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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第五章 夜明けの約束、そして魔女の宴
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夜明けの約束、そして魔女の宴(6)

 理沙の音が、静まったホールへ伸びていく。


 細いのに、遠くまで届く音だった。息の圧が一度ゆるみ、旋律がしなやかに曲がる。音の端がわずかに震え、その震えまで客席の奥へ吸い込まれていくように聞こえた。


 私は弓を浮かせたまま、入りを待った。


 右腕には、まだ《幻想》の重さが残っていた。肩の奥が熱く、指先には弦を押さえ続けた感覚がこびりついている。けれど、先生がこちらへ手を向けると、身体が先に反応した。


 樹と弓を置く。


 弓の毛が弦を擦り、隣の樹の音と重なった。二本の音が同じ方向へ走り出し、後ろのプルトがその動きを受け継ぐ。細かく刻まれた弦の音が、舞台の床を小刻みに震わせた。


 木管が、その隙間へ飛び込んでくる。


 フルートの明るい息が弦の上を滑り、クラリネットがその下で旋律の影をつくる。ファゴットの低い音が足元から押し上がり、音楽の流れに厚みを加えた。


 打楽器が拍を刻んだ。


 胸の奥で、拍が一つ跳ねる。


 舞台の奥から金管の響きが加わった。ホルンの丸い音が空間を満たし、その奥でトロンボーンの低い響きが床を押す。強い音が背中まで届き、私は思わず顔を上げた。


 先生の腕が、大きく動いていた。


 指揮棒の先が空気を切るたび、音の塊が前へ押し出される。私はその拍に弓を合わせた。右手首を返し、肘を引き、弓を弦へ深く沈める。


 押し寄せる響きの中でも、樹の音が近くに聞こえた。


 耳だけでなく、肩越しに振動が伝わってくる。後ろのプルトも同じ動きをしている。弓が一斉に返るたび、細い音の束が生まれ、それが木管と絡み合って、ひとつの流れになっていく。


 速い動きを抜け、旋律を歌う。


 弓を長く使うと、腕の重さがかえってよく分かった。肩から肘へ、肘から手首へ、疲労が一本の線になって溜まっている。それでも、音の終わりまで送りたかった。


 弓を止めず、弦の振動を指先で受け取る。


 奈緒たちの音を聴く。


 第二ヴァイオリンの旋律が、私たちの音の下へ滑り込んできた。奈緒の弓が鋭く返り、範子の音がその隣で細かく跳ねる。その響きが私たちの旋律と絡み、音楽を横へ押し広げていく。


 チェロが聞こえる。


 潤の音は低く、けれど輪郭がはっきりしていた。弓が弦を噛むたび、床の下から太い脈が立ち上がる。ヴィオラの響きがそこへ重なり、旋律の下に柔らかな厚みが生まれた。


 先生の左手が、その歌をもう少し先へ促す。


 私は息を吸い、弓を返した。


 まだ弾ける。


 次の音も、その次の音も、出したかった。


 音楽が再び熱を帯びる。


 木管の音が細かく駆け、弦が応える。フルートの高い音が頭上を走り、クラリネットとオーボエがその線を受け渡す。ファゴットが低いところで音楽を支え、弦の刻みがその下で絶えず動き続ける。


 低い弦の動きが、次の拍を押し出した。


 潤のチェロが一段深く沈み、ヴィオラがそれを受ける。私たちの弓が一斉に返り、音の粒が前へ飛び散った。


 金管が、咆哮した。


 トランペットの輝きが、まっすぐ頭上へ突き抜ける。ホルンがその周囲を包み、トロンボーンの響きが背中を押した。チューバの低音が足元からせり上がり、胸骨の内側まで震わせる。


 音がホールいっぱいに開いた。


 客席の空気まで押し動かされたようだった。舞台の上の熱が、照明の熱と混ざり、頬を焼く。息を吸うたび、乾いた空気が喉を擦った。


 思わず笑いそうになった。


 あんなに吹いて、まだ、それだけ出るのだ。


 こちらも負けていられない。


 弓を動かした。


 樹も、後ろのみんなも弾く。奈緒の弓が鋭く返り、美帆たちの腕も大きく動いた。潤のチェロ、その後ろのドミトリーたちの音が、勢いを保って進んでいく。


 弓の毛が弦を擦る音が、耳のすぐそばで重なった。指を押さえるたび、左手の指先に硬い弦が食い込む。右肩は焼けるように熱く、手首には細かな震えが出始めていた。


 それでも、弓を浅くはできなかった。


 音を薄くしたくなかった。


 打楽器の一打が響いた。


 ティンパニの低い衝撃が腹へ落ち、その直後にシンバルが空間を裂いた。音の波が舞台を横切り、金管と弦を一度に押し上げる。


 全員の音が、さらに大きくなった。


 先生の指揮棒を見る。


 次の拍が来る。


 弓を返す。


 肩が熱い。右腕が重い。指先が痺れ、足の裏まで汗ばんでいる。けれど、止まりたいとは思わなかった。


 終わりへ向かう動きが、舞台の全員を巻き込んでいた。


 木管が駆け、弦が追い、金管がその上から光を投げる。打楽器の拍が音楽の背骨を叩き、低弦がその背骨を押し出す。ひとつひとつの音が別々に聞こえるのに、次の瞬間にはすべてがひとつの塊になって、私の身体ごと前へ運んでいく。


