断頭台への行進(1)
十月三十一日の夕方、サ館の玄関には、小さなかぼちゃが二つ並んでいた。
本物ではなく、橙色の紙で作ったものだった。片方は笑い、もう片方は、口を少し斜めに切り抜かれている。掲示板の隅には、演劇サークルの誰かが描いたらしい黒猫もいた。先週まで大学祭の案内が重なっていた場所が、今日はずいぶんすっきりして見えた。
私はケースの肩紐を直し、事務室の窓口へ向かった。
地下で聞いた音のことを、あのおじさんに尋ねておきたかった。戸締まりの時に見ておくと言っていた。そのあと何も連絡がなかったのだから、きっと、何でもなかったのだろう。そう思いながら、ここへ来るまでに何度も、聞き方を考えていた。
窓口の向こうには、別の守衛さんが座っていた。
眼鏡を少し下げ、机に広げた書類へ何かを書き込んでいる。私が挨拶すると、顔を上げた。
「オーケストラ?」
「はい。今日、大練習室です」
「鍵はもう、先に来た子が持っていったよ」
私はうなずき、それから、事務室の奥へ目を向けた。
壁際のフックには、日曜に見た濃紺の上着が掛かっていた。袖口だけが、妙にきちんと揃えられている。
「あの、日曜にいらしたおじさんは、今日はお休みですか」
「ああ。入院しちゃってね」
「入院?」
思わず聞き返した。
「インフルエンザをこじらせたんだって。二週間くらい休むらしいよ」
「……そうなんですか」
声が掠れた。私は聞き返されないように、鞄の肩紐を握り直した。
「四人で回してるところを三人だから、しばらく、こっちも忙しいんだけどね」
守衛さんは書類を揃え、机の端へ寄せた。その動きの途中で、地下の鍵束だけが、ほかの鍵から離れて置かれているのが見えた。
「何か用事だった?」
私は窓口の縁に置いた指を引いた。
具合の悪い人に確かめてもらいたいことではない。そう思ったのに、日曜の階段が浮かぶと、そのまま立ち去ることもできなかった。
「日曜、地下のほうで音がして。それで、戸締まりの時に見ておくって、おっしゃっていたので」
「地下?」
「何かを動かしてるような音です」
守衛さんは、壁の利用予定表を見た。
「片づけじゃないかな。ここのところ、いろんな団体が使ってたから」
「その時は、もう利用が終わってるって」
「時間を過ぎても、片づけが残ることはあるよ」
責めるような口調ではなかった。事情を知らない学生に、よくあることを教えてくれる声だった。
ただ、彼は地下の話をしている間、一度も階段のほうを見なかった。
私は「そうですね」と答えた。声が震えないように、短く言った。
「今日は地下、使わないから。練習は二階だけだね」
「はい」
「終わったら、鍵を返してね」
私はもう一度うなずき、窓口を離れた。
地下へ続く階段の手前まで来て、歩く速さが落ちた。
下の灯りは消えていた。玄関からの明かりが届く数段だけ、踏板の端が見える。その先には、何も動くものがなかった。
階段脇の壁には、古い点検表が貼られていた。日付の欄は日曜のところで途切れ、確認者の印だけが押されていない。
日曜、おじさんはここから声を掛けた。
誰かいるかい。
返事はなかった。
あのあと、自分で下りていったのだろうか。扉を開けて、誰もいない部屋を見て、それから灯りを消したのだろうか。
けれど、あの時聞こえた音は、階段の下からではなく、もっと近く、扉の向こう側から響いていた。
私は無意識に、ケースの肩紐を胸元へ引き寄せた。そこに何かを隠せるわけでもないのに、手を離せなかった。
そこまで考えて、私は階段から離れた。
入院したことと、地下を見たことを、続けて考えたくなかった。
*
