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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第三章 野の風景
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野の風景(11)

 直人は指揮台へ上がると、スコアを開き、私たちを見回した。

 ジョーはもう自分の席へ戻っている。ヴァイオリンを膝へ乗せたまま、さっき使っていた紙を譜面台の端へ挟んだ。


「後半は、牧神とレプレを中心に。ホールで先生に言われたところ、弦だけでも確かめておこう」


 直人がページをめくる。


「弓のことで困ったら、未央と奈緒、よろしく」

「はい」

「困らせないでね」


 奈緒が言うと、直人は笑った。


「できるだけ」


 私は楽器を構え直した。

 潤もチェロの席で弓を上げる。直人はそれを確かめてから、牧神の途中を指定した。


「ここ、管の旋律を思い出しながらお願いします。僕も、なるべく邪魔しないように振るので」


 手が上がった。

 その前に、直人が息を吸った。


 私も自然に息を吸い、弓を置いた。

 音が重なる。管のいない部屋で、ホールで聴いた遥の旋律を思い出そうとした。けれど、自分たちの音が始まると、思い出していたはずの旋律は薄れ、譜面にある音符へ意識が戻っていく。


 直人が止めた。


「今、みんな、同じところで息を吸ったね」


 私は弓を下ろした。


「僕がそう振ったからなんだけど、そこ、全員で一度に始め直す必要はないと思う」


 直人はスコアの上で指を動かした。


「こっちは続いてる。その途中へ、こっちが入ってくる。入る人に合わせて、続いてる人まで仕切り直すと、旋律がそのたびに短くなるんだよね」


 奈緒が譜面を覗き、うなずいた。

 私は自分のパート譜を見た。弾き始めるところに、太い線を引いてある。その線を見るたび、自分の出番を強く意識していた。


「一度、入るところを気にしないで、先に弾いてるパートを聴いてみようか。自分の音が来たら、そこへ加わるくらいで」


 直人はヴィオラのほうを見た。


「美帆、手前からお願い」


 美帆が弓を置いた。

 その音を聴きながら、私は待った。譜面へ目を落とし、また上げる。直人の手は拍を示しているけれど、さっきほど大きくこちらを呼ばなかった。


 ヴィオラの音は、私たちの出番の手前でも続いていた。

 その先へ、自分の弓を置く。


 入る瞬間に、身体を構えすぎずに済んだ。隣の樹の音も近くにある。私たちが加わっても、美帆たちの音の行き先は変わらなかった。


 直人は少し先まで振り、それから止めた。


「うん。今のほうが、管も途中から入ってきやすいと思う」

「自分が入る時、全部始まるみたいに弾いてたかも」


 私が言うと、直人はうなずいた。


「そう聞こえる時がある。遥たちは、その前からずっと吹いてるから」

「待ってるあいだも、続いてるんだよね」

「うん。休符のあいだ、音楽まで休みにしないでいてくれると、嬉しい」


 私は太い線の横へ、短く「聴く」と書いた。


     *


 次の箇所では、直人は二度聴いてから、少し考えた。


「今の、もう少し先へ行ける?」


 樹が顔を上げた。


「速くですか」

「速さはそのままで」

「弓を増やす?」

「それも、今のままでいいと思う」


 樹は自分の弓を見た。

 直人も手元のスコアへ目を落とす。


「ごめん。弾くほうの言葉にすると、どう言えばいいんだろう」


 私は譜面を見ながら、さっきの弓の感触を思い返した。

 一音ずつは弾けている。けれど、音が変わるたび、その音を確かめてから次へ進んでいた。


「次の音を、もう少し早く考えておく感じかな」

「うん。それ、近いと思う」

「指を早く置く、とは違う?」

「そこは未央に聞いて」


 直人が即座に言い、樹が笑った。


「逃げた」

「弓と指のことは、君たちのほうが詳しいから」


 奈緒が弓を持ち上げた。


「一音ずつ、きれいに収めすぎてるのかも。音が変わっても、その先まで弓を動かしてるつもりで」