 もう少し。


 あと少し。


 先生が大きく息を吸った。


 その胸の動きが、舞台の上から見えた。


 私も、その息に乗った。


 最後の音を、弾いた。


 弓を弦へ深く沈め、腕の重さをすべて音へ渡す。樹の音、後ろの弦、ヴィオラとチェロ、木管、金管、打楽器。そのすべてが同じ瞬間に頂点へ達した。


 響きが切れる。


 音が消えたあとも、弦の振動が指先に残っていた。耳の奥では金管の余韻が鳴り続け、胸の中には最後の低音の震えが沈んでいる。


 弓を上げたところで、右腕が止まった。


 一瞬の静けさを、拍手と歓声が破った。


 私は楽器を下ろし、息を吐いた。


 肺の奥まで空気を入れても、まだ足りない気がした。身体の中に残っていた力も、不安も、ためらいも、すべて音になってホールへ放たれてしまったようだった。


 もう何も残っていない。


 そう思ったのに、不思議と空っぽではなかった。


 隣で樹が、譜面を見たまま笑っていた。


 私も笑った。


 何か言いたかったけれど、言葉より先に息が出た。笑いとも、泣き声ともつかない息だった。


 先生が私たちを見渡した。額に汗が光っている。その顔にも、笑みがあった。


 ああ、終わったのだと思った。


 終わってしまったのではなく、私たちの手で、最後まで終わらせたのだ。


      *


 客席へ向き直ったマエストロが、一礼する。


 拍手は、さっきよりも賑やかだった。前の席で手を高く上げて叩いている人がいる。舞台の横からも、声が聞こえた。


 先生が理沙を立たせ、それから舞台の奥へ手を向ける。


 金管の奏者たちが立った。楽器を胸元に抱え、顔を上げる。互いに目を合わせて笑っている人もいた。


 木管も、打楽器も、弦も立つ。


 私も椅子から立ち上がった。


 腕はもう、楽器を支えているだけで十分だった。それでも、顔は自然に笑っていた。


 先生が指揮台を下り、私へ手を差し出した。


 弓を楽器と一緒に左手へ持ち替え、右手でその手を握る。


「ありがとうございました」


 自分の声は、拍手に紛れてしまった。


 先生が頷いた。


「よく弾きました」


 その一言で、胸がいっぱいになった。


 先生は私の手を離し、もう一度、全員へ手を向けた。


 樹が隣に立っている。奈緒も、範子も、潤もいる。舞台の奥まで、みんなが客席を見ていた。


 一緒に頭を下げた。


 顔を上げると、まだたくさんの手が動いていた。


 この景色を覚えていたいと思った。


 音が消えたあとにも、ここに立っていたことを。誰かと同じ方向を見て、同じ終わりへたどり着いたことを。


      *


 舞台袖へ入った途端、あちこちから声が上がった。


「終わったあ」

「お疲れ!」

「すごかったね、最後」


 さっきまで舞台に出していた声や息が、今度は廊下へ溢れていく。


 金管の方から、低い声が聞こえた。


「……もう出ねえ」


 すぐ隣の奏者が吹き出し、二人で笑った。


 奈緒が私のそばへ来た。


「腕、上がる?」

「今は、あんまり」

「私も」


 そう言いながら、二人とも笑っていた。


 樹が楽譜を揃えている。その向こうで、範子が先輩たちに何か言われ、嬉しそうに何度も頷いていた。


 沢村は、ティンパニを叩いた後輩に声をかけた。


「よかったぞ」


 後輩が、ぱっと顔を上げる。


「ありがとうございます」


 沢村は笑い、それから舞台の方を振り返った。


「いつか本物の鐘でやってみたいよなぁ!」


「次もチューブラーベル借りてきそうですけどね」


 後輩の返事に、周りから笑いが起きた。


 チューバの二人も、並んで戻ってきた。大きな楽器を抱えたまま、一人がもう一人へ顔を向ける。


「一緒に乗れてよかったな」

「うん。ほんとに」


 短い返事のあと、二人はまた笑った。


 私はその脇を通り、楽屋へ向かおうとした。


「未央」


 潤がいた。


 チェロを支えて立っている。前髪が少し乱れ、いつもより顔が赤い。


「お疲れさま」

「お疲れ」


 顔を見合わせたら、また笑ってしまった。


「弾いたね」

「弾いたな」


 その先の言葉が、なかなか出てこない。


 潤が、私の右手を見た。


「腕は?」

「もう、くたくた」

「俺も」


 彼は空いている手を伸ばした。


 私はその手に、自分の指を重ねた。


 温かかった。潤の手も、私と同じように少し汗ばんでいた。


 舞台の上では、潤の音を探す必要がなかった。低い弦が沈むところで私の弓が応え、私たちの音が重なるところで、彼の音がすぐそばにあった。目を合わせなくても、次に来るものが分かった。


 指先が触れたまま、どちらもすぐには離さなかった。


 廊下の向こうでは、まだ仲間たちが話している。笑い声が響き、誰かが次の誰かを呼んだ。


「いい演奏だったね」


 私が言うと、潤はまっすぐに頷いた。


「うん」


 短い返事だった。


 けれど、その声を聞いていると、以前のように言葉の続きを待たなくてもよかった。演奏の中で、もう十分に受け取っていた。潤がどこで支え、どこで踏み出し、どこまで一緒に来たのかを。


 潤の指が、私の指をわずかに押し返した。


 私はその手を、そっと握り返した。


 音のない場所でも、まだ同じ拍の中にいるようだった。


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