↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
PR
27/42

野の風景(9)

 ケースへ楽器をしまっていると、客席から戻った美里さんが、中野さんへ話していた。


「弦の動き、よく聞こえてました」

「そう? こっちだと、もう少し欲しいかなって思っちゃうのよね」

「ハープも、ちゃんと届いてました。真ん中より、少し後ろで聴いていたんですけど」

「ありがとう。じゃあ、本番も慌てずに済む」


 中野さんは笑い、譜面を閉じた。


 私もケースの留め具を掛けた。

 舞台の上にいるあいだは、何度も不安になった。その音が客席では聞こえていたと知るだけで、まだ弾いてもいない次の音まで、少し変わる気がした。


「未央ちゃん、終わったあと、何かある?」


 中野さんに尋ねられた。


「今日は、片づけだけです」

「みんな、どこかでご飯食べるの?」

「よし乃に行く人もいると思います」


 中野さんの顔が、ぱっと明るくなった。


「あ、いいねえ。行く行く」

「まだ誰にも聞いてないですけど」

「じゃあ、聞こう。美里さんも、時間ある?」

「はい。ご一緒してもいいですか」

「もちろん。弾いたらお腹すいたでしょう」


 近くにいた宮田さんが、笑いながらこちらへ来た。


「よし乃ですか」

「そう。あなたも行く?」

「搬出が終わったら」

「じゃあ、それまで邪魔にならないところで待ってるね」


 中野さんは美里さんと、楽器の運び出しを確かめに行った。

 その後ろ姿を見送っていると、潤がチェロケースを背負って隣へ来た。


「未央も行く?」

「うん。潤は?」

「行く」


 私はケースを持ち上げた。


 舞台の端で、樹が譜面台を畳んでいる。奈緒と範子が忘れ物を確かめ、一年生たちは椅子を運んでいた。直人が搬出口のほうから戻り、沢村へ声を掛ける。私はその声の方向へ一度目をやり、空いた譜面台へ手を伸ばした。


 弓を持っていた手に、冷たい金属の感触が触れる。


 最後にもう一度、客席を見た。

 朝には広すぎると思った場所が、今は少しだけ近かった。


 そこには、もう誰もいなかった。

 けれど、さっきまで重なっていた音が、空席のあいだにまだ薄く残っている気がした。幻想の終わりに揃えた弓の止まり方も、牧神の旋律を待った息も、金管の響きの中で途切れなかった弦の動きも、すべてが静かな残響になって、客席の奥へ沈んでいく。


 朝は、広すぎて、自分の音がどこへ行くのかわからなかった。

 今は、音が消えたあとにも、聴いていたものが残ることを知っている。


 私は客席から目を離し、ケースを持ち直した。

 外へ出れば、もう夜の空気になっているだろう。一日のあいだに変わったのは、ホールの響きだけではなかった。私もまた、誰かの音を待ち、その音の中で自分の弓を動かせるようになっていた。


 譜面台を運ぶ音が、舞台の上で小さく鳴った。

 その音を聞きながら、私はみんなのあとを追った。


     *


よし乃の戸を開けると、焼けた脂とたれの匂いが、冷えた頬へ届いた。練習のあいだ張りつめていたものが、その匂いに触れた途端、少しだけほどける。


「こんばんは」


 先に入った宮田さんの声に、カウンターの向こうからマスターが顔を上げる。


「おう。今日はホールだったんだろ」

「はい。今、片づけ終わりました」

「お疲れさん。……まだ来るのか?」


 宮田さんの後ろから、中野さんが顔を出した。


「こんばんは。お腹すいたー」

「いらっしゃい。そりゃ、しっかり食べてもらわないとな」


 マスターが笑い、それから私たちを見た。


「珍しい顔もいるな」

「こんばんは」

「今日は二人も一緒か。奥、詰めてもらって」


 すでに座っていた大地が、手を上げた。樹もこちらを振り返る。


「あ、先輩たちも来たんですね」


 少し意外そうに言ってから、自分の鞄を引き寄せた。


「ここ、空けます」

「ありがとう」


 私は潤と並んで腰を下ろした。肩が触れそうで触れない距離だった。コートを脱ぐと、ようやく一日の長さが肩へ戻ってきた。暖かい店の中で、膝に置いた手の指がじんわりほどけていく。隣に潤がいることも、舞台の上で音を合わせていた時より近く感じられた。


