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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第一章 夢と情熱
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夢と情熱(3)

午後の練習で、私たちは次の音へ進めるようになった。けれど、その先にもまだ道がある。六人だけで作った響きは、全体の中では一つの細い流れにすぎない。それを木管や金管、低弦の音とどう重ね、どこまで遠くへ運ぶのか。考えるほど、譜面の奥行きが広がっていった。


私は譜面から顔を上げ、指揮台を見た。潤もチェロを構えたままマエストロを見ている。弓先がわずかに揺れ、次の音を待っていた。そこには、自分の音だけでなく、オーケストラ全体がどんな響きへ変わるのかを確かめようとする熱があった。


潤にとって音楽は、うまく弾けたかどうかで終わるものではない。届いていない場所があるなら、そこへ音を運ぶまで手を止めない。指揮台への視線も、隣の奏者への合図も、そのためにあるのだと思った。


「もう一度、少し前から」


声に合わせて、部屋じゅうの弓が上がった。木管が息を吸い、金管の奏者たちが姿勢を正す。潤はチェロをわずかに引き寄せ、左手を弦の上に置いた。弓を構える直前、視線が一度だけ隣の奏者へ向く。短い確認のあと、二人の呼吸が揃った。


それから潤は、もう一度指揮台を見た。マエストロの右手が上がる。その動きを受け止めるように肩がわずかに沈み、弓が弦へ触れた。


無数の楽器が、それぞれの音を抱えたまま、同じ一瞬へ向かって静かに身構えた。空気まで張りつめ、息を吸うたび、胸の内側が薄く震えた。


マエストロの手が動く。私は午後の練習を思い出し、隣の樹の音を待たずに弓を進めた。これまでは、自分の音を正しく出すことだけを考えていた。音程を外さず、入りを揃え、決められた長さを守る。そのために、指先と弓の動きへ意識を集めていた。


けれど今は、弓を置いた瞬間から、その音の先を探していた。


弦が擦れ、指先から肩へ細い振動が駆け上がる。すぐそばで樹の音が重なった。私は自分の音を確かめるのではなく、樹が受け取れるように、響きの端を残した。二つの音が耳の中で重なり、奈緒たちの音がその下から低く、長く伸びてくる。


さっきより大きく弾こうとしているわけではない。フレーズの終わりで音を閉じず、弓を弦に置いたまま、次の楽器へ響きを渡す。音を終えるのではなく、次の音が始まれる形で手放す。


美帆のヴィオラが余韻を受け取った。柔らかな中音域が音の輪郭を広げ、私の音を別の色へ変えていく。続いて木管が加わる。息を含んだ音が頭上から降り、弦の振動を包み込む。私は自分の音がどこまで聞こえるかを追うのをやめた。代わりに、どこへ渡ったのかを聴いた。


耳だけでなく、喉の奥や胸の骨まで、音の層が触れてくる。


マエストロの左手が、少し高く上がる。


次の瞬間、低弦が床を押すように鳴った。足の裏から重さが伝わり、椅子の脚までかすかに震える。そこへホルンが重なった。丸く厚い音が背中を押し、楽団全体の響きが一段深く沈む。


私は、自分の音をその響きの中へ置いた。形を整えてから差し出すのではなく、まだ動いているまま、次の音へ渡す。音は前から聞こえるだけではなかった。左右から、頭上から、床の下からも押し寄せ、身体の内側で何度も反響した。


練習室の壁より先に、この音が届く場所があるような気がした。夢の中で聞こえた旋律を追ううちに、いつの間にか自分の足で走り出している。そんな落ち着かなさが、弓を動かす力になった。手首が細かくしなり、肩が熱を持つ。弦の震えが指先から腕へ流れ、全身が音を運ぶ器になっていく。


私は潤を見ずに弾いた。見なくても、彼のいる列から響きが広がっているとわかっていた。低い音が私の音を下から支え、ホルンがその上に光を重ねる。木管の息が隙間を埋め、金管の響きが遠くへ押し出す。


ひとつひとつの音を、正しく出せているか確かめていたはずだった。けれど、いつの間にか聴き方が変わっていた。私の音が合っているかではなく、次の音がそこから何を受け取ったのかを聴いている。音の境目が薄れ、楽団の響きは大きくなるというより、受け渡されるたびに奥行きを増しながら、部屋いっぱいに膨らんでいった。


マエストロが指揮棒を下ろす。最後の音が消えたあとも、弦の振動が指先に残り、耳の奥では高い余韻が細く鳴り続けていた。誰もすぐには動かなかった。音は消えたのではなく、まだ部屋のどこかに留まり、私たちの沈黙を聴いているようだった。


