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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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野の風景(10)

 外へ出ると、冷たい空気が頬を包んだ。

 私はコートの前を合わせた。店の中で温まっていた身体から、熱が一枚ずつ剥がれていく。耳の下を風が抜け、右手の指先が少し縮こまった。


 戸が開くたびに、話し声と暖かい匂いが漏れた。

 最後に大地が出てきて、後ろを振り返りながら、もう一度「ごちそうさまでした」と言った。


「じゃあ、駅へ行く人はこっち」


 直人が通りの先を指す。

 それでも、店先でまた話が始まった。次の練習までに確かめることを宮田さんへ尋ねる人がいて、樹は大地に、今度は何を頼もうかと話している。


 中野さんのタクシーが来るまで、私たちもそこにいた。

 ケースを足元へ置くと、腕が少し軽くなる。けれど、すぐに持ち上げることを思うと、肩の奥にはまだ重みが残っていた。


 やがて通りの向こうから車が近づき、中野さんが片手を上げる。


「じゃあ、お先に。今日はありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました」

「美里さん、またよろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 中野さんは私と潤を見た。


「二人とも、ちゃんと寝るのよ」

「はい」

「潤くん、譜面見て夜更かししない」

「気をつけます」

「未央ちゃんもね」

「私もですか」

「いっぱい弾いたんだから」


 返事をする前に、隣で潤が笑った。

 中野さんは満足そうにうなずき、タクシーへ乗り込んだ。窓の向こうで手が動く。私たちも手を振り、車を見送った。


 それを合図にしたように、みんなが歩き始めた。

 駅へ向かう人と、別の道へ帰る人が、少しずつ分かれていく。


「お疲れさま」

「またね」

「次、水曜ですよね」

「そう。遅れないでね」


 声が通りを行き交った。

 私と潤も、駅へ向かう人たちの後ろを歩いた。


 前では、美里さんが宮田さんと話している。店の中で話せなかった人が、今度は帰り道で隣になっていた。

 私は少し歩幅を緩めた。ケースが膝の横で揺れ、歩くたびに脚へ触れる。潤も、隣で同じくらいの速さになった。


「疲れた?」

「うん。でも、楽しかった」

「そうだね」


 ケースの取っ手が指に食い込む。

 持ち替えようとして、私は一度手を開いた。冷えた空気に触れた指先がじんとした。朝は軽く感じたケースが、今は腕の疲れをそのまま形にしたようだった。


 それでも、重さを嫌だとは思わなかった。

 中には楽器があり、今日弾いた時間があり、店の中に残してきた笑い声や音楽の気配が、まだ薄く響いている気がした。


「本番、楽しみだね」


 私が言うと、潤は前を見たままうなずいた。


「うん。今日の続きみたいに、弾けたらいいね」


 その言葉に、私は少しだけ笑った。

 疲れた身体の奥で、弦に触れる前のような静かな緊張がほどけずにいる。今日が終わる寂しさと、次の音を待つ気持ちが、ケースの重みと一緒に揺れていた。


 駅の明かりが近づいてくる。

 さっきまで一緒だった人たちの声が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。それでも、誰かの笑い声や「またね」という言葉が、夜の通りにしばらく残っていた。


 樹が振り返り、何か言おうとしている。私たちが顔を上げると、彼は駅の入口を指した。


「先輩、こっちです」


「わかってるよ」


 答えると、樹が笑った。

 階段の手前で、潤が私を先に通してくれる。私はケースを持ち直し、明るい駅の中へ下りていった。


     *


サ館の大練習室へ入ると、いつもの指揮台の前に、見慣れたヴァイオリンのケースが置かれていた。

 持ち主は、スコアを開いたまま譜面台の高さを調節している。少し上げ、構えてみて、また下げた。その背中へ樹が声を掛けた。


「ジョー、それ、さっきと同じ高さじゃない?」

「うん。さっきのでよかった」

「確認したんだ」

「確認した」


 樹が笑った。本人は真面目な顔で、調節ねじを締めている。


 二年生の皆藤譲。みんなはジョーと呼んでいる。来年、潤のあとを継いで弦の学生指揮を務めることになっていた。

 パート練習でも、気になるところをそのままにはしておかない子だ。質問はいつも具体的で、答えを聞くと丁寧に譜面へ書く。ただ、ときどき、冗談なのかどうか判断に迷うことを、同じ真面目な顔で言う。


「今日は、よろしくね」


 私が声を掛けると、ジョーは振り返った。


「よろしくお願いします。時間内に終わるようにします」

「そこが目標?」

「そこも目標です」


 今度は、私も笑った。


 ジョーはスコアの隅へ目を落とし、鉛筆で何かを書き足した。練習する箇所を並べた紙が、その横に挟んである。いくつかの項目には、すでに細い線が引かれていた。線を引くたび、次に何をすればいいのかを確かめているようだった。


