舞踏会(1)
帰ってからも、地下で聞いた音が気になっていた。
ヴァイオリンのケースをいつもの場所に置き、上着を脱いで、手を洗う。蛇口を閉めると部屋が静かになって、さっきまで忘れていた音が戻ってきた。
何かを引きずるような音。そのあとに聞こえた、硬いものが触れ合うような音。
演劇の人たちが、何か運んでいたのかもしれない。大学祭が近いのだから、こんな時間まで準備をしていても不思議ではない。
それなら、潤もそう言えばよかったのに。
地下には近づくな。
思い返すと腹が立った。
別に、探検しようとしていたわけではない。ただ、音がしたからそちらを見ただけだ。それをあんな言い方で止められると、かえって気になる。
鞄から秋定の曲のスコアを出して、机に置いた。4冊ある。メインの幻想交響曲と、前プロの牧神の午後への前奏曲、レ・プレリュード、アンコールのバッカナール。牧神、レプレとバッカナールはジュニアオケにいた頃から使っているから、黄色い表紙はやや色褪せ、何度も開いたせいかページが外れそうになったところをセロテープで止めてある。幻想のスコアは真新しい。ジュニアオケでも一度弾いたことがあるけれど、あの頃は、目の前の音符を追ってついていくだけで精一杯だった。一冊目には、その頃の書き込みが残っている。今度はコンミスとして、今の仲間たちと、私たちの幻想をつくりたい。そう思って、二冊目を買った。そのスコアに挟んでいた鉛筆が転がり、床に落ちる。その音に肩が跳ねた。
「……馬鹿みたい」
誰もいない部屋で言ってから、鉛筆を拾った。
拾い上げた鉛筆の先に、黒い粉がついていた。
床に落ちたときについたのだろうと思い、指で払う。粉は細かく散ったが、すべてが落ちたわけではなかった。木の軸に沿って、黒い筋のように残っている。
指先でこすると、粉は油を含んだように薄く伸びた。煤に似ているのに、煤ほど軽くはない。爪の間に入り込み、洗えば落ちるだろうと思いながらも、すぐには水道へ向かえなかった。
床を見る。
鉛筆が落ちた場所には、黒い点がいくつか残っていた。さっきは何もなかったはずなのに、照明の下で見ると、粉は木目の隙間に入り込んでいる。
ティッシュで拭うと、紙の白さが灰色に汚れた。
その汚れを見ているうちに、地下の階段の隅に溜まっていた黒い粉がよみがえった。
あれは、何だったのだろう。
ティッシュを丸めてゴミ箱に入れ、手を洗った。石鹸を泡立てても、指先の黒ずみはすぐには消えなかった。
今日の練習で書き込んだところを開く。六時の全練が始まる前、潤に二楽章の入りを少し振ってもらった。その時、譜面に書いた言葉が目に入った。
もっと危なく。
言葉だけでは、どう弾けばいいのかわからなかった。拍を確かめようとすると、潤の棒はもう先へ進んでいる。私が止めて尋ね、潤が説明するうちに、また互いの言い方が気になり始めた。結局、ほかの団員が集まってきて、話は途中になったままだった。
鉛筆の先を紙に置いたところで、スマートフォンが震えた。
〈先輩、無事帰りました?〉
樹だった。
〈帰ったよ。そっちは?〉
〈俺も着きました。今日はお疲れさまでした〉
そこで一度、やりとりが止まった。
画面を伏せようとすると、続きが来た。
〈あの会館、夜は音が響きますね〉
私はしばらく、その一文を見ていた。
〈古い建物だからね〉
そう打ち込んでから、送る前に読み返した。まるで自分に言い聞かせているみたいだった。
〈地下の音のこと?〉
書き直して送った。
〈はい〉
〈演劇の人たちかも。大学祭の準備してるだろうし〉
〈そうですね〉
