野の風景(10)
外へ出ると、冷たい空気が頬を包んだ。
私はコートの前を合わせた。店の中で温まっていた身体から、熱が一枚ずつ剥がれていく。耳の下を風が抜け、右手の指先が少し縮こまった。
戸が開くたびに、話し声と暖かい匂いが漏れた。
最後に大地が出てきて、後ろを振り返りながら、もう一度「ごちそうさまでした」と言った。
「じゃあ、駅へ行く人はこっち」
直人が通りの先を指す。
それでも、店先でまた話が始まった。次の練習までに確かめることを宮田さんへ尋ねる人がいて、樹は大地に、今度は何を頼もうかと話している。
中野さんのタクシーが来るまで、私たちもそこにいた。
ケースを足元へ置くと、腕が少し軽くなる。けれど、すぐに持ち上げることを思うと、肩の奥にはまだ重みが残っていた。
やがて通りの向こうから車が近づき、中野さんが片手を上げる。
「じゃあ、お先に。今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「美里さん、またよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
中野さんは私と潤を見た。
「二人とも、ちゃんと寝るのよ」
「はい」
「潤くん、譜面見て夜更かししない」
「気をつけます」
「未央ちゃんもね」
「私もですか」
「いっぱい弾いたんだから」
返事をする前に、隣で潤が笑った。
中野さんは満足そうにうなずき、タクシーへ乗り込んだ。窓の向こうで手が動く。私たちも手を振り、車を見送った。
それを合図にしたように、みんなが歩き始めた。
駅へ向かう人と、別の道へ帰る人が、少しずつ分かれていく。
「お疲れさま」
「またね」
「次、水曜ですよね」
「そう。遅れないでね」
声が通りを行き交った。
私と潤も、駅へ向かう人たちの後ろを歩いた。
前では、美里さんが宮田さんと話している。店の中で話せなかった人が、今度は帰り道で隣になっていた。
私は少し歩幅を緩めた。ケースが膝の横で揺れ、歩くたびに脚へ触れる。潤も、隣で同じくらいの速さになった。
「疲れた?」
「うん。でも、楽しかった」
「そうだね」
ケースの取っ手が指に食い込む。
持ち替えようとして、私は一度手を開いた。冷えた空気に触れた指先がじんとした。朝は軽く感じたケースが、今は腕の疲れをそのまま形にしたようだった。
それでも、重さを嫌だとは思わなかった。
中には楽器があり、今日弾いた時間があり、店の中に残してきた笑い声や音楽の気配が、まだ薄く響いている気がした。
「本番、楽しみだね」
私が言うと、潤は前を見たままうなずいた。
「うん。今日の続きみたいに、弾けたらいいね」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
疲れた身体の奥で、弦に触れる前のような静かな緊張がほどけずにいる。今日が終わる寂しさと、次の音を待つ気持ちが、ケースの重みと一緒に揺れていた。
駅の明かりが近づいてくる。
さっきまで一緒だった人たちの声が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。それでも、誰かの笑い声や「またね」という言葉が、夜の通りにしばらく残っていた。
樹が振り返り、何か言おうとしている。私たちが顔を上げると、彼は駅の入口を指した。
「先輩、こっちです」
「わかってるよ」
答えると、樹が笑った。
階段の手前で、潤が私を先に通してくれる。私はケースを持ち直し、明るい駅の中へ下りていった。
*
サ館の大練習室へ入ると、いつもの指揮台の前に、見慣れたヴァイオリンのケースが置かれていた。
持ち主は、スコアを開いたまま譜面台の高さを調節している。少し上げ、構えてみて、また下げた。その背中へ樹が声を掛けた。
「ジョー、それ、さっきと同じ高さじゃない?」
「うん。さっきのでよかった」
「確認したんだ」
「確認した」
樹が笑った。本人は真面目な顔で、調節ねじを締めている。
二年生の皆藤譲。みんなはジョーと呼んでいる。来年、潤のあとを継いで弦の学生指揮を務めることになっていた。
パート練習でも、気になるところをそのままにはしておかない子だ。質問はいつも具体的で、答えを聞くと丁寧に譜面へ書く。ただ、ときどき、冗談なのかどうか判断に迷うことを、同じ真面目な顔で言う。
「今日は、よろしくね」
私が声を掛けると、ジョーは振り返った。
「よろしくお願いします。時間内に終わるようにします」
「そこが目標?」
「そこも目標です」
今度は、私も笑った。
