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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第四章 断頭台への行進
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断頭台への行進(4)

ココアを飲み終えて、私はマグをテーブルへ置いた。陶器の底が木の天板に触れ、かすかな音を立てる。窓の外では、雨に濡れた街灯の光が滲んでいた。冷えたガラスに室内の明かりがぼんやり映り、カーテンの隙間から見える街灯だけが、白い息のような光を落としている。


 マグの底には、少しだけ茶色い跡が残っていた。甘いココアの匂いと、暖房の乾いた空気が部屋に混じっている。膝には厚手の膝掛けがかかっていて、その内側だけが、外の寒さから切り離されたように温かかった。


 鞄からスマートフォンを出す。冷えた指先で電源ボタンに触れると、黒い画面が一瞬で明るくなった。母へ、着いたことと、だいぶ落ち着いたことを送る。白い吹き出しの中に短い文章が並び、すぐに既読の表示がついた。


 温かくしてね。


 返ってきた文字が、青白い画面の上で小さく光っている。私はそのメッセージを見つめてから、短く返事をした。送信したあとも、画面の明かりが指先と頬を淡く照らしていた。


 返事をしてから、画面へ目を落としたまま言った。


「キルシェ、今年のクリスマスケーキの写真、載せてた」

「もう?」

「うん。今日、見たの」


 


インスタを開き、店の投稿を探した。画面を指で滑らせるたび、写真が切り替わる。店の名前を見つけてタップすると、白い長皿の上に、横長のロールケーキが現れた。チョコレートスポンジの濃い茶色が、木の枝を思わせた。端には、淡い色のクリームを巻き込んだ渦が見える。上にはクリームが小さく絞られ、ナッツと金色のクリスマス飾り。そして粉砂糖が雪のように散っていた。画面の明るさに浮かぶそのケーキは、冷たい冬の夜の中に置かれた、小さな森の景色のようだった。写真の下には、今年のクリスマスケーキです、とあった。


 私は画面を潤のほうへ傾けた。スマートフォンの光が、彼の顎や頬の輪郭を淡く照らす。肩に回っていた腕が少し緩み、彼がこちらへ身を寄せた。二人の肩が触れ合い、膝掛けの中で体温が重なる。


「これ、毎年あるやつ?」

「ブッシュ・ド・ノエル。あと、こっち」


 指で写真を送った。画面の上を指先が滑り、次の写真が現れる。


 イチゴと生クリームがたっぷり載った丸いケーキだった。赤い実の表面には、部屋の照明を受けたような艶があり、白いクリームの山が柔らかそうに重なっている。切り分けた一片の写真では、白いクリームのあいだに、チョコレートスポンジの層が見えた。


「家のは、これにしようかな」


 潤がうなずいた。画面を覗き込むために、彼の髪が私のこめかみに近づく。シャンプーの匂いがかすかにして、私はそれを意識しないふりをしながら、次の写真へ進んだ。


 四角いケーキだった。


 濃い色の生地の断面に、ドライフルーツとナッツが見える。琥珀色の果実や細かな木の実が、暗い生地の中に散らばっていた。上にもナッツが飾られていて、表面には薄く粉砂糖がかかっている。添えられた説明には、今年の新作、と書かれていた。


