野の風景(9)
ケースへ楽器をしまっていると、客席から戻った美里さんが、中野さんへ話していた。
「弦の動き、よく聞こえてました」
「そう? こっちだと、もう少し欲しいかなって思っちゃうのよね」
「ハープも、ちゃんと届いてました。真ん中より、少し後ろで聴いていたんですけど」
「ありがとう。じゃあ、本番も慌てずに済む」
中野さんは笑い、譜面を閉じた。
私もケースの留め具を掛けた。
舞台の上にいるあいだは、何度も不安になった。その音が客席では聞こえていたと知るだけで、まだ弾いてもいない次の音まで、少し変わる気がした。
「未央ちゃん、終わったあと、何かある?」
中野さんに尋ねられた。
「今日は、片づけだけです」
「みんな、どこかでご飯食べるの?」
「よし乃に行く人もいると思います」
中野さんの顔が、ぱっと明るくなった。
「あ、いいねえ。行く行く」
「まだ誰にも聞いてないですけど」
「じゃあ、聞こう。美里さんも、時間ある?」
「はい。ご一緒してもいいですか」
「もちろん。弾いたらお腹すいたでしょう」
近くにいた宮田さんが、笑いながらこちらへ来た。
「よし乃ですか」
「そう。あなたも行く?」
「搬出が終わったら」
「じゃあ、それまで邪魔にならないところで待ってるね」
中野さんは美里さんと、楽器の運び出しを確かめに行った。
その後ろ姿を見送っていると、潤がチェロケースを背負って隣へ来た。
「未央も行く?」
「うん。潤は?」
「行く」
私はケースを持ち上げた。
舞台の端で、樹が譜面台を畳んでいる。奈緒と範子が忘れ物を確かめ、一年生たちは椅子を運んでいた。直人が搬出口のほうから戻り、沢村へ声を掛ける。私はその声の方向へ一度目をやり、空いた譜面台へ手を伸ばした。
弓を持っていた手に、冷たい金属の感触が触れる。
最後にもう一度、客席を見た。
朝には広すぎると思った場所が、今は少しだけ近かった。
そこには、もう誰もいなかった。
けれど、さっきまで重なっていた音が、空席のあいだにまだ薄く残っている気がした。幻想の終わりに揃えた弓の止まり方も、牧神の旋律を待った息も、金管の響きの中で途切れなかった弦の動きも、すべてが静かな残響になって、客席の奥へ沈んでいく。
朝は、広すぎて、自分の音がどこへ行くのかわからなかった。
今は、音が消えたあとにも、聴いていたものが残ることを知っている。
私は客席から目を離し、ケースを持ち直した。
外へ出れば、もう夜の空気になっているだろう。一日のあいだに変わったのは、ホールの響きだけではなかった。私もまた、誰かの音を待ち、その音の中で自分の弓を動かせるようになっていた。
譜面台を運ぶ音が、舞台の上で小さく鳴った。
その音を聞きながら、私はみんなのあとを追った。
*
よし乃の戸を開けると、焼けた脂とたれの匂いが、冷えた頬へ届いた。練習のあいだ張りつめていたものが、その匂いに触れた途端、少しだけほどける。
「こんばんは」
先に入った宮田さんの声に、カウンターの向こうからマスターが顔を上げる。
「おう。今日はホールだったんだろ」
「はい。今、片づけ終わりました」
「お疲れさん。……まだ来るのか?」
宮田さんの後ろから、中野さんが顔を出した。
「こんばんは。お腹すいたー」
「いらっしゃい。そりゃ、しっかり食べてもらわないとな」
マスターが笑い、それから私たちを見た。
「珍しい顔もいるな」
「こんばんは」
「今日は二人も一緒か。奥、詰めてもらって」
すでに座っていた大地が、手を上げた。樹もこちらを振り返る。
「あ、先輩たちも来たんですね」
少し意外そうに言ってから、自分の鞄を引き寄せた。
「ここ、空けます」
「ありがとう」
