夜明けの約束、そして魔女の宴(6)
理沙の音が、静まったホールへ伸びていく。
細いのに、遠くまで届く音だった。息の圧が一度ゆるみ、旋律がしなやかに曲がる。音の端がわずかに震え、その震えまで客席の奥へ吸い込まれていくように聞こえた。
私は弓を浮かせたまま、入りを待った。
右腕には、まだ《幻想》の重さが残っていた。肩の奥が熱く、指先には弦を押さえ続けた感覚がこびりついている。けれど、先生がこちらへ手を向けると、身体が先に反応した。
樹と弓を置く。
弓の毛が弦を擦り、隣の樹の音と重なった。二本の音が同じ方向へ走り出し、後ろのプルトがその動きを受け継ぐ。細かく刻まれた弦の音が、舞台の床を小刻みに震わせた。
木管が、その隙間へ飛び込んでくる。
フルートの明るい息が弦の上を滑り、クラリネットがその下で旋律の影をつくる。ファゴットの低い音が足元から押し上がり、音楽の流れに厚みを加えた。
打楽器が拍を刻んだ。
胸の奥で、拍が一つ跳ねる。
舞台の奥から金管の響きが加わった。ホルンの丸い音が空間を満たし、その奥でトロンボーンの低い響きが床を押す。強い音が背中まで届き、私は思わず顔を上げた。
先生の腕が、大きく動いていた。
指揮棒の先が空気を切るたび、音の塊が前へ押し出される。私はその拍に弓を合わせた。右手首を返し、肘を引き、弓を弦へ深く沈める。
押し寄せる響きの中でも、樹の音が近くに聞こえた。
耳だけでなく、肩越しに振動が伝わってくる。後ろのプルトも同じ動きをしている。弓が一斉に返るたび、細い音の束が生まれ、それが木管と絡み合って、ひとつの流れになっていく。
速い動きを抜け、旋律を歌う。
弓を長く使うと、腕の重さがかえってよく分かった。肩から肘へ、肘から手首へ、疲労が一本の線になって溜まっている。それでも、音の終わりまで送りたかった。
弓を止めず、弦の振動を指先で受け取る。
奈緒たちの音を聴く。
第二ヴァイオリンの旋律が、私たちの音の下へ滑り込んできた。奈緒の弓が鋭く返り、範子の音がその隣で細かく跳ねる。その響きが私たちの旋律と絡み、音楽を横へ押し広げていく。
チェロが聞こえる。
潤の音は低く、けれど輪郭がはっきりしていた。弓が弦を噛むたび、床の下から太い脈が立ち上がる。ヴィオラの響きがそこへ重なり、旋律の下に柔らかな厚みが生まれた。
先生の左手が、その歌をもう少し先へ促す。
私は息を吸い、弓を返した。
まだ弾ける。
次の音も、その次の音も、出したかった。
音楽が再び熱を帯びる。
木管の音が細かく駆け、弦が応える。フルートの高い音が頭上を走り、クラリネットとオーボエがその線を受け渡す。ファゴットが低いところで音楽を支え、弦の刻みがその下で絶えず動き続ける。
低い弦の動きが、次の拍を押し出した。
潤のチェロが一段深く沈み、ヴィオラがそれを受ける。私たちの弓が一斉に返り、音の粒が前へ飛び散った。
金管が、咆哮した。
トランペットの輝きが、まっすぐ頭上へ突き抜ける。ホルンがその周囲を包み、トロンボーンの響きが背中を押した。チューバの低音が足元からせり上がり、胸骨の内側まで震わせる。
音がホールいっぱいに開いた。
客席の空気まで押し動かされたようだった。舞台の上の熱が、照明の熱と混ざり、頬を焼く。息を吸うたび、乾いた空気が喉を擦った。
思わず笑いそうになった。
あんなに吹いて、まだ、それだけ出るのだ。
こちらも負けていられない。
弓を動かした。
樹も、後ろのみんなも弾く。奈緒の弓が鋭く返り、美帆たちの腕も大きく動いた。潤のチェロ、その後ろのドミトリーたちの音が、勢いを保って進んでいく。
弓の毛が弦を擦る音が、耳のすぐそばで重なった。指を押さえるたび、左手の指先に硬い弦が食い込む。右肩は焼けるように熱く、手首には細かな震えが出始めていた。
それでも、弓を浅くはできなかった。
音を薄くしたくなかった。
打楽器の一打が響いた。
ティンパニの低い衝撃が腹へ落ち、その直後にシンバルが空間を裂いた。音の波が舞台を横切り、金管と弦を一度に押し上げる。
全員の音が、さらに大きくなった。
先生の指揮棒を見る。
次の拍が来る。
弓を返す。
肩が熱い。右腕が重い。指先が痺れ、足の裏まで汗ばんでいる。けれど、止まりたいとは思わなかった。
終わりへ向かう動きが、舞台の全員を巻き込んでいた。
木管が駆け、弦が追い、金管がその上から光を投げる。打楽器の拍が音楽の背骨を叩き、低弦がその背骨を押し出す。ひとつひとつの音が別々に聞こえるのに、次の瞬間にはすべてがひとつの塊になって、私の身体ごと前へ運んでいく。
もう少し。
あと少し。
先生が大きく息を吸った。
その胸の動きが、舞台の上から見えた。
私も、その息に乗った。
最後の音を、弾いた。
