断頭台への行進(3)
来た道を戻っているはずだった。
けれど、部屋の番号が見つからない。
戸の脇には、四角い札を外した跡だけが残っていた。壁紙のそこだけが白く、周囲はくすんでいる。
「番号がない」
「見えてる」
「さっきは、あったよね」
「あった」
潤の返事が短いことに、今は助けられた。
見間違いかもしれないと説明する必要がない。
番号のない戸を通り過ぎる時、私は一度だけ振り返った。
札の跡が、さっきより白く見えた。そこに数字があったはずだという記憶だけが、壁に残っている。
廊下の先に、緑色の灯りが見えた。
薄く明滅している。
その下に、階段があった。
潤が歩く速さを落とした。
私は手すりに触れた。角の木は、長年触られて黒くなっている。ざらつきが指先に残った。
いつもの階段に似ていた。
壁の案内図は、額だけになっている。
中の紙はなかった。
「下りてみる?」
「ここにいても、外には出られない」
「うん」
私はケースを脚の外側へ寄せた。
潤も背中のチェロを直す。金具が鳴り、その音が廊下に大きく響いた。
つないだ手を動かし、二人で下りられる位置を探す。
一段ずつ、足を置いた。
階段の中は空気が重く、靴音が下へ落ちていった。足元を見るたび、潤の靴が視界に入る。彼は先へ行きすぎず、私を待っていた。
私は待たせないように下りた。
踊り場に窓はなかった。
壁の途中に、古い釘が一本残っている。
私は足を止めかけた。
潤の手も止まった。
「窓」
私が言うと、彼はうなずいた。
上を見る。
廊下の灯りはまだ見えていた。それなのに、そこまでの階段が、上がってきた時より長く感じられた。緑の光が、遠くで水の底のように揺れている。
下から空気が流れてきた。
湿った匂いがする。
金属の匂いも混じっていた。
私は、この空気を知っていた。
*
最後の段を下りると、天井が低くなった。
廊下の奥に、両開きの扉がある。片側だけが少し開き、その隙間から淡い灯りが漏れていた。
地下シアターだった。
私は階段を振り返った。
一階の玄関を通っていない。事務室も、自販機も、玄関に並んだ紙のかぼちゃも見ていなかった。
潤がスマートフォンを出した。
画面はついた。
二十一時十二分。
青白い光が、彼の指と頬を照らす。
彼は数字を見て、すぐに画面を消した。
「上へ戻ろう」
私はうなずいた。
身体を向けた時、シアターの中から紙をめくる音がした。
続いて、弓が弦へ触れる。
ヴァイオリンだった。
音程が少し高い。
細い音が耳の奥へ刺さり、首筋が粟立った。
私は指先を動かした。
そこはもっと低く取る。そうしなければ、次の音へつながらない。
短いフレーズが、もう一度弾かれた。
潤の手が止まった。
「今の」
私は扉を見た。
曲はわかる。けれど、この場所で聞こえる理由がない。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲。
《幻想》ではなかった。
それでも、あの頃の私が何度も弾いた箇所だった。音程を直され、弓の返しを直され、最後まで自分のものにできなかった。
音は途中でためらい、弓を返すところで途切れた。
弦の震えが残り、次の音だけが強くなる。
私は、その弾き方を知っていた。
録音を聴き返すたび、そこだけ顔をしかめた。
「……私?」
声にすると、演奏が止まった。
余韻だけが暗い廊下に残り、耳の奥で細く震え続ける。
潤が私を見た。
驚いているだけではない。ずっと前に見たものを、今、目の前で確かめている顔だった。
「覚えてる?」
彼はうなずき、扉へ目を戻した。
「でも、今の未央じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、私は扉へ近づこうとしていた。
片足が、階段から離れる。
シアターの中で、椅子が動いた。
床を引きずる音が、ひとつ、ふたつ、暗がりの奥へ続く。
潤が私の名を呼んだ。
私は彼を見た。
ほとんど同時に、扉の向こうからも聞こえた。
「未央」
同じ声だった。
目の前にいる潤は、もう口を閉じていた。
*
潤の手が、私を階段のほうへ引いた。
私は足を戻した。靴底が段の縁へ当たり、小さく鳴る。
扉の向こうから、もう一度、私の名が聞こえた。
今度は、さっきより近かった。
声というより、扉の木目の内側が、私の名の形に震えたように聞こえた。
潤は答えなかった。
私の顔を見たまま、首を横に振る。その動きが、青白い非常灯の下ではっきり見えた。
「上がれる?」
「うん」
一段目へ足を置いた。
つないだ手が上がり、潤も続く。
その時、シアターの中で、チェロの音がした。
低い開放弦。
弓が弦の端へ届く前に、音が途切れた。
沈黙が落ちた。
次の瞬間、同じ音が、今度は扉のすぐ裏で鳴った。
短く擦る。弦の震えだけが、扉の隙間から細く漏れる。