「三種類なんだ」

「今年は、これが増えたみたい」


 潤の指が、画面の端を指した。指先が私の手のすぐそばまで伸びてきて、スマートフォンを持つ手がわずかに触れ合う。


「これ、うまそう」

「ね。私も気になった」


 少し前の写真へ戻し、また新作を見る。画面の中のケーキを拡大すると、ドライフルーツの表面まで見えた。写真の中の甘い香りを想像するように、私は無意識に唇を閉じる。


 潤も急がず、同じ画面を見ていた。彼の肩が私の肩に触れたまま、離れない。その距離が、暖房の効いた部屋の中でいちばん確かな温かさに思えた。


「予約、いつから?」

「十一月二十日」


 説明の行を指で示すと、彼が読んだ。画面の白い文字が、二人の顔の間で静かに光っている。


「その頃、一緒に行く?」

「……うん」


 私はスマートフォンを持ち直した。指先が触れた画面の光が、手の甲を青白く照らす。


「潤も、買う?」

「家の分。十二月の後半には、二人とも帰ってくるから」

「クリスマス、一緒に過ごせるんだ」

「うん」


 靴箱の上の器と、玄関で話した彼のお母さんを思い出した。玄関の冷たい床、並んだ靴、扉の向こうから入り込んだ冬の空気。この家に、また三人分の靴が並ぶ。


「じゃあ、潤の家はどれ?」

「ブッシュ・ド・ノエルかな。母親が好きだから」


 彼はそこで一度、画面から目を離した。何かを考えるように、ほんの少しだけ視線を伏せる。スマートフォンの光が消えかけた瞳に、暖房の橙色の明かりが映った。


「それと、もう一つ」

「もう一つ?」


 潤は私を見た。肩が触れ合うほど近い距離で、まっすぐに。


「未央と食べる分」


 私は写真を送ろうとしていた指を止めた。


 画面の上で、指先だけが宙に浮いている。明るい写真の中では、四角いケーキのナッツがきらりと光っていた。潤の言葉が、すぐには胸の中へ入ってこなかった。


 頬の内側が、じわりと熱くなる。私は画面から目を上げられないまま、膝掛けの端を指でつまんだ。


 潤は隣にいた。さっきと同じ距離で、私の返事を待っている。肩に触れている体温が、薄い服地を通してゆっくり伝わってきた。


「……私も、家の分は買うから」

「うん」

「二人のは、割り勘ね」


 ようやく口にした言葉は、思っていたより事務的だった。それでも、声の端に浮かんだ笑いまでは隠せなかった。


 言ってから、画面へ目を戻した。四角いケーキが、さっきより大きく見えた。いつの間にか、指で拡大してしまっていた。


「わかった」


 潤の声に、笑いが混じった。すぐそばで響いたその声が、耳の奥に柔らかく残る。


 私は顔を向けた。


「何」

「何も。これにする?」


 画面を指されて、もう一度見る。ドライフルーツとナッツの入った、新しいケーキ。


「潤、これがいい?」

「うん。未央は?」

「私も、これ」


 今度は、迷わず答えられた。


 彼がうなずいた。動くたびに、肩が私の肩へ軽く触れる。


「じゃあ、決まり」


 私は写真を元の大きさへ戻した。画面の中のケーキが少しずつ小さくなり、投稿全体が見える。保存のアイコンをタップすると、画面の端に小さな印がついた。


 その投稿を保存してから、もう一度、新作の写真を見た。白い粉砂糖と濃い生地、散りばめられたナッツ。冬の夜に食べるには、ぴったりの色合いだった。


     *


 説明の続きを読んでいると、下のほうに別のお知らせがあった。


「あ、シュトーレンもあるって」

「キルシェの?」

「ドイツパンのお店と、一緒に作ったんだって。クリスマスマーケットで売るみたい」


 潤が顔を寄せた。彼の頬が私の髪に触れそうなほど近い。私は少し下へスクロールした。画面の中に、粉砂糖に覆われたシュトーレンの写真と、十二月から始まるマーケットの案内が出てきた。


 白い粉砂糖は、画面の中で雪のように見えた。切り口には、色とりどりのドライフルーツが埋まっている。写真の明るさを少し落とすと、部屋の暖かな照明と馴染み、手のひらの中に小さな冬の景色が現れたようだった。


