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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第四章 断頭台への行進
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32/42

断頭台への行進(3)

 来た道を戻っているはずだった。

 けれど、部屋の番号が見つからない。


 戸の脇には、四角い札を外した跡だけが残っていた。壁紙のそこだけが白く、周囲はくすんでいる。


「番号がない」

「見えてる」

「さっきは、あったよね」

「あった」


 潤の返事が短いことに、今は助けられた。

 見間違いかもしれないと説明する必要がない。


 番号のない戸を通り過ぎる時、私は一度だけ振り返った。

 札の跡が、さっきより白く見えた。そこに数字があったはずだという記憶だけが、壁に残っている。


 廊下の先に、緑色の灯りが見えた。

 薄く明滅している。

 その下に、階段があった。


 潤が歩く速さを落とした。

 私は手すりに触れた。角の木は、長年触られて黒くなっている。ざらつきが指先に残った。

 いつもの階段に似ていた。


 壁の案内図は、額だけになっている。

 中の紙はなかった。


「下りてみる?」

「ここにいても、外には出られない」

「うん」


 私はケースを脚の外側へ寄せた。

 潤も背中のチェロを直す。金具が鳴り、その音が廊下に大きく響いた。


 つないだ手を動かし、二人で下りられる位置を探す。

 一段ずつ、足を置いた。


 階段の中は空気が重く、靴音が下へ落ちていった。足元を見るたび、潤の靴が視界に入る。彼は先へ行きすぎず、私を待っていた。

 私は待たせないように下りた。


 踊り場に窓はなかった。

 壁の途中に、古い釘が一本残っている。


 私は足を止めかけた。

 潤の手も止まった。


「窓」


 私が言うと、彼はうなずいた。


 上を見る。

 廊下の灯りはまだ見えていた。それなのに、そこまでの階段が、上がってきた時より長く感じられた。緑の光が、遠くで水の底のように揺れている。


 下から空気が流れてきた。

 湿った匂いがする。

 金属の匂いも混じっていた。


 私は、この空気を知っていた。


     *


 最後の段を下りると、天井が低くなった。

 廊下の奥に、両開きの扉がある。片側だけが少し開き、その隙間から淡い灯りが漏れていた。


 地下シアターだった。


 私は階段を振り返った。

 一階の玄関を通っていない。事務室も、自販機も、玄関に並んだ紙のかぼちゃも見ていなかった。


 潤がスマートフォンを出した。

 画面はついた。


 二十一時十二分。


 青白い光が、彼の指と頬を照らす。

 彼は数字を見て、すぐに画面を消した。


「上へ戻ろう」


 私はうなずいた。


 身体を向けた時、シアターの中から紙をめくる音がした。

 続いて、弓が弦へ触れる。


 ヴァイオリンだった。


 音程が少し高い。

 細い音が耳の奥へ刺さり、首筋が粟立った。


 私は指先を動かした。

 そこはもっと低く取る。そうしなければ、次の音へつながらない。


 短いフレーズが、もう一度弾かれた。


 潤の手が止まった。


「今の」


 私は扉を見た。

 曲はわかる。けれど、この場所で聞こえる理由がない。


 ブラームスのヴァイオリン協奏曲。


 《幻想》ではなかった。

 それでも、あの頃の私が何度も弾いた箇所だった。音程を直され、弓の返しを直され、最後まで自分のものにできなかった。


 音は途中でためらい、弓を返すところで途切れた。

 弦の震えが残り、次の音だけが強くなる。


 私は、その弾き方を知っていた。

 録音を聴き返すたび、そこだけ顔をしかめた。


「……私?」


 声にすると、演奏が止まった。


 余韻だけが暗い廊下に残り、耳の奥で細く震え続ける。


 潤が私を見た。