二階へ上がると、大練習室からヴァイオリンの音が聞こえた。
短い音階が止まり、同じところからもう一度始まる。今度は途中で少しゆっくりになった。
戸を開けると、樹がこちらを見た。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。早いね」
「今日は授業、早く終わったので」
樹の隣では、一年生が弓を下ろしていた。私へ会釈してから、左手を楽器の棹へ置き直す。
「もう一回、いいですか」
「どうぞ」
樹が譜面台を少し彼女のほうへ向けた。私は二人の後ろを通り、自分の椅子へ鞄を置いた。
窓際では、奈緒が範子と譜面を見ている。美帆はヴィオラを出しながら、誰かから借りたらしい鉛筆を返していた。椅子の脚が床を擦り、隣の部屋から管楽器の長い音が届く。
いつもの水曜だった。
私はコートを脱ぎ、ケースを開けた。
「未央」
声のほうを向くと、潤がチェロを持って立っていた。
「先生、少し遅れるって。最初、俺がやる」
「どこから?」
「四楽章。こないだのホールで言われたところ」
「わかった」
潤はチェロを自分の席へ置いた。それから私のそばへ戻り、鞄の脇にあるスコアを見た。
「どうした?」
「何が?」
「入ってきてから、ずっと下向いてる」
私はケースの中へ目を落とした。弓を取り出したところで、まだ毛を張っていなかった。
「守衛のおじさん、入院したんだって」
潤の手が止まった。持っていた譜面の端が、わずかに折れた。
「日曜の?」
「うん。インフルエンザをこじらせて、二週間くらい休むらしい」
「……そうか」
潤はそう言ってから、私の顔を見た。すぐに目を逸らしたのは、怖がっていることを悟られたくなかったからかもしれない。
「下のこと、聞こうと思ってたんだけど」
私は弓のねじへ指を掛けた。けれど、回す力がうまく入らない。
潤はそれに気づいたのか、何も言わず、弓の先を一度見た。それから私の手元へ視線を戻した。
「今日の人には?」
「言った。片づけが残ってたんじゃないかって」
彼は戸口へ目を向けた。廊下を通る誰かの笑い声が、開いた戸の向こうから聞こえた。
その笑い声が遠ざかるまで、潤は動かなかった。
「そういうことも、あるよね」
「あるけど」
その先を、潤は言わなかった。
私は弓のねじを回した。毛が少しずつ張り、棹との間が開いていく。潤は私の手が止まらないように、弓の先端を見つめたまま、低く息を吐いた。
日曜の帰り際、守衛のおじさんが咳をしていた記憶はなかった。思い出すのは、何かを尋ねかけるように口を開き、それから玄関の戸へ目を向けた姿だった。
私も聞かなかった。日曜、二人で聞いた音を、今ここで一つずつ話し直したくはなかった。
潤は私の顔を見てから、少し声を落とした。
「今日は、一緒に帰ろう」
「……うん」
返事をすると、彼はうなずいた。
そのうなずきは小さかったが、いつもより長く私の目を見ていた。私が本当に聞き取ったか、確かめるように。
私は弓を持ち上げた。指先の震えはまだ残っていたが、潤がそばにいる間は、隠さなくてもいい気がした。
それだけで、楽器を持ち上げることができた。
*
六時になる頃には、椅子の大半が埋まっていた。
直人が管の列から顔を出し、潤へ何かを確かめる。後ろでは打楽器の準備が続いていた。金属の触れ合う音がするたび、私はそちらを見た。音を出した人の姿が見えると、譜面へ目を戻せた。
理沙のAが鳴った。
私は立ち上がり、弓を置いた。自分のAを聴いてから、周りへ耳を向ける。いくつもの音が寄ってきて、揺れが少しずつ小さくなる。
音を切ると、部屋のあちこちに残っていた響きも消えた。
椅子へ座った。
