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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第一章 夢と情熱
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夢と情熱(6)

椅子と譜面台を整え、まず第四楽章を合わせた。水曜に潤と直人が作った流れを、弦だけで確かめる。クラリネットの旋律が聞こえない場所にも、私たちには弾くべき音がある。音を強く出しすぎれば、そこへ入る声を塞いでしまう。


「ここ、直人が歌う間は何を聴く?」


私が尋ねると、樹は自分の譜面を見た。


「拍を数えるだけにしない。低音が次へ行く気配を聴く」


「うん。奈緒は?」


「二番は一番についていきすぎない。直人が入る前に弓の圧を少し抜く」


奈緒が弾いて見せる。範子はすぐに同じ箇所へ鉛筆で印をつけた。印は小さく、しかし迷いがない。


「中村ちゃん、印だけじゃなくて、今ここで弾いてみて」


「はい」


範子は譜面を一度見て、すぐに弓を置いた。最初の音は慎重だった。音を外さないことより、奈緒の音を邪魔しないことを優先しているのがわかる。


奈緒がもう一度、隣で弾く。


範子は今度、弓の圧をほんの少し早く抜いた。音が消えたのではない。次の音が入るための隙間ができた。


「そう。それ」


奈緒の短い声に、範子が頷く。


「今の、忘れないように書いておきます」


「書くのもいいけど、耳で覚えて」


「はい」


返事をした範子は、鉛筆を置いてもう一度弾いた。今度は印を見る前に、音の流れを探しているようだった。


私は思わず樹を見た。彼も範子を見ていたが、気づくとすぐに姿勢を正した。


来年は、樹たちがこの部屋の真ん中に座る。


そのことが、今日初めて具体的な景色になった。


ヴィオラでは、安東が美帆に何度も音色を尋ねていた。


「今の、少し暗すぎましたか?」


「ううん、もう少しだけ前に出てもいいかも〜」


「前に出るって、音量ですか? それとも明るさですか?」


「安東くん、細かいね〜」


「曖昧なままだと、次に再現できないので」


美帆は少し考え、弓を持つ手を示した。


「じゃあ、弓をもう少し駒寄りにして、でも力は増やさない感じ〜」


「わかりました」


安東はすぐに試した。音が変わる。美帆が頷く。


「今の、いいです〜」


「これが正解ですか?」


「正解というより、今の曲には合ってます〜」


安東は納得したような、まだ納得しきれていないような顔をした。


「じゃあ、最初の二回は?」


「そこへ来るために必要でした〜」


「美帆さん、そういうことを先に言ってくださいよ」


樹が吹き出し、安東もつられて笑った。だが、次に弾いた音は、笑っていた口元からは想像できないほど落ち着いていた。音を決めるまでには細かく確認するのに、決まったあとは迷いがない。


