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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第四章 断頭台への行進
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断頭台への行進(2)

 後半は五楽章を中心に、前後をつなぎながら練習した。

 私は何度も同じ箇所へ鉛筆を置き、弓を持ち直した。隣の樹が小声で弓順を確かめてくる。後ろへ伝える時には奈緒と目が合い、うなずき合った。

 時計を見る回数は、次第に減った。


 九時になる少し前、先生がスコアを閉じた。

「今日はここまでにしましょう。土曜、今日の続きから」

 部屋のあちこちで返事が重なった。

 潤が先生のところへ行く。私は弓を緩めながら、その横顔を見ていた。

 先生が何かを尋ねた。

 潤は少し迷ってから、戸口を示した。


 私は手を止めた。


 先生は廊下を見て、それから潤へ顔を戻した。声は片づけの音に隠れ、私のところまでは届かなかった。

 潤がうなずく。

 先生は鞄を持ち上げ、近くの学生へ挨拶をして出ていった。


 戸が閉まった。

 取っ手の金具が、また小さく鳴った。


 潤が戻ってきた。

「聞いた」

「何て?」

「部屋の前で、一度止まったって。中が静かだったから、話してるところかと思ったらしい」

「じゃあ、あの音は」

「先生かもしれない」

 私はケースへ目を落とした。

 そう言ってもらいたかったはずなのに、聞いたあとも、手の動きは戻らなかった。


「あと、取っ手を回した時、開かなかったって」

 顔を上げた。

「鍵?」

「引く戸だと思って、一度引いたらしい。ここ、押すだろ」

「ああ……」

 私は戸口を見た。

 何度も出入りしている戸だった。取っ手を回し、廊下から押す。そうすれば、いつも同じ部屋へ入ってこられる。


 潤が、私の開いたケースへ目を向けた。

「一緒に片づけよう」

 私はうなずき、楽器を収めた。


     *


 椅子を運んでいると、奈緒が窓際から私を呼んだ。

「未央、これ、今日のうちに合わせておく?」

 彼女の譜面には、私のものと違う弓順が残っていた。後ろの列へ伝わる途中で、一か所だけ古い印が消されていなかったらしい。

「うん。そこ、直しておこう」

 机の端へ二枚を並べた。範子も覗き込み、鉛筆を取る。

 潤は里枝たちとチェロの譜面を確認していた。


 戸口で樹が、ケースを背負い直した。

「先輩、先に行きますね」

「うん。お疲れさま」

「お疲れさまでした」


 戸が開き、閉まった。

 閉まったあとも、廊下から足音が聞こえた。

 一つ、二つ、三つ。

 けれど、樹のものかどうか確かめる前に、音は途切れた。


 奈緒が消しゴムの屑を手で集め、紙の端へ載せた。

「これで大丈夫。ありがとう」

「こっちこそ」


 範子が壁の時計を見た。

「まだ九時十分なんですね」

 私も顔を上げた。

 長い針は二を指していた。


 奈緒が鞄へ譜面を入れる。

「じゃあ、また土曜ね」

 私は返事をして、二人を見送った。


 潤もチェロのケースを閉じていた。留め具が掛かる音が、広くなった部屋に響いた。

 私は自分の鞄を持ち、忘れ物がないか椅子の下を覗いた。

 消しゴムの屑が、まだ一つ残っていた。拾って、ゴミ箱へ入れる。


 その時、廊下のスピーカーが鳴った。


「閉館十分前です。館内に残っている方は、退館の準備をお願いします」


 私は壁の時計を見た。

 長い針は、二を指したままだった。


 潤がケースの取っ手から手を離した。

 彼も、時計を見ていた。


 廊下の奥で、戸が閉まる音がした。

 続いて、足音が三つ。

 今度は、誰も出ていないはずだった。


     *


 私は鞄からスマートフォンを出した。