 今日は、本番前最後の弦分奏だった。

 前半をジョーが振り、後半には直人も来てくれる。潤はチェロの席に座り、里枝と譜面を見比べていた。


 ケースを開け、楽器を取り出す。

 ホールで聴いた響きを思い出しながら開放弦を鳴らすと、音はすぐに壁から返ってきた。近い。いつもの部屋なのに、今日はその近さが少し窮屈だった。


 隣で樹が弓の毛を確かめている。

 奈緒は範子へ何かを説明し、二人で同じ箇所を指していた。後ろの列から椅子を引く音がして、美帆がヴィオラを膝へ乗せる。ドミトリーはコントラバスのそばで、スコアとパート譜を広げていた。


 譜面の書き込みが、ずいぶん増えた。

 夏合宿で書いたものに、全練の指示が重なり、その横へホールで気づいたことを足している。意味のわからなくなった線を一本消してから、私は今日使うページを開いた。


     *


「幻想の三楽章からお願いします」


 ジョーが言った。

 部屋の中の話し声が収まり、最後に動いていた弓も止まる。


「管がいないので、休みのところは僕を見てください。入る前は、わかるように出します」


 言い終えたあと、ジョーは一度だけスコアへ目を落とした。けれど、すぐに顔を上げ、チェロのほうへ目を向けた。

 潤がうなずく。ジョーは肩を一度下ろし、両手を上げた。


 振り始める前に、みんなを見る。

 前の列だけでなく、後ろの列まで目が行ってから、手が動いた。


 弓を置く。

 管の旋律が聞こえない場所で、自分たちの音だけが続いていく。全練ではほかの楽器を聴いていた小節に、今日は弦の細かな動きがあった。内側からヴィオラの音が聞こえ、チェロがそれを受ける。私は譜面を追いながら、次に自分たちが入る場所を待った。


 ジョーの手が、少し早くこちらへ向いた。

 私は息を吸い、弓を動かす。


 その先で、彼が止めた。


「すみません。今、入るところ、早かったです」

「私たちが?」

「僕の合図が」


 ジョーはスコアを指でたどった。いつものようにすぐ書き込もうとしたが、鉛筆を持ったまま、少し止まる。


「ここは、まだ待ってもらうつもりでした。でも、先に見たので」

「見られたら、入ると思うよ」


 奈緒が言うと、ジョーはうなずいた。


「はい。今、わかりました。見るだけのつもりでも、手が動いたら合図になります」


 樹が譜面へ顔を伏せた。

 笑っているのが、肩でわかった。


 潤が弓を膝へ置いた。


「先に見ておくのはいいと思う。そこから、いつ入ってほしいのかがわかれば」

「見るだけの時と、入る時ですね」

「うん。手前から、もう一度やってみよう」


 ジョーはうなずき、今度はスコアを閉じたまま顔を上げた。

 こちらを見ても、すぐには手を動かさない。私も弓を置いたまま待つ。彼の目が、私たちの構えだけでなく、チェロやヴィオラの動きまで追っているのがわかった。


 手が上がる前に、その先へ向かう息があった。


 入れた。


 隣の樹の弓も、同じところから動いた。後ろの音が続いてくる。ジョーは今度、合図を出したあとも手を急がせなかった。私たちの音が立ち上がるのを確かめるように、流れを受けて先へ振った。


 弾き終えると、彼が小さく息を吐いた。

 さっきのようにすぐ止めるのではなく、最後の音が消えるまで手を保っていた。


「今ので、お願いします」

「ジョーも、今のでね」


 奈緒に言われ、彼は真面目にうなずいた。


「はい。今の合図を覚えておきます」


 今度は樹が、声を出して笑った。


     *


 次に弾いたところでは、ジョーはしばらく何も言わなかった。

 止めてから、スコアと私たちを交互に見ている。けれど、さっきのように迷ったまま視線をさまよわせるのではなく、音の残っている場所を探すように、低い弦へ目を向けた。


「どこ?」


 樹が尋ねた。


「最後のところ」

「揃わなかった?」

「揃ってはいたと思う。でも、その前で、少し小さくなった」


 私は譜面へ目を落とした。

 音を終える場所は覚えている。その手前で弓を残そうとして、思ったより早く動きを抑えたのかもしれない。


「ヴァイオリン?」

「ヴァイオリンも。ヴィオラも、少し」


 美帆が弓を持ち上げ、さっき使ったあたりを見た。


「終わりが気になっちゃったかも」

「僕も、終わりを見せすぎたかもしれません」


 ジョーは自分の手を見た。

 それから、低い弦へ顔を向ける。今度は、考えを整理するように一度息を吸ってから言った。


「チェロとバス、そこだけ聴かせてもらっていいですか」


 潤が楽器を構え直し、ドミトリーが譜面をめくった。

 低い音が重なる。私たちが弓を止める手前にも、まだ動いている音があった。


 ジョーは、その音が終わるまで手を下ろさなかった。

 音を聴きながら、指揮棒のない両手をわずかに動かしている。終わりを示すためではなく、続いているものを受け取るための動きだった。


「そこ、上も聴いてもらえますか」


 私はうなずいた。

 今度は、自分の最後の音だけを目指さずに弾いた。弓を返したあとも、下で続く動きが聞こえる。ジョーの手も、私たちを急かさず、その音の流れを待っていた。そこへ弓の速さを合わせると、終わりの手前を急に狭くしなくて済んだ。


