断頭台への行進(2)
後半は五楽章を中心に、前後をつなぎながら練習した。
私は何度も同じ箇所へ鉛筆を置き、弓を持ち直した。隣の樹が小声で弓順を確かめてくる。後ろへ伝える時には奈緒と目が合い、うなずき合った。
時計を見る回数は、次第に減った。
九時になる少し前、先生がスコアを閉じた。
「今日はここまでにしましょう。土曜、今日の続きから」
部屋のあちこちで返事が重なった。
潤が先生のところへ行く。私は弓を緩めながら、その横顔を見ていた。
先生が何かを尋ねた。
潤は少し迷ってから、戸口を示した。
私は手を止めた。
先生は廊下を見て、それから潤へ顔を戻した。声は片づけの音に隠れ、私のところまでは届かなかった。
潤がうなずく。
先生は鞄を持ち上げ、近くの学生へ挨拶をして出ていった。
戸が閉まった。
取っ手の金具が、また小さく鳴った。
潤が戻ってきた。
「聞いた」
「何て?」
「部屋の前で、一度止まったって。中が静かだったから、話してるところかと思ったらしい」
「じゃあ、あの音は」
「先生かもしれない」
私はケースへ目を落とした。
そう言ってもらいたかったはずなのに、聞いたあとも、手の動きは戻らなかった。
「あと、取っ手を回した時、開かなかったって」
顔を上げた。
「鍵?」
「引く戸だと思って、一度引いたらしい。ここ、押すだろ」
「ああ……」
私は戸口を見た。
何度も出入りしている戸だった。取っ手を回し、廊下から押す。そうすれば、いつも同じ部屋へ入ってこられる。
潤が、私の開いたケースへ目を向けた。
「一緒に片づけよう」
私はうなずき、楽器を収めた。
*
椅子を運んでいると、奈緒が窓際から私を呼んだ。
「未央、これ、今日のうちに合わせておく?」
彼女の譜面には、私のものと違う弓順が残っていた。後ろの列へ伝わる途中で、一か所だけ古い印が消されていなかったらしい。
「うん。そこ、直しておこう」
机の端へ二枚を並べた。範子も覗き込み、鉛筆を取る。
潤は里枝たちとチェロの譜面を確認していた。
戸口で樹が、ケースを背負い直した。
「先輩、先に行きますね」
「うん。お疲れさま」
「お疲れさまでした」
戸が開き、閉まった。
閉まったあとも、廊下から足音が聞こえた。
一つ、二つ、三つ。
けれど、樹のものかどうか確かめる前に、音は途切れた。
奈緒が消しゴムの屑を手で集め、紙の端へ載せた。
「これで大丈夫。ありがとう」
「こっちこそ」
範子が壁の時計を見た。
「まだ九時十分なんですね」
私も顔を上げた。
長い針は二を指していた。
奈緒が鞄へ譜面を入れる。
「じゃあ、また土曜ね」
私は返事をして、二人を見送った。
潤もチェロのケースを閉じていた。留め具が掛かる音が、広くなった部屋に響いた。
私は自分の鞄を持ち、忘れ物がないか椅子の下を覗いた。
消しゴムの屑が、まだ一つ残っていた。拾って、ゴミ箱へ入れる。
その時、廊下のスピーカーが鳴った。
「閉館十分前です。館内に残っている方は、退館の準備をお願いします」
私は壁の時計を見た。
長い針は、二を指したままだった。
潤がケースの取っ手から手を離した。
彼も、時計を見ていた。
廊下の奥で、戸が閉まる音がした。
続いて、足音が三つ。
今度は、誰も出ていないはずだった。
*
私は鞄からスマートフォンを出した。
画面の数字は、二十一時十二分だった。
「まだ、十二分」
潤も自分の画面を見た。
「こっちも」
「放送、間違えたのかな」
「下で聞こう」
潤はチェロのケースを背負った。私はコートを着て、鞄の持ち手を腕へ掛けた。
帰る支度は、それで終わった。
いつもなら、部屋を出て、鍵を返して、玄関の戸を押す。駅へ向かう途中で今日の練習の話をする。雨が強ければ、屋根のある道を選ぶ。
その順序を、一つずつ思い浮かべた。そうしていれば、いつもどおりに戻れる気がした。
潤が戸を開けた。
廊下には誰もいなかった。
窓の外で雨が細く光っている。ガラスを叩く音は、部屋の中で聞いていた時より大きかった。廊下の照明が一つ、かすかに明滅した。
潤は左右を見てから、私へ顔を向けた。
「行こう」
私はケースを持ち上げた。
部屋の灯りを消すと、廊下まで少し暗くなった。
潤が鍵を差し、回す。乾いた音が、廊下に残った。
私は階段のほうを見ていた。ついさっき奈緒たちが歩いていった道だった。
突き当たりの手前に、消火器がある。その上には緑色の避難誘導灯がついていた。
何も変わっていない。
そう思った直後、誘導灯が一度だけ、短く消えた。
消えたあとも、緑色の残像だけが目の奥に残った。
潤が鍵を抜いた。
私は彼の隣へ寄り、歩き始めた。
*
階段へ着くまで、誰にも会わなかった。
下からも声は聞こえない。自販機の前へ目を向けた。
