夜明けの約束、そして魔女の宴(4)
舞台袖に集まると、客席のざわめきが聞こえた。
楽屋にいたときより、ずっと近い。壁一枚を隔てた向こうで、無数の声が重なっている。低い話し声、椅子を引く音、咳払い。ときおり、誰かの笑い声が浮かんでは、すぐにざわめきへ溶けていった。
弓を持った右手を、一度開いて握り直す。指先が少し冷たい。手のひらには薄く汗がにじみ、弓の木の感触がいつもよりはっきり伝わってきた。肩を下げようとしても、首の付け根に力が残っている。
すぐそばでは、遥が静かに肩を回していた。フルートのケースを閉じる小さな音がして、誰かが靴の位置を直す。譜面をめくる音、衣擦れ、短く交わされる囁き。その一つひとつが、妙に大きく耳に入った。
自分の呼吸だけが、周囲から少し浮いている気がした。吸う息が浅い。喉の奥が乾いて、唾を飲み込む音まで聞こえそうだった。
けれど、周りを見れば、みんな同じ舞台へ向かう準備をしている。遥の指が静かに動き、樹は楽譜の端を確かめ、奈緒は一度だけ弓を持ち直した。誰も大きな言葉を交わしていないのに、それぞれの小さな動きが同じ方向を向いている。
昨日は、緊張に押されて自分のことしか見えていなかった。今日は違う。ここにいる一人ひとりの気配が、音を出す前から私の背中を支えている。
「未央」
潤が、小さな声で呼んだ。
振り向くと、チェロを支えたまま、こちらを見ている。
潤とは、いつも多くを話すわけではない。練習の合間に交わす言葉も、楽譜の確認や、次の入りを知らせる短い声がほとんどだった。それでも、音を合わせているときには、言葉より先に互いの気配がわかる。私が少し早く息を吸えば、潤の弓がそれに応じる。私が迷えば、チェロの席から落ち着いた拍が返ってくる。
だから、潤がこちらを見ているだけで、張りつめていたものが少しだけ緩んだ。
「行こうか」
いつもの声だった。
大げさに励ますでもなく、無理に笑わせるでもない。ただ、私がここにいることを知っていて、同じ場所へ行こうと言っている声。
その短い言葉の中に、これまで一緒に弾いてきた時間が重なっている気がした。うまく入れなかった日も、音がばらばらになった日も、何度も同じ箇所を繰り返した夜も。潤は、私を舞台へ押し出そうとしているのではない。自分も隣にいると、そう伝えている。
私は頷いた。膝の裏がわずかに震えたが、足の裏を床につけ直すと、身体が戻ってきた。
「うん」
声にすると、思っていたよりもしっかり響いた。
それだけで十分だった。話したいことは、終わってからいくらでも話せる。終演後に、今日のどこがよかったとか、あの鐘は少し大きかったとか、そんな取り留めのないことを話せばいい。もしうまくいかなかったとしても、潤ならきっと、隣で同じように楽譜を覗き込んでくれる。
そう思うと、怖さが消えたわけではないのに、怖さだけが私の全部ではなくなった。
潤がわずかに頷いた。目が合ったのは一瞬だったが、その一瞬で、舞台へ向かう準備が整った気がした。
係の人の合図で、列が動き始めた。
舞台袖から一歩出る。照明の熱が頬に触れ、暗い袖に慣れていた目が一瞬だけ眩んだ。客席から拍手が押し寄せ、胸の奥まで細かく震わせる。弓を持つ手に力が入りそうになり、私は指を一本ずつ緩めた。
舞台へ出ると、拍手が迎えてくれた。
正面だけでなく、舞台を囲む客席にも人がいる。顔を上げた瞬間、その近さに少し驚いた。客席の空気が、舞台の縁まで満ちているようだった。
自分の席まで歩き、一礼して座る。
椅子の硬さが太腿に伝わった。足先を床に置き、楽器を構える位置を確かめる。樹が隣に着いた。奈緒も、範子ちゃんもいる。潤がチェロを構え、後ろの奏者たちも席に収まっていく。
潤が一度だけこちらを見た。
私は小さく頷いた。さっきの返事を、もう一度確かめるように。
拍手が静まるのを待って、私は立ち上がった。
理沙のオーボエが、Aを吹く。
細くまっすぐな音が、舞台の上を渡った。その音を受けて開放弦を鳴らし、響きを確かめる。周りから音が重なった。弓が弦を擦る音、低音の振動、管楽器の息。さまざまな音が混ざり合い、身体の内側を少しずつ満たしていく。
昨日は、音が重なるたびに自分の音を見失わないよう必死だった。今日は、その重なりの中に自分の居場所がある。理沙の音も、樹の弓も、奈緒の呼吸も、潤の低い響きも、互いを確かめながら一つの流れになっていく。
