夢と情熱(1)
またアイツと喧嘩した。
もう何度目だろう。春の定期演奏会の練習期間も、合宿も、散々やり合って皆をハラハラさせたというのに。
「未央先輩、もうちょっと仲良くやれません?」
裏プルトに座る小野寺樹が、パート譜をまとめ、譜面台を仕舞いながら苦笑した。
「別に喧嘩したくてしてるわけじゃないよ」
「春定の頃よりヒートアップしてるじゃないですか」
「ぐっ……」
言葉に詰まり、私は樹の頭にゲンコツを落とした。
「痛てて……チェロトップなのに学生指揮もこなして、あの人、相当頑張ってると思いますけどね」
「わかってる。でも、いちいち腹立つのよ!」
チェロパートの面々とボウイングを確認しているアイツをにらみ、私は鼻を鳴らした。
頑張っていることくらい、誰よりもわかっている。チェロトップとして全体を支えながら、学生指揮として曲の隅々まで見渡し、練習の進行まで背負っている。疲れているはずなのに、弱音ひとつ吐かず、いつも涼しい顔をしている。
そんな姿を見るたび、すごいと思う。少しでも力になりたいとも思う。
なのに、本人を前にすると素直になれない。
「そこ、弓の返しが遅い。全体の流れが止まって聞こえる」
正しい指摘だとわかっているからこそ、腹が立つ。私だってコンミスとして真剣に音楽と向き合っている。それなのに、演奏を試すような目で見られると、負けたくない気持ちが湧いてくる。
しかも、アイツは私にだけ遠慮がない。ほかの人には穏やかに説明するくせに、私には容赦なく意見をぶつけてくる。信頼されているのだと思えばいいのかもしれない。でも、期待されているようで苦しかった。応えたい自分と、弱みを見せたくない自分が、いつも胸の中でぶつかる。
近くにいるほど、アイツの実力も不器用な優しさも見えてしまう。認めてしまえば、喧嘩のたびに胸がざわつく理由まで認めることになりそうで、私はそれを拒んでいた。
「未央先輩、また怖い顔してますよ」
樹の声に、私ははっとした。
「してない」
「してますって。あの人のこと、嫌いなんですか?」
「……嫌いじゃない」
反射的に答えると、樹が目を丸くした。
「じゃあ、好きなんですか?」
「そういう話じゃない!」
声を荒らげた瞬間、チェロパートのほうからアイツが振り返った。目が合う。何か言いたげな顔をしている。
私はすぐに視線をそらした。
本当は、嫌いになれたら楽なのに。そうすれば、腹を立てることも、言い返したあとで後悔することもない。
けれど、音楽に向き合うアイツからは、どうしても目を離せなかった。
だから今日も、きっとまた喧嘩する。
素直になれないまま、負けたくない気持ちを抱えて。
楽器をケースに収め、私は樹と一緒に練習室を出た。
サークル会館の廊下には、古い洋館らしい飾り窓や重い扉が並んでいる。夜になると照明は半分ほど落とされ、天井から下がる乳白色のランプが、床の木目を細長く照らしていた。磨かれたはずの床板はところどころ艶を失い、私たちの足音を乾いた音で返す。壁際の古い暖房機からは、止まりかけたような低い唸りが聞こえていた。
昼間なら、建物を見に来た観光客の話し声や、階段を上り下りする靴音が絶えない。けれど水曜の夜は人影も少なく、廊下の奥は照明の届かない薄闇に沈んでいる。階下の小さなシアターから漏れてくる軽音サークルの音だけが、閉じた校舎の中でかすかに響いていた。ドラムの低い振動が床を伝い、時折、誰かの笑い声が壁越しにぼやけて聞こえる。
階段へ向かいかけて、足が止まる。
――そこ、弓の返しが遅い。
「未央先輩?」
樹の声が、静まり返った廊下に思った以上にはっきり響いた。
「ごめん。先に帰ってて」
窓の外はすっかり暗く、ガラスには廊下の照明と私たちの姿だけが浮かんでいる。遠くの街灯が、濡れた中庭の石畳をぼんやり照らしていた。
樹が私の顔と、抱えたヴァイオリンケースを見比べた。
「……また弾くんですか。もうすぐ閉館ですよ」
「十分あれば、あそこだけ確かめられる」
私は踵を返した。潤に言い返すためじゃない。そう自分に言い聞かせながら、廊下の端にある小部屋へ向かう。扉の前まで来ると、古い蝶番がわずかに軋んだ。中は廊下よりさらに暗く、天井の蛍光灯が一本だけ、白く冷たい光を落としている。消えかけた照明がかすかに明滅し、壁際に積まれた譜面台の影を長く伸ばしていた。