見えるのは、手すりと、その向こうの窓だけだった。
窓の下に、濡れた靴跡が一つ残っていた。つま先が、階段ではなく廊下のほうを向いている。
潤が先に一段下りた。
私も続いた。
チェロのケースが手すりへ当たらないよう、彼が身体を斜めにする。私はヴァイオリンのケースを脚へ寄せた。
踊り場で向きを変え、もう一つの階段を下りる。
足音が二人分、狭い階段に重なった。
私たちが止まったあと、下のほうで一段だけ鳴った。
少し遅れて、上のほうでも同じ音がした。
最後の段に足を置いた時、私は顔を上げた。
廊下があった。
玄関の広間ではなかった。右側に窓が並び、左側には、練習室の戸が続いている。
潤も動かなかった。
「……一階?」
尋ねたが、彼は答えなかった。
手すりから指を離し、壁に掛かった案内図を見る。
私もその隣へ立った。
二階。
案内図の端に、そう書かれていた。
赤い丸の先には、今出てきた大練習室がある。
「下りたよね」
「うん」
潤が階段を見上げた。
上には、さっき曲がった踊り場が見えた。その窓にも、雨が当たっている。
踊り場の照明が、二度、間を置いて明滅した。
その二度目が消える前に、階段の下で、私たちの足音がもう一度鳴った。
「別の階段だった?」
口に出したあとで、違うとわかった。
毎週、何度も使っている。ほかの階段へ行くには、廊下の反対側へ歩かなければならない。
私はスマートフォンを持ち直した。
時刻は、二十一時十三分になっていた。
けれど、画面を見ているうちに、数字の最後の三が一瞬だけ二に戻った。
*
「樹に連絡する」
潤が言った。
私はうなずき、自分も奈緒との画面を開いた。
〈今、外にいる?〉
送信した。
白い文字だけが、暗い廊下で浮いた。
いつもの名前と、いつものやりとり。昼間、奈緒が送ってきた弓順の写真も残っている。
送信時刻には、二十一時十二分と表示されていた。
潤はスマートフォンを耳へ当てていた。
呼び出し音が、隣にいる私にもかすかに聞こえた。
何度目かで、彼が眉を寄せる。
「出ない?」
「うん」
私の画面にも返事は来なかった。
その時、廊下の先で音がした。
スマートフォンが鳴る音だった。
潤が顔を上げた。
私も、音のするほうを見た。
短い電子音が続いている。
戸を一枚隔てたように、くぐもっていた。呼び出し音は、潤の手元のものと同じだった。
「樹?」
潤が呼んだ。
返事はなかった。
彼が通話を切ると、廊下の音も止まった。
最後の一音だけが、壁の奥で長く震えた。
その震えが消えるより先に、私のスマートフォンが一度だけ鳴った。
画面には、奈緒からの返事が表示されていた。
〈今、外にいる?〉
私が送った文面と、まったく同じだった。
送信時刻は、二十一時十二分だった。
私は画面を伏せた。
もう一度掛けて、と言いそうになり、やめた。
*
潤が私のそばへ戻った。
「外に出よう。もう一つの階段へ行こう」
私はうなずいた。
彼は私の空いている手へ、自分の手を差し出した。
日曜には、触れられてから握られていることに気づいた。
今日は、自分から指を掛けた。
潤の手も冷たかった。それでも、握り返す力がはっきり伝わってきた。
「離さないで」
私が言った。
「離さない」
私たちは、廊下の反対側へ歩き始めた。
雨の音が続いている。
右側の窓には、二人の姿が映っていた。私のケースと、潤の背中の大きなケース。その間に、つないだ手が見える。
私はガラスを見るのをやめ、前を向いた。
それでも、窓の中の二人の動きが、ほんの一瞬だけ遅れた。
私たちが止まっていないのに、鏡像だけが一歩遅れて止まった。
部屋の番号を、一つずつ確かめた。
二〇三。二〇四。
その先には小練習室が二つあり、曲がれば、もう一つの階段へ出られる。
小練習室の前で、音が聞こえた。
低い弦の音だった。
私は立ち止まり、潤の手を引いた。
「聞こえる?」
彼がうなずいた。
音は戸の向こうから続いていた。
チェロだけではない。もっと低いところで、コントラバスが同じ動きを重ねている。
その上へ、ファゴットの音が加わった。
四楽章だった。
さっき私たちが弾いた、《断頭台への行進》。
私は戸の窓を見た。
細長いガラスの向こうは暗かった。廊下の灯りで、いちばん近くの譜面台だけが見えた。
何も載っていない。
その後ろの椅子にも、誰も座っていなかった。
それでも、譜面台の影が、音に合わせるように揺れていた。
影の揺れは、音よりわずかに遅れていた。
曲は先へ進んだ。
私は次に入ってくる音を知っていた。
頭の中で続きをたどった瞬間、そのとおりの音が鳴った。
ただし、音は私の予想より一拍遅れて、別の場所から返ってきた。
潤の指が、私の手を強く握った。
「聴かなくていい。行こう」
