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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第二章 舞踏会
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8/42

舞踏会(1)

 帰ってからも、地下で聞いた音が気になっていた。


 ヴァイオリンのケースをいつもの場所に置き、上着を脱いで、手を洗う。蛇口を閉めると部屋が静かになって、さっきまで忘れていた音が戻ってきた。

 何かを引きずるような音。そのあとに聞こえた、硬いものが触れ合うような音。

 演劇の人たちが、何か運んでいたのかもしれない。大学祭が近いのだから、こんな時間まで準備をしていても不思議ではない。

 それなら、潤もそう言えばよかったのに。


 地下には近づくな。


 思い返すと腹が立った。

 別に、探検しようとしていたわけではない。ただ、音がしたからそちらを見ただけだ。それをあんな言い方で止められると、かえって気になる。


 鞄から秋定の曲のスコアを出して、机に置いた。4冊ある。メインの幻想交響曲と、前プロの牧神の午後への前奏曲、レ・プレリュード、アンコールのバッカナール。牧神、レプレとバッカナールはジュニアオケにいた頃から使っているから、黄色い表紙はやや色褪せ、何度も開いたせいかページが外れそうになったところをセロテープで止めてある。幻想のスコアは真新しい。ジュニアオケでも一度弾いたことがあるけれど、あの頃は、目の前の音符を追ってついていくだけで精一杯だった。一冊目には、その頃の書き込みが残っている。今度はコンミスとして、今の仲間たちと、私たちの幻想をつくりたい。そう思って、二冊目を買った。そのスコアに挟んでいた鉛筆が転がり、床に落ちる。その音に肩が跳ねた。

「……馬鹿みたい」

 誰もいない部屋で言ってから、鉛筆を拾った。


 拾い上げた鉛筆の先に、黒い粉がついていた。


 床に落ちたときについたのだろうと思い、指で払う。粉は細かく散ったが、すべてが落ちたわけではなかった。木の軸に沿って、黒い筋のように残っている。

 指先でこすると、粉は油を含んだように薄く伸びた。煤に似ているのに、煤ほど軽くはない。爪の間に入り込み、洗えば落ちるだろうと思いながらも、すぐには水道へ向かえなかった。


 床を見る。

 鉛筆が落ちた場所には、黒い点がいくつか残っていた。さっきは何もなかったはずなのに、照明の下で見ると、粉は木目の隙間に入り込んでいる。

 ティッシュで拭うと、紙の白さが灰色に汚れた。

 その汚れを見ているうちに、地下の階段の隅に溜まっていた黒い粉がよみがえった。


 あれは、何だったのだろう。


 ティッシュを丸めてゴミ箱に入れ、手を洗った。石鹸を泡立てても、指先の黒ずみはすぐには消えなかった。


 今日の練習で書き込んだところを開く。六時の全練が始まる前、潤に二楽章の入りを少し振ってもらった。その時、譜面に書いた言葉が目に入った。


 もっと危なく。


 言葉だけでは、どう弾けばいいのかわからなかった。拍を確かめようとすると、潤の棒はもう先へ進んでいる。私が止めて尋ね、潤が説明するうちに、また互いの言い方が気になり始めた。結局、ほかの団員が集まってきて、話は途中になったままだった。

 