素直な返事だった。いつもの樹なら、そこにもう一言くらい軽口がつく気がした。
私の指が、画面の上で止まる。
樹にも何か気になることがあったのだろうか。聞けば答えてくれるだろう。でも、今から二人で思い出したところで、あの音の正体がわかるわけではない。
そのとき、廊下のほうで小さく音がした。
何かが壁に触れたような、短い音だった。
私は顔を上げた。
部屋の外は静かだった。玄関の鍵は閉まっている。そう確認してから、画面に目を戻した。
机の端に置いた鉛筆が、わずかに転がった。
床は平らなのに、黒い粉をつけた先が、机の木目に引っかかって止まる。
その粉が、さっきより濃く見えた。
〈今日はもう寝よう。お疲れさま〉
〈お疲れさまでした。おやすみなさい〉
スマートフォンを机に置き、スコアに目を戻した。
同じ小節を二度読んだのに、頭に入ってこなかった。
潤はもう帰っただろうか。
メッセージの一覧を開いて、その名前を見つけた。最後のやりとりは、練習についての用件だった。集合時間と、先に合わせておきたい箇所。読み返しても、何も面白くない。
〈戸締まり、終わった?〉
送ってから、私はスコアを閉じた。
待っているつもりはなかったのに、返事が来るまで入浴にも立てなかった。
〈終わった。今、帰った〉
続けて、もう一通。
〈どうした〉
〈別に。まだ会館にいるのかと思っただけ〉
少し間が空いた。
〈今日はもう寝ろよ〉
私は画面に向かって眉を寄せた。
〈わかってます〉
送信して、今度こそスマートフォンを伏せる。
地下のことは、聞けなかった。
しばらくして、机の上でスマートフォンが一度だけ震えた。
画面を見ても、新しい通知はなかった。
その代わり、伏せたスマートフォンの脇に、黒い粉が一筋落ちていた。
私は指で触れず、ティッシュを何枚も重ねて拾った。
紙越しでも、粉のざらつきがわかった。
拾い上げたティッシュの下から、かすかに、何かを引きずるような音がした気がした。
*
週が明けた月曜日、昼間の大学を歩いていると、土曜の夜のことが少し大げさに思えた。
講義を終えた学生が、何人も私の横を通り過ぎていく。掲示板には大学祭のポスターが増えていた。模擬店の名前、ライブの出演者、演劇の公演時間。いつもは講義の資料や資格試験の案内ばかりなのに、今は色紙と太い文字で埋まっている。
立て看板を運んでいる二人が、曲がり角で立ち往生していた。
「そっち、下げて」
「下げたら持つとこなくなる」
「じゃあ一回置こう」
看板の角が地面に当たり、乾いた音がした。
私は思わず振り向いた。
こちらに背を向けた学生たちは、看板を立て直すのに忙しい。片方が笑い、もう片方が何か言い返した。
あの夜も、こういう音だったのかもしれない。
そう思って歩き出すと、後ろから名前を呼ばれた。
「未央先輩」
樹が、片手を上げて近づいてきた。
「今、終わりですか」
「うん。樹も?」
「俺はもう一つあります。移動中」
そう言いながら、私の顔をのぞき込む。
「眠そうですね」
「眠いから」
「土曜、遅かったですもんね」
「昨日もスコア見てたら、寝るの遅くなっちゃって」
「えらい」
「ほとんど見ただけだけど」
樹が笑った。その顔を見て、少しほっとした。土曜の夜、短い文字だけを読んでいた時には、考えすぎていたのかもしれない。
「今日のパート練、部屋取れたんですよね?」
「うん。今週は月曜。場所は連絡した部屋ね」
「了解です」
パート練習はサークル会館のいくつかある小部屋で1st、2nd、ヴィオラ、チェロ、ベースがそれぞれみっちりやる。1stのパー練は私が指導するので、普段はあまり使わない指揮棒を持っていかなければならない。無いと地味にやりにくい。パー練もそろそろ樹に任せてもいい頃だから、今日のバッカナールはお任せしようかな。ぼんやりそんなことを考えていると、樹が再び口を開いた。