私は潤と並んで腰を下ろした。肩が触れそうで触れない距離だった。コートを脱ぐと、ようやく一日の長さが肩へ戻ってきた。暖かい店の中で、膝に置いた手の指がじんわりほどけていく。隣に潤がいることも、舞台の上で音を合わせていた時より近く感じられた。
中野さんと美里さんは、向かいに座った。
「ここ、初めてなんです」
美里さんが、壁の品書きを見上げた。
中野さんはおしぼりで手を拭きながら、うなずく。
「じゃあ、まず焼き鳥ね」
「何がおすすめですか」
「一通り食べてみたら? みんなで分ければいいし」
「それがいいです」
大地がすぐに賛成した。
いつの間にか、注文をまとめるつもりで鉛筆を持っている。
「飲み物、どうします?」
あちこちからビールの声が上がった。美里さんは品書きをもう少し見てから、静かに言った。
「私、ワインにしようかな」
誰かの注文へ合わせた様子もなく、それが自然だった。自分の好きなものを迷わず選ぶ姿が、少し羨ましい気もした。
マスターへ赤を頼んでから、私たちへ微笑む。
「今日は、ゆっくり飲みたいので」
やがて運ばれてきたジョッキのあいだに、ワイングラスが一本置かれた。私も自分のグラスを持ち上げる。
宮田さんが、みんなの顔を見回した。
「じゃあ、ホール練習、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
重なった声は、さっきまでの舞台よりずっと近かった。舞台では一人ずつの音を追っていたのに、今は誰かの笑い声のすぐ隣に、別の人の相槌がある。そのまとまりの中へ、自分も自然に混ざっている気がした。
グラスを置いたところで、奥の席から直人が顔を出す。
「全員、飲み物来た?」
「団長、もう乾杯しましたよ」
「聞こえた。よかった」
直人は笑い、空いているところへ座った。
「今日はもう、集合時間の話はしない?」
「必要ならするけど」
「しないで」
大地が即座に言い、みんなが笑った。
直人もジョッキを持ち上げる。
「じゃあ、それは次の練習で」
*
焼き鳥の皿が来ると、卓上が急に忙しくなった。
取り皿を渡す手と、串を選ぶ手が行き交う。中野さんは美里さんへ皿を寄せ、自分も一本取った。
「熱いうちにね」
美里さんがひと口食べた。
それからワインを飲み、手元の串へ、もう一度目を落とす。
「……合いますね、これ」
声が少し弾んだ。
中野さんが嬉しそうに笑う。
「でしょう」
「焼き鳥でワインって、あまりしたことがなくて」
「次は、こっちも食べてみて」
美里さんはうなずき、勧められた皿へ手を伸ばした。
練習中、何度も譜面とペダルを確かめていた人が、今は一本ずつ焼き鳥を味わっている。それを見るだけで、私まで少し嬉しくなった。音を出している時とは違う表情を知るたび、今日ここへ来てよかったと思う。
「美里さん、ハープの教室をされてるんですよね」
尋ねると、美里さんが顔を上げた。
「はい。アイリッシュハープの教室を」
「今日のハープより、小さいんですよね」
「ずっと小さいです。初めて楽器に触る方もいらっしゃるんですよ」
「大人になってから?」
「ええ。前から弾いてみたかった、って」
美里さんはグラスを置いた。
「最初に音が出ると、皆さん、すごくいい顔をされるんです。それを見るのが好きで」
私は、舞台で最初に聞いたハープの音を思い出した。
弦へ指が触れ、澄んだ音が立ち上がった時、しばらく自分の席へ行くのを忘れていた。あの音を聞けたことを、今こうして本人に話せるのが不思議だった。
「わかる気がします」
「未央ちゃんも、今日、いい顔してたよ」
中野さんに言われ、私は箸を止めた。
「見えてました?」
「見えてた。こっち見てるなあって」
「先生にも言われました」
「見惚れて遅れないように、ですね」
樹が横から付け加える。
「樹も一緒だったでしょう」
「はい。二台あると、見ちゃいますよね」