 鉛筆の先を紙に置いたところで、スマートフォンが震えた。


〈先輩、無事帰りました?〉


 樹だった。


〈帰ったよ。そっちは?〉

〈俺も着きました。今日はお疲れさまでした〉


 そこで一度、やりとりが止まった。

 画面を伏せようとすると、続きが来た。


〈あの会館、夜は音が響きますね〉


 私はしばらく、その一文を見ていた。


〈古い建物だからね〉


 そう打ち込んでから、送る前に読み返した。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。


〈地下の音のこと?〉


 書き直して送った。


〈はい〉

〈演劇の人たちかも。大学祭の準備してるだろうし〉

〈そうですね〉


 素直な返事だった。いつもの樹なら、そこにもう一言くらい軽口がつく気がした。

 私の指が、画面の上で止まる。

 樹にも何か気になることがあったのだろうか。聞けば答えてくれるだろう。でも、今から二人で思い出したところで、あの音の正体がわかるわけではない。


 そのとき、廊下のほうで小さく音がした。

 何かが壁に触れたような、短い音だった。


 私は顔を上げた。

 部屋の外は静かだった。玄関の鍵は閉まっている。そう確認してから、画面に目を戻した。


 机の端に置いた鉛筆が、わずかに転がった。

 床は平らなのに、黒い粉をつけた先が、机の木目に引っかかって止まる。

 その粉が、さっきより濃く見えた。


〈今日はもう寝よう。お疲れさま〉

〈お疲れさまでした。おやすみなさい〉


 スマートフォンを机に置き、スコアに目を戻した。

 同じ小節を二度読んだのに、頭に入ってこなかった。


 潤はもう帰っただろうか。


 メッセージの一覧を開いて、その名前を見つけた。最後のやりとりは、練習についての用件だった。集合時間と、先に合わせておきたい箇所。読み返しても、何も面白くない。


〈戸締まり、終わった?〉


 送ってから、私はスコアを閉じた。

 待っているつもりはなかったのに、返事が来るまで入浴にも立てなかった。


〈終わった。今、帰った〉


 続けて、もう一通。


〈どうした〉


〈別に。まだ会館にいるのかと思っただけ〉


 少し間が空いた。


〈今日はもう寝ろよ〉


 私は画面に向かって眉を寄せた。


〈わかってます〉


 送信して、今度こそスマートフォンを伏せる。

 地下のことは、聞けなかった。


 しばらくして、机の上でスマートフォンが一度だけ震えた。

 画面を見ても、新しい通知はなかった。

 その代わり、伏せたスマートフォンの脇に、黒い粉が一筋落ちていた。


 私は指で触れず、ティッシュを何枚も重ねて拾った。

 紙越しでも、粉のざらつきがわかった。

 拾い上げたティッシュの下から、かすかに、何かを引きずるような音がした気がした。


     *


 週が明けた月曜日、昼間の大学を歩いていると、土曜の夜のことが少し大げさに思えた。


 講義を終えた学生が、何人も私の横を通り過ぎていく。掲示板には大学祭のポスターが増えていた。模擬店の名前、ライブの出演者、演劇の公演時間。いつもは講義の資料や資格試験の案内ばかりなのに、今は色紙と太い文字で埋まっている。

 立て看板を運んでいる二人が、曲がり角で立ち往生していた。

「そっち、下げて」

「下げたら持つとこなくなる」

「じゃあ一回置こう」

 看板の角が地面に当たり、乾いた音がした。


 私は思わず振り向いた。


 こちらに背を向けた学生たちは、看板を立て直すのに忙しい。片方が笑い、もう片方が何か言い返した。

 あの夜も、こういう音だったのかもしれない。

 そう思って歩き出すと、後ろから名前を呼ばれた。


「未央先輩」


 樹が、片手を上げて近づいてきた。

「今、終わりですか」

「うん。樹も?」

「俺はもう一つあります。移動中」

 そう言いながら、私の顔をのぞき込む。

「眠そうですね」

「眠いから」

「土曜、遅かったですもんね」

「昨日もスコア見てたら、寝るの遅くなっちゃって」

「えらい」

「ほとんど見ただけだけど」


 樹が笑った。その顔を見て、少しほっとした。土曜の夜、短い文字だけを読んでいた時には、考えすぎていたのかもしれない。


「今日のパート練、部屋取れたんですよね?」

「うん。今週は月曜。場所は連絡した部屋ね」

「了解です」


 パート練習はサークル会館のいくつかある小部屋で1st、2nd、ヴィオラ、チェロ、ベースがそれぞれみっちりやる。1stのパー練は私が指導するので、普段はあまり使わない指揮棒を持っていかなければならない。無いと地味にやりにくい。パー練もそろそろ樹に任せてもいい頃だから、今日のバッカナールはお任せしようかな。ぼんやりそんなことを考えていると、樹が再び口を開いた。