扉を閉めると、階下の音は厚い壁に遮られて遠のいた。代わりに、空調の風が通気口を震わせる音と、時計の秒針だけが耳につく。
私はもう一度ケースの留め金を外した。
手早く弓に松脂を擦り、楽器を構える。冷えた木の感触が顎に触れ、肩がわずかに強張った。窓に自分の姿が映るのを見ながら、指摘された所を軽くさらう。
弓が弦を擦り、細い音が小部屋の壁に跳ね返った。
違う。こうじゃない。アイツは、もっと……
私は弓を置き直し、同じ箇所を弾き直した。音の終わりを整えようとすると、次の音へ移る前にわずかな隙間ができる。綺麗につなごうとするほど、音が遅れるのだ。
先へ進んでみる。
そう意識して弓を返すと、さっきより音が前へ出た。けれど今度は、勢いに任せている気がする。
「……難しいな」
呟いたとき、廊下で床板が鳴った。樹が忘れ物でも取りに戻ったのかと思い、私は弾くのをやめず、もう一度同じ箇所へ戻る。
扉の向こうで足音が止まった。
「今のほうがいい」
弓が弦の上で止まる。振り返ると、扉が少しだけ開いていて、その隙間から潤がこちらを見ていた。いつものように表情は薄い。けれど、帰るつもりならわざわざ足を止めないことくらい、もうわかっている。
「……聞いてたの?」
「通りかかった」
短く答えながら、潤は扉に寄りかからなかった。入るでもなく、立ち去るでもなく、ただそこに立っている。その距離の取り方が、いかにも彼らしかった。
「その割には、ずいぶん都合のいいところで感想を言うのね」
潤は答えず、私の右手に目を向けた。視線だけが、弓の動きをなぞるように静かに下りていく。
「さっきは、次の音を待ってた。今は自分から行った」
「でも、荒くなった」
「うん。だから、もう一回」
慰める気も、褒める気もない。ただ、私が次に何をすればいいかだけを置いていく。その素っ気なさが、かえって潤らしかった。
何よ、その言い方。そう返すつもりだったのに、私は弓を構え直していた。
そのとき、天井のスピーカーが小さく鳴った。閉館十分前を告げるアナウンスが、古い部屋の隅々まで響く。
私は潤を見る。潤も、黙ってこちらを見ていた。急かすでもなく、帰るでもなく、私が弾き始めるのを待っている。
「一回だけよ」
「わかってる」
返事があまりに早かった。けれど潤は、そこで視線を逸らさなかった。まるで一回で足りるかどうかを、私ではなく音に確かめるつもりみたいだった。
私は少しだけ笑いそうになった。
私は弓を構え、誰にも聞こえないつもりで囁いた。
「……お願いね、フランツ」
楽器を鳴らす。
弦が震え、部屋の空気がわずかに変わる。音は、さっきよりも前へ進んだ。けれど、その響きの奥には、まだ手探りの感触が残っている。弓を返すたび、次の音へ踏み出すたび、楽器が私の動きを測っているようだった。
その感触に触れた瞬間、別の記憶が、音の底から静かに浮かび上がった。
この楽器を初めて手にしたのは、いつだっただろう。
ヴァイオリンを弾き始めてから、何年も経っていた。コンクールに挑戦することになり、それまで使っていた楽器では出せない音を求めて、本格的に次の一挺を探し始めたのだ。
東京の楽器店に連絡を頼み、好みの音の系統に合う楽器を何点か探してもらった。その中の一つが、これだった。ガイセンホーフ。それなりに良い値段がしたけれど、持ち主の都合で早めに手放したいということで、相場より安い値段を提示された。
クラシック音楽が好きな両親は、これが気に入ったのなら、これに決めてもいいと言ってくれた。そうして、このガイセンホーフは私のもとに来た。
初めてケースを開けた日のことを、今でも覚えている。木の匂いと、磨かれた表面の光。手に取るのが怖いほど、楽器は静かだった。けれど、弓を弦に置いて音を出した瞬間、その静けさの奥に、まだ知らない響きが広がっているのを感じた。
その最初の音は、今の音とよく似ていた。まだ私の手に馴染んでいないのに、先へ進もうとする意志だけは、はっきりと残っていた。
すぐに思いどおりの音を出せたわけではない。何度も弾き直し、楽器の響かせ方を探した。音が遅れれば弓の返し方を変え、荒くなれば力を抜いた。そうして少しずつ、楽器の癖と私の癖が重なっていった。
