夢と情熱(2)
土曜日の午後三時、全体練習に先立って集まった練習室には、傾き始めた日差しが差し込んでいた。床には細かな松脂の粉が散り、壁際の暖房機からは乾いた風が低く吹き出している。誰かが開けた窓から、廊下の足音と遠くの話し声が流れ込んできた。
私は譜面台を一台ずつ運び、脚を開いて高さをそろえた。金具がかちり、薄い金属音が重なる。五つの譜面台が半円を描くように並び、黒い譜面の上で、照明の白い光が細長く反射していた。私の隣にもう一つ置こうとしている樹に、奈緒が声をかける。
「樹も来たんだ?」
「来年の勉強のために押しかけましたー」
樹はにこりとして譜面を広げた。紙をめくる音が重なり、譜面の端が空調の風にかすかに揺れる。私の隣で弾くだけでなく、話し合いにも参加するつもりらしい。
「あ、次にパートリーダー練習をやるときは、中村ちゃんも連れてくるね」
奈緒が言うと、美帆もうなずいた。美帆はヴィオラの肩当てを調整し、顎を軽く引いて弦を一本ずつ鳴らす。低く柔らかな音が、まだ誰も弾いていない練習室の空気にゆっくり広がった。
「ヴィオラもそうしますね〜。毎回は難しいかもしれないけど」
「うちの次期トップは土曜に講義があるから、全体練習からしか出られないんだが、一応声はかけておく」
潤がチェロを構えながら言った。エンドピンを床に立て、楽器の底を靴先で確かめる。弓を張る音が小さく響き、彼が弦を軽くはじくと、乾いた低音が譜面台の脚元まで伝わってきた。
「コントラバス、二人でもいいなら連れてくるよ」
大友の言葉に、樹が「にぎやかになりますね」と笑う。その声に続いて、誰かが弓を置き、誰かが椅子を引いた。木の脚が床を擦る音、松脂を弓に塗るざらついた音、楽器のケースを閉じる留め具の音が、短い会話の合間を埋めていく。
私はフランツを膝に乗せ、肩当ての位置を直した。楽器の木肌が頬に触れる。弦を軽く鳴らすと、明るい音が天井近くまで跳ね返り、すぐ隣のヴィオラの低い響きと重なった。
来年は、樹と中村さん達世代がここで音を合わせるのだ。そう思うと、譜面台が一つ増えただけの今日の景色が、少し違って見えた。今はまだ空いている椅子や譜面台の隙間にも、来年には新しい音と動きが満ちているのだろう。
「じゃあ、水曜に話したところから始めようか」
私が言うと、潤が顔を上げた。視線が重なり、水曜の夜に扉越しで交わした、あの短い沈黙が一瞬だけよみがえる。言葉は交わさなかったけれど、どの箇所かは伝わったらしい。
全員が譜面に目を落とした。弓が一斉に持ち上がり、呼吸をそろえるために、肩がわずかに上下する。私はフランツを肩に乗せ、指を指板に置いた。
最初の音が生まれる。
私の弓が弦を擦り、隣から樹の音が続く。少し遅れてヴィオラとチェロが重なり、低い響きが床を伝って足元に返ってきた。音の立ち上がり、弓の速さ、フレーズの終わりに残る余韻まで確かめるように、私たちは何度も同じ小節を繰り返した。練習室の空気が、少しずつ一つの響きに変わっていった。
けれど、問題の小節に差しかかるたび、どこかで音が重くなる。三度目を弾き終えたところで、私は弓を下ろした。
「ごめん。今の、私が少し遅れた」
「うん」
潤が頷く。水曜の夜なら、その一言に腹を立てていたかもしれない。自分の音だけを頼りに、誰にも頼らず、遅れたなら遅れたで一人で直すしかないと思っていた。誰かに指摘されることは、助けを求めることと同じくらい苦手だった。
でも今日は、続く言葉を待てた。
「未央の音が入ってから、みんなが次へ行ってる。そこを一緒に前へ出したい」
「私が引っ張るんじゃなくて?」
「一人では引っ張らなくていい」
それを先に言ってよ、と思った。けれど、言葉にする前に奈緒が譜面を指で押さえた。
「二番も、今は未央の音を聞いてから動いてた。次はこっちから行ってみる」
