断頭台への行進(5)
タクシーの後部座席へ、ヴァイオリンのケースを入れた。
潤がチェロを積む間、私は開いたドアのそばで待っていた。
「乗ってていいよ」
彼が言った。
私は首を横に振った。
彼が見えなくなるのが嫌だった。
ほんの少しの間でも、また一人になる気がした。
「一緒に」
潤はこちらを見てから、運転手へ頼んだ。
チェロのケースを収め、傘を閉じる。
私が先に乗った。
潤もすぐ隣へ座った。
ドアが閉まると、雨音は厚いガラスの向こうへ退いた。
完全に消えたわけではない。屋根を打つ細かな響きが、遠い膜のように車内へ残っている。
車内には、濡れた傘と衣服の匂いがこもっていた。ラジオが低く流れ、運転手が行き先を尋ねる。潤が住所を答える声だけが、狭い空間の中ではっきり聞こえた。
知っている住所だった。
ジュニアオケの練習のあと、何度か送ってもらったことがある。玄関の前で、彼のお母さんと話したこともあった。
ご両親が仕事の都合で転居してからは、行っていない。
潤は大学へ通うために残った。今は家の中に彼一人しかいないことも知っていた。
今夜は、二人でそこへ帰る。
車が動き出した。
ワイパーが一定の間隔で雨を払い、視界を開けては、また白く曇らせていく。窓の外の景色が流れていく。見慣れた道も、濡れた街灯の下では別の場所のようだった。
私は膝の上の鞄を押さえた。
隣に潤がいる。車は走っている。それでも、閉じた車内の静けさが、さっきの場所を思い出させた。
潤の手が、座席の上にあった。
指先が少し曲がり、開く。それから、こちらへ向いた。
私はその手へ、自分の手を重ねた。
何も言わずに、握られた。
強すぎず、逃げられないようにする力でもない。ただ、ここにいると伝えるための力だった。
*
信号で車が止まった時、私は家へ連絡を入れた。
潤の家で休んでから帰ること、遅くなることを書いた。
何があったの、と返ってきた。
画面の上で、親指が止まる。
言葉にしようとすると、あの場所がまた近づいてくる気がした。
潤が隣から見ていた。
「電話する?」
「うん」
呼び出し音のあとに、母の声がした。
いつもの声だった。その声を聞いた瞬間、張りつめていたものが少し崩れた。
私は窓の外の赤い信号を見ながら、練習のあとで怖いことがあった、と言った。
何が、と聞かれても、順番に話せなかった。
階段を下りたのに二階で、上ったのに地下で。
口に出すほど、見たものも、信じていいものも分からなくなった。
「潤と一緒にいる」
私は言った。
「今は、外に出たから」
その言葉を口にすると、少しだけ現実へ戻れた。
潤が隣にいる。車は走っている。私は一人ではない。
母は少し黙った。
それから、潤くんに代われる、と聞いた。
私はスマートフォンを渡した。
潤はつないだ手を離し、受け取った。
「千堂です」
その言い方に、昔、家へ電話を掛けてきた時の声を思い出した。
今より少し高い声で、高橋さんはいますか、と尋ねていた。
「はい。少し落ち着いてから。……はい、一人にはしません」
その言葉が、胸の奥へ静かに届いた。
潤は、私が話せないことを責めず、代わりにすべて説明しようともしない。ただ、私を一人にしないと約束してくれている。
私は彼の袖へ触れた。
潤は電話を持つ手を替え、私の指を握った。
通話が終わると、スマートフォンが戻ってきた。
「無理して帰らなくていいって。あとで、もう一度連絡してほしいって」
「うん」
私は鞄へしまった。
潤の手へ目を落とす。
「ごめん」
「何が」
「話してもらって」
「俺は、お前ほど話せなかった」
顔を上げると、彼は前を見ていた。
街灯の光が、頬を通り過ぎる。
「何があったか、まだ、うまく言えない」
私はうなずいた。
それでいいと思えた。今すぐ分からなくても、分からないまま隣にいてくれることが、今の私には必要だった。