「先輩、大学祭、何か見に行きます?」

「練習の合間に、食べ物を買うくらいかな」

「ですよね。うちのオケ、祭りの期間も通常営業ですもんね」

「秋定の練習もあるし」

「わかってますけど。せめて何か、祭りらしいもの食べたいな」

「焼きそばとか?」

「普段も食べてるじゃないですか」

「じゃあ、量が少なくて高い焼きそば」

「祭りらしいですね」


 笑った拍子に、あの夜から胸のあたりに残っていたものが緩んだ。

 樹は掲示板へ目を向けた。


「あ、これ」


 指した先には、演劇の公演案内があった。

 会場は、サークル会館の地下劇場。


「練習の前なら、見られそうですね」

 樹は公演時間を確かめながら言った。


 私はポスターの下のほうを見ていた。

 普段通りの会場名。昼間の明るい場所で読むと、あの夜の暗い階段とは、うまく結びつかなかった。


 ただ、ポスターの端だけが、風もないのにわずかに揺れていた。

 掲示板の前を誰かが通った気配はない。


 ポスターの下端に、黒い粉が付着していた。

 印刷の汚れかと思ったが、紙の上ではなく、画鋲の周りに細かく溜まっている。指で触れれば落ちそうなのに、粉は紙に食い込むように動かなかった。

 その黒さだけが、昼の光の中でも妙に沈んで見えた。


「……土曜の音」

 口に出すと、樹がこちらを向いた。

「準備してたのかな、やっぱり」


 樹はもう一度、ポスターを見た。

 黒い粉には気づかなかったのか、何も言わない。


「そうかもしれませんね」


 その返事を聞いても、私はすぐには歩き出せなかった。


 ポスターの端が、風もないのに揺れた。

 画鋲の下から、黒い粉がひとつ落ちる。


 床に触れる直前、地下から音がした。


 今度は、はっきりと。

 何かが、こちらへ近づいてくる音だった。


 私は一歩、後ろへ下がった。

「先輩?」

 樹が掲示板から目を離し、私を見た。

「今、聞こえた?」

「音ですか?」

 聞き返されて、うなずく。

 けれど、もう聞こえなかった。学生たちの話し声と、遠くで立て看板を動かす音がしている。地下へ通じる階段も見えないこの場所で、何を地下の音だと思ったのだろう。

「……ううん。何でもない」

 樹はすぐには返事をしなかった。

「寝不足なら、練習まで少し休んでくださいね」

「そうする」

「じゃ、またあとで」

 時計を見た樹が、小走りで講義棟へ向かった。

 その背中を見送ってから、もう一度掲示板を見る。ポスターは静かだった。足元に落ちたはずの黒い粉は、どこにあるのかわからなかった。

 私は鞄の持ち手を握り直し、そこを離れた。


     *


 夕方、サークル会館の小部屋には、すでに何人か来ていた。

 机を壁際に寄せ、椅子を半円に並べ、譜面台を立てる。人数の多い1stには少し窮屈な部屋だった。

「そこ、弓ぶつかるよ」

「もうちょっと寄れる?」

 隣同士で椅子の位置を調整している間に、廊下の向こうから別のパートの音が聞こえてきた。

 パー練では、普段のシートに関係なく、みんなでぐるっと座る。その向かいに、練習を進める人の椅子と譜面台を置く。全練では遠い席の人とも、ここでは顔を見ながら弾ける。


 四年生の先輩も、半円の端で楽器を出していた。先代のコンマスだ。

 春定の頃は就活で忙しく、練習に来られない日も多かったけれど、今は内定も出て、卒業の見通しもついたらしい。最近はパー練にも顔を出してくれる。

 先輩がいると、私が説明している間にも、隣で誰かの指使いを見てくれたりする。そのありがたさは、引き継いだ頃より今のほうがよくわかる。


 私はケースから指揮棒を出した。

 先のほうに巻かれたセロテープが、蛍光灯の光を鈍く返す。

 歴代のコンマスがパー練で使ってきた棒で、私も先輩から渡された。折れたり傷んだりすると、そのたびに補強されてきたらしい。最初に見た時は、新しく買えばいいのにと思ったけれど、今はこれを持つのが当たり前になっている。