聴き慣れた仲間の音を聴いているうちに、客席へ向いていた意識が、舞台へ戻ってきた。
調弦を終え、椅子に座る。心臓はまだ速かったが、鼓動の間隔が少しずつ整っていく。弓を膝に置くと、木の重みが手に戻ってきた。
指揮台の向こうからマエストロが現れると、もう一度、拍手が広がった。
深く一礼したマエストロが、私たちに向き直る。
客席の最後の咳払いが消え、ホール全体が息を潜めた。遠くで椅子がわずかに軋み、その音さえも静寂の中に残った。
遥がフルートを上げた。
私も弓を構える。指先を弦の上に置くと、冷たさが皮膚を通して伝わった。隣で、樹が同じように構えた。視界の端で、奈緒の肩が静かに下がる。
少し離れたところで、潤の弓も上がった。
さっきの「行こうか」が、まだ耳の奥に残っている。
私は一人で舞台に立っているのではない。潤も、樹も、奈緒も、ここにいる。これまで重ねてきた音も、失敗も、笑い声も、すべてが今の私の中にある。
昨日とは違う。昨日は音を追いかけていた。今日は、みんなと一緒に音を生み出しにいく。
マエストロの手が、ゆっくりと上がった。
息を吸う。
胸の奥で、高揚感が大きく膨らんだ。
次の瞬間、すべての音が始まる。
遥のフルートが、ひとりで歌い始めた。
最初の音が伸びた瞬間、客席の気配が変わった。
さっきまでどこかで聞こえていた衣擦れも、小さな物音も、耳に入らなくなる。私は休みを数えながら、遥を見た。
彼女の目は、マエストロへ向いている。
旋律が下り、また上っていく。その途中のわずかな揺れまで、ホールに広がった。音が細くなるところで、私も息を詰めそうになった。
昨日、仲間たちの腕に鳥肌を立たせた音だった。
今日は、その先に客席がある。
正面の人も、舞台を囲む席の人も、今、同じ旋律を聴いている。顔を確かめる余裕はなかった。それでも、音の行く先で、誰もが続きを待っているように感じられた。
マエストロの手が動く。
私は楽譜へ目を戻した。
弓を置く。樹の動きが、視界の端で重なった。
自分たちの音が加わると、遥の旋律は、それまでとは違う近さで聞こえた。遠くから聴いていた音楽の中へ、自分も入っていく。
弓を返し、次の音へ進む。
隣から、後ろから、弦の響きが集まってきた。第二ヴァイオリンの音も、その向こうのチェロも聞こえる。マエストロが左手を開くと、響きの中に新しい色が加わった。
遥が楽器を下ろす。
次の奏者が、その続きを受け取った。
練習では、自分の弾くところばかりが気になっていた。今は、休みの間にも音楽が進んでいる。そこで何を聴いたかが、次に弓を置くときの重さを決めていた。
マエストロの手を見て、もう一度、楽譜へ目を落とす。
鉛筆で書いた短い言葉が見えた。何度も直した弓順もある。もう、それを読んで考える時間はいらなかった。
身体が動いた。
遥の音が、再び響きの上に現れる。
私はその旋律を受け止めるように、弓をゆっくり先へ送った。
最後の響きが、薄くなっていく。
弓を止めても、すぐには下ろさなかった。マエストロの指先が、まだ音の行方を見届けている。
その手が静かに下りた。
一瞬、何も聞こえなかった。
それから、拍手が来た。
正面から、両側から、頭の上の席から。音楽の間は遠く感じていた客席が、急に近くなる。
マエストロが遥へ手を向けた。
遥が立ち上がると、拍手がさらに大きくなった。フルートを持って一礼した彼女の頬が、少し赤い。
私も弓を持っていない手で拍手をした。
遥が顔を上げる。その口元がほころんだのを見て、私まで笑ってしまった。
*
《レ・プレリュード》の楽譜を開く。
樹がページの端を押さえ、私と一緒に最初の段を確かめた。
客席が落ち着くのを待って、マエストロが指揮棒を上げた。
静かな始まり。
拍を数えながら、私は弦をそっと鳴らした。音が少しずつ増え、旋律が形を持ち始める。
そのとき、管楽器の音が、あるはずのところに収まらなかった。
ほんの短い乱れだった。
けれど、耳がそちらへ向いた一瞬、弦の入りも僅かに遅れた。
胸の中が、ひやりとした。
樹の弓が見えた。奈緒が顔を上げる。その向こうでは、潤も指揮台を見ていた。
私も、すぐにマエストロへ視線を戻した。
先生の動きが、大きくなった。
指揮棒の先だけでなく、腕も、肩も、身体全体が次の拍へ向かう。左手が私たちへ開かれ、次の入りをはっきり示した。
目が合った。
私は息を吸った。
示された拍へ、弓を落とす。