潤が指揮台へ上がり、スコアを開く。
「先生が来るまで、四楽章をやります。まず、一度通してから」
ページをめくる音が重なった。
私は譜面を確かめ、楽器を構えた。さっきまで潤のいたチェロの席には、里枝が座っている。彼女が後ろを振り向いて何かを伝えると、チェロの列で小さくうなずく顔が続いた。
潤はスコアを開いたまま、指揮棒を持つ手を一度握り直した。私と目が合うと、ほんの少しだけ顎を引く。
大丈夫か、と聞かれた気がした。
私は弓を譜面台の下で軽く動かした。大丈夫ではない。それでも、ここにいる、と伝えるために。
潤の手が上がった。
低いところから音が始まる。
私は休符を数えながら、その動きを聴いた。日曜の弦分奏で、直人に言われたことを思い出す。自分が入る時に、音楽が始まるわけではない。今も、もう進んでいる。
潤の右手がこちらへ向いた。
弓を置く。
隣で樹も入った。後ろの音が重なり、旋律がはっきり形を取る。私は次の弓を考え、その先へ顔を上げた。
潤は、こちらを見ていた。
私たちの音を聴いてから、手の動きをわずかに変える。その合図に乗ると、弓を返すところで迷わずに済んだ。
彼の手が一瞬だけ遅れた。けれど、私が音を保つと、すぐに元の流れへ戻った。潤は目だけで私に礼を言い、それから全体へ視線を戻した。
何小節か進むうちに、指先の冷たさを忘れた。
金管の音が入る。空気が震え、さっきまで広かった部屋が、音でいっぱいになった。
この中にいれば、大丈夫だと思った。
樹の弓が見える。奈緒が顔を上げる。潤の手が、次へ進む場所を示している。
潤がこちらを見なくても、私は彼の呼吸の変化で次の入りを感じ取れた。見ていない時も、任せてくれているのだと思えた。
最後の音を、全員で切った。
潤の手が止まる。
残響が薄れ、後ろで誰かが息を吐いた。
私は弓を下ろしたが、すぐには膝へ置けなかった。潤も指揮棒を下げず、戸口のほうへ顔を向けた。
そのあと、廊下で、靴の踵が床を打った。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
音は、さっきまでの演奏の余韻よりもはっきりしていた。
廊下の奥から近づいてくるのではない。戸のすぐ向こうで、誰かが立ち止まり、こちらの沈黙を確かめるように鳴らした音だった。
私は戸口を見た。
先生が来たのだと思った。
けれど、戸は開かなかった。
部屋の中から、誰も声を出さない。
譜面をめくる音も、椅子の軋みも、隣室の管楽器も、いつの間にか途切れていた。大練習室だけが、音を失ったまま廊下に向かって開いている。
指揮台の上で、潤も戸口を見ていた。
彼の指揮棒を持つ手が、わずかに震えている。
私は椅子の脇で弓を握り直した。潤が振り返れば、すぐに立てるように。
廊下の向こうで、何かが戸に触れた。
金具が、ごく小さく鳴る。
潤は振り返らなかった。ただ、指揮棒の先をゆっくり下げた。
動くな、という合図なのか。
それとも、ここにいる、という合図なのか。
私は息を止めた。
次の瞬間、閉じた戸の向こうから、私たちの誰も踏んでいないはずの、三つ目の足音が響いた。
樹が、私の隣で顔を上げた。
「先生ですか」
声が戸口へ届く。
私は弓を握ったまま、返事を待った。
「遅くなって、ごめんね」
戸が開いた。
片桐先生が、黒い鞄を持って立っていた。コートの肩に、小さな雨の粒が残っている。
私は息を吐いた。吐いて初めて、胸の奥が痛いほど詰まっていたことに気づいた。
「ずいぶん静かだね。ちょうど終わったところ?」
「はい。四楽章を、一度」
潤が答えた。
先生はうなずき、戸を閉めた。取っ手の金具が、小さく鳴った。
