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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第四章 断頭台への行進
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30/42

断頭台への行進(1)

 十月三十一日の夕方、サ館の玄関には、小さなかぼちゃが二つ並んでいた。

 本物ではなく、橙色の紙で作ったものだった。片方は笑い、もう片方は、口を少し斜めに切り抜かれている。掲示板の隅には、演劇サークルの誰かが描いたらしい黒猫もいた。先週まで大学祭の案内が重なっていた場所が、今日はずいぶんすっきりして見えた。

 私はケースの肩紐を直し、事務室の窓口へ向かった。

 地下で聞いた音のことを、あのおじさんに尋ねておきたかった。戸締まりの時に見ておくと言っていた。そのあと何も連絡がなかったのだから、きっと、何でもなかったのだろう。そう思いながら、ここへ来るまでに何度も、聞き方を考えていた。


 窓口の向こうには、別の守衛さんが座っていた。

 眼鏡を少し下げ、机に広げた書類へ何かを書き込んでいる。私が挨拶すると、顔を上げた。

「オーケストラ?」

「はい。今日、大練習室です」

「鍵はもう、先に来た子が持っていったよ」

 私はうなずき、それから、事務室の奥へ目を向けた。

 壁際のフックには、日曜に見た濃紺の上着が掛かっていた。袖口だけが、妙にきちんと揃えられている。

「あの、日曜にいらしたおじさんは、今日はお休みですか」

「ああ。入院しちゃってね」

「入院?」

 思わず聞き返した。

「インフルエンザをこじらせたんだって。二週間くらい休むらしいよ」

「……そうなんですか」

 声が掠れた。私は聞き返されないように、鞄の肩紐を握り直した。

「四人で回してるところを三人だから、しばらく、こっちも忙しいんだけどね」

 守衛さんは書類を揃え、机の端へ寄せた。その動きの途中で、地下の鍵束だけが、ほかの鍵から離れて置かれているのが見えた。

「何か用事だった?」

 私は窓口の縁に置いた指を引いた。

 具合の悪い人に確かめてもらいたいことではない。そう思ったのに、日曜の階段が浮かぶと、そのまま立ち去ることもできなかった。

「日曜、地下のほうで音がして。それで、戸締まりの時に見ておくって、おっしゃっていたので」

「地下?」

「何かを動かしてるような音です」

 守衛さんは、壁の利用予定表を見た。

「片づけじゃないかな。ここのところ、いろんな団体が使ってたから」

「その時は、もう利用が終わってるって」

「時間を過ぎても、片づけが残ることはあるよ」

 責めるような口調ではなかった。事情を知らない学生に、よくあることを教えてくれる声だった。

 ただ、彼は地下の話をしている間、一度も階段のほうを見なかった。

 私は「そうですね」と答えた。声が震えないように、短く言った。

「今日は地下、使わないから。練習は二階だけだね」

「はい」

「終わったら、鍵を返してね」

 私はもう一度うなずき、窓口を離れた。


 地下へ続く階段の手前まで来て、歩く速さが落ちた。

 下の灯りは消えていた。玄関からの明かりが届く数段だけ、踏板の端が見える。その先には、何も動くものがなかった。

 階段脇の壁には、古い点検表が貼られていた。日付の欄は日曜のところで途切れ、確認者の印だけが押されていない。

 日曜、おじさんはここから声を掛けた。

 誰かいるかい。

 返事はなかった。

 あのあと、自分で下りていったのだろうか。扉を開けて、誰もいない部屋を見て、それから灯りを消したのだろうか。