私は戸から目を離した。
一歩踏み出す。
音は背後へ遠ざかるはずだった。
けれど、曲がり角の向こうからも、同じ旋律が聞こえた。
そちらのほうが、少し先を弾いていた。
その直後、背後の部屋から、同じ旋律が遅れて重なった。
*
潤は曲がり角の手前で止まった。
壁へ肩を寄せ、その先を見る。私も隣から覗いた。
階段はなかった。
廊下が続いていた。
見慣れた窓が並び、その突き当たりに、大練習室の戸がある。
私は振り返った。
歩いてきた廊下は、背後にも続いていた。途中の小練習室から、まだ音楽が聞こえる。
潤がつないだ手を少し下げた。私の指が痛かったのに気づいたらしい。
けれど、握るのをやめはしなかった。
前の大練習室には、灯りがついていた。
戸の下から、床へ細い光が漏れている。
その光の中を、細い影が横切った。
影が消えたあと、少し遅れて、同じ形の影がもう一度通った。
「消したよね」
私の声は、雨の音に隠れそうだった。
「消した。鍵も掛けた」
潤は空いている手で、コートのポケットへ触れた。
鍵が鳴った。
その音に応えるように、向こうの部屋で演奏が止まった。
止まったはずなのに、最後の音だけが、廊下の奥から遅れて返ってきた。
戸の向こうから、椅子を引く音がした。
一脚だけだった。
続いて、床を擦る音が、戸のすぐ近くまで近づいた。
その音も一度止まり、少し遅れて、同じ音が戸の内側から返った。
私は潤の手を、両手で握りたかった。
けれど、もう片方には楽器のケースがあった。持ち手を握り直すことしかできなかった。
廊下のスピーカーが、短く雑音を立てた。
「館内に残っている方は——」
声が途切れた。
雨の音も、そこで聞こえなくなった。
大練習室の取っ手が、ゆっくり下がった。
その動きが止まったあと、ほんの少し遅れて、もう一度だけ下がった。
潤が私の手を引いた。
戸から離れるように、二歩、後ろへ下がる。
取っ手は下がったままだった。
押し開かれると思ったのに、戸は動かなかった。床へ漏れていた光だけが、細くなっていく。白い筋が震え、床板の継ぎ目へ吸い込まれるように消えた。
私は足元を見た。
二人分の影が、戸へ向かって伸びている。潤が一歩動くと、私の影も揺れた。けれど影の先だけが、私たちより遅れて戸の下へ滑った。
「戻ろう」
彼の声は掠れていた。
私はうなずいた。
向きを変えた瞬間、背後で金具が鳴った。
乾いた音が、廊下の奥まで走る。
潤も足を止めた。つないだ手のひらが汗ばんでいる。互いの顔を見たが、どちらも先に進もうとはしなかった。
「一緒に」
私は言った。
「見る時も、一緒にして」
潤は短くうなずいた。
二人で、戸口へ顔を向ける。
取っ手は元の位置へ戻っていた。
光も消えている。
その代わり、戸の小窓に白いものが映っていた。
顔の高さだった。
息を吸いかけたまま、喉が止まった。
白いものには目の穴が二つあり、その奥は暗い。鼻筋から頬へ滑らかな面が続き、口元だけが、わずかに笑っている。
《最後の舞踏会》で見た仮面だった。
*
潤が私の前へ出ようとした。
私はつないだ手を引いた。
「隣にいて」
声は小さく、戸の向こうへ吸われた。
潤は私を見て、半歩戻った。
仮面は動かない。
ガラスの向こうに誰かが立っているのか、掛けてあるだけなのか、わからなかった。黒い衣装なら、暗がりに紛れて見えないかもしれない。
そう考えても、目の穴から視線を外せない。見つめていると、こちらの目の奥まで冷えていく。
潤が声を掛けた。
「誰か、いますか」
返事はなかった。
戸の内側で、何かが擦れた。
私は潤の指へ、自分の指を掛け直した。
その時、仮面の下で白いものが動いた。
手だった。
手袋をはめた手が、小窓の内側へ上がってくる。布がガラスに触れ、きゅ、と鳴った。手のひらがこちらを向く。
指先が、ガラスへ触れる直前に曲がった。
誰かの手を取る形だった。
私は後ろへ下がった。
踵が床の継ぎ目に当たり、身体がよろめく。潤も同時に動いた。
小窓のガラスに、私たちの姿が映った。
白い仮面に重なって、潤の顔が見える。その隣に私がいる。
けれど、映った私の右手は、ケースを持っていなかった。
ガラスの向こうへ差し出されている。
「未央」
潤の声で、私は自分の右手を見た。
持ち手が指に食い込み、関節が白くなっている。ケースはここにある。手を上げてなどいない。
潤が私の左手を握り直した。
指が食い込み、痛みが走る。
「こっちを見て」
私は彼へ顔を向けた。
すぐそばに、本当の顔がある。唇の色が薄く、額の髪が乱れていた。
目が合うと、彼は息を吐いた。
「行こう」
「うん」
今度は振り返らずに歩いた。
背中の奥で、ガラスを指先で叩く音が一度だけした。




