夢と情熱(5)
弓を弦から離したあとも、楽器の胴に残った振動がしばらく消えなかった。直人がクラリネットを膝に下ろす。息を吐く音が、今度ははっきり聞こえた。
「うん。これなら、俺も吹ける」
潤は指揮棒を下ろし、すぐには頷かなかった。空中に残った音を確かめるように、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと息を吐き、短く頷く。額には薄く汗が浮かんでいた。
「本番でも、今くらい歌える?」
その声には、できるかどうかを試す響きがなかった。直人の音をもう一度聴きたいという、隠しきれない期待が混じっていた。
「本番なら、もっと」
直人が当然のように答えたので、木管の席から笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、そこでようやくほどける。潤もわずかに口元を緩める。
「じゃあ、俺も聴き落とせないな」
その言葉を口にした潤は、指揮者というより、ひとりの演奏者に見えた。自分が音を動かすのではなく、音の中にいる誰かを聴き続ける。その責任を、今度は逃げずに引き受けようとしている。
私は潤を見上げた。さっきまでなら、そんな言葉を彼が口にするとは思わなかった。指揮棒を握る手にはまだ力が残っている。けれどそれは、次の音を支配するための力ではなかった。今鳴った音を身体の中に留め、そこから次の音を生み出すための力に見えた。
「未央」
目が合う。
「これでいい?」
問いかける声は、いつものように確信を求めているのに、以前のような硬さがなかった。自分の判断を認めさせるためではなく、私たちがどう聴いたのかを確かめようとしている。
「うん」
声に出した途端、胸の奥に残っていた振動が小さく揺れた。
「直人の音を、ちゃんと聴けてた」
潤は一度、直人のほうへ目を向けた。それから私たち全員を見渡す。
「俺ひとりで持っていくんじゃなくて、みんなが鳴らしたものを聴いて、次へ渡す。今は、それができた気がする」
言葉にしたことで、彼自身も初めて確かめたようだった。指揮棒の先が、わずかに下がる。けれどその手はもう、音を終わらせるためではなく、次の音を待つ形になっていた。
それだけ答えると、潤は次の箇所を指示した。私は譜面に視線を戻したが、弓を構える前にもう一度だけ彼の手を見た。
直人の音を待ち、聴き取り、私たちの音へ受け渡した手だった。
そのあとも第四楽章の数か所を合わせた。潤は同じところを繰り返すたび、誰の音を聴いているのかがわかる指示を出した。
「金管、音量じゃなくて入りを揃えて。樹、そこは急がなくていい。未央、今の受け渡しは悪くない」
短い言葉なのに、どこを直せばいいのかはっきりしている。金管の入りを揃え、弦の弓順を確かめ、直人のところは最後にもう一度だけ通す。今度は止まらなかった。
潤は指揮棒を下ろし、全員の顔を見回した。
「今日はここまで。土曜に同じところをもう一度やる。忘れないように」
「そこまで言われると、忘れたら怒られる気しかしないな」
樹が小声で言うと、潤はすぐに振り向いた。
「怒る前に、もう一度やらせる」
「それ、怒るより怖いです」
「なら覚えておけ」
九時を少し回ったころだった。潤が譜面を閉じると、「お疲れさまでした」と声が重なり、練習室が急にいつもの賑やかさを取り戻す。樹と譜面台を畳んでいると、直人がクラリネットのケースを片手に近づいてきた。
「未央、さっきの、ありがと」
「私は言っただけ。吹いたのは直人でしょ」
「でも、言ってくれなかったら、吹かずに帰ってたかも」
「じゃあ、次からは帰る前に一回だけ私を見る?」
冗談のつもりで言うと、直人は少し考えてから笑った。
「それなら忘れない」
彼は軽く肩をすくめ、潤のほうへ目をやった。潤は沢村と何か話している。遠くからでも「土曜には鐘を」という沢村の声だけはよく通った。
「潤、まだ話してる。先に行っていいかな」
直人が尋ねると、潤は会話を切り上げてこちらを見た。
「戸締まりを確認してから帰る。先に出るなら、地下の階段には近づくな」
「地下、まだ誰かいるんですか?」
「知らない。だから近づくな」
即答だった。樹が譜面台を抱えたまま、わざとらしく眉を上げる。
「それ、最初に言ってくださいよ。聞いたあとだと、余計に気になるじゃないですか」
「気にするな」
「無理です」
直人が苦笑しながら去っていくと、樹は私の譜面台を受け取った。
「今日は叩かれずに済みました」
「潤に?」