五時を過ぎたところで練習を切り上げ、みんなでパン屋へ向かった。サンドイッチの包みを持って戻るころには、会館の廊下を通る団員が増えている。


安東は買ったパンの袋を膝の上に置き、まだ開けずに時計を見ていた。


「食べないの?」


私が尋ねると、


「もう少ししたら。全練が終わるまで、お腹が持つように」


「さっきは空腹だとパンのことを考えるって言ってたよね」


「はい。今度は、全練の途中で晩ごはんのことを考えたくないので」


範子が隣で「合理的です」と頷いた。


「二人とも、そこまで真面目にしなくていいよ〜」


美帆が笑う。安東がようやく袋を開けると、範子も自分のサンドイッチを取り出した。性格は違うのに、準備を怠らないところだけはよく似ていた。


自販機でいつもと同じ無糖のレモンティーを買い、窓際の椅子に座ると、沢村が大きな布の袋を抱えて通りかかった。


「来たぞ、鐘!」


声が廊下の端まで響いた。沢村は袋を抱えているというより、到着を知らせるために運んでいるようだった。私たちの前で立ち止まり、袋を少し持ち上げる。


「見ろ。今日の主役だ」


「持ってきたのは沢村さんじゃないですよね」


樹が言う。


「運搬の段取りを組んだのは俺だ」


「運んだ人は?」


「俺が指示した」


「持った人は?」


「俺が見守った」


「それ、ほとんど何もしてないですよね」


沢村は一瞬黙ったあと、胸を張った。


「全体を動かす人間は、手を空けておく必要がある」


「便利な言い方ですね〜」


美帆が笑う。


「便利じゃない。重要だ」


沢村は真顔で言い切った。だが、袋の口からマレットが少し見えると、すぐに顔をほころばせる。


「伊原が選んだ。俺は音の大きさを確認した」


「どうやって?」


「叩く前に、見た」


「それは確認になってないですよ」


樹が言うと、沢村は満足そうに頷いた。


「だから、今日は全練で確認する」


沢村は袋を抱え直し、廊下の向こうへ歩いていった。途中で別の団員に呼び止められると、すぐに振り返る。


「鐘、来たぞ!」


同じ報告をもう一度している。誰にでも知らせたいらしい。


廊下の向こうには、見慣れない大きな楽器を囲む打楽器の学生たちがいる。伊原敦子が私たちに気づき、片手を振った。


あれが鳴るのを、私はまだ聴いていない。


六時前、サークル会館でいちばん広い大練習室に団員たちが集まった。潤はチェロのトップ席で楽器を構え、ほかの団員と同じように打楽器のほうを見ている。チューブラーベルが並ぶと、広い部屋の奥行きまで変わったように感じた。金属の管は静かに吊られているだけなのに、そこにあるものを無視できなかった。


この日はマエストロが来ていた。理沙のAで音を合わせたあと、譜面台に置かれた総譜を開く。


「今日は第四楽章を確認してから、第五楽章へ行きましょう」


最初に通した第四楽章で、直人の音は水曜よりもよく届いた。彼が息を入れる前、チェロのトップ席にいる潤が、ふとそちらへ顔を向ける。今は指揮棒を持っていなくても、あの旋律を待っているのがわかった。


マエストロが一度止めたのは、旋律の後だった。


「今のクラリネット、よかったですね。では、その先。切ったあとに皆さんまで立ち止まらないで」


直人が「はい」と答え、私は譜面へ目を落とした。水曜に聞いた潤の言葉を思い出す。聴いたものを、次へ渡す。


もう一度弾くと、弓が自然に前へ出た。


休憩を挟み、第五楽章の譜面を開く。隣で樹がページを押さえ、遠くで沢村が伊原とマレットの位置を確かめていた。


「沢村さん、そこだと少し近いです」


伊原が言う。


「近いほうが迫力が出る」


「近すぎると、ほかの音を聞けなくなります」


沢村は一度、鐘と弦の距離を見比べた。すぐに動くかと思ったが、今度は部屋全体を見渡す。弦、木管、金管、指揮台。最後に自分の立つ位置へ戻り、腕を組んだ。


「……全体が鳴る場所に置くべきだな」


「最初からそう言ってます〜」


伊原が笑う。


「俺は確認しただけだ」


沢村はそう言いながら、今度は自分でマレットの位置を数センチずらした。普段は勢いで押し切るように見えるのに、音のことになると急に細かい。しかも、その細かさを本人はあまり自覚していないらしい。


木管の列では、宮田悠介が一緒に吹く二年生三人に小さく何かを説明していた。二年生は四人いるが、今日は一人が降り番だ。一年生二人も演奏には加わらず、壁際から先輩たちの練習を見ている。


三人が順番に頷くのを見て、私は少し笑ってしまった。いつもの、授業のわかりやすい先生みたいな顔だったからだ。


宮田は譜面を指でなぞりながら、後輩の一人が質問を終えるまで待っていた。すぐに答えを言わず、相手がどこで迷っているのかを確かめてから、別の小節を示す。


「ここを単独で覚えると、次の入りが遅れます。前の人の音が消えるところから、もう始まっていると思ってください」


後輩が首を傾げると、宮田はファゴットを構えた。


「言葉より、吹いたほうが早いですね」


短いフレーズを吹き、すぐに楽器を下ろす。


「今の最後の音、聞こえましたか?」


「はい」


「では、その音が残っているうちに入ります」


説明は穏やかで、急かすところがない。けれど、曖昧なまま進ませることもなかった。後輩たちは一人ずつ試し、宮田はそのたびに「今のは前より近いです」「そこだけ、もう一度」と具体的に返した。