「この近くでやるんだ」

「うん。お店も出るって」


 写真の隅には、通りに並ぶ小さな屋台のイラストがあった。灯りのついた屋根と、クリスマスの飾り。画面の中の小さな光が、窓の外の暗さを一瞬だけ忘れさせてくれる。


「これも、食べてみたい」

「行こうか」


 私は彼を見た。


「マーケット?」

「うん。十二月になったら」


 十一月に、ケーキを予約しに行く。

 そのあと、十二月には、また。


「キルシェにも寄りたい」

「いいよ」

「きのことじゃがいものキッシュ、食べられるといいな」

「売り切れる前に行かないとな」


 私は小さく笑った。


「先にキルシェ?」

「それでもいい」

「でも、屋台でも何か食べたい」

「じゃあ、そこはまた考えよう」


 潤も笑った。目尻がわずかに下がり、画面の光がその表情を柔らかく照らす。


 画面を消して、スマートフォンを膝へ置く。黒くなった画面に、部屋の明かりと、私たちのぼんやりした姿が映った。


 潤の肩へ、もう一度寄りかかった。厚手の服越しに伝わる体温が、冷えた指先の近くまでゆっくり届いてくる。彼の腕が、私の背中に自然に回った。


「楽しみ」

「俺も」


 彼の手が、膝掛けの上で私の手を包んだ。冷えていた指先が、重なった手のひらの中で少しずつほどけていく。窓の外では、街灯の光が白く滲んでいた。


 私は彼の指のあいだへ、自分の指を入れた。触れた指先が、確かめるようにわずかに動く。


 暗くなった画面の向こうで、十一月二十日という日付が静かに残っている。窓の外では、雨が静かに降り続いていた。けれど、重なった手のひらだけは、いつまでも冷えなかった。


     *


潤の肩に寄りかかったまま、私は小さくあくびをした。

 隠そうとして口元へ手を上げると、つないでいた指がほどけた。潤がこちらを見る。


「眠い?」

「……少し」


 眠れるとは思っていなかった。

 目を閉じたら、またあの階段が見える気がしていた。けれど今は、まぶたが重い。膝掛けの中も、彼の隣も温かかった。


 潤はテーブルの上の時計へ目を向けた。


「今夜、泊まっていけば」

「いいの?」

「うん」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけた。帰らなくていい。ひとりで暗い道を歩かなくていい。その安心に身を預けたいと思う一方で、本当にここにいていいのかという不安も、まだ消えずに残っていた。


