夜明けの約束、そして魔女の宴(5)
舞台へ戻ると、客席にはまだ休憩のざわめきが残っていた。
椅子に座り、《幻想交響曲》の楽譜を開く。樹が譜面台の角度を僅かに直した。二人で最初のページを確かめ、それから顔を上げる。
チェロの後ろで、ドミトリーがコントラバスを構えていた。隣の奏者と一度目を合わせ、楽譜へ視線を戻す。ヴィオラの美帆も、弓を膝に置いて指揮台を見ている。
調弦の音が収まり、マエストロが登場した。
拍手の中で一礼し、指揮台へ上がる。その背中がこちらへ向き直ると、私は楽器を肩に乗せた。
先生は、すぐには腕を上げなかった。
弦を見て、管楽器を見て、奥の打楽器まで目を配る。
私も息を整えた。
指揮棒が、静かに動き始めた。
*
第一楽章の最初の音を、自分の耳で確かめる。
弱い音ほど、弓を止めたくなる。右手の力を抜き、腕だけを先へ送る。樹の弓が同じ速さで動き、後ろからも音が続いた。
先生の手が、次の息を示す。
ためらいながら進む旋律の中で、私は楽譜と指揮台を交互に見た。音の終わりを短くしすぎない。次に入る人の息を、急かさない。
練習で何度も言われたことが、今は仲間の音から聞こえていた。
ヴィオラの響きが加わる。
こちらの旋律の下に、厚みが生まれた。美帆たちが弓を返す。私も次の音へ進む。ヴァイオリンだけで弾いていたときには見えなかった行き先が、音の中から浮かび上がってきた。
音楽が、ゆっくりと動き出す。
長く歌う旋律に入ったとき、私は少し顔を上げた。
幾度も聴き、幾度も弾いてきた旋律だった。潤の書いた曲目解説の言葉が、ふと頭をかすめる。
けれど、思い返している間にも、音は先へ進んでいた。
私は弓を返した。
同じ旋律を、みんなが弾いている。
隣の樹も、後ろの後輩たちも、私とは違う思いを持ってここに座っている。それでも、今、伸ばしたい音の長さが合った。次へ進む息が合った。
そのことが、静かに嬉しかった。
やがて音楽の動きが増していく。
譜面の書き込みを読む余裕がなくなった。指が動く。弓が走る。先生の腕を見た瞬間、次の拍にどれだけ音を乗せるかが分かった。
チェロの音が聞こえる。
その奥から、コントラバスが支えていた。響きが膨らんでも、低い音ははっきりと前へ進んでいる。私はその動きを聴き、弓を使う場所を決めた。
音が重なる。
さらに重なる。
先生の腕が大きく振り下ろされた。
最後の響きを収めると、指揮棒がゆっくり下りた。
客席で、誰かが小さく息を吐いた。
樹がページをめくる。
私は楽器を少し下ろし、肩を緩めた。
*
第二楽章。
ハープの響きの中から、舞踏会が始まった。
弓が軽く跳ねる。強く押さえれば、足取りが重くなる。音を出したあとの腕を自由にして、次の拍へ運んだ。
奈緒たちの音が聞こえる。
それを受け、こちらも歌う。旋律が離れていっても、伴奏の動きは止まらない。今、どの音を聴けばいいのか、耳が自然にそちらへ向いた。
樹がページをめくった。
その間も、後ろのプルトの弓は続いている。戻ってきた樹の音が、すぐに重なった。
私はほんの少し笑いそうになった。
何でもない、いつもの譜めくりだった。それなのに、今はそれさえ頼もしい。
舞踏会の旋律の間に、あの主題が現れる。
私は音を重ねながら、指揮台の向こうを見た。潤は楽譜から顔を上げ、先生の手を追っていた。
こちらを見る余裕がなくても、音は届いている。
私も譜面へ目を戻した。
動きが増す。
弦の弓が細かく揃う。管楽器がその上を駆け抜ける。旋律が舞い、追いかけ、また別の場所へ跳ねていく。
先生の手が、さらに先を促した。
弓を返す。
もう一度。
最後の音を切ると、右手の指を一度だけ緩めた。
次は、第三楽章だった。
*
イングリッシュホルンの呼びかけに、舞台の外からオーボエが応えた。