だが、練習が始まると、その穏やかな顔から出てくる音が部屋の空気を変えた。


ファゴットの低い声が重なり、旋律の輪郭を作る。宮田は目立とうとしていない。けれど、彼の音がある場所を、ほかの三人が迷わず見つける。続く金管の響きがそれを受け取ると、私は思わず譜面から目を上げた。


マエストロが指揮棒を止める。


「ファゴット、いいですね。今の形を覚えておいて。金管はもう少し後ろから聞いて入りましょう」


宮田はすぐに後輩たちを見た。褒められたことを自分の手柄にするのではなく、今の音をどう再現するかを確認する顔だった。


「今の、覚えていますか?」


三人が順番に頷く。


「では、次は僕を聞くのではなく、全員で同じ場所を探してください」


誰かが小さく拳を握ったのが見えた。宮田はそれを見て、ほんの少しだけ笑った。


沢村の鐘が鳴ったのは、その少しあとだった。


一打目で、部屋の天井が高くなったように感じた。金属の響きがほかの楽器の上を通り、消えないまま次の音を呼ぶ。伊原がすぐそばで譜面を追い、沢村は次の一打までの時間を数えていた。


その横顔は、鐘の話をしているときよりずっと静かだった。


沢村は普段のように周囲へ声を飛ばさず、マレットを握ったまま、指揮棒と譜面だけを見ていた。次の音までの休符を、身体全体で測っている。大きな音を出す人なのに、鳴らさない時間の長さにも同じくらい神経を使っているのがわかった。


私はフランツを弾きながら、鐘の響きの行き先を聴いた。重い音なのに、上へ抜けていく。あの音を怖いと思うべきなのか、美しいと思うべきなのか、決められないまま弓を返した。