 けれど、あの時聞こえた音は、階段の下からではなく、もっと近く、扉の向こう側から響いていた。

 私は無意識に、ケースの肩紐を胸元へ引き寄せた。そこに何かを隠せるわけでもないのに、手を離せなかった。

 そこまで考えて、私は階段から離れた。

 入院したことと、地下を見たことを、続けて考えたくなかった。


     *


 二階へ上がると、大練習室からヴァイオリンの音が聞こえた。

 短い音階が止まり、同じところからもう一度始まる。今度は途中で少しゆっくりになった。

 戸を開けると、樹がこちらを見た。

「お疲れさまです」

「お疲れさま。早いね」

「今日は授業、早く終わったので」

 樹の隣では、一年生が弓を下ろしていた。私へ会釈してから、左手を楽器の棹へ置き直す。

「もう一回、いいですか」

「どうぞ」

 樹が譜面台を少し彼女のほうへ向けた。私は二人の後ろを通り、自分の椅子へ鞄を置いた。

 窓際では、奈緒が範子と譜面を見ている。美帆はヴィオラを出しながら、誰かから借りたらしい鉛筆を返していた。椅子の脚が床を擦り、隣の部屋から管楽器の長い音が届く。

 いつもの水曜だった。

 私はコートを脱ぎ、ケースを開けた。


「未央」

 声のほうを向くと、潤がチェロを持って立っていた。

「先生、少し遅れるって。最初、俺がやる」

「どこから?」

「四楽章。こないだのホールで言われたところ」

「わかった」

 潤はチェロを自分の席へ置いた。それから私のそばへ戻り、鞄の脇にあるスコアを見た。

「どうした?」

「何が?」

「入ってきてから、ずっと下向いてる」

 私はケースの中へ目を落とした。弓を取り出したところで、まだ毛を張っていなかった。

「守衛のおじさん、入院したんだって」

 潤の手が止まった。持っていた譜面の端が、わずかに折れた。

「日曜の?」

「うん。インフルエンザをこじらせて、二週間くらい休むらしい」

「……そうか」

 潤はそう言ってから、私の顔を見た。すぐに目を逸らしたのは、怖がっていることを悟られたくなかったからかもしれない。

「下のこと、聞こうと思ってたんだけど」

 私は弓のねじへ指を掛けた。けれど、回す力がうまく入らない。

 潤はそれに気づいたのか、何も言わず、弓の先を一度見た。それから私の手元へ視線を戻した。

「今日の人には?」

「言った。片づけが残ってたんじゃないかって」

 彼は戸口へ目を向けた。廊下を通る誰かの笑い声が、開いた戸の向こうから聞こえた。

 その笑い声が遠ざかるまで、潤は動かなかった。

「そういうことも、あるよね」

「あるけど」

 その先を、潤は言わなかった。

 私は弓のねじを回した。毛が少しずつ張り、棹との間が開いていく。潤は私の手が止まらないように、弓の先端を見つめたまま、低く息を吐いた。

 日曜の帰り際、守衛のおじさんが咳をしていた記憶はなかった。思い出すのは、何かを尋ねかけるように口を開き、それから玄関の戸へ目を向けた姿だった。

 私も聞かなかった。日曜、二人で聞いた音を、今ここで一つずつ話し直したくはなかった。

 潤は私の顔を見てから、少し声を落とした。

「今日は、一緒に帰ろう」

「……うん」

 返事をすると、彼はうなずいた。

 そのうなずきは小さかったが、いつもより長く私の目を見ていた。私が本当に聞き取ったか、確かめるように。

 私は弓を持ち上げた。指先の震えはまだ残っていたが、潤がそばにいる間は、隠さなくてもいい気がした。

 それだけで、楽器を持ち上げることができた。


     *


 六時になる頃には、椅子の大半が埋まっていた。

 直人が管の列から顔を出し、潤へ何かを確かめる。後ろでは打楽器の準備が続いていた。金属の触れ合う音がするたび、私はそちらを見た。音を出した人の姿が見えると、譜面へ目を戻せた。

