一回止めて。先にこっちを入れる」


 私はケースを抱え直し、壁際へ寄った。大きな打楽器が目の前を通っていく。その向こうで、直人がホールの人と舞台の配置図を見ていた。

 正面から来る時には、ガラスの扉の向こうに広いロビーが見える。今日は建物の横へ回り、楽器と一緒に入った。廊下には楽屋の番号が並び、曲がり角の先から、誰かが椅子を動かす音が聞こえている。


「未央ちゃん?」


 呼ばれて振り返った。

 ハーピストの中野さんが、譜面の入った鞄を肩へ掛けて立っていた。


「お久しぶりです」

「久しぶり。今日はよろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」


 中野繁子さんとは、ジュニアオケの頃から何度も一緒に演奏していた。会うたびに、よく通る声で名前を呼んでくれる。

 背後から来た潤にも、中野さんはすぐに気づいた。


「あら、潤くんも。背、また伸びた?」

「もう伸びてないと思います」

「そう? 会うたび大きくなってる気がするのよね」


 潤が少し笑った。

 中野さんの隣にいた女性が、そのやりとりを見て微笑んでいた。中野さんよりずっと若く、まとめた髪の横に、小さな銀色の耳飾りが見えた。


「こちら、山口美里さん。今日、二番を弾いてくださるの」

「初めまして、高橋未央です」

「山口です。よろしくお願いします」

「千堂です。よろしくお願いします」


 美里さんは、私たちへ順に会釈した。


「中野さんから、ジュニアオケのお話を聞いていたんです」

「昔の話ばっかりしてもしょうがないんだけどね。知ってる顔がいると、嬉しくなっちゃって」


 中野さんが笑う。

 私はその声を聞いて、肩に入っていた力が少し抜けた。


「お二人は、よく一緒に弾かれるんですか」

「それが、今日初めてなのよ」

「ご挨拶はしたことがあったんですけど、一緒に乗る機会がなくて」


 美里さんが答えた。


「二台の曲でも、日程が合わなかったりね。今日は楽しみ」

「私もです」


 廊下の奥から、直人がこちらへ来た。


「おはようございます。団長の相沢です。本日はよろしくお願いします」

「よろしく。ハープは、もう舞台に入ってる?」

「はい。ご案内します」


 私たちも、そのあとについて歩いた。


 重い扉を抜けると、急に頭の上が広くなった。

 舞台の木の床が、明るい照明の下へ続いている。その先には、誰も座っていない客席があった。中央の列から両側へ、さらに上の階へと、椅子が連なっている。


 ここでは、聴く側にも、弾く側にもなったことがある。

 それでも舞台へ出るたび、最初の数歩だけは、足元を確かめたくなった。


「わあ」


 後ろで、小さな声がした。

 一年生のヴァイオリンの子が、ケースを持ったまま客席を見ていた。私と目が合うと、少し照れたように笑う。


「広いですね」

「うん。座ると、また違って見えるよ」


 彼女はもう一度、客席を見上げた。


 舞台の後ろには、打楽器が少しずつ並んでいた。沢村が配置図と床を見比べ、敦子ちゃんが譜面台を運んでいる。管楽器の椅子の位置を確かめていた宮田さんが、中野さんへ手を上げた。

 その脇に、二台のハープがあった。

 背の高い柱と、斜めに並ぶ弦が、照明を受けて光っている。いつもの練習ではピアノのある場所に、今日は二人の奏者が座る。


 中野さんは鞄を置くと、さっそく譜面を開いた。美里さんも隣へ座り、自分の譜面を出す。

 短く言葉を交わしたあと、中野さんの手が弦に触れた。


 澄んだ音が、舞台の上へ立ち上がった。


 さっきまで廊下いっぱいに響いていた声と、同じ人から出ているとは思えないほど、柔らかな音だった。続いて美里さんが弾く。二人は互いの響きを聴き、また譜面へ目を戻した。

