夜明けの約束、そして魔女の宴(3)
《レ・プレリュード》では、全員の音が重なるたび、床からも響きが伝わってきた。低音が鳴ると、靴底の下で舞台がかすかに震え、その振動が脛から膝へ上がってくる。
分奏で何度も弾いたところへ来る。私は先生の指揮を見てから、後ろへ伝わるように弓を動かした。
潤の弓も、セカンドの向こうで動いている。
遠くにいる潤の動きが見えるだけで、少しだけ呼吸が戻った。明日も同じ場所に彼がいる。そのことが、心細さを支えてくれる気がした。
練習室でははっきり聴こえた音が、ここでは大きな響きの中へ溶けることがあった。近くの音ばかり追うと、壁から返ってくる残響に足を取られ、指揮から遅れてしまう。
私は譜面から顔を上げる回数を増やした。金管が鳴ったあとも、先生の腕は次へ進んでいる。音が返ってくるのを待たず、その動きに弓を合わせた。
自分の音が届く前に、先生の拍へ身体を預ける。そうすると、広がった響きの中でも、全員の音が一つの流れとして前へ進んだ。
この感覚を忘れなければ、明日も大丈夫かもしれない。そう思う一方で、たった一度の迷いで流れを止めてしまう怖さも消えなかった。私はその両方を抱えたまま、弓を動かし続けた。
前半が終わると、予定どおり休憩になった。
楽器を置いて奈緒と袖へ出たところで、遥と会った。
「遥」
「ん?」
「今の、すごかった」
彼女は一瞬、目を丸くした。
「ほんと?」
「鳥肌立った」
「私、危うく休み数え損ねるところだった」
奈緒が言い、遥が笑った。
「ちゃんと入ってよ」
「入ったでしょ」
私たちも笑った。
笑うと、張りつめていた胸が少しだけ緩んだ。明日も、こんなふうに互いの音を聴いて、声を掛け合えたらいい。そう思った。
遥はフルートを持ち替え、舞台のほうを見た。
「ここ、遠くまで吹ける感じがする」
その言い方に、私はうなずいた。
明日はあの客席に人がいる。さっきの音を、あの中で初めて聴く人もいる。
そう思うと、早く明日になってほしかった。あの空間に人の気配が満ちても、音が客席の奥まで届くのか、確かめてみたかった。
同時に、今日のように音を聴く余裕を失わないでいられるか、手が震えないかという不安もあった。期待と不安は別々にあるのではなく、明日を思い浮かべるたび、同じ胸の中で重なっていた。
休憩のあとは、《幻想交響曲》だった。
第一楽章の譜面を開くと、余白の書き込みが目に入った。夏の合宿で書いたものも、つい先週直したものもある。
指揮棒が上がり、私は弓を構えた。
第三楽章では、離れたところから応えるオーボエの音を聴いた。
練習室よりも、その間の空間が広く感じられる。音と音のあいだに、深い水のような静けさが広がっていた。音のなくなったところまで急いで埋めないように、先生の手を見た。
潤のチェロが聞こえた。
低い音が床を這うように届き、私の足元でかすかに震える。私は自分の音をその中へ重ね、隣や後ろの弓を感じながら弾いた。
この音が明日も支えになる。そう思うと、少しだけ力が抜けた。けれど、もし誰か一人でも入りを間違えたら、この静けさは簡単に崩れる。そんな想像が頭をよぎり、私は先生の手をいつも以上に注意深く追った。
第四楽章を終えても、肩を下ろす間は短かった。
第五楽章のページへ進む。直人が楽器を構え、先生を見る。
Esクラの音が飛び出すと、セカンドの奈緒の背中がわずかに動いた。鋭い音が空間を切り裂き、壁に当たって跳ね返る。私も思わず顔を上げたが、すぐに次の入りへ目を戻した。
鐘の音が鳴る。
大練習室で聴いてきた音が、ここでは長く残った。打ち鳴らされた響きが頭上へ昇り、ホールの奥で何度も薄く反射する。私はその余韻に引かれそうになりながら、響きの向こうにある拍を追った。
明日はこの音を、客席の反応とともに受け止めることになる。想像すると胸が震えた。うまくいけば、きっと忘れられない瞬間になる。けれど、もし音を追えなくなったら、その瞬間に置いていかれる。私は不安を振り払うように、指先と弓の感触へ意識を戻した。