「先輩、大学祭、何か見に行きます?」
「練習の合間に、食べ物を買うくらいかな」
「ですよね。うちのオケ、祭りの期間も通常営業ですもんね」
「秋定の練習もあるし」
「わかってますけど。せめて何か、祭りらしいもの食べたいな」
「焼きそばとか?」
「普段も食べてるじゃないですか」
「じゃあ、量が少なくて高い焼きそば」
「祭りらしいですね」
笑った拍子に、あの夜から胸のあたりに残っていたものが緩んだ。
樹は掲示板へ目を向けた。
「あ、これ」
指した先には、演劇の公演案内があった。
会場は、サークル会館の地下劇場。
「練習の前なら、見られそうですね」
樹は公演時間を確かめながら言った。
私はポスターの下のほうを見ていた。
普段通りの会場名。昼間の明るい場所で読むと、あの夜の暗い階段とは、うまく結びつかなかった。
ただ、ポスターの端だけが、風もないのにわずかに揺れていた。
掲示板の前を誰かが通った気配はない。
ポスターの下端に、黒い粉が付着していた。
印刷の汚れかと思ったが、紙の上ではなく、画鋲の周りに細かく溜まっている。指で触れれば落ちそうなのに、粉は紙に食い込むように動かなかった。
その黒さだけが、昼の光の中でも妙に沈んで見えた。
「……土曜の音」
口に出すと、樹がこちらを向いた。
「準備してたのかな、やっぱり」
樹はもう一度、ポスターを見た。
黒い粉には気づかなかったのか、何も言わない。
「そうかもしれませんね」
その返事を聞いても、私はすぐには歩き出せなかった。
ポスターの端が、風もないのに揺れた。
画鋲の下から、黒い粉がひとつ落ちる。
床に触れる直前、地下から音がした。
今度は、はっきりと。
何かが、こちらへ近づいてくる音だった。
私は一歩、後ろへ下がった。
「先輩?」
樹が掲示板から目を離し、私を見た。
「今、聞こえた?」
「音ですか?」
聞き返されて、うなずく。
けれど、もう聞こえなかった。学生たちの話し声と、遠くで立て看板を動かす音がしている。地下へ通じる階段も見えないこの場所で、何を地下の音だと思ったのだろう。
「……ううん。何でもない」
樹はすぐには返事をしなかった。
「寝不足なら、練習まで少し休んでくださいね」
「そうする」
「じゃ、またあとで」
時計を見た樹が、小走りで講義棟へ向かった。
その背中を見送ってから、もう一度掲示板を見る。ポスターは静かだった。足元に落ちたはずの黒い粉は、どこにあるのかわからなかった。
私は鞄の持ち手を握り直し、そこを離れた。
*
夕方、サークル会館の小部屋には、すでに何人か来ていた。
机を壁際に寄せ、椅子を半円に並べ、譜面台を立てる。人数の多い1stには少し窮屈な部屋だった。
「そこ、弓ぶつかるよ」
「もうちょっと寄れる?」
隣同士で椅子の位置を調整している間に、廊下の向こうから別のパートの音が聞こえてきた。
パー練では、普段のシートに関係なく、みんなでぐるっと座る。その向かいに、練習を進める人の椅子と譜面台を置く。全練では遠い席の人とも、ここでは顔を見ながら弾ける。
四年生の先輩も、半円の端で楽器を出していた。先代のコンマスだ。
春定の頃は就活で忙しく、練習に来られない日も多かったけれど、今は内定も出て、卒業の見通しもついたらしい。最近はパー練にも顔を出してくれる。
先輩がいると、私が説明している間にも、隣で誰かの指使いを見てくれたりする。そのありがたさは、引き継いだ頃より今のほうがよくわかる。