 理沙のAが鳴った。

 私は立ち上がり、弓を置いた。自分のAを聴いてから、周りへ耳を向ける。いくつもの音が寄ってきて、揺れが少しずつ小さくなる。

 音を切ると、部屋のあちこちに残っていた響きも消えた。

 椅子へ座った。

 潤が指揮台へ上がり、スコアを開く。


「先生が来るまで、四楽章をやります。まず、一度通してから」


 ページをめくる音が重なった。

 私は譜面を確かめ、楽器を構えた。さっきまで潤のいたチェロの席には、里枝が座っている。彼女が後ろを振り向いて何かを伝えると、チェロの列で小さくうなずく顔が続いた。

 潤はスコアを開いたまま、指揮棒を持つ手を一度握り直した。私と目が合うと、ほんの少しだけ顎を引く。

 大丈夫か、と聞かれた気がした。

 私は弓を譜面台の下で軽く動かした。大丈夫ではない。それでも、ここにいる、と伝えるために。


 潤の手が上がった。

 低いところから音が始まる。

 私は休符を数えながら、その動きを聴いた。日曜の弦分奏で、直人に言われたことを思い出す。自分が入る時に、音楽が始まるわけではない。今も、もう進んでいる。

 潤の右手がこちらへ向いた。

 弓を置く。

 隣で樹も入った。後ろの音が重なり、旋律がはっきり形を取る。私は次の弓を考え、その先へ顔を上げた。


 潤は、こちらを見ていた。

 私たちの音を聴いてから、手の動きをわずかに変える。その合図に乗ると、弓を返すところで迷わずに済んだ。

 彼の手が一瞬だけ遅れた。けれど、私が音を保つと、すぐに元の流れへ戻った。潤は目だけで私に礼を言い、それから全体へ視線を戻した。

 何小節か進むうちに、指先の冷たさを忘れた。

 金管の音が入る。空気が震え、さっきまで広かった部屋が、音でいっぱいになった。


 この中にいれば、大丈夫だと思った。

 樹の弓が見える。奈緒が顔を上げる。潤の手が、次へ進む場所を示している。

 潤がこちらを見なくても、私は彼の呼吸の変化で次の入りを感じ取れた。見ていない時も、任せてくれているのだと思えた。


 最後の音を、全員で切った。


 潤の手が止まる。

 残響が薄れ、後ろで誰かが息を吐いた。

 私は弓を下ろしたが、すぐには膝へ置けなかった。潤も指揮棒を下げず、戸口のほうへ顔を向けた。


 そのあと、廊下で、靴の踵が床を打った。


 一つ。

 少し間を置いて、もう一つ。


 音は、さっきまでの演奏の余韻よりもはっきりしていた。

 廊下の奥から近づいてくるのではない。戸のすぐ向こうで、誰かが立ち止まり、こちらの沈黙を確かめるように鳴らした音だった。


 私は戸口を見た。

 先生が来たのだと思った。


 けれど、戸は開かなかった。


 部屋の中から、誰も声を出さない。

 譜面をめくる音も、椅子の軋みも、隣室の管楽器も、いつの間にか途切れていた。大練習室だけが、音を失ったまま廊下に向かって開いている。


 指揮台の上で、潤も戸口を見ていた。

 彼の指揮棒を持つ手が、わずかに震えている。

 私は椅子の脇で弓を握り直した。潤が振り返れば、すぐに立てるように。


 廊下の向こうで、何かが戸に触れた。


 金具が、ごく小さく鳴る。


 潤は振り返らなかった。ただ、指揮棒の先をゆっくり下げた。

 動くな、という合図なのか。

 それとも、ここにいる、という合図なのか。


 私は息を止めた。


 次の瞬間、閉じた戸の向こうから、私たちの誰も踏んでいないはずの、三つ目の足音が響いた。


 樹が、私の隣で顔を上げた。

「先生ですか」

 声が戸口へ届く。

 私は弓を握ったまま、返事を待った。


「遅くなって、ごめんね」


 戸が開いた。

 片桐先生が、黒い鞄を持って立っていた。コートの肩に、小さな雨の粒が残っている。

 私は息を吐いた。吐いて初めて、胸の奥が痛いほど詰まっていたことに気づいた。


「ずいぶん静かだね。ちょうど終わったところ?」

「はい。四楽章を、一度」

 潤が答えた。

 先生はうなずき、戸を閉めた。取っ手の金具が、小さく鳴った。