私は休みを数えながら、その距離を聴いた。
姿の見えないところから届く音。客席も息を潜めている。二つの音の間に、ホールの静けさが広がった。
やがて、自分たちの入るところが来る。
弓を弦に置いた。
ゆっくりした音楽の中では、少しの力みも聞こえてしまう。腕を運び、息をつなぐ。隣の樹も、後ろのプルトも、音の終わりまで丁寧に弾いていた。
ヴィオラが聞こえた。
美帆たちの音には、近くで聴くヴァイオリンとは違う柔らかさがある。その響きへ自分の音を添えると、旋律が深くなった。
遠くの席にいる美帆の弓が見える。
弦分奏では、何度も一緒に同じところを繰り返した。先生が止めたあと、彼女が鉛筆を持ったまま顔を上げていた姿を、一瞬だけ思い出す。
今、その弓は迷わず動いていた。
チェロとコントラバスの響きが、長い流れを支える。自分の音だけを聴いていたら、急いでしまいそうなところで、私はその低い音に身を預けた。
先生の左手が、まだ先があることを示している。
弓を送り続けた。
音楽が、少しずつ遠ざかっていく。
最後に残った呼びかけのあと、遠くの雷のようなティンパニが響いた。
私は弓を下ろし、先生を見ていた。
さっきまで確かにあった応えが、もう聞こえない。
音がなくなっても、その空いた場所だけが残っていた。
*
第四楽章のページを開く。
ドミトリーたちの低い弦が動き始めると、舞台の空気が変わった。
チェロとコントラバスの音が、足元で刻まれる。低いところから進んでくるその動きに、こちらも弓を合わせた。
先生の指揮が、はっきりと拍を示す。
音を出す。
次へ進む。
ヴィオラの弓が揃って動いていた。美帆の身体が拍に乗り、その後ろの奏者たちも続く。ドミトリーは楽器を支え、腕を大きく使っていた。
響きが強くなる。
それでも、拍はぼやけない。
そこへ金管が鳴った。
音が押し寄せる。私は先生を見た。大きさに引かれて弓を急がせない。次の拍を確かめる。
樹の弓も、奈緒の弓も動いている。
夏の合宿では、途中で腕が重くなり、最後まで同じように弾くことが難しかった。今も疲れはある。それでも、次に必要な動きが身体に残っている。
弓を返す。
また返す。
直人のクラリネットが、あの旋律を歌いかけた。
その短い声を、全員の音が断ち切った。
響きが弾ける。
さらに押し寄せる。
最後の音が消えると、私は息を吐いた。膝に置いた右手に、まだ弓の動きが残っている。
樹が次のページを開いた。
先生が、私たちを見渡す。
私は楽器を構え直した。
*
第五楽章の音が、静けさの中で蠢き始めた。
譜面の先を見て、指を動かす。さっきまでとは違う弓の感触を確かめながら、先生の手を追った。
直人が、小さなクラリネットを構えた。
その音が飛び出した瞬間、思わず顔を上げた。
知っている旋律なのに、こんな声だっただろうか。
軽く跳ねる。
身をくねらせる。
音の端が鋭く立ち、次の瞬間には、するりと違う方向へ逃げていく。
直人は、先生を見ていた。
いつもの穏やかな顔のまま、指だけが鮮やかに動く。その音を聴いていると、こちらの弓まで勢いを増しそうになった。
私は譜面へ目を戻した。
その続きを、私たちが弾く。
樹と弓を動かした。後ろからも音が重なる。管楽器が応え、打楽器が加わる。
舞台全体の動きが、急に大きくなった。
直人の音が、その中を駆け抜けていく。
笑っているようだった。聴いた相手がどんな顔をするか、分かっていて笑っている。
チューブラーベル、いや、鐘が鳴った。
沢村の振り下ろした手が、視界の奥に見えた。
響きが高く広がる。
ホールの隅々まで届き、長く残る。私は休みを数えながら、その音が薄くなるのを聴いた。
もう一度、鐘が鳴る。
