野の風景(8)
三楽章の前に、理沙が楽器と譜面を持って席を立った。
ホールの人が舞台袖へ案内し、直人もついていく。アングレの先輩は、席に残ったままリードを確かめていた。
扉が閉まると、理沙のいた椅子だけが空いた。
大会議室では、二人の息を吸うところまで見えていた。今日は、こちらから彼女の姿が見えない。
片桐先生がアングレの先輩を見た。
手が上がり、旋律が始まった。
私は譜面を追った。
やがて、舞台の外からオーボエが応えた。
同じ旋律なのに、そこへ来るまでの空間が違っていた。音の輪郭は少し遠く、けれど、思っていたよりはっきり届く。振り返りたくなるのをこらえ、先生の手を見た。
アングレの音が、また舞台の上から返る。
二人の姿が見えないことで、呼び交わしていることが、かえってよくわかった。
先生は一度止め、舞台袖へ声を掛けた。
「理沙さん、こちらは聞こえますか」
少し間があって、返事が来た。
「はい、聞こえます」
「では、もう一度。今の場所で確かめましょう」
客席へ下りた直人が、中央の通路を歩いていく。立ち止まって舞台を見上げ、先生へ合図した。
私は弓を膝へ置き、最初から聴いた。
遠くにいる理沙の音は、ただ小さいのではなかった。
ここにいる人へ向けて、息を運んでいる。その行き先を、アングレの先輩が受け取る。
管分奏で聴いた二人の音が、今日はホールの中に距離を持っていた。
自分の出番が近づいた。
私は左手を用意し、弓を上げる。
先輩の旋律を聴いたまま、その先へ音を置いた。
以前の私なら、遠くの音に負けないよう、自分の音を前へ押し出していたかもしれない。けれど今は、先輩の音がどこから来て、どこへ向かうのかを聴いた。その流れを受け取り、次の音へ渡す。
弾き始めても、さっきまでのオーボエが耳の奥に残っていた。
見えない場所から届いた音を、私は自分の中で止めずに、隣へ渡した。
*
休憩になって、私は弓を置いた。
肩を回していると、舞台袖から戻った理沙が、まっすぐ先輩のところへ来た。
「どうでした?」
「聞こえてたよ。そっちは?」
「聞こえるんですけど、席にいる時と全然違って。最初、思ったより寂しかったです」
「慣れよう。今日、試せてよかったね」
理沙はうなずき、空いていた自分の椅子へ座った。
ハープのところでは、美里さんが譜面へ書き込み、中野さんが隣から覗いていた。私が通りかかると、中野さんが顔を上げる。
「いいねえ、ここの響き」
「弾いていて、まだ少し迷います」
「客席に行くと、また違うのよね。あとで聴ける時に、聴いておくといいよ」
私はうなずいた。
美里さんも鉛筆を置いた。
「二台で弾くと、自分が思っているより残るところがありますね」
「そうそう。気持ちよくて、つい鳴らしたくなるけど」
中野さんは笑ってから、譜面の一箇所を指した。
「ここ、次はもう少し早く止めてみようか」
「はい。私も、そこを確かめたいです」
二人はもう一度、手元の譜面へ戻った。
初めて一緒に弾く人同士が、少しずつ音を決めていく。その相談の仕方が、私たちと同じだった。
どちらかが自分の音を通そうとしているのではない。相手の音を聴き、受け取り、次に渡す場所を探している。
舞台を横切ってきた潤が、私の隣で止まった。
「どう?」
「ハープが入ると、違うね」
「うん」
「あと、三楽章。理沙の音が、ちゃんと遠くから来た」
「客席でも聴いてみたいな」
「私も」
客席の中央では、直人が片桐先生と話していた。
舞台から見ると、二人は思いのほか小さかった。あの場所へ、私たちの音が届く。本番の日には、その周りにも人が座る。
私は自分の席を振り返った。
譜面台に開いた幻想の向こうに、ヴァイオリンの列が続いている。奈緒が範子に何かを示し、樹は隣の一年生と弓を動かしながら話していた。
「もう一回、弾きたい」
口に出してから、潤を見た。
彼は客席から私へ目を戻し、少し笑った。
「まだ、たくさん弾くよ」
「そうだった」
先生が舞台へ戻ってくる。
私たちも、それぞれの席へ向かった。
弓を持ち、譜面を確かめる。
さっき迷った小節には、小さな鉛筆の印が残っていた。私はそこへ指を置いてから、顔を上げた。
朝、舞台へ入った時、私は客席の奥へ届かせるために、自分の音を押し出そうとしていた。