 画面の数字は、二十一時十二分だった。

「まだ、十二分」

 潤も自分の画面を見た。

「こっちも」

「放送、間違えたのかな」

「下で聞こう」

 潤はチェロのケースを背負った。私はコートを着て、鞄の持ち手を腕へ掛けた。

 帰る支度は、それで終わった。

 いつもなら、部屋を出て、鍵を返して、玄関の戸を押す。駅へ向かう途中で今日の練習の話をする。雨が強ければ、屋根のある道を選ぶ。

 その順序を、一つずつ思い浮かべた。そうしていれば、いつもどおりに戻れる気がした。


 潤が戸を開けた。

 廊下には誰もいなかった。

 窓の外で雨が細く光っている。ガラスを叩く音は、部屋の中で聞いていた時より大きかった。廊下の照明が一つ、かすかに明滅した。

 潤は左右を見てから、私へ顔を向けた。

「行こう」

 私はケースを持ち上げた。


 部屋の灯りを消すと、廊下まで少し暗くなった。

 潤が鍵を差し、回す。乾いた音が、廊下に残った。

 私は階段のほうを見ていた。ついさっき奈緒たちが歩いていった道だった。

 突き当たりの手前に、消火器がある。その上には緑色の避難誘導灯がついていた。

 何も変わっていない。

 そう思った直後、誘導灯が一度だけ、短く消えた。

 消えたあとも、緑色の残像だけが目の奥に残った。

 潤が鍵を抜いた。

 私は彼の隣へ寄り、歩き始めた。


     *


 階段へ着くまで、誰にも会わなかった。

 下からも声は聞こえない。自販機の前へ目を向けた。

 見えるのは、手すりと、その向こうの窓だけだった。

 窓の下に、濡れた靴跡が一つ残っていた。つま先が、階段ではなく廊下のほうを向いている。


 潤が先に一段下りた。

 私も続いた。

 チェロのケースが手すりへ当たらないよう、彼が身体を斜めにする。私はヴァイオリンのケースを脚へ寄せた。

 踊り場で向きを変え、もう一つの階段を下りる。

 足音が二人分、狭い階段に重なった。

 私たちが止まったあと、下のほうで一段だけ鳴った。

 少し遅れて、上のほうでも同じ音がした。


 最後の段に足を置いた時、私は顔を上げた。


 廊下があった。


 玄関の広間ではなかった。右側に窓が並び、左側には、練習室の戸が続いている。

 潤も動かなかった。


「……一階?」

 尋ねたが、彼は答えなかった。

 手すりから指を離し、壁に掛かった案内図を見る。

 私もその隣へ立った。


 二階。


 案内図の端に、そう書かれていた。

 赤い丸の先には、今出てきた大練習室がある。


「下りたよね」

「うん」


 潤が階段を見上げた。

 上には、さっき曲がった踊り場が見えた。その窓にも、雨が当たっている。

 踊り場の照明が、二度、間を置いて明滅した。

 その二度目が消える前に、階段の下で、私たちの足音がもう一度鳴った。


「別の階段だった?」

 口に出したあとで、違うとわかった。

 毎週、何度も使っている。ほかの階段へ行くには、廊下の反対側へ歩かなければならない。


 私はスマートフォンを持ち直した。

 時刻は、二十一時十三分になっていた。

 けれど、画面を見ているうちに、数字の最後の三が一瞬だけ二に戻った。


     *


「樹に連絡する」

 潤が言った。

 私はうなずき、自分も奈緒との画面を開いた。


〈今、外にいる?〉


 送信した。

 白い文字だけが、暗い廊下で浮いた。

 いつもの名前と、いつものやりとり。昼間、奈緒が送ってきた弓順の写真も残っている。

 送信時刻には、二十一時十二分と表示されていた。


 潤はスマートフォンを耳へ当てていた。

 呼び出し音が、隣にいる私にもかすかに聞こえた。

 何度目かで、彼が眉を寄せる。


「出ない?」

「うん」


 私の画面にも返事は来なかった。


 その時、廊下の先で音がした。


 スマートフォンが鳴る音だった。


 潤が顔を上げた。

 私も、音のするほうを見た。


 短い電子音が続いている。