「でも、弓順は変えないでね」


 私が付け足すと、後ろの列で笑いが起こった。

 範子が自分の譜面へ何かを書き、ジョーが隣の子へ小声で確かめている。


 もう一度、直人の手が上がった。


 音を変える前から、その先を考えた。

 弓を返す場所は同じだった。それでも、返すたびに音を置き直していた時より、旋律が長く続いた。隣の樹の弓が視界の端で動き、その動きも、前よりゆったりして見えた。


 直人は止めずに振った。

 次の箇所へ入る手前で、左手がわずかに開く。私はその動きを見て、まだ先があることを思い出した。


 弾き終えると、直人が笑った。


「今の、吹いてる時に下で聞こえたら、嬉しいな」

「今日は吹いてないから、言いたい放題だね」


 奈緒が言う。


「今日は聴きに来たからね」


 直人はそう答え、次のページを開いた。


     *


 レプレでは、チェロとヴィオラを聴く時間が長くなった。

 私たちが休んでいる箇所で、潤たちの弓が動く。里枝は譜面から顔を上げ、直人の手を見ていた。美帆の後ろでも、同じ方向へ弓が返る。


 直人は一度止め、低い弦へ尋ねた。


「そこ、上が入ってきたら、弾き方が変わる?」

「少し、控えるかもしれない」


 潤が答えた。


「旋律が上へ行くから?」

「うん」

「でも、動いてるのは、まだこっちなんだよね」


 直人がスコアを示す。

 潤は自分の譜面を確かめ、うなずいた。


「残しておいたほうがいいか」

「一度、それで聴かせて」


 全員で戻った。

 下で動く音を聴いてから、私たちの旋律が入る。チェロの音は、そこで急に遠ざからなかった。


 弾きやすかった。

 自分たちで音楽を前へ運ぼうとしなくても、足元に続いているものがある。その上へ弓を置くと、音を大きくする前から、旋律に力があった。


 直人が少し先で止めた。


「未央、どう?」

「今のほうが、弾きやすい」

「潤は?」

「上を聴きながらでも、続けられると思う」

「じゃあ、それで。金管が入っても、今日の動きは覚えておいて」


 潤が鉛筆を取り、里枝も譜面へ書き込んだ。

 私は二人のほうを見てから、自分の譜面へ戻った。ホールでは大きな響きの中で探していた音が、今日は、誰のどんな動きだったのかまで見えていた。


     *


 最後に、直人は今日確かめた箇所を、少し長く続けて振った。

 途中で手を止めることはなかった。


 弓を動かしながら、隣だけでなく、内側や後ろから来る音を聴いた。直人の手が向く先へ目をやると、そこに次の音を待っている人がいる。

 自分の出番が終わっても、譜面から顔を上げたままでいられた。


 最後の音が消える。

 直人が手を下ろした。


「これで、弦だけの練習はおしまいです。お疲れさまでした」


 声が重なり、椅子が動いた。

 私は楽器を下ろしたまま、開いた譜面を見ていた。今日も、書き込みが増えている。


「次は、管も打楽器もいるからね」


 直人がスコアを閉じながら言った。


「今日できたからって、安心しすぎないように」

「安心したところだったのに」


 樹が言うと、直人は笑った。


「じゃあ、半分くらいにしておいて」


 ジョーが譜面台の端から紙を取った。


「それは、書いておきます」

「どれを?」

「安心は、半分」


 今度は直人が、声を出して笑った。

 奈緒も笑いながら弓を緩めている。範子がジョーの紙を覗こうとし、樹が「本当に書いた?」と身を乗り出した。


 私はケースを開けた。

 弦だけで弾くのは、今日が最後だ。次にこの旋律を弾く時には、遥の息があり、理沙の音があり、後ろから金管と打楽器が入ってくる。


 潤が、チェロを持ったままこちらを見た。

 目が合うと、少しだけうなずいた。私もうなずき、楽器をケースへ収める。


 さっきまで弾いていた旋律を、まだ耳の中でたどれた。

 そこへ管の音を思い浮かべると、今日みんなで確かめた弦の動きが、その下で静かに続いていた。


     *


譜面台を畳む音が、大練習室のあちこちで重なった。

 樹とジョーは椅子を運びながら、まださっきの話をしている。