けれど、ハープの二人の響きや、舞台袖から届いた理沙の音を聴いて、音は一人で遠くへ飛ばすものではないとわかった。隣から受け取り、次の人へ渡していく。その連なりが、響きを客席の奥まで運んでいく。
私は奈緒の弓へ目を向けた。
彼女が音を置く。その音を受け取り、私も次の音を置く。さらにその先で、後ろの列が受け取る。
誰もいない客席の奥まで、今度は隣の音と一緒に進んでみよう。
自分の音を押し出すのではなく、隣の音を聴き、その響きを次へ渡す。
そう思うと、弓を持つ手に、静かな力が戻ってきた。
*
休憩のあとは、幻想の残りの楽章から、先生が確かめたいところを拾っていった。
大きな音になると、さっき聞こえていたものが、また聞こえなくなる。金管の響きが頭の上を通り、低い弦が床から上がってくる。その中で弓を動かしていると、自分がどれくらい鳴らしているのか、急に心許なくなった。右手に意識が寄りかけたところで、先生の手が視界に入った。
「そこ、ヴァイオリンだけで」
止められたところへ戻る。
弦だけで弾くと、音の終わりが思っていたより揃っていなかった。弓を止めたあとも、先生の手は下りない。私はその手を見たまま、残った響きの中で自分たちの音のずれを探した。
「終わった人から休まないで。最後まで、同じところにいてください」
樹が譜面へ書き込む気配が隣から伝わる。私は後ろの列へ目をやり、みんなが弓を上げるのを確かめてから、自分の弓も持ち上げた。
もう一度。
今度は、音を切ったあとまで先生の手を見ていた。弦が鳴るのをやめても、ホールにはまだ響きがある。その響きが薄れていく途中で、誰かの椅子が小さく鳴った。
「はい。そこへ管と打楽器を戻します」
全員で弾くと、さっき揃えた終わり方が、大きな音の中でもわかった。音の中に埋もれたのではなく、終わる瞬間まで同じ場所にいられた。
先生がうなずいた。私はその合図を見届けてから息を吐き、ようやく肩を下ろした。
*
牧神へ移る前に、理沙とアングレの先輩が席で譜面を替えた。
遥はフルートを膝へ置き、指を動かしている。ハープのお二人も、それぞれの譜面を確かめていた。私はその様子を目で追いながら、さっきまでの響きが身体の内側から抜けていくのを待った。
先生は指揮台へ上がると、客席を一度振り返った。
「ここまで、少し耳が疲れましたね」
何人かが笑った。
「最初の音から、聴き直しましょう」
遥が楽器を上げる。
その動きに合わせて、舞台が静かになった。
最初の音が、さっきまで大きな響きで満ちていた場所へ流れた。
大会議室で聴いた時よりも、音の周りに空間がある。それなのに、遠ざかってはいかなかった。音が空間へ広がるほど、私はその中心にいる遥の息を近くに感じた。旋律が動くたびに、次にどんな息をするのか、知りたくなった。
自分の出番まで、譜面を追う。
次の小節を目で確かめ、弓を上げる前に息を吸った。
ハープの音が、弦や管のあいだから聞こえてきた。幻想の二楽章とは違う響きだった。同じ二人が、同じ楽器を弾いているのに、舞台の明るさまで変わったように感じた。私はその明るさを耳で受け取りながら、弓を弦へ置いた。
先生が止めた。
「今のところ、弦はもう少し管を聴けますか。自分たちの小節線だけで、区切らないように」
私は譜面の線を見た。
次の小節へ入る時、無意識に弓を使い直していた。そのたびに、音を小節の内側へ収めようとして、遥たちの旋律から少し離れていたのかもしれない。
奈緒がこちらを見て、自分の弓の先をわずかに動かした。小節線をまたぐような動きだった。
私はその意味を受け取り、うなずいた。
二度目は、同じところを通っても、さっきのようには区切れなかった。音を長くするのとは違う。次の小節へ行く前から、その先を聴いている。弓を返す手前でも、遥の旋律が続いている場所を耳の中に残した。
弾き終えてから、私は譜面へ細い線を引いた。
先生は遥へ顔を向けた。
「今の弦が来ると、どうですか」
「吹きやすいです」
「では、それを覚えておいて。弦が戻ってくる場所を、空けて待ちすぎなくてもいい」
遥がうなずいた。
その横顔を見て、私は今の音が彼女の息を支えられたのだと知った。すぐに自分の譜面へ戻り、次に弓を置く場所を確かめた。