 中野さんと美里さんは、向かいに座った。


「ここ、初めてなんです」


 美里さんが、壁の品書きを見上げた。

 中野さんはおしぼりで手を拭きながら、うなずく。


「じゃあ、まず焼き鳥ね」

「何がおすすめですか」

「一通り食べてみたら? みんなで分ければいいし」


「それがいいです」


 大地がすぐに賛成した。

 いつの間にか、注文をまとめるつもりで鉛筆を持っている。


「飲み物、どうします?」


 あちこちからビールの声が上がった。美里さんは品書きをもう少し見てから、静かに言った。


「私、ワインにしようかな」


 誰かの注文へ合わせた様子もなく、それが自然だった。自分の好きなものを迷わず選ぶ姿が、少し羨ましい気もした。

 マスターへ赤を頼んでから、私たちへ微笑む。


「今日は、ゆっくり飲みたいので」


 やがて運ばれてきたジョッキのあいだに、ワイングラスが一本置かれた。私も自分のグラスを持ち上げる。

 宮田さんが、みんなの顔を見回した。


「じゃあ、ホール練習、お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」


 重なった声は、さっきまでの舞台よりずっと近かった。舞台では一人ずつの音を追っていたのに、今は誰かの笑い声のすぐ隣に、別の人の相槌がある。そのまとまりの中へ、自分も自然に混ざっている気がした。

 グラスを置いたところで、奥の席から直人が顔を出す。


「全員、飲み物来た?」

「団長、もう乾杯しましたよ」

「聞こえた。よかった」


 直人は笑い、空いているところへ座った。


「今日はもう、集合時間の話はしない?」

「必要ならするけど」

「しないで」


 大地が即座に言い、みんなが笑った。

 直人もジョッキを持ち上げる。


「じゃあ、それは次の練習で」


     *


 焼き鳥の皿が来ると、卓上が急に忙しくなった。

 取り皿を渡す手と、串を選ぶ手が行き交う。中野さんは美里さんへ皿を寄せ、自分も一本取った。


「熱いうちにね」


 美里さんがひと口食べた。

 それからワインを飲み、手元の串へ、もう一度目を落とす。


「……合いますね、これ」


 声が少し弾んだ。

 中野さんが嬉しそうに笑う。


「でしょう」

「焼き鳥でワインって、あまりしたことがなくて」

「次は、こっちも食べてみて」


 美里さんはうなずき、勧められた皿へ手を伸ばした。

 練習中、何度も譜面とペダルを確かめていた人が、今は一本ずつ焼き鳥を味わっている。それを見るだけで、私まで少し嬉しくなった。音を出している時とは違う表情を知るたび、今日ここへ来てよかったと思う。


「美里さん、ハープの教室をされてるんですよね」


 尋ねると、美里さんが顔を上げた。


「はい。アイリッシュハープの教室を」

「今日のハープより、小さいんですよね」

「ずっと小さいです。初めて楽器に触る方もいらっしゃるんですよ」

「大人になってから?」

「ええ。前から弾いてみたかった、って」


 美里さんはグラスを置いた。


「最初に音が出ると、皆さん、すごくいい顔をされるんです。それを見るのが好きで」


 私は、舞台で最初に聞いたハープの音を思い出した。

 弦へ指が触れ、澄んだ音が立ち上がった時、しばらく自分の席へ行くのを忘れていた。あの音を聞けたことを、今こうして本人に話せるのが不思議だった。


「わかる気がします」

「未央ちゃんも、今日、いい顔してたよ」


 中野さんに言われ、私は箸を止めた。


「見えてました?」

「見えてた。こっち見てるなあって」

「先生にも言われました」

「見惚れて遅れないように、ですね」


 樹が横から付け加える。


「樹も一緒だったでしょう」

「はい。二台あると、見ちゃいますよね」


 中野さんが声を上げて笑った。

 美里さんも笑い、私は照れながら、皿に残っていた串を取った。笑われているのに嫌ではなかった。こうして見られていたことさえ、仲間の中に自分の居場所がある証のように思えた。