 私は膝に置いたスマートフォンを取った。

 母とのやり取りを開き、今夜は泊まらせてもらう、と打つ。明日の朝、また連絡することも添えた。


 送ってから、少し待った。


 わかった。潤くんにもよろしくね。おやすみ。


 その返事を潤にも見せた。

 彼は読んで、うなずいた。


「明日、送る」

「うん」


 短い言葉なのに、明日の朝までがもう約束されたように感じた。私は画面を閉じる前に、潤の横顔を一度見た。彼は気づいたのか、こちらへ視線を戻す。


「なに?」

「……ううん」


 言葉にはしなかったけれど、明日も隣にいてくれることが、今までより少し特別に思えた。


 おやすみ、と返して、スマートフォンをテーブルへ置いた。

 もう、帰る時間を調べなくてよかった。けれど、置き去りにした不安が、部屋の隅でまだこちらを見ているような気もした。


     *


「ここで寝ると、首痛くなるかも」


 潤が言った。

 私は彼の肩から少し顔を離した。


「潤は、どこで寝るの?」


 聞いてから、自分の声にまだ不安が残っていることに気づいた。

 泊まっていいと言ってもらえた。それでも、別々の部屋へ行くところまでは、考えられなかった。ひとりになるのが怖い、と素直に言う代わりに、私は彼の返事を待った。


 潤は私を見ていた。

 少しだけ考えるように目を伏せ、それから、いつもより静かな声で言った。


「布団、持ってこようか。ここに」

「二人分?」

「うん。隣にいる」


 その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

 ただ同じ部屋にいるというだけではなく、私の不安を分かったうえで、隣にいてくれる。そのことが、以前より近いところに触れた気がした。


 私はリビングの床へ目を落とした。

 テーブルを少し動かせば、二枚並べられそうだった。


「私も手伝う」


 膝掛けを畳んで、二人で立ち上がった。


 廊下の灯りは、ついたままだった。

 潤について歩き、開けてもらった収納から枕を受け取る。彼が布団を抱えると、顔が半分隠れた。


「前、見える?」

「見える」


 そう言った直後、彼は戸口の前で立ち止まった。


「……ちょっと、そっち持って」


 私は布団の端を持ち上げた。

 ようやく顔が見えて、笑ってしまった。潤も笑った。


 笑えることに、少し驚いた。

 さっきまで胸の中にあった不安が、ほんの一瞬だけ遠のいている。けれど、笑い声が消えればまた戻ってくるのではないかと思い、私は布団の端を離さなかった。


 廊下を戻る時には、もう、彼の袖をつかんでいなかった。

 二人で同じ布団を持っていた。


     *


 借りた服に着替えてリビングへ戻ると、テーブルは壁際へ寄せられていた。床には布団が二枚、並んでいる。潤が片方の掛け布団を広げながら、こちらを向いた。


「長くない?」

「少し」


 袖から指先を出して見せると、彼が近づいてきた。

 片方ずつ、袖口を折ってくれる。自分でもできることなのに、私は手を引かなかった。


 触れられている間は、ここにいていいのだと確かめられる気がした。離れたあとに、また不安が押し寄せるのが怖くて、私は彼の指先を目で追った。


「これで?」

「うん。ありがとう」


 彼の指が離れた。

 けれど今度は、離れた手を追いかける代わりに、私は自分からその袖口をつまんだ。


「……潤」

「ん?」

「もう少し、ここにいてもいい?」


 聞き終える前に、彼の表情がやわらいだ。


「うん。いて」


 たったそれだけの返事だった。

 それでも、許されるのを待つのではなく、自分から望んでいいのだと、初めて思えた。


 私は折り返された袖口を、もう一度押さえた。


 母に連絡したスマートフォンを枕元へ置いた。充電器を借りてつなぎ、布団へ入る。

 シーツが最初だけ冷たかった。


 潤も隣に横になった。

 天井の灯りを消していいかと聞かれて、私は首を振った。


「少し、つけておきたい」

「わかった」


 彼は明るさを落とした。

 ソファも、壁際の楽器のケースも、見えるままだった。


 横を向くと、潤がこちらを見ていた。

 枕に頬を預けている姿は、いつもの彼より少し幼く見えた。


「潤も、眠い?」

「うん。急に来た」


 私は布団の間へ手を出した。

 彼の手も伸びてきた。


 指をつなぐと、潤が目を閉じた。

 そのまま、少しだけ眉を寄せる。


「……未央」

「いるよ」


 彼が目を開けた。

 私は握った手に力を込めた。


「ここにいる」


 言葉にすると、自分にも言い聞かせているようだった。

 ここにいる。潤もいる。灯りも消えていない。そう確かめても、胸の奥の不安は完全にはなくならない。それでも、ひとりで抱えなくていいと思えた。


 潤は私を見て、小さくうなずいた。

 親指が、私の指の付け根を一度撫でた。その動きは、これまでの慰めよりも自然で、私たちの間にもう一つ、言葉にしない合図ができたようだった。


「おやすみ」

「おやすみ」


 少し間を置いて、潤がつないだ手を持ち上げた。

 指先が、私の手の甲に触れる。確かめるような、短い触れ方だった。


「明日、起きたら……朝ごはん、作る」

「本当に?」

「うん。だから、ちゃんと寝て」


 明日の朝の話をする潤の声が、ひどく近くに聞こえた。

 私は小さく笑った。


「じゃあ、起きる」

「約束」


 その言葉に、私は指を絡め直した。


「約束」


 雨音がしていた。

 冷蔵庫の音も、遠くを走る車の音も聞こえた。


 目を閉じても、つないだ手の位置が分かった。

 暗闇の向こうに階段が浮かびそうになるたび、指先に残る潤の温度を思い出した。怖さはまだあった。けれど、その怖さの隣に、確かな安心もあった。


 私はもう一度だけ指を握り直した。少し遅れて、同じ強さで返ってきた。


 それを確かめてから、今度は返事を待たずに眠りへ落ちていった。


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