ジョーはスコアの隅へ目を落とし、鉛筆で何かを書き足した。練習する箇所を並べた紙が、その横に挟んである。いくつかの項目には、すでに細い線が引かれていた。線を引くたび、次に何をすればいいのかを確かめているようだった。
今日は、本番前最後の弦分奏だった。
前半をジョーが振り、後半には直人も来てくれる。潤はチェロの席に座り、里枝と譜面を見比べていた。
ケースを開け、楽器を取り出す。
ホールで聴いた響きを思い出しながら開放弦を鳴らすと、音はすぐに壁から返ってきた。近い。いつもの部屋なのに、今日はその近さが少し窮屈だった。
隣で樹が弓の毛を確かめている。
奈緒は範子へ何かを説明し、二人で同じ箇所を指していた。後ろの列から椅子を引く音がして、美帆がヴィオラを膝へ乗せる。ドミトリーはコントラバスのそばで、スコアとパート譜を広げていた。
譜面の書き込みが、ずいぶん増えた。
夏合宿で書いたものに、全練の指示が重なり、その横へホールで気づいたことを足している。意味のわからなくなった線を一本消してから、私は今日使うページを開いた。
*
「幻想の三楽章からお願いします」
ジョーが言った。
部屋の中の話し声が収まり、最後に動いていた弓も止まる。
「管がいないので、休みのところは僕を見てください。入る前は、わかるように出します」
言い終えたあと、ジョーは一度だけスコアへ目を落とした。けれど、すぐに顔を上げ、チェロのほうへ目を向けた。
潤がうなずく。ジョーは肩を一度下ろし、両手を上げた。
振り始める前に、みんなを見る。
前の列だけでなく、後ろの列まで目が行ってから、手が動いた。
弓を置く。
管の旋律が聞こえない場所で、自分たちの音だけが続いていく。全練ではほかの楽器を聴いていた小節に、今日は弦の細かな動きがあった。内側からヴィオラの音が聞こえ、チェロがそれを受ける。私は譜面を追いながら、次に自分たちが入る場所を待った。
ジョーの手が、少し早くこちらへ向いた。
私は息を吸い、弓を動かす。
その先で、彼が止めた。
「すみません。今、入るところ、早かったです」
「私たちが?」
「僕の合図が」
ジョーはスコアを指でたどった。いつものようにすぐ書き込もうとしたが、鉛筆を持ったまま、少し止まる。
「ここは、まだ待ってもらうつもりでした。でも、先に見たので」
「見られたら、入ると思うよ」
奈緒が言うと、ジョーはうなずいた。
「はい。今、わかりました。見るだけのつもりでも、手が動いたら合図になります」
樹が譜面へ顔を伏せた。
笑っているのが、肩でわかった。
潤が弓を膝へ置いた。
「先に見ておくのはいいと思う。そこから、いつ入ってほしいのかがわかれば」
「見るだけの時と、入る時ですね」
「うん。手前から、もう一度やってみよう」
ジョーはうなずき、今度はスコアを閉じたまま顔を上げた。
こちらを見ても、すぐには手を動かさない。私も弓を置いたまま待つ。彼の目が、私たちの構えだけでなく、チェロやヴィオラの動きまで追っているのがわかった。
手が上がる前に、その先へ向かう息があった。
入れた。
隣の樹の弓も、同じところから動いた。後ろの音が続いてくる。ジョーは今度、合図を出したあとも手を急がせなかった。私たちの音が立ち上がるのを確かめるように、流れを受けて先へ振った。
弾き終えると、彼が小さく息を吐いた。
さっきのようにすぐ止めるのではなく、最後の音が消えるまで手を保っていた。
「今ので、お願いします」
「ジョーも、今のでね」
奈緒に言われ、彼は真面目にうなずいた。
「はい。今の合図を覚えておきます」
今度は樹が、声を出して笑った。
*
次に弾いたところでは、ジョーはしばらく何も言わなかった。
止めてから、スコアと私たちを交互に見ている。けれど、さっきのように迷ったまま視線をさまよわせるのではなく、音の残っている場所を探すように、低い弦へ目を向けた。
「どこ?」
樹が尋ねた。
「最後のところ」
「揃わなかった?」
「揃ってはいたと思う。でも、その前で、少し小さくなった」
私は譜面へ目を落とした。
音を終える場所は覚えている。その手前で弓を残そうとして、思ったより早く動きを抑えたのかもしれない。
「ヴァイオリン?」
「ヴァイオリンも。ヴィオラも、少し」
美帆が弓を持ち上げ、さっき使ったあたりを見た。
「終わりが気になっちゃったかも」
「僕も、終わりを見せすぎたかもしれません」
ジョーは自分の手を見た。
それから、低い弦へ顔を向ける。今度は、考えを整理するように一度息を吸ってから言った。
「チェロとバス、そこだけ聴かせてもらっていいですか」
潤が楽器を構え直し、ドミトリーが譜面をめくった。