握られた指を、一度だけ握り返した。
今度は、私からも離れないと伝えるために。
*
千堂家の前で、タクシーがゆっくり止まった。
雨はまだ降っていたが、車内にいるあいだに、音は少し細くなっていた。
潤が先に降り、チェロのケースを取り出す。
私はヴァイオリンのケースを抱え、開いたドアの下で待った。
「足元、気をつけて」
潤が傘を差し出す。
私はその傘の内側へ入り、彼の肩越しに玄関を見た。
玄関灯がついた。
潤が鍵を回し、ドアを開ける。
私はすぐそばで待っていた。
中から乾いた空気が流れてきた。
雨の匂いと濡れた衣服の冷たさが、玄関の内側で少しずつほどけていく。
知っている玄関だった。靴箱の上には、以前と同じ小さな器が置かれている。傘立ての位置も変わっていない。
それでも、敷居の向こうへ入るのが怖かった。
見慣れた家が、今夜はどこか分からない場所に見える。潤が先に入ってしまったら、私はまた一人になる。
潤が手を伸ばし、廊下の灯りをつけた。
白い光が、玄関から奥へ細く伸びる。
「入って」
私はケースを持って、敷居を越えた。
彼も入り、ドアを閉める。
外の雨音が、扉の向こうへ押し戻された。
代わりに、鍵の回る音が近くで響いた。
反射的に胸が締めつけられた。閉じ込められたのではないかという恐怖が、身体の奥からせり上がる。
潤が振り向いた。
「ここ、俺が閉めたから」
その声を聞いて、私はようやく息を吐いた。
彼が鍵から手を離すところまで見て、それから靴を脱いだ。自分で確かめられたことが、安心につながった。
廊下の床は冷たかった。
潤がスリッパを出してくれる。足を入れると、ようやく靴下が少し湿っていることに気づいた。
潤がコートを脱ぎ、玄関脇のハンガーへ掛けた。
私も脱いだ。肩のあたりが濡れて、布が重くなっていた。
「タオル、取ってくる」
潤が言った。
私は顔を上げた。
彼が離れると思っただけで、胸がざわついた。
けれど、彼は動きかけて、止まった。
「そこ。廊下の棚」
開いた戸口を指した。
私もそちらを見た。
「一緒に行っていい?」
声にすると、自分がどれほど彼を頼っているのか分かった。
それでも、もう隠す必要はないと思った。
潤は手を下ろした。
「うん」
二人で廊下へ出た。
棚を開け、彼がタオルを二枚取る。
一枚を渡され、私はそれを胸へ抱えた。
潤は棚を閉めた。
私が動くのを待ってから、一緒にリビングへ戻った。
*
リビングの灯りがついた。
ソファと低いテーブル、その向こうに台所が見える。窓には雨の筋が残り、外の街灯がぼんやり滲んでいた。
私はヴァイオリンのケースを置いた。
潤もチェロを壁際へ立て、倒れないことを確かめた。
二つのケースが、同じ部屋にあった。
それを見て、ここまで二人で運んできたのだと実感した。
ソファへ座ると、膝の上のタオルが揺れていた。
自分の手が震えているのだった。
私は両手で押さえた。
潤が隣へ座る。
「お湯、あとでいい?」
「うん」
彼もタオルを持ったままだった。
髪を拭こうとして、一度手を上げ、それから下ろす。
窓の外で、車が一台通り過ぎた。
濡れた路面を走る音が、遠くから近づき、すぐに薄れていく。雨音と混ざるその響きに、私は肩を強ばらせた。
私は潤の肩へ寄った。
さっき外で抱き合った時より、近づくのに時間が掛かった。けれど今度は、逃げるためではなく、ここにいてもいいと確かめるためだった。
潤がこちらを向いた。
「ここにいて」
私が言うと、彼はうなずいた。
「いるよ」
その返事を聞いて、胸の奥に張りついていた恐怖が、少しずつほどけた。
完全に消えたわけではない。それでも、恐怖の中に潤の声が届く場所ができていた。
彼の手が、ソファの上へ置かれた。
私はタオルから片手を離し、その指へ触れた。
ゆっくり、握り返される。