中野さんが声を上げて笑った。
美里さんも笑い、私は照れながら、皿に残っていた串を取った。笑われているのに嫌ではなかった。こうして見られていたことさえ、仲間の中に自分の居場所がある証のように思えた。
「でも、嬉しいです。普段はピアノで練習されてるんですよね」
「はい。今日、やっと二台と合わせられて」
「私たちも、今日初めてですからね」
美里さんが中野さんを見る。
中野さんは、口の中のものを飲み込んでから答えた。
「次は、今日より話が早いよね」
「はい。今日の書き込み、忘れないうちに整理します」
「私も。明日見て、自分でわからなくならないように」
「それ、あります」
潤が言った。
中野さんが、すぐに彼へ顔を向ける。
「潤くんでもある?」
「急いで書いた時は」
「よかった。私だけじゃないのね」
隣で潤が笑った。
その笑いがすぐそばで響き、私は一瞬だけ彼のほうを見た。舞台の上では頼もしく見える横顔が、ここでは少し幼く、気を抜いているように見えた。
私はその横顔を見てから、自分の取り皿へ目を戻した。見ていたことに気づかれたくないような、でももう少し見ていたいような、曖昧な気持ちが残った。
*
焼き鳥の皿が少しずつ空く頃、中野さんが壁を見上げた。
「さて。お寿司もお願いしようか」
「まだ食べますか」
宮田さんが尋ねると、中野さんは当然のようにうなずいた。
「食べるよ。今日はいっぱい弾いたもの」
「じゃあ、僕も」
「あなたもいっぱい吹いたでしょう」
大地がまた鉛筆を持った。
鮭、イカ、マグロ、海老、ホタテ、北寄貝、たこ。軍艦はいくらととびっこ。声が重なるたび、紙の上に短い線が増えていく。
「未央、何にする?」
潤が尋ねた。
私は壁の品書きと、まだ少し残っている焼き鳥を見比べた。
「ホタテ。あと、とびっこ」
「二つでいい?」
「……鮭も」
潤が大地へ注文を伝えた。
自分の分を足してから、こちらへ顔を戻す。
「まだ入る?」
「入ると思う」
「思う、か」
「お寿司が来たら、きっと入る」
彼が笑った。
その笑顔に押されるように、私も笑う。こうして何気なく食べたいものを聞かれることが、思っていたより嬉しかった。特別なことではないのに、私のことをちゃんと見てくれているように感じる。
向かいで、中野さんが美里さんにも寿司を勧めている。美里さんは少し考え、ホタテと北寄貝を頼んだ。
マスターが注文の紙を受け取る。
「今日はずいぶん握るな」
「お願いします」
いくつもの声が重なった。
焼き台のほうへ一度目をやってから、マスターは手を洗い、寿司を握り始めた。
私はその手元を、席から眺めた。
さっきまで弓や楽器を持っていた手が、今はジョッキや串を持っている。隣の潤は、大地に何か聞かれ、皿を少し寄せながら答えていた。肩が近いせいか、彼が動くたびに服の袖が視界の端で揺れる。その小さな動きまで気になってしまい、私は慌ててマスターの手元へ視線を戻した。
寿司の皿が来ると、中野さんが「きれい」と言った。
赤や白の握りの横に、いくらととびっこの軍艦が並んでいる。私は自分の注文したものを確かめ、ホタテを取った。
「入った?」
潤が小声で尋ねる。
口の中にまだホタテがあったので、私はうなずいた。
彼は笑い、私の取り皿へ、とびっこの軍艦を一つ置いた。
その手が皿の近くまで伸びてきたことに、胸の奥がわずかに跳ねた。触れたわけでもないのに、距離が急に近くなったように感じる。私は何でもない顔で軍艦を見つめた。
向こうでは、直人が美里さんへ本番の日の話をしていた。中野さんは宮田さんと、ジュニアオケの誰かの近況を話している。樹が大地へ空いた皿を渡し、また焼き鳥の注文が増えた。
私は軍艦を箸で持ち上げた。
海苔の端へこぼれそうな粒を見ていると、隣から潤の声がした。