「はい。未央さんが隣にいたので、たぶん巻き添えを避けたんです」
「私を盾にしたの?」
「違います。信頼してます」
「便利な言い方だね」
「褒め言葉です」
いつもの調子で笑いながら廊下へ出た。けれど、潤の最後の言葉が耳に残っていた。地下の階段には近づくな。そう言われると、そこに何かあると考えてしまう。
階段を下りる団員たちの足音が、古い建物の壁に重なって響く。一階の踊り場まで来たところで、ふいに別の音が混じった。
ぱん。
私は足を止めた。
樹も二段先で振り返る。さっきまでの笑みが消えたが、譜面台を抱えた腕だけは下ろさなかった。
「……今の、聞こえました?」
「聞こえた」
「よかった。聞こえなかったことにされたら、僕、一人で確認しに行くところでした」
「行かないで」
思わず強く言うと、樹は一瞬だけ目を丸くした。それから、いつもの軽口を引っ込めるように口を閉じた。
地下へ続く階段の明かりが、ひとつだけ点いていた。
その下で、何かが床を擦った。
ずる、ずる、と音が近づき、途中で止まる。誰かが階段の下から、こちらの足音を聞き分けているようだった。
樹が私の前に半歩出た。
「未央さん、上に戻りますか」
「潤を呼ぶ?」
「呼びます。僕が行ってもいいですけど、未央さんはここにいてください」
「それも嫌。二人で戻る」
「ですよね」
怖がっているのに、樹は私を置いていこうとはしなかった。そのことが、かえって足を動かしにくくした。
やがて、暗がりの奥で小さく何かが触れ合った。金属のような音が一度鳴り、続いて、湿ったものを引きずる音がした。
音は一度きりでは終わらなかった。
止まったと思うたび、少し離れた場所で、また床が軋む。地下の空気そのものがゆっくり移動しているように聞こえた。階段の手すりが、誰にも触れられていないのにかすかに震えている。
「……演劇の人かな」
樹が言った。声が妙に小さい。
「そう思いたい」
「僕もです。かなり本気で」
返事をした瞬間、地下の明かりが消えた。
完全な暗闇になった階段の奥で、何かが息を吐いた。長く、細い息だった。人のものに似ているのに、途中で音が途切れず、いつまでも続いているように聞こえた。
樹の手が、私の袖をつかんだ。
「すみません。今だけ」
「離さなくていい」
そう言った自分の声が、思ったより震えていた。
踊り場のポスターが、風もないのに揺れた。紙の端が壁から浮き、裏側の黒ずんだ壁が覗く。その壁の向こうから、爪で叩くような音が三度響いた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
最後の一音だけ、私たちのすぐ足元から聞こえた。
樹が息を呑んだ。私は階段の下を見た。何も見えない。けれど、暗闇の中に、こちらを見上げているものがいる気がした。
そのとき、上から潤に呼ばれた。
「未央」
声が遠い。
顔を上げると、潤がチェロのケースを背負い、踊り場に立っていた。こちらの様子を見て、すぐに表情を硬くする。
「何があった」
「地下から音がします」
樹が答えた。声は震えていたが、私より先に説明しようとした。
「音だけか」
「たぶん。明かりが消えて……」
「たぶんじゃない。見たのか、見ていないのか」
「見てません」
「なら、見ていないと言え」
潤は短く言い切り、私たちのほうへ一歩下りた。
「未央、樹の後ろに。樹、上がれ」
「潤さんは?」
「俺も上がる。確認はしない」
「でも、地下に誰かいたら」
「だから確認しない。今は全員で出る」
その声には、普段の練習中と同じ迷いのなさがあった。樹が私の袖をつかんだまま、階段を上り始める。
「置いてくぞ」
潤が言った。
「その言い方、今は冗談に聞こえません」
樹が返すと、潤は一瞬だけ彼を見た。
「冗談ではない。急げ」
声を出した途端、地下の奥で何かが階段を一段上った。
ぎ、と古い木が鳴った。
樹の足が止まりかける。私はその腕をつかんだ。
「樹、上がって」
「はい。未央さんも、絶対に振り返らないで」
「わかってる」
私たちは階段を上った。背中を向けた瞬間、下からまた音がした。今度は床を叩く音ではない。誰かが、私たちの真似をして階段を上ってくる音だった。
一段。
また一段。
潤は振り返らず、玄関へ向かう扉を開けた。
「外へ出る。走らなくていい。転ぶな」
「こういうときまで指示が細かいですね」
樹が息を切らしながら言う。
「細かく言わないと、お前は余計なことをする」
「否定できません」