やがて音は私の手に馴染み、挑戦したコンクールでは、とても良い音色で鳴ってくれた。
この相棒と、最高の音楽を。
そう思っていた頃の気持ちは、今も消えていない。ただ、あの頃は一人で音を追いかけていた。今は、扉の向こうから届いた潤の声が、私の音の行き先を変えている。
「……今の、もう一回」
潤の声で、私は現在へ引き戻された。
一回だけって言ったのに。そう思いながら振り返ると、彼はまだ扉の隙間に立っていた。その目はさっきよりもわずかに深く、私の音を待っている。
「これで最後だからね」
「わかってる」
また同じ返事だ。私は小さく息を吐き、弓を構え直した。
過去から戻ってきた音を、今度は自分の手で先へ進めるために。潤の視線がまだそこにあることを確かめるように、私はもう一度、フレーズを追った。
弓を返す瞬間、次の音を迎えに行く。急がず、けれど立ち止まらずに。さっきは途切れてしまった熱が、細い糸になってつながっていく。音の先に、潤の言葉がある気がした。
最後の音を弾き終えると、私は弓を下ろした。
潤は何も言わない。だから、こちらから聞くのも癪だった。
「……どう?」
負けた。
「よかった」
あまりに短い返事に、私は眉を寄せる。
「それだけ?」
「最初から、そう弾いてほしかった」
「だったら最初からそう言ってよ」
「言った」
「言ってない。弓の返しが遅いとしか言ってないでしょう」
潤は少し考えてから、「そうか」と答えた。謝るでも言い返すでもない、その素直さに調子を狂わされる。
「次は、もう少しちゃんと説明する」
「……そうして」
短い言葉の間に、さっきまでなかったものが残った。音を合わせるための、ほんの小さな手がかり。私はそれを意識しないふりをして、ヴァイオリンを下ろした。
布を取り出し、興奮の残る指先で弦を拭うと、潤がふと尋ねる。
「さっき、何か言ってた?」
「さっき?」
「弾く前に。楽器に」
聞こえていたのか。私は手を止めた。
「フランツって呼んだだけ」
「フランツ」
「製作者の名前。変?」
「いや」
潤はそれきり黙った。興味がないのかと思ったけれど、ケースに楽器を収める私の手元を、まだ見ている。
「覚えたの?」
「何を」
「名前」
「忘れないと思う」
その言い方が妙に自然で、私は返事をし損ねた。潤はそれ以上何も言わず、視線をケースへ戻した。けれど、さっきより少しだけ近くにいるように感じた。
廊下の向こうで扉が閉まる音がした。地下のシアターから聞こえていたドラムも、いつの間にか止んでいる。
「帰ろう。閉まる」
潤の声にうなずいてケースを持ち上げる。小部屋の灯りを消すと、廊下に残った乳白色のランプが、開いた扉の縁を照らした。
潤が先に出て、扉を押さえて待っている。私は「ありがとう」と言いかけて、代わりにその横を通り抜けた。すれ違う瞬間、肩がわずかに触れた。
潤は何も言わなかった。私も言わなかった。ただ、さっきまでなら気に留めなかったはずのその感触が、階段を下りても消えなかった。
玄関へ向かう途中、私は足を止めた。
「土曜の全体練習の前、各パートから一人ずつ呼んで合わせてみない?」
潤が振り返る。
「ああ」
それだけの返事なのに、今度は短いとは思わなかった。土曜にまた音を重ねられる。その約束が、まだ形にならない期待として、胸の奥で静かに鳴っている。
外へ出ると、夜の空気が頬に触れた。潤は先に歩き出し、私は少し遅れてその隣に並んだ。
たったそれだけの約束なのに、帰りの道は、さっきより軽かった。
木曜の昼休み、私は弦のパートリーダーのグループチャットを開いた。
〈土曜の全体練習の前に、弦のパートリーダーで少し合わせませんか? 水曜に気になったところを確認したいです。来られる人だけで大丈夫!〉
送信すると、真っ先に美帆から〈行けます〜〉と返ってきた。続いて奈緒、大友も参加できるという。潤からの返事は、少し遅れて届いた。
〈俺も行く〉
たった四文字を見て、私は水曜の夜、小部屋の扉の向こうに立っていた潤を思い出した。あのとき交わした短い視線の奥に、まだ二人だけの沈黙が残っている気がした。スマートフォンを伏せ、午後の講義の準備を始める。