樹が続き、後ろのプルトが応じた。第二ヴァイオリンも、チェロも、ヴィオラも、ばらけかけた響きを一つの流れへ戻していく。
先生の手は止まらない。
さっきの乱れを確かめるように、音を探している暇はなかった。今、示されている拍に乗る。次の音を、そこへ出す。
潤の弓が動く。奈緒の身体も、同じ方向へ進む。
管楽器の旋律が、弦の響きの上に戻ってきた。
そこでようやく、固くなっていた肩に気づいた。息を吐き、右腕の力を少し抜く。
マエストロの左手が、音を受け止めるように丸くなった。
大丈夫。
誰も声にはしなかった。けれど、その手を見て、そう思えた。
音楽は、もう先へ進んでいた。
激しい応酬を抜け、旋律が歌い始める。
分奏で何度も止めた箇所だった。弓のどこを使うか、どこで音をつなぐか。隣の人だけでなく、後ろまで同じように弾けるよう、繰り返してきた。
今、その旋律が一つの息になって聞こえた。
樹と呼吸を合わせ、フレーズの終わりを受け渡す。後ろの音も途切れずについてくる。奈緒のところから聞こえる旋律を受け、こちらの声を重ねる。
先生は、その響きを聴いていた。
私たちが歌い始めると、指揮の動きが変わる。次の音へ向かう間が、少し広くなった。その余白へ音を送り、最後まで息をつないだ。
客席のことを考える余裕は、もうなかった。
弾きたい音がある。その音を出すために、先生を見て、仲間を聴いた。
曲が進むにつれ、舞台の奥から届く響きが力を増していく。
ホルンの音が聞こえた。
その先で、金管が加わる。
私は顔を上げた。マエストロの腕が大きく開き、私たちを次の頂点へ導いていく。
弓を大きく使い、響きを押し広げる。
隣で樹が応じた。後ろのプルトも、今度は迷いなくついてくる。
一年生の春には、この響きの中で自分がちゃんと弾けているのか、そればかり考えていた。先輩の背中を見て、必死に弓を合わせていた。
今、私の後ろにも一年生がいる。
迷わず弾けるように、次の拍を先に示すつもりで音を置いた。自分がそうしてもらったように、進む方向を後ろへ渡す。
先生の指揮棒が上がる。
全員の音が、そこへ集まった。
最後の和音を弾き切ったとき、右腕に重さが残った。
マエストロが音を切る。
私は弓を上げたまま、その姿を見ていた。
拍手が湧いた。
さっきよりも強く、長く、ホールを満たしていく。
樹が小さく息を吐いた。私も、ようやく肩を下ろした。
マエストロが客席へ一礼する。それから私たちへ向き直り、立つように促した。
楽器を持って立ち上がると、客席の顔が見えた。
前の方で、身を乗り出すように拍手をしている人がいた。その隣の人も笑っている。
私たちの音を、聴いてくれた人たちだった。
頭を下げる。
顔を上げたとき、セカンドの向こうで潤と目が合った。
彼が、ほんの少し笑った。
私も笑い返した。
*
袖へ戻ったところで、誰かが大きく息を吐いた。
「……よかった」
それが誰の声だったのか、振り向く前に、別の声が重なった。
「びっくりした」
「戻ったね」
「先生、すごかった」
楽器を抱えたまま、みんなが小声で話している。まだ客席では拍手が続いていた。
奈緒が私のところへ来た。
「ひやっとしたね」
「うん」
「でも、最後」
彼女はそこで言葉を止め、笑った。
私も頷いた。最後のところは、まだ腕の中に残っていた。
遥が、フルートを胸元で持ったまま立っている。
「遥」
呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「拍手、すごかったね」
「うん」
遥は笑って、それから少しだけ視線を落とした。
「《牧神》、ずっと憧れてたんだ」
指先が、フルートの銀色の管に触れる。
「吹けてよかった」
奈緒が、遥の肩を軽く叩いた。
「聴けてよかったよ」
「私も」
そう言ってから、三人で顔を見合わせた。自分たちも弾いていたのに、聴けてよかったと言いたくなるのが、少し可笑しかった。
係の人が、休憩の残り時間を知らせてくれた。
私は水を飲み、ひと口ずつ、ゆっくり飲み込んだ。手のひらで右の前腕をさすると、まだ少し熱かった。
このあとには、《幻想》がある。
樹が楽譜を開いていた。奈緒は範子と短く話し、潤はチェロの後輩たちのところへ戻っていく。
沢村が、ティンパニを任せる後輩の肩に手を置いた。何か言うと、後輩は笑って頷いた。
私はコップを置いた。
もう一度、みんなと舞台へ行く。




