夢と情熱(4)
水曜の夕方、サークル会館の練習室に入ると、いつもより低い音が床を這っていた。奥ではチェロとコントラバスが、短い音型を同じ強さで何度も踏み鳴らしている。音が足首から脛へ、脛から膝へと這い上がり、身体の内側に重い振動を残した。反対側からは金管の音が、壁を押し返すように断続的に響いてくる。強く鳴ったあと、すぐに引く。そのたび、壁の向こうで何かが膨らんでは潰れているようだった。譜面台を立てる間にも、誰かが第四楽章の同じ数小節を、息を削るように何度も吹き直していた。短い音型の最後だけがわずかに遅れ、その遅れを埋めるように、次の音が早く入る。
私はフランツをケースから出し、隣の席に来た樹に目をやる。
「今日は四楽章からでしたっけ」
「うん。潤がそう言ってた」
「土曜は、あんなに仲よさそうだったのに」
樹が何でもない顔で譜面を広げる。私は返事の代わりに、弓の先で彼の譜面台を軽く叩いた。乾いた音がひとつ鳴り、すぐに周囲の低音へ呑まれた。
六時になる少し前、潤が指揮台に上がった。チェロを持たない彼を見るのは、土曜からまだ四日しか経っていないのに、妙に久しぶりな気がした。楽器を抱えていないぶん、両腕の動きがむき出しになっている。肩の高さも、指先の角度も、こちらから隠れるものがない。
私たちが席に着くのを見届けると、潤はオーボエの理沙に目配せした。
理沙のAが、細い光の筋のように練習室をまっすぐに通った。私は立ち上がってA線を合わせ、弓を下ろす。弦の各パートが順に音を重ね、管と金管が続く。最初は一つひとつの音が離れて聞こえたのに、やがて音量が揃い、部屋全体がひとつの厚い響きに満たされていく。低音が床を支え、その上に中音域が層を作り、最後に高音が細い線を引いた。音は天井近くで膨らんだあと、ゆっくりと身体の中へ沈んでいった。最後の余韻が消えるまで、潤は指揮棒を上げなかった。
その沈黙を、私は妙に長く感じた。
潤が譜面を開く。
「四楽章、頭から。今日はまず、最後まで通してみよう」
指揮棒が上がった。
白い先端が空中で止まる。練習室全体が、その一点に吸い寄せられた。私は息を止めた。潤の目が楽団を横切り、ほんの一瞬、私のところで止まる。
次の瞬間、腕が鋭く落ちた。
音が一斉に走り出した。弦は強いアタックで拍の頭を揃え、低音がその下から太く押し出す。私は遅れないように弓を弦へ置いた。音の立ち上がりが揃うほど、楽団全体がひとつの塊になって前へ滑っていく。
最初のうちは、潤の手と自分の譜面を交互に見ていた。土曜にマエストロのもとで弾いた、ひとつの音を次へ渡していく感覚を思い出す。けれど、この楽章では、渡した先から別の力が押し返してくる。チェロとコントラバスの低音が、床下からせり上がる水のように足元を満たしていった。踏ん張っているはずなのに、身体の芯が少しずつ後ろへ運ばれる。低音はただ下で鳴っているのではなく、私たちの足場そのものを動かしていた。
潤の指揮は明快だった。右手の指揮棒が拍を切るたび、空気に細い傷が走る。拍の頭では手首が鋭く跳ね、裏拍ではすぐに次の位置へ戻る。左手は音の厚みを掴み、押し広げ、金管が入る直前には胸の前で大きく開いた。音量を上げるときは掌が上を向き、抑えるときは指がすぼまる。どこで音を立て、どこで引き、どこまで進むかが、手のひらの向きや肩の沈み方まで含めて見えてくる。
私は弓を揃えながら、その明快さに息苦しさを覚えた。
潤の腕は、音が次の場所へ着くのを待たない。ひとつの響きがまだ空中に形を残しているうちに、次の拍を掴み、前へ引きずっていく。弦が鳴り切る前に木管がその音型を受け取り、木管の息が細く残っているうちに金管が同じ輪郭を太く塗り替える。受け渡しは途切れない。けれど、どの楽器も前の音を抱えたまま次へ進むのではなく、受け取った瞬間にそれを手放していた。
音楽は潤の腕に引かれ、坂道を転がる石のように速度を増していった。
旋律には、本来なら一度立ち止まって息をする場所がある。音の余韻が次の音を呼び、呼ばれた音がまた別の声へ渡っていく、そのわずかな間。けれど潤の指揮は、その間を許さなかった。弦が伸ばした音の終わりに木管が入ると、木管の音が消える前にホルンが同じ動きを受け取り、さらに低音がその下へ潜り込む。音は次々に手渡されるのに、誰も一度も立ち止まらない。