「私も、奈緒ちゃんに乗ってみます〜」
美帆が弓を持ち直す。大友は長い指で譜面の端を押さえ、少し首を傾けた。
「じゃあ、低音も待たないほうがいいな。俺が重くすると、上が先に行きたくても行けない」
「そう、それ」
潤がすぐに応じた。大友が「了解」と言って、大きな手でコントラバスの弓を取り直す。
「さすがドミトリー先輩」
樹が茶化すと、大友は「その名前、今関係ある?」と笑った。入部した日にロシア音楽が好きだと言っただけで、当時の先輩に付けられたあだ名だ。本名の大友圭介より、ドミトリーのほうを先に覚えた団員も多い。
樹が今度は私の隣から顔を覗き込んだ。
「未央さん、僕を待たなくていいですよ」
「待ってないけど」
「じゃあ、僕が勝手についていきます」
奈緒が笑い、美帆もつられて笑った。潤まで、ほんの少しだけ口元を緩めた気がする。
私はフランツを構え直した。水曜の夜、一人で探していた音の続きを、今は六人で探している。
以前は、次の音が来るまでのわずかな間さえ、自分で埋めなければならないと思っていた。誰かの音を待てば、その人が来なかったときに、また一人で取り残される。だから私は、周りの音を確かめてから動いた。遅れないために、置いていかれないために。
けれど、確かめ続けているうちに、音楽はいつも私の半歩後ろに残った。
今、奈緒の弓が先に動く。美帆の音がその動きを受け止め、潤と大友の低音が、私の足元から前へ進む力をくれる。樹の音は、待っているのではなく、すぐ隣でこちらへ向かってくる。
誰かが来るかどうかを確かめてから弾く必要はなかった。私が一歩出れば、その一歩に合わせてくれる音がある。もし少し揺れても、今度は一人で立て直さなくていい。
信じるというのは、何も不安に思わなくなることではなかった。不安を抱えたままでも、手を伸ばせることだった。先に音を出して、返ってくる響きを受け取ることだった。
「もう一回。少し前から」
私が合図を送ると、奈緒の弓が私よりわずかに早く動いた。美帆の音がその内側を満たし、潤と大友の低音が先へ進む道をつくる。樹の音がすぐ隣で重なった。
その瞬間、胸の奥に残っていたためらいが、音の中へほどけていった。
私は、誰かが来るのを待ってから次へ進むのではなく、来てくれると信じて、先に音を出した。
そして、返ってきた音に背中を押されるように、もう一歩、前へ進んだ。
私は、次の音を待たなかった。
最後まで通して弓を下ろすと、壁の時計は五時を少し回っていた。
「今日はここまでにしよう。六時から全練だし」
私が言うと、樹が真っ先に「賛成」と手を挙げた。
「お腹すきました。未央さん、もう一回って言い出しそうだったから」
「言わないよ!」
「弓は構えてたわよ」
奈緒にまで指摘され、私は黙ってフランツをケースに収めた。
練習室を片づけて一階へ下りる。自動販売機の前では、大友が財布を開きながら飲み物を選んでいた。ほかの皆も順番に買う。私は無糖のレモンティーを選び、皆と一緒にロビーのテーブルへ向かった。
それぞれの鞄から出てきたのは、大学の近くのパン屋の袋だった。店内でも食べられるけれど、練習前にサンドイッチを買ってサ館へ持ち込む団員のほうが多い。私も来る途中で買っておいた袋を開いた。
「結局、全員あそこのパン屋なんだ」
奈緒が笑う。
「サ館に近いですから〜。あ、私、最近はBLTにハマりました」
美帆の言葉に頷きながら、私はレモンティーの蓋を開けた。練習室では一つの音を探していた六人が、今は同じテーブルで、それぞれのサンドイッチを食べている。
潤は向かい側の席で飲み物の蓋を開けた。ふと目が合う。彼は、さっき私が弾き直したフレーズの終わりを思い出すように、小さく頷いた。