弓を弦へ深く沈め、腕の重さをすべて音へ渡す。樹の音、後ろの弦、ヴィオラとチェロ、木管、金管、打楽器。そのすべてが同じ瞬間に頂点へ達した。
響きが切れる。
音が消えたあとも、弦の振動が指先に残っていた。耳の奥では金管の余韻が鳴り続け、胸の中には最後の低音の震えが沈んでいる。
弓を上げたところで、右腕が止まった。
一瞬の静けさを、拍手と歓声が破った。
私は楽器を下ろし、息を吐いた。
肺の奥まで空気を入れても、まだ足りない気がした。身体の中に残っていた力も、不安も、ためらいも、すべて音になってホールへ放たれてしまったようだった。
もう何も残っていない。
そう思ったのに、不思議と空っぽではなかった。
隣で樹が、譜面を見たまま笑っていた。
私も笑った。
何か言いたかったけれど、言葉より先に息が出た。笑いとも、泣き声ともつかない息だった。
先生が私たちを見渡した。額に汗が光っている。その顔にも、笑みがあった。
ああ、終わったのだと思った。
終わってしまったのではなく、私たちの手で、最後まで終わらせたのだ。
*
客席へ向き直ったマエストロが、一礼する。
拍手は、さっきよりも賑やかだった。前の席で手を高く上げて叩いている人がいる。舞台の横からも、声が聞こえた。
先生が理沙を立たせ、それから舞台の奥へ手を向ける。
金管の奏者たちが立った。楽器を胸元に抱え、顔を上げる。互いに目を合わせて笑っている人もいた。
木管も、打楽器も、弦も立つ。
私も椅子から立ち上がった。
腕はもう、楽器を支えているだけで十分だった。それでも、顔は自然に笑っていた。
先生が指揮台を下り、私へ手を差し出した。
弓を楽器と一緒に左手へ持ち替え、右手でその手を握る。
「ありがとうございました」
自分の声は、拍手に紛れてしまった。
先生が頷いた。
「よく弾きました」
その一言で、胸がいっぱいになった。
先生は私の手を離し、もう一度、全員へ手を向けた。
樹が隣に立っている。奈緒も、範子も、潤もいる。舞台の奥まで、みんなが客席を見ていた。
一緒に頭を下げた。
顔を上げると、まだたくさんの手が動いていた。
この景色を覚えていたいと思った。
音が消えたあとにも、ここに立っていたことを。誰かと同じ方向を見て、同じ終わりへたどり着いたことを。
*
舞台袖へ入った途端、あちこちから声が上がった。
「終わったあ」
「お疲れ!」
「すごかったね、最後」
さっきまで舞台に出していた声や息が、今度は廊下へ溢れていく。
金管の方から、低い声が聞こえた。
「……もう出ねえ」
すぐ隣の奏者が吹き出し、二人で笑った。
奈緒が私のそばへ来た。
「腕、上がる?」
「今は、あんまり」
「私も」
そう言いながら、二人とも笑っていた。
樹が楽譜を揃えている。その向こうで、範子が先輩たちに何か言われ、嬉しそうに何度も頷いていた。
沢村は、ティンパニを叩いた後輩に声をかけた。
「よかったぞ」
後輩が、ぱっと顔を上げる。
「ありがとうございます」
沢村は笑い、それから舞台の方を振り返った。
「いつか本物の鐘でやってみたいよなぁ!」
「次もチューブラーベル借りてきそうですけどね」
後輩の返事に、周りから笑いが起きた。
チューバの二人も、並んで戻ってきた。大きな楽器を抱えたまま、一人がもう一人へ顔を向ける。
「一緒に乗れてよかったな」
「うん。ほんとに」
短い返事のあと、二人はまた笑った。
私はその脇を通り、楽屋へ向かおうとした。
「未央」
潤がいた。
チェロを支えて立っている。前髪が少し乱れ、いつもより顔が赤い。
「お疲れさま」
「お疲れ」
顔を見合わせたら、また笑ってしまった。
「弾いたね」
「弾いたな」
その先の言葉が、なかなか出てこない。
潤が、私の右手を見た。
「腕は?」
「もう、くたくた」
「俺も」
彼は空いている手を伸ばした。
私はその手に、自分の指を重ねた。
温かかった。潤の手も、私と同じように少し汗ばんでいた。
舞台の上では、潤の音を探す必要がなかった。低い弦が沈むところで私の弓が応え、私たちの音が重なるところで、彼の音がすぐそばにあった。目を合わせなくても、次に来るものが分かった。
指先が触れたまま、どちらもすぐには離さなかった。
廊下の向こうでは、まだ仲間たちが話している。笑い声が響き、誰かが次の誰かを呼んだ。
「いい演奏だったね」
私が言うと、潤はまっすぐに頷いた。
「うん」
短い返事だった。
けれど、その声を聞いていると、以前のように言葉の続きを待たなくてもよかった。演奏の中で、もう十分に受け取っていた。潤がどこで支え、どこで踏み出し、どこまで一緒に来たのかを。
潤の指が、私の指をわずかに押し返した。
私はその手を、そっと握り返した。
音のない場所でも、まだ同じ拍の中にいるようだった。