やがてマエストロが、ゆっくりとこちらへ笑いかけた。


「そう。音量ではなくて、行き先が変わりました」


その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。行き先。私はこれまで、音を正しく出すことばかり考えていた。音程を合わせ、入りを揃え、間違えずに終える。自分の音を、自分の責任で完成させる。その先に誰かがいることなど、考える余裕もなかった。


けれど今、音は私のところで完成しなかった。樹へ渡り、美帆へ渡り、低弦や木管やホルンへ渡って、私の知らない場所まで進んでいった。私が弾いたものは、私の中に閉じていなかった。正しく出した音ではなく、次へ渡した音だけが、楽団の中で生き続けていた。


呼吸をするたび、内側で音の層がゆっくりほどけていく。私は弓を下ろし、樹と顔を見合わせた。彼は声を出さずに、嬉しそうに頷く。その表情を見た瞬間、胸の奥に残っていた落ち着かなさが、ようやく形を変えた。消えたのではない。自分の音を保とうとしていた力が、次の音へ手渡すための細い光になった。


「もう一度、今のところから続けましょう」


マエストロが譜面をめくる。紙の擦れる音が、さっきまでの大きな響きのあとでは妙に近く聞こえた。私は鉛筆で小さく印をつけた。


今度は、間違えないためではない。音を閉じず、次へ渡すために。


忘れないために書いたはずなのに、もうわかっていた。この音は、忘れられないのではない。これから何度も弾くたびに、私のところで終わらず、別の場所へ届き続けるのだ。


そのあとも第一楽章を何度か止めながら進み、マエストロが休憩を告げた。いっせいに椅子が軋み、張りつめていた部屋に話し声が戻る。


私は鉛筆を譜面台に置き、弓を膝の上へ下ろした。肩を回していると、木管の列から藤崎理沙が歩いてくる。片手にはオーボエ、もう片方には水のボトルを持っていた。


「未央、さっきのところ、弦が少し先まで音を残してくれたでしょ。あれ、すごく入りやすかった」


「ほんと? こっちも、管が入ってきたときに、ちゃんと続きが聞こえた」


理沙が嬉しそうに笑った。練習の始まりには、彼女の出すAの音を私が受け取り、弦のみんなへつないだ。今話しているのは別の音のことなのに、どこか似ている気がした。


「こっちにも聞こえてたよ」


振り向くと、ホルンの石原真紀が少し離れたところに立っていた。


「マエストロの『遠くまで』って、最初はどう吹こうか迷ったんだけど。弦と木管がつながってから、入る場所が見えた」


「真紀の音が重なったとき、急に景色が広がったよ」


私が言うと、真紀は照れたように唇を結び、楽器を持ち直した。


「じゃあ次も、そこから入るね」


理沙が頷く。私は二人の顔を見て、午後に六人で探していた音が、知らないうちにずっと先まで渡っていたのだと思った。


「うん。待ってる」


そのとき、マエストロが指揮台へ戻ってきた。理沙と真紀はそれぞれの席へ向かい、私もフランツを肩に載せる。離れた場所に座っていても、次にどこで会えるか、もうわかっていた。


休憩のあと、第二楽章へ進んだ。さっき理沙と真紀が言っていたことを思い出しながら弾くと、離れた席から返ってくる音にも、自然と耳が向いた。理沙の音が少し先に息を吸い、真紀の音がそれを受けて広がる。二人の言葉だけでなく、演奏の中にも互いを聴き合う関係が表れているようだった。私もその輪の中に加わりたくて、フレーズの終わりを急がず、次の音を待った。マエストロは何度か演奏を止め、弦と管の入りを確かめてから、もう一度続けさせた。


第三楽章に入る頃には、楽器を構え直すたびに肩の疲れを感じた。それでも、長いフレーズの先で別の楽器が応えると、もう少し聴きたくなる。音は譜面の上で一人ずつ生まれるのに、重なった瞬間には、誰か一人のものではなくなる。その不思議さを感じていると、疲れも少し遠のいた。最後の音が消え、マエストロが指揮棒を下ろしたとき、時計の針は九時に近づいていた。


「今日はここまでにしましょう。第四楽章と第五楽章は来週、しっかり見ます。打楽器の皆さん、鐘も準備しておいてくださいね」


後ろのほうで、椅子が小さく鳴った。打楽器トップの沢村拓海が、立ち上がる勢いでマエストロに声をかける。


「先生、鐘なんですけど、チューブラーベルでやりたいと思ってます!」


さっきまでの静けさを破る声に、何人かが振り向いた。沢村は少しも怯まず、身を乗り出す。


「第五楽章、あの鐘の音が響いたら、絶対にいいと思うんです。準備の段取りは僕のほうで確認します」


マエストロが笑った。


「いいですね。では、来週鳴らせるようにしておいてください。実際の響きを聴いて考えましょう」


「はい!」


沢村の返事が、まだ楽器を片づけていない部屋に弾んだ。樹が私の隣で、「もう鳴らしたくてたまらないって感じですね」と小声で笑う。私も笑いながら、譜面を閉じた。沢村の声を聞いていると、来週はただ続きを弾くのではなく、今日ここにいた全員で、まだ知らない響きを探しに行くのだと思えた。