次の音へは進まない。
潤が音を合わせる時の弾き方に似ていた。
彼の背中には、チェロのケースがある。
黒い肩紐が、コートへ食い込んでいた。
私はそれを見ながら、二段目へ上がった。
背後で、椅子が引かれた。
一脚ではなかった。
床を擦る音が、暗い階段の下から順に近づいてくる。ひとつ止まると、別の椅子が鳴る。音だけが、段を上ってくる。
誰かが咳をした。
すぐ耳元で聞こえたのに、暗がりには何もなかった。
紙を揃える音が続いた。
一枚ずつではなく、同じ紙を何度も揃え直しているようだった。
私は階段を上った。
踊り場に着けば、向きを変える。それから、もう一つ上る。
数えないようにしていたのに、十二段目で足が止まった。
目の前に、両開きの扉があった。
片側が少しだけ開いている。
隙間から漏れる灯りの幅も、同じだった。
潤が隣へ上がってきた。
彼の靴が、私の靴と同じ高さに並ぶ。
私は振り返った。
下りてきた階段が、背後にあった。
その先は暗く、踊り場までは見えなかった。
暗がりの中で、何かが一段、踏んだ。
靴底が石を擦る音だった。
音がした段には、誰もいない。
「……上ったのに」
潤は手すりへ触れた。
指先を置いたまま、しばらく動かなかった。
扉の向こうで、誰かが譜面台の高さを変えた。
ねじを緩める音。
軸を引き上げる音。
それから、譜面台が止まる。
止まったはずなのに、金属の細い震えだけが、いつまでも消えなかった。
*
足元の壁に、潤がケースを下ろした。
肩紐を外す時も、つないだ手は離さなかった。片方の腕を抜き、身体を回して、もう片方を外す。
私もヴァイオリンのケースを床へ置いた。
持ち手から離れた指が、すぐには伸びなかった。
右手を開くと、赤い筋が残っている。
潤がそれを見た。
「痛む?」
「少し」
彼は左手の力を緩めた。
私は、その手を引き留めた。
「握ってて」
「握ってる」
言われてから、彼の指がまだ自分の指の間にあることを確かめた。
私は壁へ背をつけた。潤も隣へ寄る。二つのケースが、脚の前に並んでいた。
シアターの中では、音を合わせ始めていた。
ヴァイオリンのラが鳴る。
少し遅れて、別のラが重なる。低い。片方が上がり、揃う直前で止まった。
沈黙。
その沈黙の向こうで、弓が弦へ触れた。
触れただけなのに、木の胴が小さく鳴った。
私の右手が、膝の上で動いた。
弓を持っていないのに、親指が曲がる。
潤が私を見た。
「さっき、入りたくなった?」
私は扉へ目を向けた。
開いた隙間には、床しか見えない。
「確かめたかった」
「何を」
「あの時の私が、本当にいるのか」
声にしてから、右手を握った。
今まで聞こえたものの中で、いちばん近かった。誰もいない練習室の《幻想》より、同じ文面の返事より。
あの弓の返しを、私は知っている。
「潤も、聴いてたんだね」
「うん」
彼の返事は、すぐだった。
その直後、扉の向こうで、床を踏む音がした。
一歩。
止まる。
音の位置だけが、私たちのいる階段の前へ移った。
「私、あそこ、ずっと嫌だった」
「知ってる」
「わかる?」
「弾いたあと、いつも同じ顔してた」
私は彼を見た。
潤は扉の隙間へ視線を置いていた。
「あそこで止まると、次に進めなくなる。最初から弾き直しても、また同じところで止まる」
「……そんなに見てた?」
「見てたよ」
彼の指が、私の手の甲へ触れた。
一度だけ、確かめるように動く。
シアターの中で、ヴァイオリンが弾き始めた。
さっきの箇所だった。
高い音程。
ためらう弓。
次の音だけが強くなる。
私は息を止めた。
音は、扉の向こうからではなく、扉の隙間のすぐ近くで鳴っているようだった。
隙間の暗さが、音のたびにわずかに膨らんだ。
潤が、つないだ手を少し持ち上げた。
「今日は、ここで聴かなくていい」
顔を向けると、彼がこちらを見ていた。
「今度、聴かせて」
「今の?」
「うん」
喉の奥が痛くなった。
うなずこうとした時、向こうのヴァイオリンが止まった。
弓を置く音がした。
そのあと、扉の内側で、誰かが息を吸った。
長く、静かに。
私たちの呼吸を待つように。
*
「今度、聴かせて」
扉の向こうから、潤の声がした。
私は彼の手へ目を落とした。
長い指が、私の指を握っている。爪の端に、鉛筆の黒い汚れが残っていた。
今日、チェロの譜面へ書き込んでいた手だった。
潤も、自分の手を見た。
それから、私へ顔を向けた。
私は彼が何か言うより先に、首を横に振った。
「言わなくていい」
声が震えた。
「今、聞いたから」
潤の口が閉じた。
小さくうなずく。
向こうでも、音が止まった。
静けさの中で、私は自分の息を聞いた。
その隣に、潤の息がある。彼のほうが、少し長く吐いていた。
肩が触れるくらい近くへ寄った。
扉の向こうで、衣擦れがした。