 私はしばらく、その手元を見ていた。


 自分の音を遠くまで届けるには、もっと強く弾かなければならない。そんな考えが、まだ胸のどこかに残っていた。けれど、二人のハープは押し出しているようには聞こえない。互いの音を受け取り、次の音へ渡している。その響きが、力を入れずに舞台の奥へ広がっていた。


「未央」


 奈緒に呼ばれて、我に返った。


「そっち、椅子の位置どう?」

「今、見る」


 私は自分の席へ向かった。

 指揮台の横から客席を見ると、さっきよりも奥まで見えた。ケースを置き、譜面台の高さを直す。奈緒がセカンドの列を確かめ、美帆は後ろの椅子との間隔を見ていた。


 チェロのほうでは、潤が里枝と何か相談している。

 彼が顔を上げた。目が合うと、譜面台へ軽く手を添え、こちらへうなずいた。

 私もうなずいて、ケースを開いた。


     *


 最初に合わせた音が、いつものようには返ってこなかった。

 自分のすぐそばで聞こえていたはずの音が、頭の上にも、前のほうにも広がっている。私は弓を動かしながら、隣の音を探した。


 けれど、探しているうちに、音を遠くへ届けようとする気持ちが先に立った。私は無意識に弓へ力を込め、自分の音を前へ押し出そうとした。


 片桐先生が止めた。


「今、少し頑張りましたね」


 誰にともなく言われ、何人かが顔を上げた。


「広いところへ来ると、届かせたくなる。けれど、音を押し出しても、遠くまで行くとは限りません。まず、隣と一緒に鳴らしてください」


 私は弓を持つ指を緩めた。

 工房で最初に弾いた時にも、いつもの力では強すぎた。あの感触を思い出し、弦へ弓を置き直す。


「同じところから」


 二度目は、奈緒のほうから届く音を待った。

 自分の音だけを大きくしようとすると、かえって聞こえなくなる。奈緒の弓が弦へ触れる気配を聴き、その音が立ち上がるのを待ってから、自分の音を重ねた。


 音を押し出すのではなく、隣から受け取って、次へ渡す。

 そう意識すると、後ろの列から来る音も少しずつわかった。自分の音を大きくするために耳を塞いでいた時には、聞こえなかった音だった。


 先生の手が止まってからも、響きはすぐには消えなかった。


「その残り方も、今日、覚えて帰ってください」


 私は鉛筆を取り、譜面の端へ小さく書いた。

 隣を聴く。

 受け取る。

 渡す。


 書いてから、管分奏の日に、鉛筆を置いて聴いたことを思い出した。


 今日は弓を持っている。

 それでも、弾きながら聴けるだろうか。


 幻想の二楽章になると、ハープの音が加わった。

 何度も合わせてきた小節なのに、そこで初めて、旋律の足元にあるものが見えた気がした。弦が進む先へ、きらめく音が置かれていく。私は一瞬、自分の音をその響きより前へ出そうとした。


 けれど、中野さんと美里さんは、互いの音を押しのけていなかった。片方が置いた響きを、もう片方が受け取り、その余韻を次へ渡している。

 私は弓を少し軽くし、ハープの音が来る場所を待った。


 少し先で、合奏が止まった。


「ハープを聴くのはいいですよ。でも、見とれて遅れないように」


 舞台のあちこちで笑いが起こった。

 私も笑いながら、譜面へ目を落とした。後ろから、樹が小声で言う。


「ばれてますね」

「樹もでしょう」

「はい」


 先生はハープのお二人と短く相談し、今度は弦だけを確かめた。


「軽くする時に、支えまでなくさないで。踊る人の足が、床から離れっぱなしにはならないでしょう」


 弓の使い方を変え、もう一度弾く。

 今度は、音を小さくすることだけを考えなかった。隣の音を聴き、その音が次へ進めるように、自分の音を置く。

 中野さんと美里さんが加わると、さっきよりも自然に音が重なった。華やかになったぶんだけ強く弾く必要はなかった。

 私は弓を返し、受け取った響きを次の音へ渡した。


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