「潤も」
「うん」
「一人になりたくないって、言ったよね」
彼は私を見た。
私はその目から逸らさなかった。
「言った」
「私、ここにいていい?」
「いてほしい」
胸の奥が、長く震えた。
今度は怖さだけではなかった。自分が必要とされていること、彼も私を必要としていることが、静かに伝わってきた。
私はうなずいて、彼の肩へ額を寄せた。
潤の頬が、髪へ触れた。
つないでいないほうの手が、背中へ回ってくる。
私はタオルを膝へ置いた。
空いた手で、彼の服をつかむ。
冷蔵庫の音がしていた。
窓の外では、雨がまだ細く降っている。
道路を通る車の音も、時々聞こえた。
潤が息を吐いた。
私も、少し遅れて吐いた。
その呼吸の間に、まだ残る恐怖も、言葉にできない不安もあった。
けれど、もう一人で抱えてはいなかった。
今度は、その違いを確かめながら、目を閉じられた。
*
しばらくして、潤の指が私の背中をゆっくり撫でた。服越しに伝わるその動きは、急かすことなく、乱れていた呼吸を少しずつ整えてくれるようだった。
「何か、温かいもの飲む?」
「……うん」
顔を上げると、潤の髪はまだ少し湿っていた。毛先から落ちた水滴が、こめかみの近くで光っている。私は膝の上に置かれていたタオルを取り、彼の額へ差し出した。
「潤も、拭いて」
彼は小さく笑ってタオルを受け取り、前髪を押さえた。柔らかな布が髪を包むたび、濡れた毛先がかすかに揺れる。そのあいだも、もう片方の手は私の手を離さなかった。指と指のあいだに残る体温が、静かに脈打っている。
その温度を確かめるように、私は指を少しだけ握り返した。
「ココアでいい?」
「あるの?」
「うん」
「飲みたい」
潤が立ち上がるのに合わせて、私も腰を上げた。まだ少し力の入りにくい脚を、彼がさりげなく支えてくれる。こちらを見たけれど、何も聞かなかった。ただ、手のひらの温度だけが、言葉の代わりに残った。
それだけで、ひとりで立っているのではないと思えた。
台所まで、一緒に歩いた。
窓の外はすっかり暗く、ガラスには室内の明かりがぼんやり映っていた。流し台の横に立つと、潤が戸棚を開け、厚手のマグカップを二つ取り出す。陶器同士が触れ合い、控えめな音が夜の静けさに落ちた。
小鍋をコンロへ置くために、つないでいた指がほどける。
一瞬、手のひらから温度が消えた。
けれど、潤はすぐそばにいた。離れた手が、今度は何をするのか見ていられた。
潤は牛乳のパックを開け、白い液体を鍋へ注いだ。細い流れが鍋底に当たり、かすかな音を立てる。火をつけると、青い炎が鍋の底を照らし、冷えていた台所に小さな熱が生まれた。
「潤は?」
「俺も、ココア」
「珈琲じゃなくていいの?」
「今日は、こっちがいい」
私は少しだけうなずいた。彼が同じものを選んでくれたことが、胸の奥にゆっくり広がった。今夜は、どちらか一人だけが支えるのではなく、同じ温かさを分け合える気がした。
潤がココアの袋を取り出すあいだ、私はマグカップを手元へ寄せた。二つとも厚みがあり、両手で包めるほどの大きさだった。片方の底を布巾で拭き、もう片方も同じように拭う。これからそこへ注がれる熱を、先に受け止める準備をするように。
スプーンが鍋の内側に触れた。金属の小さな音が、一定の間隔で響く。
ふつ、と牛乳の表面が揺れた。
潤の手が一度止まる。
私は彼の袖へ触れた。指先に、薄い布越しの体温が伝わる。
潤がこちらを見た。目が合うと、彼は何も言わずに火を少し弱めた。それから、焦らせないように、またゆっくりと鍋を混ぜ始める。
その動きを見ているうちに、私の肩からも少しずつ力が抜けていった。何かが起きても、今は立ち止まってやり直せる。そう思えた。
ココアの粉が溶けていくにつれ、甘く濃い匂いが立ち上った。冷えた空気の中で、その香りだけが柔らかく広がり、鼻の奥から胸の内側まで温めていく。