前へ、前へと押し出されるたび、まだそこに残っていたい音が、言葉を終える前に口元から奪われていく。私は弓を動かしながら、旋律の背中を追いかけていた。追いついたと思うと、また潤の腕が先に進む。音だけが置き去りになり、私はそのたびに、弓の圧をわずかに強めた。強く押せば音は前へ出る。けれど、前へ出るほど、音の後ろに残る余韻は短くなる。
やがてクラリネットが、聞き覚えのある旋律を歌い始めた。
その音は、暗い水の底から浮かび上がる声に似ていた。細く、柔らかいのに、息の奥には消えない芯がある。第一楽章では胸の中を占めていたあの旋律が、ここでは遠い場所からこちらを呼び戻すように姿を見せた。
私は思わずそちらへ耳を向けた。弓を持つ右手まで、音のほうへ引かれた気がした。
クラリネットの最初の音は小さかった。けれど、潤の左手がわずかに上がると、音量が一段ずつ膨らんだ。細い線だった旋律が、二音目、三音目と息を含み、部屋の中央へ伸びてくる。後ろではヴィオラがその輪郭を薄くなぞり、チェロが低い位置から次の音を受け取ろうとしていた。旋律はクラリネットだけのものではなく、周囲の楽器へ静かに渡り始めていた。
旋律が一音ずつ輪郭を取り戻していく。今度こそ、その声のそばにいられると思った。けれど、潤の指揮棒はすでに次の拍を指していた。
クラリネットがまだ音の中に立っているのに、全体はその先へ進もうとしている。私はその旋律を支えるように弓を置きたかった。ほんの一瞬、音を空中に留めたかった。
潤の目が、こちらを横切った。
その瞬間、手が鋭く動いた。
指揮棒が空気を断ち切り、左手が旋律の肩を押すように前へ出る。クラリネットの声は、まだ言葉を終えていないのに、流れの中へ押し戻された。ヴィオラが受け取るはずだった余韻は短く切られ、チェロの低音がその隙間へすぐに入り込む。音は先へ進み、短い旋律は背後へ消えた。
私はその消え際を追おうとした。けれど、低音が再び足元を掴み、身体ごと次の拍へ引きずっていく。
耳の中では、旋律の最後の音だけがまだ鳴っていた。けれど、楽団はもうその音を置き去りにしている。潤の腕が作る流れは強く、逆らおうとすれば、自分の音だけが遅れて取り残される。
だから私は弾き続けた。弓を揃え、拍に合わせ、次の音へ進んだ。進みながら、胸の奥では、さっきの旋律がまだ終わっていないと繰り返していた。
通し終えるまで弾き続けたが、私の中には、置き去りにされたような感触が残った。胸の奥に手を伸ばしかけたところで、誰かに手首を掴まれたようだった。音楽が前へ進んだぶんだけ、私の中には取り残された響きが積もっている。
終わったはずなのに、旋律だけが戻ってこない。
最後の響きが止む。潤が指揮棒を下ろす。棒の先が落ちるにつれて、練習室の空気もゆっくりとほどけていった。
誰もすぐには動かなかった。弓を弦から離す音さえ、妙に大きく聞こえる。さっきまで重なっていた低音も、金管の残響も、今はそれぞれ別の場所で消えていく。音が一つにまとまっていたぶん、終わったあとの静けさは不自然なほど広かった。
何か言おうとするより先に、私は弓を膝に置いた。
「潤。さっきのクラリネットのところ、もう一回やらない?」
潤がこちらを見る。
表情は変わらなかった。けれど、指揮棒を持つ手だけが止まっている。握られた指の関節が、白く浮いていた。
「やるつもりだ。何が気になった?」
「通り過ぎるのが早すぎる気がする」
「早すぎる?」
潤の声が、練習室の静けさの中で思ったより近く響いた。
私は喉の奥に引っかかった息を飲み込んだ。
「旋律がまだ残ってるのに、次へ行ってる。あそこは、もう少し聴かせてもいいと思う」
潤の視線が、私の顔から弓へ、弓から譜面へと落ちた。すぐに戻ってくる。その目には、演奏中と同じ鋭さがあった。
「聴かせるために、流れを止めるのか」
「止めたいんじゃない。残したいだけ」
「残している時間が長ければ、音楽が深くなるとは限らない」