私はケースから指揮棒を出した。
先のほうに巻かれたセロテープが、蛍光灯の光を鈍く返す。
歴代のコンマスがパー練で使ってきた棒で、私も先輩から渡された。折れたり傷んだりすると、そのたびに補強されてきたらしい。最初に見た時は、新しく買えばいいのにと思ったけれど、今はこれを持つのが当たり前になっている。
「樹」
「はい」
自分の譜面台の高さを直していた樹が、顔を上げた。
「今日、バッカナールお願い」
指揮棒を差し出す。
樹の視線が、私の顔から棒へ移った。
「……俺が回すんですか?」
「うん。まず、細かい音が続くところから。気になったところがあったら、そこも見て」
「はい」
返事のあと、口元が少し緩んだ。
樹は楽器をケースに戻し、差し出した棒を受け取った。持ち手を指先で確かめてから、半円に向き合う椅子へ移る。
「その棒、譜面台にぶつけるとまた折れるからな」
先輩が言った。
「これ、ぶつけて折れたんですか」
「少なくとも一回は」
「誰がですか?」
「俺がもらった時には、もうそうだった」
「由緒あるセロテープなんですね」
部屋のあちこちで笑いが起きた。
「剥がさないでよ」
私が言うと、樹は棒を少し持ち上げた。
「わかってます。慎重に扱います」
私は空いている椅子に座り、楽器を構えた。
向かい側に座った樹が、譜面台を少し下げる。譜面越しでも、みんなの顔が見える高さになった。
書き込みを確かめながら、何度か小さく息を吐いている。
それから、棒で譜面台の縁を軽く、コンコンと叩いた。
「じゃあ、タララ〜、のところからお願いします。最初、一度聴かせてください」
ページをめくる音がした。
樹は譜面に目を落とし、顔を上げると、そのまま棒を構えた。私は弓を置いたけれど、隣ではまだ鉛筆をしまっている。
最初の合図に、音がばらばらと重なった。
少し慎重な出だしになった。けれど、音が続いていくうちに、また少しずつ前へ詰まってくる。樹の棒を見ながら弾いていると、自分もその流れに乗りかけていたことに気づいた。
樹の左手が上がり、音が止まった。
「ありがとうございます。ここ、音が細かくなると、ちょっと急ぎますね」
譜面の該当箇所を指でなぞる。
「俺も振りながら、少し引っ張られてました。一度ゆっくりで、揃えたいです」
何人かがうなずき、鉛筆を取った。
樹は棒で譜面台の縁を小さく叩き、これから弾く速さを示す。
「これくらいで。まず、音を置く場所を確認しましょう」
もう一度、構える。
ゆっくり弾くと、音の長さの違いがよく聞こえた。先へ行こうとする人と、一つずつ置く人。その間を埋めようとして、自分まで余計な力を入れてしまう。
私は右手を少し緩めた。
半円の端から先輩の音が聞こえる。隣の音も聴きながら弾く余裕が、ようやく戻ってきた。
樹は途中で一度、止めかけた。けれど、そのまま二小節ほど先まで聴いた。
ひとまとまり弾き終えてから、棒を下ろす。
「今、途中から揃ってきましたね。もう一回、同じ速さでお願いします」
止めるたびに長く話すこともなく、弾いて確かめる時間を取っている。いいな、と思った。
三度目を終えたところで、樹がこちらを見た。
「先輩、どうですか」
「よくなったと思う。テンポ戻しても、今の長さを残したいね」
「はい」
樹は譜面に一言書き込んだ。
「じゃあ、少し戻します。まだ全部は戻さずに」
コンコン、と拍を示す。
鉛筆を置く音が、最後の一つだけ遅れて聞こえた。樹はそちらを見て、一呼吸待ってから棒を上げた。
今度は、私もためらわずにその合図へ弓を乗せた。