 戸を一枚隔てたように、くぐもっていた。呼び出し音は、潤の手元のものと同じだった。

「樹?」

 潤が呼んだ。

 返事はなかった。


 彼が通話を切ると、廊下の音も止まった。

 最後の一音だけが、壁の奥で長く震えた。

 その震えが消えるより先に、私のスマートフォンが一度だけ鳴った。


 画面には、奈緒からの返事が表示されていた。


〈今、外にいる?〉


 私が送った文面と、まったく同じだった。

 送信時刻は、二十一時十二分だった。


 私は画面を伏せた。

 もう一度掛けて、と言いそうになり、やめた。


     *


 潤が私のそばへ戻った。

「外に出よう。もう一つの階段へ行こう」

 私はうなずいた。

 彼は私の空いている手へ、自分の手を差し出した。


 日曜には、触れられてから握られていることに気づいた。

 今日は、自分から指を掛けた。

 潤の手も冷たかった。それでも、握り返す力がはっきり伝わってきた。


「離さないで」

 私が言った。

「離さない」


 私たちは、廊下の反対側へ歩き始めた。

 雨の音が続いている。

 右側の窓には、二人の姿が映っていた。私のケースと、潤の背中の大きなケース。その間に、つないだ手が見える。

 私はガラスを見るのをやめ、前を向いた。

 それでも、窓の中の二人の動きが、ほんの一瞬だけ遅れた。

 私たちが止まっていないのに、鏡像だけが一歩遅れて止まった。


 部屋の番号を、一つずつ確かめた。

 二〇三。二〇四。

 その先には小練習室が二つあり、曲がれば、もう一つの階段へ出られる。


 小練習室の前で、音が聞こえた。


 低い弦の音だった。

 私は立ち止まり、潤の手を引いた。


「聞こえる?」

 彼がうなずいた。


 音は戸の向こうから続いていた。

 チェロだけではない。もっと低いところで、コントラバスが同じ動きを重ねている。

 その上へ、ファゴットの音が加わった。


 四楽章だった。

 さっき私たちが弾いた、《断頭台への行進》。


 私は戸の窓を見た。

 細長いガラスの向こうは暗かった。廊下の灯りで、いちばん近くの譜面台だけが見えた。

 何も載っていない。

 その後ろの椅子にも、誰も座っていなかった。

 それでも、譜面台の影が、音に合わせるように揺れていた。

 影の揺れは、音よりわずかに遅れていた。


 曲は先へ進んだ。

 私は次に入ってくる音を知っていた。

 頭の中で続きをたどった瞬間、そのとおりの音が鳴った。

 ただし、音は私の予想より一拍遅れて、別の場所から返ってきた。


 潤の指が、私の手を強く握った。

「聴かなくていい。行こう」


 私は戸から目を離した。

 一歩踏み出す。

 音は背後へ遠ざかるはずだった。


 けれど、曲がり角の向こうからも、同じ旋律が聞こえた。


 そちらのほうが、少し先を弾いていた。

 その直後、背後の部屋から、同じ旋律が遅れて重なった。


     *


 潤は曲がり角の手前で止まった。

 壁へ肩を寄せ、その先を見る。私も隣から覗いた。


 階段はなかった。


 廊下が続いていた。

 見慣れた窓が並び、その突き当たりに、大練習室の戸がある。


 私は振り返った。

 歩いてきた廊下は、背後にも続いていた。途中の小練習室から、まだ音楽が聞こえる。

 潤がつないだ手を少し下げた。私の指が痛かったのに気づいたらしい。

 けれど、握るのをやめはしなかった。


 前の大練習室には、灯りがついていた。

 戸の下から、床へ細い光が漏れている。

 その光の中を、細い影が横切った。

 影が消えたあと、少し遅れて、同じ形の影がもう一度通った。


「消したよね」

 私の声は、雨の音に隠れそうだった。

「消した。鍵も掛けた」


 潤は空いている手で、コートのポケットへ触れた。

 鍵が鳴った。


 その音に応えるように、向こうの部屋で演奏が止まった。