低い管楽器の音が続いた。チューバの二人が楽器を支え、並んで吹いている。二つの音が重なると、舞台の奥行きが変わったように感じた。
弦の音を重ねる。
鐘の余韻の中へ、旋律が進んでいく。
沢村は次の一打を待っていた。ティンパニの前では、後輩が先生を見ている。それぞれの場所で、それぞれの入りを待つ。その静かな集中まで、こちらへ伝わってきた。
そして、音楽がまた走り出す。
低い弦から始まる動きを聴き、私は入りを数えた。
ドミトリーたちの弓が、力強く動いている。チェロが続く。ヴィオラが加わる。美帆たちの音が現れたところで、響きの中にもう一本、はっきりした線が生まれた。
奈緒のセカンドが入る。
私たちも続く。
同じ動きが、少しずつ違う場所から現れる。
誰かを聴いているうちに、自分の入りが来る。弾き始めると、また別の音が聞こえてくる。
先生の腕が、その全部を進めていた。
私は弓を返した。
後ろから来る音が強い。ついてきている、とはもう思わなかった。私もその音に乗せられていた。
弓の木で弦を打つところへ来る。
乾いた音。
隣で。
後ろで。
次々に揃う。
樹の手首が動く。ヴィオラの方からも同じ音が聞こえる。
初めてこの奏法を合わせたときの、みんなの顔を思い出した。面白がっていた人も、恐る恐る弓を返していた人もいた。「骸骨がカタカタ踊ってるみたいだよね」と、言っていたのは誰だったか。その時のことまで思い出して危うく吹き出しそうになるのを堪える。
今は、誰も迷わない。
音が揃う。
音楽が跳ねる。
また揃う。
さらに先へ跳ねる。
終わりが近づいてくる。
右腕は重かった。背中にも疲れがあった。それでも、弓を動かせた。
先生の手を見る。
潤のチェロが聞こえる。美帆たちのヴィオラが、ドミトリーたちのコントラバスが、同じ勢いで進んでいる。
直人の音が、その上に現れた。
金管が鳴る。
ティンパニが響く。
全員の音が重なっても、まだ次へ向かう拍が聞こえた。
私は弓を使った。
樹も、奈緒も、後ろのみんなも弾いていた。
最後の音へ向かって、先生の身体が大きく動く。
弓を返す。
もう一度。
音を出し切った。
先生の両手が、響きを切った。
私は弓を上げたまま、動けなかった。
終わった。
そう思った瞬間、拍手が押し寄せた。
正面の客席から始まり、横の席へ、上の席へ広がっていく。その中に、声が混じった。
私は楽器を下ろした。
息を吸おうとして、自分がどれだけ息を詰めていたかに気づく。隣で樹が肩を落とし、譜面台の向こうを見た。
先生も、しばらく私たちを見ていた。
それから客席へ向き直り、深く一礼した。
拍手が、さらに大きくなる。
顔を上げた先生が、振り返った。
その目が、舞台の一人ひとりを確かめるように動いた。私たちの間に、言葉にならないものが通った気がした。誰か一人の成功ではない。ここにいる全員が、同じ長い時間をくぐり抜け、同じ音の中に立っていた。
真っ先に手を向けたのは、直人だった。
直人が一瞬、目を丸くした。
隣の奏者が笑って、立つように促す。小さなクラリネットを持ったまま、直人が立ち上がった。
先生が彼を客席へ紹介する。
あちこちから、ひときわ強い拍手が起きた。
私も拍手をした。奈緒も、樹も、楽器を支えたまま手を叩いている。
直人が一礼した。
顔を上げると、少し照れたように笑った。
いつもの直人の顔だった。
でも、さっきの音は、まだ耳に残っていた。あの音があったからこそ、私たちの音も前へ進めた。そう思うと、胸の奥に熱いものが広がった。
先生は続いて、ほかの管楽器奏者へ手を向けた。鐘のところにいた沢村も、ティンパニを叩いた後輩も立ち上がる。チューバの二人は揃って立ち、一礼してから、互いの顔を見て笑った。
美帆たちが立つ。
ドミトリーたちも、楽器を支えながら顔を上げた。
それぞれの音が、次々に拍手を受けていく。