言葉にはしなかったけれど、あの一音のあとに少しだけ間を置くこと。その間を、次の音へつなげること。私たちの間では、それだけで十分に通じていた。潤の頷きは、さっきの演奏がうまくいったという合図であり、もう一度同じ音楽を共有できたことへの返事でもあった。
それは、誰にでも向ける頷きとは少し違っていた。音のことなら、彼はいつも私の意図を先に汲み取る。私も、彼が何を伝えようとしているのか、言葉になる前にわかることがある。その距離の近さを、今さらのように意識してしまった。
胸の奥が、遅れてふっとほどける。練習中は必死で気づかなかったけれど、彼に聴いてもらえていたのだと思うと、指先に残っていた緊張まで少しずつ消えていった。頬がわずかに熱くなった気がして、私は視線をサンドイッチへ落とす。
私は照れを隠すようにサンドイッチを一口かじり、全体練習が始まるまでの短い時間を味わった。
六時が近づくと、ロビーにいた団員たちが次々に練習室へ向かった。廊下には靴音と譜面をめくる乾いた音が重なり、開け放された扉の向こうから、すでにいくつもの音が流れ出している。私はレモンティーの蓋を閉め、空になったパン屋の袋を捨ててから、フランツのケースを持ち上げた。取っ手が手のひらに食い込み、さっきまでの練習の熱が腕に残っていた。
全体練習の部屋は、さっきの六人だけの練習室よりはるかに騒がしかった。天井の高い空間を木管の短い音階が走り、金管の低音が床を震わせている。ヴァイオリンは弦を一本ずつ確かめ、ヴィオラはくぐもった和音を鳴らし、チェロとコントラバスからは開放弦の響きが立ち上がっていた。
その隙間に、椅子を引く音や譜面台の金具が擦れる音、誰かの咳払いが混じる。松脂と木の匂いに暖房の乾いた空気が重なり、音は部屋全体を満たしていた。
樹がいつもの席に座り、私の譜面台へ楽譜を寄せた。紙の端が触れ合うたび、かすかな音がする。私は譜面を開き、鉛筆を右手のそばに置いた。
潤はチェロの先頭にいた。今日はマエストロが来るため、学生指揮ではなくチェロトップとして弾く。指揮台を離れても、周囲を見渡す目には全体の流れを先に読む習慣が残っていた。
椅子に腰を下ろすと、譜面台の高さと角度を調整し、ページをめくる位置を指で押さえた。隣の譜面との間隔まで確かめ、エンドピンを伸ばす。チェロを身体の中心へ引き寄せ、左手で弦の位置を確認する。弓を持つ右手は力が抜けているのに、手首の角度だけは正確だった。
準備を終えるたび、表情から余分なものが消えていく。彼が指揮台へ目を上げたころ、部屋のあちこちで鳴っていた音が薄くなった。最後まで残ったのは、誰かが弦を軽く弾く音と、木管のキーが閉じる音だった。
マエストロが入ってくる。団員たちの音が静まり、椅子の軋みや、誰かが息を整える気配まで聞こえた。
オーボエから、まっすぐなAの音が伸びる。
私はフランツを手に立ち上がり、弓でA線を鳴らした。オーボエの音を聴きながら、響きのずれがなくなるところまで合わせる。樹がすぐ隣で耳を澄ませている。もう一度Aを確かめてから、私は腰を下ろした。
私の音を受けて、弦の各パートが順に音を合わせていく。低弦の響きが足元へ広がり、管楽器もそれぞれの音を確かめる。ばらばらに聞こえた音が少しずつ揃い、最後の一本が静まると、練習室は演奏を始めるための空気に変わった。
潤は背筋を伸ばした。マエストロの立つ位置、譜面を開く手、指揮棒を持つ右手の高さまで見逃さない。自分の入りを確認するだけではない。チェロの列を預かる者として、迷う奏者を支え、流れが揺れれば立て直す。その責任を、指揮台から受け取ろうとしていた。
「今日は『幻想』をしっかりやりましょう。まず第一楽章から」
私は弓を構えた。午後、六人で何度も通した箇所が譜面の先に待っている。指先に残る弦の感触と、耳の奥に残った奈緒の音を思い出しながら、息を吸った。