さっき聞いた音と、同じ音だった。
「ここへ来る途中で降り始めてね。傘を出すほどではないと思ったんだけど」
先生は鞄を椅子へ置き、コートを脱いだ。
部屋の後ろで、誰かが「外、降ってるんだ」と言った。窓へ顔を向ける人がいる。譜面をめくる音が戻り、奈緒が後ろの列へ鉛筆を渡した。
潤は指揮台から下りた。
すれ違う時、先生へ何かを話しかけようとした。それから、口を閉じた。
「潤、どこか気になった?」
「最後のところ、少し急いだかもしれません」
「じゃあ、そこまでの流れを聴こうか」
先生がスコアを開く。
潤は自分の席へ戻り、里枝と短く言葉を交わした。チェロを構える前に、こちらを見る。
目が合った。
私はうなずいたが、彼はすぐには譜面へ戻らなかった。
*
先生の棒で弾き始めると、さっきとは違うところで、自分の音が重くなった。
急がないようにと思うほど、一音ずつ押さえ込んでしまう。先生は途中で止め、弦のほうを見た。
「歩く速さは変えなくていい。ただ、その足を、どこへ置くかは決めておこう」
私は譜面へ目を落とした。
「最後を知っているから、そこへ早く着きたくなるんだね。途中を省かずに行ってみようか」
もう一度、少し前へ戻った。
音を短くするところでも、弓を急に離さないようにした。下から来る動きに合わせ、次へ置く。潤の弓も視界の端で動いている。
先生は止めなかった。
私は譜面を追いながら、廊下の音を考えないようにした。
終わりに近づくところで、直人の音が聞こえた。
何度も弾いてきたはずなのに、今日はそこだけ、すぐ近くで誰かに呼ばれたように感じた。
私は顔を上げた。
先生の手は、もう次を示していた。
全員で音を切る。
今度は、そのあとも部屋の音が続いていた。管の列で誰かが咳をし、椅子が軋む。沢村が後ろで、使い終えた打楽器を置いた。
私はそれを聞いてから、弓を下ろした。
「今のほうがよかった」
先生が言った。
「高橋さん。最後の手前、音を残してくれたね」
「はい」
「そこは残していい。消える場所は、そのあとにあるから」
私は鉛筆を取った。
書き込む場所はわかっていたのに、譜面の上で、しばらく先が動かなかった。
*
休憩になると、樹が楽器を椅子へ置いた。
「何か飲みます?」
「持ってきてる」
「じゃあ、俺は買ってきます」
奈緒も立ち上がり、美帆を呼んだ。三人が戸口へ向かう。その後ろを、管の人たちが何人か続いた。
戸が開いた時、私は廊下を見た。
明るい床の上に、樹の靴が見えた。隣に奈緒、その向こうに美帆。声を交わしながら、階段へ歩いていく。
足音が、三人分、遠ざかっていった。
誰も立ち止まらなかった。
潤が、私の椅子の脇へ来た。
「さっき」
私は水筒の蓋を持ったまま、顔を上げた。
「先生が入ってくる前、聞こえた?」
「足音?」
「うん」
私はうなずいた。
「先生だったんじゃないの」
そう言ってから、潤の返事を待った。
彼は廊下を見た。
「……そうだと思う」
「三つ、聞こえた」
「俺も」
水筒の蓋を閉めた。ねじが合わず、一度浮いた。外してから、もう一度回す。
「先生に聞く?」
潤が言った。
私は指揮台のほうを見た。先生は直人とスコアを覗き込んでいた。直人がある箇所を指し、先生がうなずく。
足音を三つ立てましたか。
そんなことを、どう尋ねればいいのだろう。
「あとで」
「うん」
潤は、隣の空いた椅子へ座った。
私たちはしばらく、先生と直人の話す声を聞いていた。譜面をめくるたび、二人の指が違うところへ移る。潤はそのやりとりを見ていたが、自分の席へ戻ろうとはしなかった。
私も、戻らなくていいの、と言わなかった。