私はその光景を見ながら、演奏中に聴こえていた音を思い返していた。低い弦の支え、ヴィオラの柔らかな線、管楽器の呼びかけ、打楽器の一打。どれか一つが欠けていたら、最後の響きには届かなかった。
やがて先生の手が、弦全体へ、そして舞台の全員へ向いた。
私は立ち上がった。
膝が少し頼りなかった。樹が隣に立つ。後ろでも、椅子から立つ音が重なった。
その音さえ、今は一つの響きのように聞こえた。
客席を見た。
たくさんの手が動いていた。
笑っている人がいる。何度も頷きながら拍手をしている人がいる。こちらをまっすぐ見て、手を叩き続けている人がいる。
頭を下げたとき、喉の奥が熱くなった。
顔を上げる。
拍手は、まだ続いていた。
私は楽器を胸元で持ち直した。
腕は重く、指先には弦を押さえた感触が残っている。背中も痛い。けれど、その疲れさえ嬉しかった。これは、私一人が耐えた疲れではない。みんなで音を重ね、みんなで最後まで走り切った証だった。
隣を見ると、樹が笑っていた。後ろでは、誰かが小さく息を吐き、別の誰かが目を合わせて頷いている。言葉を交わさなくても、同じものを感じているのが分かった。
私たちは、同じ時間を弾いた。
同じ音を追い、同じ瞬間に息を合わせ、同じ終わりへたどり着いた。
その事実が、拍手よりも強く胸に響いた。
この仲間と弾けてよかった。
私はもう一度、楽器を持つ手に力を込めた。
そして、仲間たちと同じ方向を向いて、客席へ笑いかけた。
舞台袖から、花束を抱えた一年生の女の子が二人、出てきた。二人とも今日は下り番で、裏方を手伝ってくれていた子だった。一人が少し緊張した顔で指揮台へ近づき、マエストロの前で足を止める。赤い薔薇の間に、白い霞草が揺れていた。先生が花束を受け取ると、客席から温かな拍手が起きた。彼女へ微笑みかけ、それから花束を胸元に抱えて一礼する。
もう一人の子が私のところへ来た。
「先輩、お疲れさまでした」
差し出された花束には、濃淡の違うピンクの花が集まっていた。淡い色の薄紙に包まれ、リボンの端が揺れている。楽器と弓を左手にまとめ、右手で受け取った。
「ありがとう」
彼女が、ほっとしたように笑った。花の香りがした。さっきまで弓を握っていた手に、今は花束がある。その重みを確かめながら顔を上げると、奈緒がこちらを見て笑っていた。
私も花束を抱え、客席へ頭を下げた。
拍手の中で、さっきの一年生の子がそっと近づく。
「アンコールの間、お預かりしますね」
「うん。お願い」
花束を渡すと、彼女は大事そうに抱え直した。もう一人の子も先生から赤い薔薇の花束を預かり、二人で舞台袖へ戻っていく。
マエストロがもう一度、客席へ一礼した。私たちにも頷いてから、先生は拍手の中を舞台袖へ歩いていった。
マエストロが舞台袖へ戻っても、拍手は止まらなかった。
私は椅子に座り、楽器を膝へ下ろした。樹が《幻想》の楽譜を閉じ、その下からアンコールの譜面を出す。
「大丈夫ですか」
小さな声で聞かれ、私は頷いた。
「樹は?」
「まだ、いけます」
その返事に、笑ってしまった。
「私も」
第二ヴァイオリンの席では、奈緒が肩を一度回していた。範子と顔を見合わせ、二人で譜面を開く。潤も弓を持ち直している。
拍手がまた大きくなった。
マエストロが戻ってきた。
先生は客席へ一礼し、それから私たちに向き直った。指揮台へ上がると、少しだけ口元を緩める。
昨日は、全部使い切らないようにと言われた。
今日は、もう残さなくていい。
私は楽器を肩に乗せた。顎を当てると、汗ばんだ肌に木の縁が触れた。肩から背中へ、楽器の重みがまっすぐ落ちてくる。
客席の拍手が収まっていく。
理沙がオーボエを構えた。
先生の手が上がる。
《バッカナール》が始まった。