弾き始めると、同じ旋律でも周りの景色は違っていた。弦の音の下を低弦の太い響きが流れ、その上を木管が伸びていく。フルートの明るい音が隙間から顔を出し、クラリネットが輪郭を丸くする。遠くからホルンが重なると、音楽全体が一段深く沈んだ。
潤のチェロは、その底を支えていた。強く押しつけているようには見えないのに、響きには芯がある。隣の奏者と音を合わせながらフレーズの先をわずかに長く保ち、低弦の行き先を示していた。
彼は音程や弓の重さ、次の楽器への受け渡しを確かめながら、隣の奏者の呼吸と低弦全体の流れまで聴いていた。自分の音を鳴らすだけでなく、列の響きを途切れさせないために弾いている。
弓を返すたび、潤はわずかに身体を動かした。隣のチェロが入りやすいように肩を引き、低弦の動きが変わるところで呼吸を深くする。大きな合図ではない。それでも、その動きに合わせて列の響きが揃っていった。
響きがうまくいっても、彼は止まらなかった。すぐに次の小節へ目を移し、音の行き先を探している。弓を前へ進めるのは、まだ足りないものを見つける集中だった。
私が次の音へ進もうとしたところで、マエストロの左手がわずかに上がった。
音を押し出すのではなく、動き出すものを急がず呼び寄せるような手だった。弦の音が少し息を長くすると、木管のフレーズがその隙間へ滑り込んできた。音が増えたのに、部屋は静かになったように感じられた。
潤の左手が低い音域から次の音へ滑らかに移る。指揮台を見たまま、マエストロの左手を追っていた。ただ指示を待つのではない。音楽が膨らみ、息を引く場所を予測し、その変化を弓の速度へ先回りして映している。
マエストロの意図を読み取り、チェロの列へ伝え、音として返す。潤はその役割を果たすため、指揮台から目を離さなかった。一瞬でも見落とせば、チェロの入りが遅れ、低弦の呼吸が乱れる。その可能性を、彼は軽く扱わなかった。
一度、木管のフレーズが予想より早く入った。潤はすぐに弓の動きを小さくし、チェロの響きを押し出すのではなく、次の音を受け止める形へ変えた。隣の奏者も合わせ、低弦全体がわずかに呼吸を変える。音楽は崩れず、自然につながった。
潤は何事もなかったように弾き続けた。弓を返すたび、次に同じことが起きても支えられるよう、音の置き場所を探っている。偶然うまくいったことにせず、なぜつながったのかを確かめ、次は自分の意志で再現しようとしていた。
問題の箇所を通り抜けたところで、マエストロが指揮棒を止めた。最後の音が壁に反射して消えていく。誰もすぐには動かなかった。
潤は弓を弦の上に置いたまま、残響を聴いていた。マエストロが口を開くと、ようやく右手の力を抜き、弓をチェロの胴へ静かに寄せた。
それでも表情は緩まない。どこで響きが痩せ、どこで次の音へ渡しきれなかったのかを探している。褒められるかどうかより、音楽が届いたかどうかが重要なのだと思った。
「今の弦、よくなりましたね」
奈緒のほうで、誰かが小さく息を吸うのが聞こえた。私は嬉しくなりかけたが、マエストロは続けた。
「ただ、ここから先で音楽が小さくまとまってしまう。もう少し遠くまで聴かせてください」
部屋の空気が引き締まった。何人かが譜面へ目を落とす。私は弓の毛に残った松脂の白い粉を見つめた。
潤は譜面を見下ろし、鉛筆を取った。すぐに音量記号を書き足すのではなく、問題の箇所と前後のフレーズを追う。どこを強くするかではなく、どこから音を遠くへ運ぶべきかを考えていた。
眉間にわずかに皺が寄る。チェロ全体の音が届かなかったと感じた瞬間、彼はその責任を自分のこととして引き受けていた。
やがて息を吐き、譜面の余白に短い線を引く。そのあと隣のチェロ奏者へ身体を寄せ、声を出さずに弓を少し長く使う仕草を見せた。相手が頷くと、潤はすぐに前を向いた。