*
ソファへ戻ると、潤は二つのマグをテーブルへ置いた。底が木の天板に触れるたび、低く穏やかな音がする。棚から持ってきた膝掛けを広げ、私の脚へそっと掛けた。
布が膝から足先へ落ち、冷えていた肌をゆっくり覆っていく。
私はその端を持ち上げた。
「半分」
潤が隣へ座る。クッションが沈み、肩が触れそうな距離まで身体が近づいた。彼は膝掛けを二人の膝へ引き直し、隙間から冷気が入り込まないよう、端を私の脇へ押し込んだ。
それから、マグを渡してくれる。
「熱いから、気をつけて」
両手で包むと、指の腹へじんわりと熱が染み込んだ。持ち手だけでは足りなくて、掌全体を陶器へ寄せる。冷えていた指先が少しずつほどけ、手のひらから腕へ、細い温かさが上ってくる。
湯気が顔の前で揺れた。その向こうに、潤の手が見える。彼も同じように、マグを両手で持っていた。白い湯気が二人のあいだを薄く覆い、近い距離をさらに柔らかく包んでいる。
一口飲んだ。
まだ熱くて、ほんの少ししか口に含めなかった。それでも、舌に触れた甘さがゆっくり広がり、喉を通ったあとまで温かさが残った。胸の奥に固まっていたものが、少しずつ溶けていく。
「おいしい」
潤が私を見た。湯気の向こうで、その目元がわずかに緩む。
「よかった」
彼も一口飲み、静かに息をついた。吐息が白い湯気に混ざり、肩がさっきより少し下がる。張りつめていた空気が、二人のあいだでゆっくりほどけていった。
私はもう一度、マグへ口をつけた。今度は少し長く飲めた。
飲めるようになったことが、ほんの小さなことなのに嬉しかった。潤もそれに気づいたのか、何も言わず、目元だけで笑った。
膝掛けの下で、彼の膝と私の膝が触れている。布越しの接触はわずかなものなのに、そこから確かな体温が伝わってきた。離れようと思えば離れられる距離なのに、どちらも動かなかった。
「……あったかいね」
「うん」
潤はマグをテーブルへ置いた。空いた手が、膝掛けの上へ戻ってくる。指先が布の上を探るように動き、私の手の甲へ触れた。私はマグを片手で支え、空いた手の指を潤の手に重ねた。その手が離れ、肩へ回ってきたところで、私はマグを両手で持ち直した。
そのまま少し身体を寄せた。背中に触れた手のひらが、膝掛けと同じように、逃げていく熱をそっと留めてくれる。
私はマグをこぼさないように、両手でしっかり包んだまま、彼の胸元へ寄りかかった。耳を澄ますと、衣服の向こうから穏やかな鼓動が聞こえる。
その鼓動に合わせるように、私の呼吸もゆっくりになっていった。潤の腕に力がこもりすぎていないことも、私がいつでも離れられることも、今はわかっている。それでも離れずにいられることが、少しずつ戻ってきた安心の証のようだった。
潤の指が、私の肩を一度だけ撫でる。
「もう少し、ここにいようか」
「うん」
短い返事が、今度は震えなかった。
湯気は少しずつ薄くなり、マグの中身もゆっくり減っていく。けれど、二人のあいだに残った温かさは消えなかった。手を重ね、肩を寄せ、同じ呼吸をしている。その一つひとつが、ここにいていいのだと静かに伝えてくれる。
今度は、急がずに。
何かを忘れようとするのではなく、怖かったことも、揺れていた気持ちも、そのまま抱えたまま、少しずつ落ち着いていく。
潤の胸元で目を閉じる。
聞こえる鼓動は穏やかで、腕の中はあたたかい。私はその温度を確かめるように、彼の服をそっとつまんだ。
「潤」
「うん」
「……ありがとう」
「こちらこそ」
それ以上、言葉はいらなかった。
湯気の消えるまで、二人のあいだに残った温かさを、ゆっくり分け合うように。
もう、急がなくていい。
もう、ひとりで耐えなくていい。
その温かさの中で、私たちはようやく、もう大丈夫だと、言葉にせず確かめ合っていた。




