野の風景(11)
直人は指揮台へ上がると、スコアを開き、私たちを見回した。
ジョーはもう自分の席へ戻っている。ヴァイオリンを膝へ乗せたまま、さっき使っていた紙を譜面台の端へ挟んだ。
「後半は、牧神とレプレを中心に。ホールで先生に言われたところ、弦だけでも確かめておこう」
直人がページをめくる。
「弓のことで困ったら、未央と奈緒、よろしく」
「はい」
「困らせないでね」
奈緒が言うと、直人は笑った。
「できるだけ」
私は楽器を構え直した。
潤もチェロの席で弓を上げる。直人はそれを確かめてから、牧神の途中を指定した。
「ここ、管の旋律を思い出しながらお願いします。僕も、なるべく邪魔しないように振るので」
手が上がった。
その前に、直人が息を吸った。
私も自然に息を吸い、弓を置いた。
音が重なる。管のいない部屋で、ホールで聴いた遥の旋律を思い出そうとした。けれど、自分たちの音が始まると、思い出していたはずの旋律は薄れ、譜面にある音符へ意識が戻っていく。
直人が止めた。
「今、みんな、同じところで息を吸ったね」
私は弓を下ろした。
「僕がそう振ったからなんだけど、そこ、全員で一度に始め直す必要はないと思う」
直人はスコアの上で指を動かした。
「こっちは続いてる。その途中へ、こっちが入ってくる。入る人に合わせて、続いてる人まで仕切り直すと、旋律がそのたびに短くなるんだよね」
奈緒が譜面を覗き、うなずいた。
私は自分のパート譜を見た。弾き始めるところに、太い線を引いてある。その線を見るたび、自分の出番を強く意識していた。
「一度、入るところを気にしないで、先に弾いてるパートを聴いてみようか。自分の音が来たら、そこへ加わるくらいで」
直人はヴィオラのほうを見た。
「美帆、手前からお願い」
美帆が弓を置いた。
その音を聴きながら、私は待った。譜面へ目を落とし、また上げる。直人の手は拍を示しているけれど、さっきほど大きくこちらを呼ばなかった。
ヴィオラの音は、私たちの出番の手前でも続いていた。
その先へ、自分の弓を置く。
入る瞬間に、身体を構えすぎずに済んだ。隣の樹の音も近くにある。私たちが加わっても、美帆たちの音の行き先は変わらなかった。
直人は少し先まで振り、それから止めた。
「うん。今のほうが、管も途中から入ってきやすいと思う」
「自分が入る時、全部始まるみたいに弾いてたかも」
私が言うと、直人はうなずいた。
「そう聞こえる時がある。遥たちは、その前からずっと吹いてるから」
「待ってるあいだも、続いてるんだよね」
「うん。休符のあいだ、音楽まで休みにしないでいてくれると、嬉しい」
私は太い線の横へ、短く「聴く」と書いた。
*
次の箇所では、直人は二度聴いてから、少し考えた。
「今の、もう少し先へ行ける?」
樹が顔を上げた。
「速くですか」
「速さはそのままで」
「弓を増やす?」
「それも、今のままでいいと思う」
樹は自分の弓を見た。
直人も手元のスコアへ目を落とす。
「ごめん。弾くほうの言葉にすると、どう言えばいいんだろう」
私は譜面を見ながら、さっきの弓の感触を思い返した。
一音ずつは弾けている。けれど、音が変わるたび、その音を確かめてから次へ進んでいた。
「次の音を、もう少し早く考えておく感じかな」
「うん。それ、近いと思う」
「指を早く置く、とは違う?」
「そこは未央に聞いて」
直人が即座に言い、樹が笑った。
「逃げた」
「弓と指のことは、君たちのほうが詳しいから」
奈緒が弓を持ち上げた。
「一音ずつ、きれいに収めすぎてるのかも。音が変わっても、その先まで弓を動かしてるつもりで」
「でも、弓順は変えないでね」
私が付け足すと、後ろの列で笑いが起こった。
範子が自分の譜面へ何かを書き、ジョーが隣の子へ小声で確かめている。