「安心、半分って、来年も言う?」

「必要なら」

「毎回言われそうだな」

「毎回、全部安心されたら困るから」


 奈緒が笑い、範子へ鞄を渡した。

 私も笑いながら、ケースの留め具を掛けた。今日はもう弾かない。そう思って弓を見ると、毛を緩めたあとにも、指先へまだ弾いていた時の感触が残っていた。


 直人が指揮台の横で、床に落ちた消しゴムを拾った。


「これ、誰の?」

「あ、僕です」


 ジョーが戻ってきて受け取る。

 その横を、美帆がヴィオラのケースを背負って通った。


「未央、また水曜ね」

「うん。お疲れさま」


 戸が開く。

 廊下で別の人の声が重なり、美帆の返事が少し遠くなった。


 椅子が片づき、譜面台が壁際へ並ぶ。

 人が減るにつれて、部屋の奥が見えるようになった。さっきまで誰かの肩や弓に隠れていた壁が、何も掛かっていない広い面になっている。


 その壁の下に、細い黒い線が伸びていた。

 床と壁の境目にできた影だと思ったが、目を離すと、さっきより少しだけ長くなっているように見えた。


「未央、これも持っていく?」


 奈緒が、私のスコアを上げた。


「ありがとう。鞄に入れる」

「今日は、忘れ物なしで帰ろうね」

「私、そんなに忘れてないよ」

「わかってる。自分にも言ってるの」


 奈緒は譜面台の下をもう一度覗き、範子と一緒に出ていった。


 私はスコアを鞄へ収めた。

 潤はまだ、里枝とチェロの譜面を確かめている。里枝が鉛筆で印をつけ、何かを尋ねる。潤が短く答えると、彼女はうなずいて譜面を閉じた。


 その声を聞きながら、私は壁際へ最後の譜面台を運んだ。

 足を揃えて置く。金属が触れ合い、小さく鳴った。


 音が消えたあと、部屋の奥で、同じ高さの音がもう一度鳴った。

 誰かが片づけているのだろうと思い、私は振り返らなかった。


     *


 廊下へ出ると、窓の外はもう暗かった。

 ガラスには、ケースを持った私が映っている。その後ろで大練習室の灯りが消え、映った顔も暗くなった。


 潤が戸を閉めた。


「お待たせ」

「ううん」


 直人は先に事務室へ鍵を返しに行っていた。

 階段のほうから、樹の声が聞こえる。誰かに呼ばれて返事をし、また笑っていた。


 私と潤も、そちらへ歩き始めた。

 床を踏む音が、二人分、交互に続く。


 途中で、私たちの足音が一つだけ遅れて返ってきた。

 潤も気づいたのか、歩幅をわずかに狭めた。遅れた音は、それ以上続かなかった。


「直人に来てもらって、よかったね」

「うん」

「私たちだけだと、弓の話ばかりになっちゃう」

「それも必要だけどね」


 潤が言い、私はうなずいた。

 さっき、低い弦の音に支えられて弾いたところを思い出す。次の全練でも、あの動きを聞き取れたらいい。


 階下で玄関の戸が開いた。

 外の風が入ったのか、廊下の先で何かがかすかに鳴った。樹の声が一度大きくなり、戸が閉まると遠のいた。


 そのあとに、低い音がした。


 私は足を止めた。

 潤も、半歩先で止まった。


 どこかで、重いものを床に擦っている。

 短く動いて、止まる。続いて、硬いものが触れ合う音がした。


 ケースの取っ手を握り直した。

 さっきの譜面台の音とは違った。もっと下から、床を伝わってきた気がした。


「今の……」


 潤は答えず、階段のほうを見ていた。


 私はその横顔を見た。

 聞こえたのか、尋ねなくてもわかった。


 もう一度、擦る音がした。

 今度は少し長かった。廊下の端から端へ、見えないものがゆっくり移っていくように聞こえる。


 階段の下を、誰かが通った。

 鞄の金具が鳴り、足音が玄関へ向かう。


 けれど、廊下には誰も見えなかった。

 足音だけが、私たちの前を横切ったように消えた。


「まだ誰か、いるのかな」


 自分の声が、思ったより小さかった。

 潤は階段へ近づきかけ、それから私のそばへ戻った。


「一緒に下りよう」


 私はうなずいた。

 先に行って確かめるとは言わなかったことが、かえって気になった。


 階段の入口へ近づくと、下から冷たい空気が上がってきた。