「でも、嬉しいです。普段はピアノで練習されてるんですよね」

「はい。今日、やっと二台と合わせられて」

「私たちも、今日初めてですからね」


 美里さんが中野さんを見る。

 中野さんは、口の中のものを飲み込んでから答えた。


「次は、今日より話が早いよね」

「はい。今日の書き込み、忘れないうちに整理します」

「私も。明日見て、自分でわからなくならないように」


「それ、あります」


 潤が言った。

 中野さんが、すぐに彼へ顔を向ける。


「潤くんでもある?」

「急いで書いた時は」

「よかった。私だけじゃないのね」


 隣で潤が笑った。

 その笑いがすぐそばで響き、私は一瞬だけ彼のほうを見た。舞台の上では頼もしく見える横顔が、ここでは少し幼く、気を抜いているように見えた。

 私はその横顔を見てから、自分の取り皿へ目を戻した。見ていたことに気づかれたくないような、でももう少し見ていたいような、曖昧な気持ちが残った。


     *


 焼き鳥の皿が少しずつ空く頃、中野さんが壁を見上げた。


「さて。お寿司もお願いしようか」


「まだ食べますか」


 宮田さんが尋ねると、中野さんは当然のようにうなずいた。


「食べるよ。今日はいっぱい弾いたもの」

「じゃあ、僕も」

「あなたもいっぱい吹いたでしょう」


 大地がまた鉛筆を持った。

 鮭、イカ、マグロ、海老、ホタテ、北寄貝、たこ。軍艦はいくらととびっこ。声が重なるたび、紙の上に短い線が増えていく。


「未央、何にする?」


 潤が尋ねた。

 私は壁の品書きと、まだ少し残っている焼き鳥を見比べた。


「ホタテ。あと、とびっこ」

「二つでいい?」

「……鮭も」


 潤が大地へ注文を伝えた。

 自分の分を足してから、こちらへ顔を戻す。


「まだ入る?」

「入ると思う」

「思う、か」

「お寿司が来たら、きっと入る」


 彼が笑った。

 その笑顔に押されるように、私も笑う。こうして何気なく食べたいものを聞かれることが、思っていたより嬉しかった。特別なことではないのに、私のことをちゃんと見てくれているように感じる。


 向かいで、中野さんが美里さんにも寿司を勧めている。美里さんは少し考え、ホタテと北寄貝を頼んだ。


 マスターが注文の紙を受け取る。


「今日はずいぶん握るな」

「お願いします」


 いくつもの声が重なった。

 焼き台のほうへ一度目をやってから、マスターは手を洗い、寿司を握り始めた。


 私はその手元を、席から眺めた。

 さっきまで弓や楽器を持っていた手が、今はジョッキや串を持っている。隣の潤は、大地に何か聞かれ、皿を少し寄せながら答えていた。肩が近いせいか、彼が動くたびに服の袖が視界の端で揺れる。その小さな動きまで気になってしまい、私は慌ててマスターの手元へ視線を戻した。


 寿司の皿が来ると、中野さんが「きれい」と言った。

 赤や白の握りの横に、いくらととびっこの軍艦が並んでいる。私は自分の注文したものを確かめ、ホタテを取った。


「入った?」


 潤が小声で尋ねる。


 口の中にまだホタテがあったので、私はうなずいた。

 彼は笑い、私の取り皿へ、とびっこの軍艦を一つ置いた。


 その手が皿の近くまで伸びてきたことに、胸の奥がわずかに跳ねた。触れたわけでもないのに、距離が急に近くなったように感じる。私は何でもない顔で軍艦を見つめた。


 向こうでは、直人が美里さんへ本番の日の話をしていた。中野さんは宮田さんと、ジュニアオケの誰かの近況を話している。樹が大地へ空いた皿を渡し、また焼き鳥の注文が増えた。