*
レプレになると、中野さんが席を離れた。
美里さんは譜面を開き直し、ペダルを確かめている。中野さんはその横で少し話してから、舞台袖へ向かった。
初めて共演するオケの中に、一人で座る。
自分だったら、何を最初に確かめるだろう。私は美里さんの譜面台へ目をやり、彼女が弦へ手を添えるのを見た。その手が静かに止まったところで、先生が構える。私は視線を先生へ戻し、楽器を上げた。
曲が進むにつれて、身体が温かくなった。
管分奏では聴くだけだったところへ、今日は自分の音が入る。弓を動かすたび、肩や指先に残っていた冷たさがほどけていった。あの日、直人が金管へ言っていた、まだ先がある、という言葉を思い出した。
ここで全部を使わない。
けれど、その先のために、今を小さく済ませることもできない。
先生が止め、トロチューのほうを見た。
「今の響きは好きです。ただ、弦が何をしているかも、少し聞いてみてください」
大地が顔を上げた。その動きを見て、私は自分たちの音が金管の響きの下にあることを意識した。
先生は、今度は私たちへ向き直る。
「弦も同じです。金管が鳴ったら、自分たちは聞こえないと決めてしまわないこと」
私は弓を持ち直した。
さっきの音の中で、自分の輪郭ばかり探していた。聞こえなければ、もっと弾く。その繰り返しになりかけていた。けれど、先生の言葉を思い返すと、必要なのは音量ではなく、響きの中で動きを失わないことだった。
「手前から、もう一度」
今度は金管が入る前から、その響きを待った。
弓を弦へ置いたまま、後ろから来る音の気配を聴く。鳴った瞬間に弓を押さえ込まず、そのまま動かしていく。金管の響きが身体の前面を押してきても、弦の動きは途切れなかった。
先生の左手が、さらに先を示した。
私はその手の先を見て、周囲の音が同じ方向へ進むのを感じた。私たちはそこへ向かって弾いた。
曲が止まると、舞台袖にいた中野さんが、美里さんへ小さく親指を立てた。
美里さんが笑う。
その表情を見て、私はさっきの響きが届いていたのだとわかり、少し嬉しくなった。
*
最後のバッカナールでは、中野さんがハープへ戻った。
美里さんは譜面と鉛筆を持って、客席へ下りていく。直人もクラリネットを置き、先生と短く話してから、別の通路へ向かった。
「最後だからといって、急に元気を出しすぎないでくださいね」
先生が言うと、金管のほうで笑いが起こった。
「本番でも、幻想のあとに弾きます。今日の疲れ方で、できることを確かめましょう」
私は足の位置を直した。
座り続けた腰が少し重い。左手の指を一度開いてから、指板へ戻した。指先に残る硬さを確かめていると、理沙がオーボエを構えた。
さっき、舞台袖から聞こえていた音が、今度は目の前から始まった。
その音を受けて、私は弓を動かした。
速いところへ入ると、舞台が一気に動き出した。
弓を小さく使う。譜面から顔を上げる。視界の端で、潤のほうに並ぶチェロの弓が揃って動いていた。後ろでは沢村が次の合図を見ている。その動きを確かめると、私も次の音へ身体を向けやすくなった。
勢いに任せたくなるところで、先生が止めた。
「元気なのはわかりました」
今度は、私も笑った。
「でも、今の速さで最後まで行けますか」
樹が隣の子と顔を見合わせた。
「もう一度。今日は、ちゃんと帰ってこられる速さで」
弾き直すと、さっきよりも指が落ち着いた。
音が短くなるほど、弓を急いで返していたことに気づく。必要なところへ置ければ、それほど大きく動かさなくてもよかった。弓の返りを急がずに済むと、理沙の音も、後ろから入る打楽器の気配も、前よりはっきり聞こえた。
中野さんの手が弦の上を動く。
その向こうで、敦子ちゃんが楽器を構えていた。先生の合図に顔を上げる。その真剣な表情を視界に留めたまま、私は譜面へ戻った。周囲の動きを見たあとも、音の流れから離れずにいられた。
最後の音が鳴った。
先生の手が閉じ、全員の動きが止まる。
響きが高いところへ残っていた。
私は弓を下ろしたまま、その残響が消えるまで動かなかった。誰も、すぐには話し始めなかった。
やがて先生が腕を下ろした。
「お疲れさまでした」
舞台に、息を吐く音が重なった。