 さっき聞いた音と、同じ音だった。


「ここへ来る途中で降り始めてね。傘を出すほどではないと思ったんだけど」

 先生は鞄を椅子へ置き、コートを脱いだ。

 部屋の後ろで、誰かが「外、降ってるんだ」と言った。窓へ顔を向ける人がいる。譜面をめくる音が戻り、奈緒が後ろの列へ鉛筆を渡した。

 潤は指揮台から下りた。

 すれ違う時、先生へ何かを話しかけようとした。それから、口を閉じた。


「潤、どこか気になった?」

「最後のところ、少し急いだかもしれません」

「じゃあ、そこまでの流れを聴こうか」


 先生がスコアを開く。

 潤は自分の席へ戻り、里枝と短く言葉を交わした。チェロを構える前に、こちらを見る。

 目が合った。

 私はうなずいたが、彼はすぐには譜面へ戻らなかった。


     *


 先生の棒で弾き始めると、さっきとは違うところで、自分の音が重くなった。

 急がないようにと思うほど、一音ずつ押さえ込んでしまう。先生は途中で止め、弦のほうを見た。


「歩く速さは変えなくていい。ただ、その足を、どこへ置くかは決めておこう」

 私は譜面へ目を落とした。

「最後を知っているから、そこへ早く着きたくなるんだね。途中を省かずに行ってみようか」


 もう一度、少し前へ戻った。

 音を短くするところでも、弓を急に離さないようにした。下から来る動きに合わせ、次へ置く。潤の弓も視界の端で動いている。

 先生は止めなかった。

 私は譜面を追いながら、廊下の音を考えないようにした。


 終わりに近づくところで、直人の音が聞こえた。

 何度も弾いてきたはずなのに、今日はそこだけ、すぐ近くで誰かに呼ばれたように感じた。

 私は顔を上げた。

 先生の手は、もう次を示していた。


 全員で音を切る。

 今度は、そのあとも部屋の音が続いていた。管の列で誰かが咳をし、椅子が軋む。沢村が後ろで、使い終えた打楽器を置いた。

 私はそれを聞いてから、弓を下ろした。


「今のほうがよかった」

 先生が言った。

「高橋さん。最後の手前、音を残してくれたね」

「はい」

「そこは残していい。消える場所は、そのあとにあるから」


 私は鉛筆を取った。

 書き込む場所はわかっていたのに、譜面の上で、しばらく先が動かなかった。


     *


 休憩になると、樹が楽器を椅子へ置いた。

「何か飲みます?」

「持ってきてる」

「じゃあ、俺は買ってきます」

 奈緒も立ち上がり、美帆を呼んだ。三人が戸口へ向かう。その後ろを、管の人たちが何人か続いた。

 戸が開いた時、私は廊下を見た。

 明るい床の上に、樹の靴が見えた。隣に奈緒、その向こうに美帆。声を交わしながら、階段へ歩いていく。

 足音が、三人分、遠ざかっていった。

 誰も立ち止まらなかった。


 潤が、私の椅子の脇へ来た。

「さっき」

 私は水筒の蓋を持ったまま、顔を上げた。

「先生が入ってくる前、聞こえた?」

「足音?」

「うん」

 私はうなずいた。

「先生だったんじゃないの」

 そう言ってから、潤の返事を待った。

 彼は廊下を見た。


「……そうだと思う」

「三つ、聞こえた」

「俺も」


 水筒の蓋を閉めた。ねじが合わず、一度浮いた。外してから、もう一度回す。


「先生に聞く?」

 潤が言った。

 私は指揮台のほうを見た。先生は直人とスコアを覗き込んでいた。直人がある箇所を指し、先生がうなずく。

 足音を三つ立てましたか。

 そんなことを、どう尋ねればいいのだろう。


「あとで」

「うん」


 潤は、隣の空いた椅子へ座った。

 私たちはしばらく、先生と直人の話す声を聞いていた。譜面をめくるたび、二人の指が違うところへ移る。潤はそのやりとりを見ていたが、自分の席へ戻ろうとはしなかった。

 私も、戻らなくていいの、と言わなかった。


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