玄関へ向かうあいだ、地下からは何も聞こえなかった。静かすぎて、かえって耳の奥が痛くなる。
外へ出て扉が閉まる。
その直前、地下の奥で、誰かが息を吸った気がした。
私たちが残していった空気を、ゆっくりと取り込むように。
私は振り返らなかった。
けれど、扉の向こうから、最後に一度だけ聞こえた。
ぱん。
今度は、すぐ背後からだった。
土曜の午後、サークル会館へ入る前に、私は地下へ続く階段を見た。
玄関からは奥が見えない。見えないとわかっているのに、視線だけがそちらへ行く。水曜の夜、私たちを追うように上ってきた足音は、帰宅してからも耳を離れなかった。樹も聞いた。潤も私たちの様子を見て、確かめずに出ようと言った。
それでも、明るい時間の会館には団員の声が満ちている。誰かが二階で音階を弾き、別の部屋からは金管の短い音が聞こえた。私はフランツのケースを持ち直して階段を上った。
パートリーダー練習の部屋へ入ると、樹が先に来ていた。譜面台を並べる手を止め、私を見る。
「地下、通りました?」
「玄関から見ただけ」
「僕もです」
二人で顔を見合わせたところへ、奈緒が入ってきた。
「何その顔。今日、怖い曲やるから?」
「怖い曲なら、これから全練でたっぷりやりますよ」
樹がすかさず答える。奈緒はその背後から、小柄な女子学生を半歩前へ押し出した。
「未央、樹。中村ちゃん連れてきた。今日は二限までだったから」
「中村範子です。よろしくお願いします」
範子は背筋を伸ばし、きっちり九十度に近い角度で頭を下げた。顔を上げると、部屋の人数と譜面台の数を一度に見渡し、奈緒が示した席へ迷いなく向かう。ケースを開け、松脂を取り出し、譜面を置く。その一つひとつが、初めて来た人の動きとは思えないほど正確だった。
「次期セカンドヴァイオリントップ、見学だけじゃなくて弾いてもらうからね」
奈緒が言う。
「はい。そのつもりで来ました」
範子は即答した。声も表情も揺れない。
樹が小声で「奈緒さんにそっくり」と言うと、奈緒は聞き逃さず、譜面の束で彼の肩を軽く叩いた。
「似てるんじゃなくて、私が育ててるの」
「まだ育ててる途中なんですか」
「だから今日、弾いてもらうの」
範子は二人のやりとりを聞きながら、すでに弓の毛を確かめていた。笑うべきところなのか判断しかねたのか、口元だけがほんの少し動く。その真面目さが、かえって可笑しかった。
続いて美帆が、背の高い男子学生を連れてきた。男子学生は入口で一度立ち止まり、部屋の中を見回した。譜面台の間隔、椅子の位置、窓際の空きスペースまで確認してから、ようやく中へ入る。
「安東くんも来られました〜。今日はヴィオラが賑やかです」
「安東貴則です。よろしくお願いします」
安東は丁寧に頭を下げたあと、すぐに顔を上げた。
「練習室、ここで合ってるよな? 廊下で樹の声がしたから」
「声を目印にしないでよ」
「でも、かなり遠くまで聞こえた。便利だったぞ」
安東は悪びれずに言った。美帆が笑い、樹が「褒めてないよね、それ」と返す。
「褒めてるさ。音が通るってことだろ?」
「会話の声と楽器の音は違うだろ」
「そうか?」
安東は本気で尋ねているらしかった。樹が言葉に詰まり、美帆がとうとう吹き出す。安東はその反応を見て、ようやく自分がからかわれていると気づいたように笑った。
「じゃあ、今日は楽器で目印になるよ」
「それは助かるかも〜」
美帆が言うと、安東はすぐにヴィオラを取り出した。冗談を言っていたときの軽さが消え、楽器を構える姿勢だけが妙に几帳面だった。
潤はチェロを抱えて現れ、人数を数えてから奈緒と美帆の後輩に気づいた。
「二人とも、全練にも出られる?」
「はい」
範子が即答する。
安東は時計を見た。
「パンを買いに行く時間があれば」
「休憩は取る」
潤が答えると、安東は安心したように頷いた。
「それなら、最後までいられます。空腹だと、音程よりパンのことを考えてしまうので」
「正直だね〜」
「大事なことです」
範子が真顔で同意した。
「中村ちゃんまで」
奈緒が呆れたように言うと、範子は「集中力に関わります」と説明した。安東は隣で深く頷いている。二人の真剣さが妙に噛み合っていて、私は笑いをこらえた。
潤がチェロを置いたところへ、ドミトリーこと大友が大きな手で扉を押さえながら入ってきた。
「ナターシャは農学祭の準備。今日は僕だけだ」
「誰も二人来る前提で数えてないよ」
私が言うと、彼は真剣な顔で頷く。
「しかし、コントラバスは一人増えるだけで部屋の景色が変わる」
「それはそう」