もう一度、直人の手が上がった。
音を変える前から、その先を考えた。
弓を返す場所は同じだった。それでも、返すたびに音を置き直していた時より、旋律が長く続いた。隣の樹の弓が視界の端で動き、その動きも、前よりゆったりして見えた。
直人は止めずに振った。
次の箇所へ入る手前で、左手がわずかに開く。私はその動きを見て、まだ先があることを思い出した。
弾き終えると、直人が笑った。
「今の、吹いてる時に下で聞こえたら、嬉しいな」
「今日は吹いてないから、言いたい放題だね」
奈緒が言う。
「今日は聴きに来たからね」
直人はそう答え、次のページを開いた。
*
レプレでは、チェロとヴィオラを聴く時間が長くなった。
私たちが休んでいる箇所で、潤たちの弓が動く。里枝は譜面から顔を上げ、直人の手を見ていた。美帆の後ろでも、同じ方向へ弓が返る。
直人は一度止め、低い弦へ尋ねた。
「そこ、上が入ってきたら、弾き方が変わる?」
「少し、控えるかもしれない」
潤が答えた。
「旋律が上へ行くから?」
「うん」
「でも、動いてるのは、まだこっちなんだよね」
直人がスコアを示す。
潤は自分の譜面を確かめ、うなずいた。
「残しておいたほうがいいか」
「一度、それで聴かせて」
全員で戻った。
下で動く音を聴いてから、私たちの旋律が入る。チェロの音は、そこで急に遠ざからなかった。
弾きやすかった。
自分たちで音楽を前へ運ぼうとしなくても、足元に続いているものがある。その上へ弓を置くと、音を大きくする前から、旋律に力があった。
直人が少し先で止めた。
「未央、どう?」
「今のほうが、弾きやすい」
「潤は?」
「上を聴きながらでも、続けられると思う」
「じゃあ、それで。金管が入っても、今日の動きは覚えておいて」
潤が鉛筆を取り、里枝も譜面へ書き込んだ。
私は二人のほうを見てから、自分の譜面へ戻った。ホールでは大きな響きの中で探していた音が、今日は、誰のどんな動きだったのかまで見えていた。
*
最後に、直人は今日確かめた箇所を、少し長く続けて振った。
途中で手を止めることはなかった。
弓を動かしながら、隣だけでなく、内側や後ろから来る音を聴いた。直人の手が向く先へ目をやると、そこに次の音を待っている人がいる。
自分の出番が終わっても、譜面から顔を上げたままでいられた。
最後の音が消える。
直人が手を下ろした。
「これで、弦だけの練習はおしまいです。お疲れさまでした」
声が重なり、椅子が動いた。
私は楽器を下ろしたまま、開いた譜面を見ていた。今日も、書き込みが増えている。
「次は、管も打楽器もいるからね」
直人がスコアを閉じながら言った。
「今日できたからって、安心しすぎないように」
「安心したところだったのに」
樹が言うと、直人は笑った。
「じゃあ、半分くらいにしておいて」
ジョーが譜面台の端から紙を取った。
「それは、書いておきます」
「どれを?」
「安心は、半分」
今度は直人が、声を出して笑った。
奈緒も笑いながら弓を緩めている。範子がジョーの紙を覗こうとし、樹が「本当に書いた?」と身を乗り出した。
私はケースを開けた。
弦だけで弾くのは、今日が最後だ。次にこの旋律を弾く時には、遥の息があり、理沙の音があり、後ろから金管と打楽器が入ってくる。
潤が、チェロを持ったままこちらを見た。
目が合うと、少しだけうなずいた。私もうなずき、楽器をケースへ収める。
さっきまで弾いていた旋律を、まだ耳の中でたどれた。
そこへ管の音を思い浮かべると、今日みんなで確かめた弦の動きが、その下で静かに続いていた。
*
譜面台を畳む音が、大練習室のあちこちで重なった。
樹とジョーは椅子を運びながら、まださっきの話をしている。
「安心、半分って、来年も言う?」
「必要なら」