一度、鐘と弦の入りが噛み合わず、マエストロが止める。


「沢村さん、いい響きです。もう一度。皆さんは鐘を待ってから動くのでは遅い。鳴る前から、同じ時間にいてください」


沢村が勢いよく頷いた。


「はい。次は、鳴る前から鳴らします」


「それは音を出すという意味ではなくて」


「わかっています。気持ちの話です」


「沢村さんの場合、気持ちが先に鳴りそうですけどね〜」


伊原が小声で言うと、沢村は真剣に考えた。


「では、気持ちは抑える」


「そこまでしなくていいです」


マエストロが苦笑する。沢村はすぐに姿勢を戻した。冗談を挟んでも、合図が出れば一瞬で集中へ戻る。その切り替えの速さが、彼の強さなのだと思った。


潤はチェロのトップ席で弓を下ろし、マエストロの言葉を聞いていた。目が合うと、水曜のことを思い出した。


待つことと、遅れることは違う。


もう一度の合図で弓を構える。宮田たちの音が低く重なり、金管が応え、やがて鐘が鳴った。今度は、その一打を聴きながら弾けた。


練習が終わるころには、九時が近かった。


沢村はマエストロに鐘の感想を聞きに行った。


「先生、今の鐘、どうでしたか。迫力はありましたか。怖さは? 神聖さは?」


「まずは、全体の中でよく聞こえていました」


「つまり、迫力も怖さも神聖さもあったと」


「そこまでは言っていません」


「でも、よく聞こえた」


沢村は満足そうに頷いた。


「では、成功ですね」


伊原はその横でマレットを片づけながら、「次は袋を自分で運んでくださいね」と言った。


「もちろんだ」


「本当ですか?」


「次は俺が先頭に立つ」


「持つとは言ってないですね〜」


美帆の声が飛んできて、沢村は一瞬黙った。それから、布袋を肩に担いだ。


「持つ。俺が持つ」


範子が奈緒の譜面を重ねていた。ページの角を揃え、鉛筆を一本ずつケースへ戻している。


「中村ちゃん、もう帰っていいよ」


奈緒が言うと、範子は首を振った。


「次に使う人が困らないようにしておきます」


「真面目だねえ」


「奈緒さんがいつもそうしているので」


奈緒は少しだけ目を丸くし、それから照れ隠しのように譜面を受け取った。


安東は美帆に「三回目の音、覚えてます」と報告していた。


「本当に〜?」


「はい。最初は暗くて、二回目は少し前に出て、三回目はその中間です」


「そこまで覚えてるなら、もう私に聞かなくてもいいかも〜」


「いえ、確認は必要です」


「安東くん、確認が好きだね〜」


「好きというより、安心します」


安東はそう言ってから、少し恥ずかしそうに笑った。みんな少し疲れて、それでも来週また弾くつもりでいる。


私もフランツをケースに収めた。


玄関へ向かう途中、地下の階段の前を通る。水曜の夜には、ここから何かが上ってきた。今日は明かりが点き、向こうから演劇サークルの学生が二人、衣装の入った箱を抱えて現れた。


「すみません、そこ、通ります」


一人が声をかけ、もう一人が箱を少し傾ける。箱の角が階段の手すりに当たり、乾いた音がした。


「気をつけてね」


潤が言う。


「ありがとうございます」


二人は笑いながら階段を上がっていった。衣装の布が箱の隙間からのぞき、赤い袖が明るい照明の下で揺れている。誰かが二階から「そっち、置き場所こっち!」と呼び、学生の一人が「今行きます」と返した。


その声が途切れたあと、階段の奥で、別の音がした。


小さく、靴底を引きずるような音だった。


私は反射的に足を止めた。けれど、すぐに先を歩く樹の声が飛んでくる。


「未央さん、先に行きますよ!」


「うん」


返事をしてから、もう一度だけ階段を見た。


明かりは点いている。壁には演劇サークルの公演ポスターが貼られ、階段の踊り場には誰かが置いた段ボール箱がある。どれも見慣れた、明るい会館の風景だった。階段の手前の段、その隅に黒い粉が溜まっていた。誰かの靴から落ちた土だろうかと思い、私は目を戻した。それなのに、地下へ続く暗がりの境目だけが、照明の届かない場所として残っている。


「未央」


隣に来た潤が、私の手元を見た。フランツのケースの取っ手を、強く握りすぎていたらしい。


「大丈夫。今日は人がいた」


「そうだな」


潤はそれ以上聞かなかった。私も話さずに歩き出す。


玄関では、沢村の声が響いた。


「よし乃、行く人ー!」


明るい声につられて、何人かが振り向く。伊原も呼ばれ、「少しだけなら」と答えていた。


「沢村さん、鐘は置いていくんですか?」


樹が尋ねる。


「鐘は置いていく。俺は行く」


「そこは逆じゃないんですね」


「鐘は会館に必要だ。俺は焼き鳥屋に必要だ」


「誰が必要としてるんですか〜」


美帆の声に、沢村は胸を張った。


「よし乃が」


「まだ何も言ってませんけど」


伊原が笑いながら答える。沢村は満足そうに頷き、今度こそ布袋を抱えて会館の中へ戻っていった。


そのとき、地下のほうから、金属を軽く叩いたような音がした。


誰かが椅子を動かしたのかもしれない。扉の向こうで、楽器のケースが触れたのかもしれない。会館にはまだ人がいる。笑い声も、足音も、譜面をめくる音も聞こえている。


それでも、音は一度だけだった。


私はもう一度地下のほうを見てから、外へ出た。


夜風が頬に触れる。樹が一歩先を歩き、潤が私の隣にいる。今夜の鐘の音が、まだ身体の奥で鳴っていた。


玄関の扉が閉まる。ガラス越しに、沢村が誰かに手を振っているのが見えた。伊原が笑い、沢村が何かを言い返す。会館の明かりがいつものように道路へこぼれていた。


その明るさの中で、地下階段の入口だけが、黒い四角形として残っていた。


ふと、背後でまた何かが鳴った気がした。


私は足を止めなかった。笑い声が遠のく。最後に残った音だけが、地下へ沈むように消えた。


私はケースを持つ手に力を込めた。


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