布が、椅子の背を撫でたような音だった。
シアターの扉が、わずかに動いた。
隙間が広がる。
灯りの中に、椅子が二脚見えた。
一脚の背には、黒い上着が掛かっていた。
その隣の椅子には、ヴァイオリンが置かれている。
私は自分のケースを見た。
留め具は、全部掛かっていた。
向こうのヴァイオリンの顎当てには、薄い布が載っていた。
昔、私が使っていたものと同じ色だった。
潤がケースの肩紐へ手を伸ばした。
私も右手で持ち手をつかむ。
椅子の後ろで、白い手袋が動いた。
指先だけが、譜面台の陰から現れた。
紙の端をつまみ、ゆっくりと持ち上げる。
譜面台の上へ、一枚の紙を置く。
端を揃え、中央を指で押さえた。
その紙の上に、私たちの名前が並んでいた。
高橋未央。
千堂潤。
紙の端が、手袋の指の下で震えていた。
離れた場所からでも、名前だけは読めた。その下にも何か書かれている。目を凝らしても、細い線が重なり、文字にはならなかった。
白い指が、私の名前をなぞった。
隣で、潤が息を詰めた。
握られた手に、痛いほど力がこもる。
指は紙の上を滑り、彼の名前へ移った。
そこでも止まった。
爪のあるはずの場所に、布の縫い目が見えた。
「見ないで」
潤の声が、喉の奥で潰れた。
私は紙から目を離した。
けれど、彼はまだ見ていた。
横顔は動かない。握った手だけが、少しずつ扉のほうへ引かれていく。
私は肘を曲げ、その手を自分の胸元へ引き寄せた。
「潤」
返事はなかった。
指先が、冷たくなっていく。
白い手袋が、紙を裏返した。
黒い上着の掛かった椅子が、ゆっくりとこちらを向いた。
脚が床を擦る。座面の上に、細長い影が落ちていた。
潤の肩が跳ねた。
私は彼の前へ回りかけ、それから、隣へ戻った。
つないだ手を持ち上げる。
「私を見て」
彼の目が、私へ向いた。
けれど、すぐにその後ろへ戻ろうとする。
「こっち。潤、私を見て」
声が掠れた。
私はもう一度、手を引いた。
潤の指が動いた。
握られていた手のひらに、ようやく力が戻る。
「……未央」
「うん。ここにいる」
彼は瞬きをした。
扉へ顔を戻しかけたので、私は首を横に振った。
「今、何が見えた?」
潤は答えなかった。
唇を一度、湿らせる。呼吸は浅く、胸元だけが細かく上下していた。
「お前が、座ってた」
私は自分のケースへ目を落とした。
持ち手をつかんだ右手が震えている。
「どこに」
「ヴァイオリンの椅子に」
そこには、楽器しかなかった。
けれど、確かめるために振り返ることはできなかった。
「俺のほうを見てた」
彼の声が小さくなった。
私は握った手を離さなかった。
「私はここにいる」
「……わかってる」
「なら、私だけ見て」
潤の指が、今度は自分から私の手を握り直した。
*
潤は片方の肩紐へ腕を通した。
ケースを背へ引き上げ、もう片方を肩へ掛ける。金具が壁に触れ、硬い音がした。
その音で、私は少しだけ息を吸えた。
「立てる?」
彼が聞いた。
私はうなずき、ヴァイオリンのケースを持ち上げた。膝が一度、折れかける。
潤の手が、すぐに肘を支えた。
「無理するな」
「大丈夫」
「声、震えてる」
「潤も」
彼は一瞬、口を閉じた。
それから、私の肘を離さずに言った。
「じゃあ、二人とも大丈夫じゃない」
「……うん」
「それでも行く」
二人で壁から離れる。
足元には、さっきまで私たちがいた場所の影が残っていた。肩を寄せた二つの形が、壁の下で重なっている。
私たちが一歩動いても、その影は動かなかった。
潤が階段へ顔を向けた。
暗がりの奥で、また靴音がした。
一段。
その次の一段。
上ってくるのか、下りてくるのか、わからない。
私は手すりを見た。
さっき彼が触れていた場所に、白い指の跡があった。五本とも、こちらへ向いている。
潤も気づいた。
手すりから身体を離し、私を壁側へ寄せた。肩が私の肩に触れる。
「触らないで」
「触ってない」
「違う。あれが」
彼の声が裏返った。
私は手すりから目を逸らし、彼の袖をつかんだ。
「見ない。行こう」
「未央」
「私を置いていかないで」
「置いていかない」
返事は早かった。
潤は私の手を取り、指を絡めた。
シアターの中で、椅子がもう一度鳴った。
「ここから、動こう」
私が言った。
潤は私を見た。
「上へ?」
「うん。戻ってきても、ここで待つよりは」
「手、離すなよ」
「潤も」
彼はうなずいた。
私たちは扉から離れ、階段へ足を置いた。
背後で、ヴァイオリンが鳴り始めた。
ブラームスだった。
同じところからだった。
私は一段上がった。
潤も、同じ段へ足を置く。
次の一段へ進むと、音が途切れた。
あの弓の返しだった。
私は息を吸いかけた。
すぐ隣で、潤の肩が上がった。
握った手に、強く力がこもる。
二人とも、足を止めていた。