「来てよかったね」
「うん」
短い返事だったけれど、言葉にしなくても伝わるものがある気がした。みんなの声が重なり、笑いが途切れず続いている。その中で潤と同じ時間を過ごしていることが、いつもより静かに、けれど確かに嬉しかった。
彼も自分の皿から寿司を取った。
私はとびっこを口へ運び、ぷちぷちした歯触りを楽しみながら、みんなの話の続きを聞いた。隣にいる潤の気配を意識しながら、それを悟られないように、少しだけ背筋を伸ばした。
*
最後に頼んだ焼き鳥がなくなる頃、直人が腕時計を見た。
「そろそろ、帰る人は帰ったほうがいいね」
それでも、すぐには誰も立たなかった。
大地が残っていた一本を取り、宮田さんがジョッキを空ける。私は皿の隅に残った生姜を箸で寄せた。
「美里さん、帰りはどちらですか」
直人が尋ねた。
美里さんが駅の名前を答えると、同じ方向だという声が、奥の席から上がった。
「じゃあ、ご一緒してもいいですか」
「もちろんです」
中野さんは鞄からスマートフォンを出した。
「私は、ここでタクシー呼ぶね」
「駅まで歩かれます?」
「今日はもう、いっぱい働いたから」
そう言って笑い、画面へ目を落とす。
美里さんが空いたワイングラスを卓上の奥へ寄せた。
「おいしかったです」
「また来ようね」
「はい。次は、今日食べてないものも」
「いいねえ。楽しみが残った」
私もグラスを置いた。
もう入らないと思っていたのに、寿司は三つとも食べてしまった。温まった身体の内側へ、眠気がゆっくり沈んでくる。
「未央、大丈夫?」
「うん。お腹いっぱい」
「見ればわかる」
「そんな顔してる?」
「満足そう」
潤に言われて、私は口元を引き締めた。
その動きまで見ていたように、彼はまた笑った。
*
会計を始めると、卓上へ財布がいくつも出てきた。
「今日、いくら?」
「ちょっと待って。今、聞いてくる」
大地がカウンターへ向かい、直人が人数を数えた。小銭を持っている人を探す声と、誰がいくら出したかを確かめる声が重なる。
潤が財布を開いたので、私も鞄から自分の財布を出した。
「私、細かいのあるよ」
「いくら?」
「待ってね」
硬貨を手のひらへ出す。指先で一枚ずつ分けていると、さっきまで弓を握っていた右手の付け根が、遅れて重くなった。
必要な額を揃えて直人へ渡すと、彼が「ありがとう」と受け取った。
その向こうで、中野さんが自分と美里さんの分を確かめていた。
美里さんも財布を出し、中野さんと何か話している。大地が戻ってくると、もう一度だけ金額を確かめ、それからみんなの顔を見た。
「大丈夫です。集まりました」
「お釣り、もらってない人いない?」
直人の声に、あちこちでうなずく。
「忘れ物もね。譜面と鉛筆、特に」
「ここでも言うんですね」
「明日、困るでしょう」
樹が笑いながら、足元の鞄を開けた。
私も自分の荷物を確かめる。鞄の中にはスコアがあり、椅子の脇にはヴァイオリンのケースが立っていた。
コートへ袖を通すと、右腕の重さがはっきりした。
潤は先に立ち、自分のチェロケースを背負っている。私は襟を直し、椅子を戻してからケースの取っ手を握った。
持ち上げた瞬間、肩から腕へ重みが落ちてくる。
朝、搬入口で持ち直した時より、少し深く身体に食い込んだ。中身が増えたわけではないのに、今日一日の音まで詰まっているようだった。
「ごちそうさまでした」
カウンターへ声を掛けると、マスターが顔を上げた。
「おう。しっかり食べたな」
「おいしかったです」
「またおいで。本番、頑張れよ」
「はい」
私たちの返事に、中野さんの明るい声が重なった。
「私たちも頑張ってきます」
「頼もしいな。学生たち、よろしく」
「こちらこそ、助けてもらってるのよ」
中野さんは笑い、マスターへ手を振った。