 全員の音が止まった。

 ジョーはすぐには手を下ろさなかった。残響が消え、誰も次の音を出さないことを確かめてから、ゆっくり手を下ろした。


「今の、いいと思います」


 その声には、さっきより迷いがなかった。

 自分の考えを押し通したというより、みんなの音を聴いたうえで、ここだと決めた声だった。


 樹が鉛筆を取る。

 奈緒も何かを書き、範子がその譜面を覗いた。私は弓の使い方を短く書き足してから、ジョーへ目を戻した。


 毎週、同じ列に座って弾いている子だった。

 その子が前に立つと、私の気づかなかったところを聴いていたことがわかる。普段、弓の先や横顔しか見えない場所から、彼にも違う音が届いていたのだ。

 そして今は、届いた音に戸惑うだけでなく、どの音を受け、どこで次へ渡すのかを、少しずつ自分で選び始めている。


「あと、二箇所です」


 ジョーが紙を確かめた。

 鉛筆を持つ手は、最初より速かった。書くべきことが決まっているからではなく、聴いたことを逃さないうちに残そうとしているように見えた。


「予定どおり?」

「今のところは」

「よかったね」

「まだ、喜ぶには早いです」


 そう言いながら、ジョーの口元はほんの少し緩んでいた。


 樹が、今度は私のほうを見た。

 私は笑いをこらえながら、次のページを開いた。


     *


 休憩に入る頃、廊下で足音がして、直人が戸を開けた。

 肩には鞄を掛けている。楽器のケースは持っていなかった。


「ごめん、少し遅くなった」

「大丈夫。今、休憩」


 潤が答えると、直人は壁の時計を見た。


「お、予定どおり?」

「ジョーが、時間内に終えるのも目標だって」

「いい目標だね」


 私が言うと、ジョーはスコアを閉じながら顔を上げた。


「前半は終わりました」

「お疲れさま。どうだった?」

「振る前に考えてたのと、振ってみたのとで、違うところがありました」

「どこ?」

「たくさんです」


 直人が笑った。

 ジョーは笑わず、紙を一枚抜き取る。


「でも、聞きたいところは聴けました」


 少し間を置いてから、彼は続けた。


「最初は、合図を間違えないことばかり考えてました。でも、みんながどう弾いているかを聴かないと、次の合図も決められないんだと思います」


 その紙には、最初に並んでいた項目のほかに、小さな字がいくつも増えていた。

 合図の位置だけでなく、「待つ」「低音を聴く」「終わりを急がない」と書かれている。


 直人はジョーの隣へ立ち、差し出されたスコアを覗いた。


「それ、振る前には書いてなかったね」

「はい。振ってみて、必要だと思いました」

「じゃあ、今日聴いたことが、次の指揮に残るわけだ」

「残したいです」


 ジョーはそう言って、紙の端を指で押さえた。

 迷いを消すために書いていたはずの言葉が、今は、周囲の音を聴くための目印になっている。


 私は楽器を膝へ置いた。

 樹が立ち上がり、後ろの列へ何かを尋ねに行く。範子は奈緒のそばへ椅子を寄せ、さっきの箇所をもう一度確かめていた。


 来年は、この三人がヴァイオリンを引っ張っていく。

 そう思って眺めると、少し寂しかった。それでも、ジョーの紙に増えた書き込みや、範子が自分の弓で動きを試す姿を見ているうちに、その寂しさの隣へ、楽しみな気持ちも座った。


 ジョーは直人との話を終えると、部屋の中を見渡した。

 誰かの音を探すような目ではなく、もう一度みんなと音を作る場所を確かめる目だった。


「未央」


 顔を上げると、潤が水筒を持って立っていた。


「休憩、ちゃんと休んでる?」

「休んでるよ」

「ずっと譜面見てた」

「みんなを見てたの」


 潤は私の視線の先へ目をやった。

 ジョーが、さっきの箇所を樹に説明している。樹が弓を動かしてみせると、ジョーはすぐに答えを出さず、その音を最後まで聴いてからうなずいた。


 それから、潤は少し笑う。


「うん。そうだね」


 私は楽器を椅子へ置き、鞄から飲み物を取り出した。

 直人とジョーの声に、樹の声が加わった。奈緒が向こうから何かを言い、範子も顔を上げる。


 ひと口飲んで、私は背もたれへ身体を預けた。

 後半が始まるまで、もう少し、その声を聞いていたかった。


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