 湿った空気に、かすかに金属の匂いが混じっている。潤が手すりへ触れた瞬間、下のほうで小さく何かが跳ねた。


 私たちは同時に、階段の下を見た。


 灯りの届かない先は、ただ黒く沈んでいた。


     *


 踊り場からは、玄関の灯りが見えた。

 直人が守衛のおじさんと話している。私たちに気づくと、顔を上げた。


「忘れ物、大丈夫?」

「うん」


 私は返事をし、最後の段を下りた。


 地下へ続く階段が、その脇にあった。

 そちらの灯りは、上から見えるところまでしかついていない。私は足元へ目を落としたまま、玄関へ向かった。


 背中のほうで、また硬い音がした。


 今度は、一つだけだった。


 振り返ると、潤も同じところを見ていた。

 直人が私たちの顔を見比べる。


「どうした?」

「今、下で音がした」


 潤が答えた。

 守衛のおじさんが、机から立ち上がった。


「下?」


 私も、うなずいた。


「何か、動かしてるみたいな音でした」

「今日はもう、地下の利用は終わってるよ」


 おじさんは鍵の束を取った。

 直人が一歩そちらへ向く。


「一緒に見ますか」

「いや、ここにいて」


 おじさんは地下階段の手前まで行き、下を覗いた。


「誰かいるかい」


 声が階段へ落ちた。


 私は返事を待った。

 片づけています、とか、すみません、とか。誰かが顔を上げ、こちらへ足音が近づいてくる気がした。


 何も聞こえなかった。


 おじさんはしばらくそのままでいた。

 鍵の束が手の中で一度鳴った。それから振り返り、私たちのほうへ戻ってきた。


「戸締まりの時に見ておくから。今日は、もう帰りなさい」


 直人がうなずいた。


「お願いします」

「何か聞こえたら、下へ行かずに、こっちへ声を掛けてね」


 私は「はい」と答えた。

 前にも、潤に同じことを言われていた。


 おじさんは私の顔を見てから、潤を見た。

 何かを尋ねかけるように口を開き、それから、玄関の戸へ目を向けた。


「気をつけて帰るんだよ」


     *


 直人が戸を押さえてくれた。

 私は礼を言い、外へ出た。


 冷たい風が、コートの裾を動かした。

 頭の上で木の枝が揺れ、乾いた葉が擦れ合っている。通りの向こうを自転車が走り、少し遅れてベルの音が聞こえた。


 直人はスマートフォンを見た。


「樹たち、まだ門のところにいるって」

「先に行ってて」


 潤が言うと、直人は一度私を見た。


「大丈夫?」

「うん。すぐ行く」

「じゃあ、待ってる」


 直人の足音が、通りへ向かって遠ざかった。


 私はサ館を振り返った。

 玄関の灯りの中に、守衛のおじさんの姿が見える。戸が閉まり、その姿はガラスの向こうになった。


 その背後で、地下階段の灯りが一度だけ明滅した。

 すぐに戻ったが、階段の下は相変わらず見えなかった。


「潤も、聞こえたんだね」


 彼はうなずいた。


「うん」


 それ以上、すぐには言葉が出なかった。

 何の音だったのかは、二人とも知らない。けれど、聞き違いだったと笑ってしまうことも、もうできなかった。


 潤が、私の空いているほうの手に触れた。

 私は顔を上げた。


「行こう」


 その声は、すぐ隣から聞こえた。

 私はうなずき、彼と一緒に歩き始めた。


 門の近くで、誰かがこちらへ手を上げた。

 私も手を上げかけたけれど、潤が握っていることに気づいて、そのままにした。


 後ろで、風が枝を鳴らした。


 私たちは、手をつないだまま歩いた。

 けれど、歩幅は最後まで揃わなかった。潤が合わせようとするたび、私は半歩遅れた。


 サ館のほうから、何かを呼ぶような音がした。

 声にはならず、低く擦れて、夜の空気にほどけていく。


 私は振り返らなかった。

 潤も、振り返らなかった。


 守衛のおじさんが下へ掛けた声を、私はまだ覚えていた。

 そのあとに来るはずだった返事の場所だけが、暗い階段の下に、空いたまま残っていた。


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