「毎回言われそうだな」
「毎回、全部安心されたら困るから」
奈緒が笑い、範子へ鞄を渡した。
私も笑いながら、ケースの留め具を掛けた。今日はもう弾かない。そう思って弓を見ると、毛を緩めたあとにも、指先へまだ弾いていた時の感触が残っていた。
直人が指揮台の横で、床に落ちた消しゴムを拾った。
「これ、誰の?」
「あ、僕です」
ジョーが戻ってきて受け取る。
その横を、美帆がヴィオラのケースを背負って通った。
「未央、また水曜ね」
「うん。お疲れさま」
戸が開く。
廊下で別の人の声が重なり、美帆の返事が少し遠くなった。
椅子が片づき、譜面台が壁際へ並ぶ。
人が減るにつれて、部屋の奥が見えるようになった。さっきまで誰かの肩や弓に隠れていた壁が、何も掛かっていない広い面になっている。
その壁の下に、細い黒い線が伸びていた。
床と壁の境目にできた影だと思ったが、目を離すと、さっきより少しだけ長くなっているように見えた。
「未央、これも持っていく?」
奈緒が、私のスコアを上げた。
「ありがとう。鞄に入れる」
「今日は、忘れ物なしで帰ろうね」
「私、そんなに忘れてないよ」
「わかってる。自分にも言ってるの」
奈緒は譜面台の下をもう一度覗き、範子と一緒に出ていった。
私はスコアを鞄へ収めた。
潤はまだ、里枝とチェロの譜面を確かめている。里枝が鉛筆で印をつけ、何かを尋ねる。潤が短く答えると、彼女はうなずいて譜面を閉じた。
その声を聞きながら、私は壁際へ最後の譜面台を運んだ。
足を揃えて置く。金属が触れ合い、小さく鳴った。
音が消えたあと、部屋の奥で、同じ高さの音がもう一度鳴った。
誰かが片づけているのだろうと思い、私は振り返らなかった。
*
廊下へ出ると、窓の外はもう暗かった。
ガラスには、ケースを持った私が映っている。その後ろで大練習室の灯りが消え、映った顔も暗くなった。
潤が戸を閉めた。
「お待たせ」
「ううん」
直人は先に事務室へ鍵を返しに行っていた。
階段のほうから、樹の声が聞こえる。誰かに呼ばれて返事をし、また笑っていた。
私と潤も、そちらへ歩き始めた。
床を踏む音が、二人分、交互に続く。
途中で、私たちの足音が一つだけ遅れて返ってきた。
潤も気づいたのか、歩幅をわずかに狭めた。遅れた音は、それ以上続かなかった。
「直人に来てもらって、よかったね」
「うん」
「私たちだけだと、弓の話ばかりになっちゃう」
「それも必要だけどね」
潤が言い、私はうなずいた。
さっき、低い弦の音に支えられて弾いたところを思い出す。次の全練でも、あの動きを聞き取れたらいい。
階下で玄関の戸が開いた。
外の風が入ったのか、廊下の先で何かがかすかに鳴った。樹の声が一度大きくなり、戸が閉まると遠のいた。
そのあとに、低い音がした。
私は足を止めた。
潤も、半歩先で止まった。
どこかで、重いものを床に擦っている。
短く動いて、止まる。続いて、硬いものが触れ合う音がした。
ケースの取っ手を握り直した。
さっきの譜面台の音とは違った。もっと下から、床を伝わってきた気がした。
「今の……」
潤は答えず、階段のほうを見ていた。
私はその横顔を見た。
聞こえたのか、尋ねなくてもわかった。
もう一度、擦る音がした。
今度は少し長かった。廊下の端から端へ、見えないものがゆっくり移っていくように聞こえる。
階段の下を、誰かが通った。
鞄の金具が鳴り、足音が玄関へ向かう。
けれど、廊下には誰も見えなかった。
足音だけが、私たちの前を横切ったように消えた。
「まだ誰か、いるのかな」
自分の声が、思ったより小さかった。
潤は階段へ近づきかけ、それから私のそばへ戻った。
「一緒に下りよう」
私はうなずいた。
先に行って確かめるとは言わなかったことが、かえって気になった。