 止まったはずなのに、最後の音だけが、廊下の奥から遅れて返ってきた。


 戸の向こうから、椅子を引く音がした。

 一脚だけだった。

 続いて、床を擦る音が、戸のすぐ近くまで近づいた。

 その音も一度止まり、少し遅れて、同じ音が戸の内側から返った。


 私は潤の手を、両手で握りたかった。

 けれど、もう片方には楽器のケースがあった。持ち手を握り直すことしかできなかった。


 廊下のスピーカーが、短く雑音を立てた。


「館内に残っている方は——」


 声が途切れた。

 雨の音も、そこで聞こえなくなった。


 大練習室の取っ手が、ゆっくり下がった。

 その動きが止まったあと、ほんの少し遅れて、もう一度だけ下がった。


 潤が私の手を引いた。

 戸から離れるように、二歩、後ろへ下がる。


 取っ手は下がったままだった。

 押し開かれると思ったのに、戸は動かなかった。床へ漏れていた光だけが、細くなっていく。白い筋が震え、床板の継ぎ目へ吸い込まれるように消えた。


 私は足元を見た。

 二人分の影が、戸へ向かって伸びている。潤が一歩動くと、私の影も揺れた。けれど影の先だけが、私たちより遅れて戸の下へ滑った。


「戻ろう」


 彼の声は掠れていた。

 私はうなずいた。


 向きを変えた瞬間、背後で金具が鳴った。

 乾いた音が、廊下の奥まで走る。


 潤も足を止めた。つないだ手のひらが汗ばんでいる。互いの顔を見たが、どちらも先に進もうとはしなかった。


「一緒に」

 私は言った。

「見る時も、一緒にして」


 潤は短くうなずいた。

 二人で、戸口へ顔を向ける。


 取っ手は元の位置へ戻っていた。

 光も消えている。


 その代わり、戸の小窓に白いものが映っていた。


 顔の高さだった。


 息を吸いかけたまま、喉が止まった。

 白いものには目の穴が二つあり、その奥は暗い。鼻筋から頬へ滑らかな面が続き、口元だけが、わずかに笑っている。


 《最後の舞踏会》で見た仮面だった。


     *


 潤が私の前へ出ようとした。

 私はつないだ手を引いた。


「隣にいて」


 声は小さく、戸の向こうへ吸われた。

 潤は私を見て、半歩戻った。


 仮面は動かない。

 ガラスの向こうに誰かが立っているのか、掛けてあるだけなのか、わからなかった。黒い衣装なら、暗がりに紛れて見えないかもしれない。

 そう考えても、目の穴から視線を外せない。見つめていると、こちらの目の奥まで冷えていく。


 潤が声を掛けた。


「誰か、いますか」


 返事はなかった。

 戸の内側で、何かが擦れた。


 私は潤の指へ、自分の指を掛け直した。

 その時、仮面の下で白いものが動いた。


 手だった。


 手袋をはめた手が、小窓の内側へ上がってくる。布がガラスに触れ、きゅ、と鳴った。手のひらがこちらを向く。

 指先が、ガラスへ触れる直前に曲がった。


 誰かの手を取る形だった。


 私は後ろへ下がった。

 踵が床の継ぎ目に当たり、身体がよろめく。潤も同時に動いた。


 小窓のガラスに、私たちの姿が映った。

 白い仮面に重なって、潤の顔が見える。その隣に私がいる。


 けれど、映った私の右手は、ケースを持っていなかった。


 ガラスの向こうへ差し出されている。


「未央」


 潤の声で、私は自分の右手を見た。

 持ち手が指に食い込み、関節が白くなっている。ケースはここにある。手を上げてなどいない。


 潤が私の左手を握り直した。

 指が食い込み、痛みが走る。


「こっちを見て」


 私は彼へ顔を向けた。

 すぐそばに、本当の顔がある。唇の色が薄く、額の髪が乱れていた。

 目が合うと、彼は息を吐いた。


「行こう」

「うん」


 今度は振り返らずに歩いた。

 背中の奥で、ガラスを指先で叩く音が一度だけした。


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