「樹」

「はい」

 自分の譜面台の高さを直していた樹が、顔を上げた。

「今日、バッカナールお願い」

 指揮棒を差し出す。

 樹の視線が、私の顔から棒へ移った。

「……俺が回すんですか?」

「うん。まず、細かい音が続くところから。気になったところがあったら、そこも見て」

「はい」


 返事のあと、口元が少し緩んだ。

 樹は楽器をケースに戻し、差し出した棒を受け取った。持ち手を指先で確かめてから、半円に向き合う椅子へ移る。


「その棒、譜面台にぶつけるとまた折れるからな」

 先輩が言った。

「これ、ぶつけて折れたんですか」

「少なくとも一回は」

「誰がですか?」

「俺がもらった時には、もうそうだった」

「由緒あるセロテープなんですね」

 部屋のあちこちで笑いが起きた。

「剥がさないでよ」

 私が言うと、樹は棒を少し持ち上げた。

「わかってます。慎重に扱います」


 私は空いている椅子に座り、楽器を構えた。

 向かい側に座った樹が、譜面台を少し下げる。譜面越しでも、みんなの顔が見える高さになった。

 書き込みを確かめながら、何度か小さく息を吐いている。

 それから、棒で譜面台の縁を軽く、コンコンと叩いた。


「じゃあ、タララ〜、のところからお願いします。最初、一度聴かせてください」


 ページをめくる音がした。

 樹は譜面に目を落とし、顔を上げると、そのまま棒を構えた。私は弓を置いたけれど、隣ではまだ鉛筆をしまっている。

 最初の合図に、音がばらばらと重なった。


 少し慎重な出だしになった。けれど、音が続いていくうちに、また少しずつ前へ詰まってくる。樹の棒を見ながら弾いていると、自分もその流れに乗りかけていたことに気づいた。


 樹の左手が上がり、音が止まった。

「ありがとうございます。ここ、音が細かくなると、ちょっと急ぎますね」

 譜面の該当箇所を指でなぞる。

「俺も振りながら、少し引っ張られてました。一度ゆっくりで、揃えたいです」


 何人かがうなずき、鉛筆を取った。

 樹は棒で譜面台の縁を小さく叩き、これから弾く速さを示す。

「これくらいで。まず、音を置く場所を確認しましょう」


 もう一度、構える。

 ゆっくり弾くと、音の長さの違いがよく聞こえた。先へ行こうとする人と、一つずつ置く人。その間を埋めようとして、自分まで余計な力を入れてしまう。

 私は右手を少し緩めた。

 半円の端から先輩の音が聞こえる。隣の音も聴きながら弾く余裕が、ようやく戻ってきた。


 樹は途中で一度、止めかけた。けれど、そのまま二小節ほど先まで聴いた。

 ひとまとまり弾き終えてから、棒を下ろす。

「今、途中から揃ってきましたね。もう一回、同じ速さでお願いします」


 止めるたびに長く話すこともなく、弾いて確かめる時間を取っている。いいな、と思った。


 三度目を終えたところで、樹がこちらを見た。

「先輩、どうですか」

「よくなったと思う。テンポ戻しても、今の長さを残したいね」

「はい」

 樹は譜面に一言書き込んだ。

「じゃあ、少し戻します。まだ全部は戻さずに」


 コンコン、と拍を示す。

 鉛筆を置く音が、最後の一つだけ遅れて聞こえた。樹はそちらを見て、一呼吸待ってから棒を上げた。

 今度は、私もためらわずにその合図へ弓を乗せた。


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