低い音が重なる。私たちが弓を止める手前にも、まだ動いている音があった。
ジョーは、その音が終わるまで手を下ろさなかった。
音を聴きながら、指揮棒のない両手をわずかに動かしている。終わりを示すためではなく、続いているものを受け取るための動きだった。
「そこ、上も聴いてもらえますか」
私はうなずいた。
今度は、自分の最後の音だけを目指さずに弾いた。弓を返したあとも、下で続く動きが聞こえる。ジョーの手も、私たちを急かさず、その音の流れを待っていた。そこへ弓の速さを合わせると、終わりの手前を急に狭くしなくて済んだ。
全員の音が止まった。
ジョーはすぐには手を下ろさなかった。残響が消え、誰も次の音を出さないことを確かめてから、ゆっくり手を下ろした。
「今の、いいと思います」
その声には、さっきより迷いがなかった。
自分の考えを押し通したというより、みんなの音を聴いたうえで、ここだと決めた声だった。
樹が鉛筆を取る。
奈緒も何かを書き、範子がその譜面を覗いた。私は弓の使い方を短く書き足してから、ジョーへ目を戻した。
毎週、同じ列に座って弾いている子だった。
その子が前に立つと、私の気づかなかったところを聴いていたことがわかる。普段、弓の先や横顔しか見えない場所から、彼にも違う音が届いていたのだ。
そして今は、届いた音に戸惑うだけでなく、どの音を受け、どこで次へ渡すのかを、少しずつ自分で選び始めている。
「あと、二箇所です」
ジョーが紙を確かめた。
鉛筆を持つ手は、最初より速かった。書くべきことが決まっているからではなく、聴いたことを逃さないうちに残そうとしているように見えた。
「予定どおり?」
「今のところは」
「よかったね」
「まだ、喜ぶには早いです」
そう言いながら、ジョーの口元はほんの少し緩んでいた。
樹が、今度は私のほうを見た。
私は笑いをこらえながら、次のページを開いた。
*
休憩に入る頃、廊下で足音がして、直人が戸を開けた。
肩には鞄を掛けている。楽器のケースは持っていなかった。
「ごめん、少し遅くなった」
「大丈夫。今、休憩」
潤が答えると、直人は壁の時計を見た。
「お、予定どおり?」
「ジョーが、時間内に終えるのも目標だって」
「いい目標だね」
私が言うと、ジョーはスコアを閉じながら顔を上げた。
「前半は終わりました」
「お疲れさま。どうだった?」
「振る前に考えてたのと、振ってみたのとで、違うところがありました」
「どこ?」
「たくさんです」
直人が笑った。
ジョーは笑わず、紙を一枚抜き取る。
「でも、聞きたいところは聴けました」
少し間を置いてから、彼は続けた。
「最初は、合図を間違えないことばかり考えてました。でも、みんながどう弾いているかを聴かないと、次の合図も決められないんだと思います」
その紙には、最初に並んでいた項目のほかに、小さな字がいくつも増えていた。
合図の位置だけでなく、「待つ」「低音を聴く」「終わりを急がない」と書かれている。
直人はジョーの隣へ立ち、差し出されたスコアを覗いた。
「それ、振る前には書いてなかったね」
「はい。振ってみて、必要だと思いました」
「じゃあ、今日聴いたことが、次の指揮に残るわけだ」
「残したいです」
ジョーはそう言って、紙の端を指で押さえた。
迷いを消すために書いていたはずの言葉が、今は、周囲の音を聴くための目印になっている。
私は楽器を膝へ置いた。
樹が立ち上がり、後ろの列へ何かを尋ねに行く。範子は奈緒のそばへ椅子を寄せ、さっきの箇所をもう一度確かめていた。
来年は、この三人がヴァイオリンを引っ張っていく。
そう思って眺めると、少し寂しかった。それでも、ジョーの紙に増えた書き込みや、範子が自分の弓で動きを試す姿を見ているうちに、その寂しさの隣へ、楽しみな気持ちも座った。
ジョーは直人との話を終えると、部屋の中を見渡した。
誰かの音を探すような目ではなく、もう一度みんなと音を作る場所を確かめる目だった。
「未央」
顔を上げると、潤が水筒を持って立っていた。
「休憩、ちゃんと休んでる?」
「休んでるよ」
「ずっと譜面見てた」
「みんなを見てたの」
潤は私の視線の先へ目をやった。
ジョーが、さっきの箇所を樹に説明している。樹が弓を動かしてみせると、ジョーはすぐに答えを出さず、その音を最後まで聴いてからうなずいた。
それから、潤は少し笑う。
「うん。そうだね」
私は楽器を椅子へ置き、鞄から飲み物を取り出した。
直人とジョーの声に、樹の声が加わった。奈緒が向こうから何かを言い、範子も顔を上げる。
ひと口飲んで、私は背もたれへ身体を預けた。
後半が始まるまで、もう少し、その声を聞いていたかった。