団員たちが立ち上がり、あちこちで「お疲れさまでした」と声が交わされる。マエストロには担当の団員が謝礼とお車代をお渡しし、玄関先のタクシーまでお送りすることになっていた。理沙と真紀は譜面を抱えたまま、第二楽章の入りについて話している。樹はケースの留め具を確かめながら、来週は少し早く来ようと私に言った。練習が終わっても、音楽は人の間に残り、次の約束へとつながっていく。


私はフランツをケースに収めながら、来週の第五楽章を思った。沢村が待ちきれないあの鐘を、まだこの部屋では聴いていない。けれど、今日交わされた音や言葉が、その響きのために少しずつ集まり始めている気がした。鐘が鳴ったとき、弦の音がどう応え、管の息がどこへ伸びていくのか。そこに自分の音も重なり、今夜の仲間たちと一つの流れをつくるのだと思うと、胸の奥が静かに高鳴った。今夜の音が耳に残っているうちから、もう次の土曜日が待ち遠しかった。


ケースの留め具を閉じると、練習室のあちこちから、椅子を重ねる音が聞こえてきた。樹と一緒に譜面台を畳み、壁際へ運ぶ。さっきまで楽器で埋まっていた部屋に、少しずつ床が見え始めた。


チェロを背負った潤が、出入口で私たちを待っていた。


「水曜、四楽章からやる」

「わかった。譜面、見ておく」


そう答えると、潤は一瞬だけ意外そうな顔をした。それから、私が手にしていた譜面の端を軽く指で押さえ、折れかけていたページをそっと戻した。


「……助かる」

「私も弾くんだから、当たり前でしょ」


樹が隣で笑いをこらえている。私は気づかないふりをして、譜面を鞄にしまい、フランツのケースを持ち直した。


廊下へ出ると、ほかの練習室からも団員たちが出てきていた。階段へ向かう足音に混じって、「来週、鐘が来るって」という声が聞こえる。まだ鳴ってもいないのに、沢村の鐘はもうみんなの話題になっていた。


一階まで下りたところで、地下のシアターへ続く階段のほうから、ぱん、と乾いた音がした。


短く鋭い音だった。地下の暗がりに吸い込まれたはずなのに、耳の奥だけに残り、周囲のざわめきが一瞬遠のく。階段の手すりが、誰にも触れられていないのにかすかに震えていた。


私は足を止めた。フランツのケースが膝に当たり、硬い音を立てる。振り返ると、地下へ続く階段の照明は途中で途切れ、その先は黒い穴のように沈んでいた。さっきまで聞こえていた団員たちの足音も、そこだけ避けているように思えた。


「どうしたんですか?」


樹に聞かれたが、すぐには答えられなかった。誰かが一度だけ手を叩いたような音だった。けれど、あの地下で、誰が、何のために。


「……今、音がしなかった?」

「音?」


樹が階段を見下ろす。私も目を凝らしたが、暗がりの奥には何も見えない。扉が閉まったのかもしれない。そう思おうとした瞬間、地下のほうから、かすかな擦れる音が続いた。


私は反射的に一歩下がった。けれど、玄関からは団員たちの賑やかな声が届き、誰かが笑う声がその音を覆い隠していく。階段の暗がりは、何事もなかったように静まり返った。


「よし乃、行く人ー?」


沢村の声が響く。誰かが「鐘の話、まだ続ける気かよ」と笑い、別の誰かが焼き鳥を食べたいと言った。私は地下から目を離せないまま、やがて無理に視線を切り、玄関の扉を押した。


よし乃には一度も行ったことがないけれど、みんなの声を聞いているだけで、今夜も賑やかになるのがわかった。なのに、背中にはまだ、あの乾いた音が貼りついている。


夜の空気が頬に触れる。少し先を歩く潤が、街灯の下で振り返った。目が合うと、彼は何も言わずに歩調を緩める。私はケースの取っ手を握り直し、地下のことを口にできないまま、その隣へ追いついた。


背後から、また「よし乃!」という声が飛んできた。扉が閉まると笑い声は遠のき、代わりに夜道の静けさが戻ってくる。


水曜には、潤の指揮を見ながら四楽章を弾く。最初の音が鳴る瞬間を思うと、足取りは自然に速くなった。けれど、胸の奥で待ち遠しさが膨らむほど、地下で聞いた一音も鮮明になる。


次の音楽を待つ心の底で、あの音だけが、まだ鳴り終わっていなかった。


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