「でも、消える前に次へ行ったら、残るものも残らない」
言葉が落ちるたび、周囲の気配が薄くなっていく。誰も譜面をめくらない。誰も楽器を下ろさない。潤の指揮棒の先だけが、私と彼の間で細く揺れていた。
私はその先端から目を逸らさなかった。少しでも視線を外せば、今度こそ自分の言葉まで潤の流れにさらわれる気がした。
「君は、あの旋律を聴き終わるまで待ちたいんだな」
「そう」
声が思ったより低く出た。
「少なくとも、潤が先に終わらせるべきじゃない」
潤の眉がわずかに動いた。
樹が隣で、ごく小さく息を吸った。私はそれを聞きながらも、潤から目を逸らさなかった。胸の奥が速く打っている。指先には、まだ弦を押さえていた感触が残っていた。
潤の目が細くなる。
指揮棒が、今度は空気を切らずに下を向いた。
「……もう一度やる」
低い声だった。
「ただし、君の言う余韻を待つかどうかは、全員で決める」
「わかった」
私は弓を握り直した。木の感触が掌に食い込む。
「だから、今度は最後まで聴いて」
潤の指が、指揮棒を握り直した。
その音はしなかった。けれど、握り込まれた指の動きだけで、彼がまだ退いていないことがわかった。私も弓を膝から持ち上げる。
潤が指揮台の上で息を吸った。
今度は、どちらが先に音を動かすのか、誰にもわからなかった。
潤は指揮棒を上げかけて、止めた。
「相沢。今のところ、まず一人で吹いてくれるか」
木管の列で、相沢直人が顔を上げた。膝の上に置いていたクラリネットを持ち直す。
「どっちの吹き方で?」
「まずは、さっきと同じように」
直人は短く頷いた。譜面へ目を落とし、息を吸う。最初の音が練習室に伸びた。
弦も金管も鳴っていない。さっきは全体の流れの中から聞こえてきた旋律が、今は直人の息だけで立っている。柔らかい音色だったが、弱くはなかった。一音ごとに行き先を決めて吹いているのがわかる。潤が先へ進ませた場所でも、音そのものは途切れていなかった。
直人が楽器を下ろす。
「未央、どう?」
「やっぱり、最後の音をもう少し聴きたい」
潤はすぐには答えなかった。
「相沢は?」
直人は私と潤を順に見た。
「さっきは、指揮に合わせて吹いた。合わせにくくはなかったよ」
その言い方に、潤がわずかに顎を上げる。
「ただ、俺が吹くなら、最後はもう少し歌う」
直人は淡々と言って、クラリネットをもう一度構えた。
「そこまで吹くから、先を聴いてて」
彼は同じ旋律を吹き始めた。今度は最後の音へ向かうにつれ、息を細くする代わりに、音の芯を少しずつ露わにしていく。引き延ばしているわけではない。一音の終わりまで、行き着こうとしている。
直人が吹き終えたあと、潤は指揮台から降りなかった。譜面を見つめ、それから楽団を見渡す。
「今のを、全体でやってみる。相沢の最後の音は待つ。でも、その次は俺が入れる」
「わかった」
直人の返事は早かった。私も弓を構える。
潤の指揮棒が上がり、私たちは数小節前から弾き始めた。直人の旋律が浮かび上がる。私はその音が終わる場所を探しながら、弓を動かした。
潤の左手が開く。直人の音を受け止めるように、掌がしばらくそこに留まった。
ほんの一瞬だった。
直人の最後の音が届く。潤の手が動き、楽団が次の音へ進んだ。今度は旋律の終わりを聴けた。それでも、続く音の勢いは失われていない。
私は思わず潤を見た。彼もこちらを見ていたが、指揮棒は止めず、すぐに金管へ向き直る。私はその手を追いながら弾いた。まだ彼に言いたいことはある。けれど、今の一回で、さっきまで聞こえなかったものが聞こえたのも確かだった。
演奏を止めた潤が、直人に訊く。
「どうだった?」
「今のなら吹ける」
直人が楽器を膝に置く。
「でも、次の入りを遅らせたら違うと思う。ここでずっと俺のこと聴いてたら、先へ行けないから」
潤が頷いた。私は少しだけ口を開け、それから閉じる。直人は私にも視線を寄越し、涼しい顔で付け足した。
「旋律は俺が吹くから。二人とも、俺の音を聴いてよ」
樹が隣で肩を震わせた。私は笑いそうになるのをこらえ、直人に頷いた。
直人の息に、潤の指揮棒が応える。