 驚いているだけではない。ずっと前に見たものを、今、目の前で確かめている顔だった。


「覚えてる?」


 彼はうなずき、扉へ目を戻した。


「でも、今の未央じゃない」


 その言葉を聞いた瞬間、私は扉へ近づこうとしていた。

 片足が、階段から離れる。


 シアターの中で、椅子が動いた。

 床を引きずる音が、ひとつ、ふたつ、暗がりの奥へ続く。


 潤が私の名を呼んだ。

 私は彼を見た。


 ほとんど同時に、扉の向こうからも聞こえた。


「未央」


 同じ声だった。


 目の前にいる潤は、もう口を閉じていた。


     *


潤の手が、私を階段のほうへ引いた。

 私は足を戻した。靴底が段の縁へ当たり、小さく鳴る。


 扉の向こうから、もう一度、私の名が聞こえた。


 今度は、さっきより近かった。

 声というより、扉の木目の内側が、私の名の形に震えたように聞こえた。


 潤は答えなかった。

 私の顔を見たまま、首を横に振る。その動きが、青白い非常灯の下ではっきり見えた。


「上がれる?」

「うん」


 一段目へ足を置いた。

 つないだ手が上がり、潤も続く。


 その時、シアターの中で、チェロの音がした。


 低い開放弦。

 弓が弦の端へ届く前に、音が途切れた。


 沈黙が落ちた。


 次の瞬間、同じ音が、今度は扉のすぐ裏で鳴った。

 短く擦る。弦の震えだけが、扉の隙間から細く漏れる。

 次の音へは進まない。


 潤が音を合わせる時の弾き方に似ていた。


 彼の背中には、チェロのケースがある。

 黒い肩紐が、コートへ食い込んでいた。


 私はそれを見ながら、二段目へ上がった。


 背後で、椅子が引かれた。


 一脚ではなかった。

 床を擦る音が、暗い階段の下から順に近づいてくる。ひとつ止まると、別の椅子が鳴る。音だけが、段を上ってくる。


 誰かが咳をした。

 すぐ耳元で聞こえたのに、暗がりには何もなかった。


 紙を揃える音が続いた。

 一枚ずつではなく、同じ紙を何度も揃え直しているようだった。


 私は階段を上った。

 踊り場に着けば、向きを変える。それから、もう一つ上る。

 数えないようにしていたのに、十二段目で足が止まった。


 目の前に、両開きの扉があった。


 片側が少しだけ開いている。

 隙間から漏れる灯りの幅も、同じだった。


 潤が隣へ上がってきた。

 彼の靴が、私の靴と同じ高さに並ぶ。


 私は振り返った。


 下りてきた階段が、背後にあった。

 その先は暗く、踊り場までは見えなかった。


 暗がりの中で、何かが一段、踏んだ。


 靴底が石を擦る音だった。

 音がした段には、誰もいない。


「……上ったのに」


 潤は手すりへ触れた。

 指先を置いたまま、しばらく動かなかった。


 扉の向こうで、誰かが譜面台の高さを変えた。

 ねじを緩める音。

 軸を引き上げる音。

 それから、譜面台が止まる。


 止まったはずなのに、金属の細い震えだけが、いつまでも消えなかった。


     *


 足元の壁に、潤がケースを下ろした。

 肩紐を外す時も、つないだ手は離さなかった。片方の腕を抜き、身体を回して、もう片方を外す。

 私もヴァイオリンのケースを床へ置いた。


 持ち手から離れた指が、すぐには伸びなかった。

 右手を開くと、赤い筋が残っている。


 潤がそれを見た。

「痛む?」

「少し」


 彼は左手の力を緩めた。

 私は、その手を引き留めた。


「握ってて」

「握ってる」


 言われてから、彼の指がまだ自分の指の間にあることを確かめた。

 私は壁へ背をつけた。潤も隣へ寄る。二つのケースが、脚の前に並んでいた。


 シアターの中では、音を合わせ始めていた。


 ヴァイオリンのラが鳴る。

 少し遅れて、別のラが重なる。低い。片方が上がり、揃う直前で止まった。


 沈黙。


 その沈黙の向こうで、弓が弦へ触れた。

 触れただけなのに、木の胴が小さく鳴った。


 私の右手が、膝の上で動いた。