階段の入口へ近づくと、下から冷たい空気が上がってきた。
湿った空気に、かすかに金属の匂いが混じっている。潤が手すりへ触れた瞬間、下のほうで小さく何かが跳ねた。
私たちは同時に、階段の下を見た。
灯りの届かない先は、ただ黒く沈んでいた。
*
踊り場からは、玄関の灯りが見えた。
直人が守衛のおじさんと話している。私たちに気づくと、顔を上げた。
「忘れ物、大丈夫?」
「うん」
私は返事をし、最後の段を下りた。
地下へ続く階段が、その脇にあった。
そちらの灯りは、上から見えるところまでしかついていない。私は足元へ目を落としたまま、玄関へ向かった。
背中のほうで、また硬い音がした。
今度は、一つだけだった。
振り返ると、潤も同じところを見ていた。
直人が私たちの顔を見比べる。
「どうした?」
「今、下で音がした」
潤が答えた。
守衛のおじさんが、机から立ち上がった。
「下?」
私も、うなずいた。
「何か、動かしてるみたいな音でした」
「今日はもう、地下の利用は終わってるよ」
おじさんは鍵の束を取った。
直人が一歩そちらへ向く。
「一緒に見ますか」
「いや、ここにいて」
おじさんは地下階段の手前まで行き、下を覗いた。
「誰かいるかい」
声が階段へ落ちた。
私は返事を待った。
片づけています、とか、すみません、とか。誰かが顔を上げ、こちらへ足音が近づいてくる気がした。
何も聞こえなかった。
おじさんはしばらくそのままでいた。
鍵の束が手の中で一度鳴った。それから振り返り、私たちのほうへ戻ってきた。
「戸締まりの時に見ておくから。今日は、もう帰りなさい」
直人がうなずいた。
「お願いします」
「何か聞こえたら、下へ行かずに、こっちへ声を掛けてね」
私は「はい」と答えた。
前にも、潤に同じことを言われていた。
おじさんは私の顔を見てから、潤を見た。
何かを尋ねかけるように口を開き、それから、玄関の戸へ目を向けた。
「気をつけて帰るんだよ」
*
直人が戸を押さえてくれた。
私は礼を言い、外へ出た。
冷たい風が、コートの裾を動かした。
頭の上で木の枝が揺れ、乾いた葉が擦れ合っている。通りの向こうを自転車が走り、少し遅れてベルの音が聞こえた。
直人はスマートフォンを見た。
「樹たち、まだ門のところにいるって」
「先に行ってて」
潤が言うと、直人は一度私を見た。
「大丈夫?」
「うん。すぐ行く」
「じゃあ、待ってる」
直人の足音が、通りへ向かって遠ざかった。
私はサ館を振り返った。
玄関の灯りの中に、守衛のおじさんの姿が見える。戸が閉まり、その姿はガラスの向こうになった。
その背後で、地下階段の灯りが一度だけ明滅した。
すぐに戻ったが、階段の下は相変わらず見えなかった。
「潤も、聞こえたんだね」
彼はうなずいた。
「うん」
それ以上、すぐには言葉が出なかった。
何の音だったのかは、二人とも知らない。けれど、聞き違いだったと笑ってしまうことも、もうできなかった。
潤が、私の空いているほうの手に触れた。
私は顔を上げた。
「行こう」
その声は、すぐ隣から聞こえた。
私はうなずき、彼と一緒に歩き始めた。
門の近くで、誰かがこちらへ手を上げた。
私も手を上げかけたけれど、潤が握っていることに気づいて、そのままにした。
後ろで、風が枝を鳴らした。
私たちは、手をつないだまま歩いた。
けれど、歩幅は最後まで揃わなかった。潤が合わせようとするたび、私は半歩遅れた。
サ館のほうから、何かを呼ぶような音がした。
声にはならず、低く擦れて、夜の空気にほどけていく。
私は振り返らなかった。
潤も、振り返らなかった。
守衛のおじさんが下へ掛けた声を、私はまだ覚えていた。
そのあとに来るはずだった返事の場所だけが、暗い階段の下に、空いたまま残っていた。