直人が息を吸う音は、客席まで届くような大きさではなかった。それでも、弦を構えた私の耳にははっきり聞こえた。喉の奥で一度息を整え、唇をマウスピースに当てる。その短い呼吸に合わせるように、潤の右手がわずかに沈んだ。
さっきと同じ場所から始めたのに、低音の進み方が違って聞こえた。チェロの響きが床を伝い、フランツの胴が顎の下でかすかに震える。私は自分の弓の毛が弦をつかむ重さを指先と手首で確かめながら、潤の右手を追った。速さはほとんど変わらない。ただ、音が次の音へ押し出されていく方向が、今度ははっきり見えた。
クラリネットが入る直前、直人がもう一度、浅く息を吸う。
旋律が現れる。
細い音だった。けれど、細いまま遠くへ伸びていく。直人の息が音の芯を押し、音符と音符の間に残ったわずかな隙間まで旋律に変えていく。潤の手は拍を刻んだまま、直人を追い立てなかった。指揮棒の先が空中で小さく弧を描き、次の音を待つ余白を作る。
その余白を、潤自身が聴いているのだとわかった。
以前の彼なら、旋律が遅れないように先へ先へと手を出していた。けれど今は、直人の音がどこまで伸びるのかを待っている。待ちながら、次に来る音を決めつけず、その響きに合わせて指揮の形を変えていた。
直人も、与えられた時間を広げすぎない。短い音の中で息を流し、フレーズの最後へ向かう。私は弓を動かしながら、その先に待っている一撃を感じていた。弓を弦へ置く角度を少し深くすると、音の底が厚くなる。隣の弦と呼吸を合わせ、腕の重さを預ける。楽団全体が、まだ鳴っていない音へ向かって身体を傾けていた。
潤の左手が、ほんの少しだけ開く。
音を急かすのではなく、受け止めるための合図だった。直人の旋律を中心に、私たちの音がその周りへ集まっていく。潤はもう、楽団を自分の思い通りに動かそうとしていなかった。鳴っている音を聴き、その音が向かおうとする場所へ、私たちを導こうとしている。
だからこそ、聴くのをやめられなかった。
潤の腕が落ちる。
その瞬間、直人の息が途切れた。クラリネットの声が鋭く切れ、次の拍で楽団の音が一斉に押し寄せる。低音が床を揺らし、弦の響きが胸の内側へぶつかってくる。思わず弓に力が入った。弓の毛が弦を強く噛み、手のひらに硬い反発が返る。
直人の旋律を聴いた耳のまま、その先を弾かなければならない。譜面にある音符はさっきと同じなのに、指の下で重さが変わっていた。左手の指を押さえるたび、音が沈まず前へ出る。弓を返す瞬間にも流れを切らないよう、肘を大きく使って次の一音へつなぐ。
潤は振り返らない。直人の音を切った手で、そのまま私たちを最後まで連れていく。けれど、その手つきはさっきまでとは違っていた。音を断ち切った直後、彼の指揮棒はすぐに次の拍を押しつけなかった。一瞬だけ、消えた旋律の余韻を空中に残し、それから私たちの音を受け止めるように振り下ろした。
指揮棒が空気を裂くたび、音の塊が形を変えた。強く押し出すところでは腕全体が前へ伸び、抑えるところでは手首だけが沈む。以前なら、強さも弱さも彼の意志を伝えるための命令に見えただろう。今は違う。直人の音を聴いたあとで、潤の動きそのものが変わっている。鳴った音を消費せず、次の音の中へ受け渡そうとしていた。
私はその動きを見失わないようにしながら、弓の重さを調整した。
今度は私も、その手についていけた。
音が重なり、押し寄せ、また引いていく。隣の弦の振動が肩へ伝わり、管楽器の息がその上を走る。誰かが一拍でも遅れれば崩れるはずなのに、全員の呼吸がひとつの大きな流れになっていた。緊張で背中は固くなっている。それでも、弓を返すたびに音が前へ進む感覚があり、その高揚が指先の震えを押しのけていった。
潤の表情が、譜面ではなく音の中にあった。
次の小節を見ているはずなのに、彼の目は今鳴っている音を確かめている。音が強くなれば、それをさらに押し上げるのではなく、どこまで響くのかを見極めるように手を緩める。音が細くなれば、無理に引き戻さず、その細さを失わないように周囲を支える。
指揮をする潤が、演奏に耳を預けている。
そのことが、音の中から伝わってきた。
最後の音が止む。