 弓を持っていないのに、親指が曲がる。


 潤が私を見た。


「さっき、入りたくなった?」


 私は扉へ目を向けた。

 開いた隙間には、床しか見えない。


「確かめたかった」

「何を」

「あの時の私が、本当にいるのか」


 声にしてから、右手を握った。

 今まで聞こえたものの中で、いちばん近かった。誰もいない練習室の《幻想》より、同じ文面の返事より。

 あの弓の返しを、私は知っている。


「潤も、聴いてたんだね」

「うん」


 彼の返事は、すぐだった。


 その直後、扉の向こうで、床を踏む音がした。


 一歩。

 止まる。


 音の位置だけが、私たちのいる階段の前へ移った。


「私、あそこ、ずっと嫌だった」

「知ってる」

「わかる?」

「弾いたあと、いつも同じ顔してた」


 私は彼を見た。

 潤は扉の隙間へ視線を置いていた。


「あそこで止まると、次に進めなくなる。最初から弾き直しても、また同じところで止まる」

「……そんなに見てた?」

「見てたよ」


 彼の指が、私の手の甲へ触れた。

 一度だけ、確かめるように動く。


 シアターの中で、ヴァイオリンが弾き始めた。

 さっきの箇所だった。


 高い音程。

 ためらう弓。

 次の音だけが強くなる。


 私は息を止めた。


 音は、扉の向こうからではなく、扉の隙間のすぐ近くで鳴っているようだった。

 隙間の暗さが、音のたびにわずかに膨らんだ。


 潤が、つないだ手を少し持ち上げた。


「今日は、ここで聴かなくていい」


 顔を向けると、彼がこちらを見ていた。


「今度、聴かせて」

「今の?」

「うん」


 喉の奥が痛くなった。

 うなずこうとした時、向こうのヴァイオリンが止まった。


 弓を置く音がした。


 そのあと、扉の内側で、誰かが息を吸った。

 長く、静かに。

 私たちの呼吸を待つように。


     *


「今度、聴かせて」


 扉の向こうから、潤の声がした。


 私は彼の手へ目を落とした。

 長い指が、私の指を握っている。爪の端に、鉛筆の黒い汚れが残っていた。

 今日、チェロの譜面へ書き込んでいた手だった。


 潤も、自分の手を見た。

 それから、私へ顔を向けた。


 私は彼が何か言うより先に、首を横に振った。


「言わなくていい」


 声が震えた。


「今、聞いたから」


 潤の口が閉じた。

 小さくうなずく。


 向こうでも、音が止まった。


 静けさの中で、私は自分の息を聞いた。

 その隣に、潤の息がある。彼のほうが、少し長く吐いていた。

 肩が触れるくらい近くへ寄った。


 扉の向こうで、衣擦れがした。


 布が、椅子の背を撫でたような音だった。


 シアターの扉が、わずかに動いた。


 隙間が広がる。

 灯りの中に、椅子が二脚見えた。


 一脚の背には、黒い上着が掛かっていた。

 その隣の椅子には、ヴァイオリンが置かれている。


 私は自分のケースを見た。

 留め具は、全部掛かっていた。


 向こうのヴァイオリンの顎当てには、薄い布が載っていた。

 昔、私が使っていたものと同じ色だった。


 潤がケースの肩紐へ手を伸ばした。

 私も右手で持ち手をつかむ。


 椅子の後ろで、白い手袋が動いた。


 指先だけが、譜面台の陰から現れた。

 紙の端をつまみ、ゆっくりと持ち上げる。


 譜面台の上へ、一枚の紙を置く。

 端を揃え、中央を指で押さえた。


 その紙の上に、私たちの名前が並んでいた。


高橋未央。

千堂潤。


 紙の端が、手袋の指の下で震えていた。

 離れた場所からでも、名前だけは読めた。その下にも何か書かれている。目を凝らしても、細い線が重なり、文字にはならなかった。


 白い指が、私の名前をなぞった。


 隣で、潤が息を詰めた。

 握られた手に、痛いほど力がこもる。


 指は紙の上を滑り、彼の名前へ移った。

 そこでも止まった。

 爪のあるはずの場所に、布の縫い目が見えた。


「見ないで」


 潤の声が、喉の奥で潰れた。