 私は軍艦を箸で持ち上げた。

 海苔の端へこぼれそうな粒を見ていると、隣から潤の声がした。


「来てよかったね」

「うん」


 短い返事だったけれど、言葉にしなくても伝わるものがある気がした。みんなの声が重なり、笑いが途切れず続いている。その中で潤と同じ時間を過ごしていることが、いつもより静かに、けれど確かに嬉しかった。


 彼も自分の皿から寿司を取った。

 私はとびっこを口へ運び、ぷちぷちした歯触りを楽しみながら、みんなの話の続きを聞いた。隣にいる潤の気配を意識しながら、それを悟られないように、少しだけ背筋を伸ばした。


     *


最後に頼んだ焼き鳥がなくなる頃、直人が腕時計を見た。


「そろそろ、帰る人は帰ったほうがいいね」


 それでも、すぐには誰も立たなかった。

 大地が残っていた一本を取り、宮田さんがジョッキを空ける。私は皿の隅に残った生姜を箸で寄せた。


「美里さん、帰りはどちらですか」


 直人が尋ねた。

 美里さんが駅の名前を答えると、同じ方向だという声が、奥の席から上がった。


「じゃあ、ご一緒してもいいですか」

「もちろんです」


 中野さんは鞄からスマートフォンを出した。


「私は、ここでタクシー呼ぶね」

「駅まで歩かれます?」

「今日はもう、いっぱい働いたから」


 そう言って笑い、画面へ目を落とす。

 美里さんが空いたワイングラスを卓上の奥へ寄せた。


「おいしかったです」

「また来ようね」

「はい。次は、今日食べてないものも」

「いいねえ。楽しみが残った」


 私もグラスを置いた。

 もう入らないと思っていたのに、寿司は三つとも食べてしまった。温まった身体の内側へ、眠気がゆっくり沈んでくる。


「未央、大丈夫?」

「うん。お腹いっぱい」

「見ればわかる」

「そんな顔してる?」

「満足そう」


 潤に言われて、私は口元を引き締めた。

 その動きまで見ていたように、彼はまた笑った。


     *


 会計を始めると、卓上へ財布がいくつも出てきた。


「今日、いくら?」

「ちょっと待って。今、聞いてくる」


 大地がカウンターへ向かい、直人が人数を数えた。小銭を持っている人を探す声と、誰がいくら出したかを確かめる声が重なる。

 潤が財布を開いたので、私も鞄から自分の財布を出した。


「私、細かいのあるよ」

「いくら?」

「待ってね」


 硬貨を手のひらへ出す。指先で一枚ずつ分けていると、さっきまで弓を握っていた右手の付け根が、遅れて重くなった。

 必要な額を揃えて直人へ渡すと、彼が「ありがとう」と受け取った。


 その向こうで、中野さんが自分と美里さんの分を確かめていた。

 美里さんも財布を出し、中野さんと何か話している。大地が戻ってくると、もう一度だけ金額を確かめ、それからみんなの顔を見た。


「大丈夫です。集まりました」

「お釣り、もらってない人いない?」


 直人の声に、あちこちでうなずく。


「忘れ物もね。譜面と鉛筆、特に」

「ここでも言うんですね」

「明日、困るでしょう」


 樹が笑いながら、足元の鞄を開けた。

 私も自分の荷物を確かめる。鞄の中にはスコアがあり、椅子の脇にはヴァイオリンのケースが立っていた。


 コートへ袖を通すと、右腕の重さがはっきりした。

 潤は先に立ち、自分のチェロケースを背負っている。私は襟を直し、椅子を戻してからケースの取っ手を握った。


 持ち上げた瞬間、肩から腕へ重みが落ちてくる。

 朝、搬入口で持ち直した時より、少し深く身体に食い込んだ。中身が増えたわけではないのに、今日一日の音まで詰まっているようだった。


「ごちそうさまでした」


 カウンターへ声を掛けると、マスターが顔を上げた。


「おう。しっかり食べたな」

「おいしかったです」

「またおいで。本番、頑張れよ」


「はい」


 私たちの返事に、中野さんの明るい声が重なった。


「私たちも頑張ってきます」

「頼もしいな。学生たち、よろしく」

「こちらこそ、助けてもらってるのよ」


 中野さんは笑い、マスターへ手を振った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。