 私は紙から目を離した。


 けれど、彼はまだ見ていた。


 横顔は動かない。握った手だけが、少しずつ扉のほうへ引かれていく。

 私は肘を曲げ、その手を自分の胸元へ引き寄せた。


「潤」


 返事はなかった。

 指先が、冷たくなっていく。


 白い手袋が、紙を裏返した。


 黒い上着の掛かった椅子が、ゆっくりとこちらを向いた。

 脚が床を擦る。座面の上に、細長い影が落ちていた。


 潤の肩が跳ねた。


 私は彼の前へ回りかけ、それから、隣へ戻った。

 つないだ手を持ち上げる。


「私を見て」


 彼の目が、私へ向いた。

 けれど、すぐにその後ろへ戻ろうとする。


「こっち。潤、私を見て」


 声が掠れた。

 私はもう一度、手を引いた。


 潤の指が動いた。

 握られていた手のひらに、ようやく力が戻る。


「……未央」

「うん。ここにいる」


 彼は瞬きをした。

 扉へ顔を戻しかけたので、私は首を横に振った。


「今、何が見えた?」


 潤は答えなかった。

 唇を一度、湿らせる。呼吸は浅く、胸元だけが細かく上下していた。


「お前が、座ってた」


 私は自分のケースへ目を落とした。

 持ち手をつかんだ右手が震えている。


「どこに」

「ヴァイオリンの椅子に」


 そこには、楽器しかなかった。

 けれど、確かめるために振り返ることはできなかった。


「俺のほうを見てた」


 彼の声が小さくなった。

 私は握った手を離さなかった。


「私はここにいる」

「……わかってる」

「なら、私だけ見て」


 潤の指が、今度は自分から私の手を握り直した。


     *


 潤は片方の肩紐へ腕を通した。

 ケースを背へ引き上げ、もう片方を肩へ掛ける。金具が壁に触れ、硬い音がした。

 その音で、私は少しだけ息を吸えた。


「立てる?」


 彼が聞いた。

 私はうなずき、ヴァイオリンのケースを持ち上げた。膝が一度、折れかける。


 潤の手が、すぐに肘を支えた。


「無理するな」

「大丈夫」

「声、震えてる」

「潤も」


 彼は一瞬、口を閉じた。

 それから、私の肘を離さずに言った。


「じゃあ、二人とも大丈夫じゃない」

「……うん」

「それでも行く」


 二人で壁から離れる。

 足元には、さっきまで私たちがいた場所の影が残っていた。肩を寄せた二つの形が、壁の下で重なっている。


 私たちが一歩動いても、その影は動かなかった。


 潤が階段へ顔を向けた。

 暗がりの奥で、また靴音がした。


 一段。

 その次の一段。


 上ってくるのか、下りてくるのか、わからない。


 私は手すりを見た。

 さっき彼が触れていた場所に、白い指の跡があった。五本とも、こちらへ向いている。


 潤も気づいた。

 手すりから身体を離し、私を壁側へ寄せた。肩が私の肩に触れる。


「触らないで」

「触ってない」

「違う。あれが」


 彼の声が裏返った。

 私は手すりから目を逸らし、彼の袖をつかんだ。


「見ない。行こう」

「未央」

「私を置いていかないで」

「置いていかない」


 返事は早かった。

 潤は私の手を取り、指を絡めた。


 シアターの中で、椅子がもう一度鳴った。


「ここから、動こう」

 私が言った。


 潤は私を見た。


「上へ?」

「うん。戻ってきても、ここで待つよりは」

「手、離すなよ」

「潤も」


 彼はうなずいた。

 私たちは扉から離れ、階段へ足を置いた。


 背後で、ヴァイオリンが鳴り始めた。


 ブラームスだった。

 同じところからだった。


 私は一段上がった。

 潤も、同じ段へ足を置く。


 次の一段へ進むと、音が途切れた。


 あの弓の返しだった。

 私は息を吸いかけた。


 すぐ隣で、潤の肩が上がった。

 握った手に、強く力がこもる。


 二人とも、足を止めていた。


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