最後まで弾き終えると、右腕が重かった。
先生が手を下ろし、少し間を置いてから言った。
「お疲れさまでした。いくつか、確かめましょう」
舞台のあちこちで、鉛筆を取る音がした。
先生は《レ・プレリュード》へ戻り、弦と管の重なるところを取り出した。
「返ってきた音を待つと、遅くなります。こちらを見てください」
同じところをもう一度弾く。
自分の近くで聴こえる音と、先生の腕が示す拍を確かめる。弾き終えてから後ろを振り返ると、何人かがうなずいていた。
指摘されるたびに、明日へ持っていく不安が少しずつ形を変えていった。ただ怖がるのではなく、どこを見ればいいのか、何を聴けばいいのかが見えてくる。直せるものが残っていることは、むしろ心強かった。
《幻想》でも、音の収め方や、次へ進む呼吸を確かめた。
私は弓順を書き直し、樹と後ろのプルトへ伝えた。セカンドの奈緒とも変更するところを確かめ、奈緒は隣の範子へ譜面を示した。潤はチェロの後輩と、譜面を指さして話している。
明日へ持っていくものが、一つずつ決まっていった。
それでも、決まったことが増えるほど、明日が近づいている実感も強くなった。もう練習だからと逃げることはできない。明日のリハーサルを終えれば、いよいよ客席に人が入ってくる。
最後にアンコールを合わせた。
《バッカナール》の譜面を開くと、後ろで誰かが肩を回した。金管のほうから短い笑い声が聞こえ、先生も口元を緩めた。
「今日、全部使い切らないように」
その言葉に、今度は弦の席でも笑いが起きた。
笑い声が舞台に残り、張りつめていた空気を少しだけ軽くした。明日も、この余裕を失わずにいたい。そう願いながら、私は譜面の最後の音を指でなぞった。
*
ゲネプロが終わると、先生は指揮棒をしまった。
「今日はここまで。よく休んでください。明日、また合わせましょう」
ありがとうございました、と声が重なった。
私は楽器を膝へ下ろし、左手を開いた。指の腹に、弦を押さえていた感覚が残っている。右腕には、長く音を支えた重さが鈍く残っていた。
明日までに、この疲れは抜けるだろうか。眠れば大丈夫だと分かっているのに、身体の小さな違和感まで気になった。明日、舞台に立った瞬間には、疲れも不安も全部音に変えられればいいと思った。
隣で樹が譜面のページを戻した。
「最後のところ、これでいい?」
鉛筆の先で示されたところを見て、私はうなずいた。
「うん。ここの返しだけ、後ろにも伝えておいて」
「分かった」
樹は印をつけてから、後ろのプルトへ振り返った。
一年生が譜面を持って近づき、樹の説明を聞きながら同じ印を書き込んでいた。
後輩が真剣に譜面を見つめる姿を見ていると、私だけが不安になっているわけではないのだと思えた。みんなそれぞれに明日を抱えている。そのことが、かえって心を落ち着かせた。
ケースを閉じる前に、私は客席を見た。
一年生の春、後ろの席から見ていた指揮台が、今は目の前にある。初めてこの席へ座った時には、後ろを振り返るだけでも緊張した。
今日は樹が後輩へ声を掛け、セカンドの席では奈緒と範子が譜面を見直している。
私はヴァイオリンをケースへ収めた。
少しずつ人が減っていく舞台を見ていると、明日の光景が重なった。客席に人が座り、開演を待ち、私たちが音を出す。そこまで想像すると、胸の奥が熱くなる。けれど、その期待のすぐ隣には、最初の音を出す瞬間に手が固まったらどうしようという恐れがあった。
楽屋へ戻る廊下で、潤が待っていた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
並んで歩き出すと、彼が私の手元を見た。
「腕、大丈夫?」
「うん。疲れたけど」
「俺も」
「遥、すごかったね」
「うん」
潤はそれから、少し笑った。
「明日、客席で聴きたいくらい」
「私も。でも、弾きたい」
「そうだな」
その言葉のあと、二人ともすぐには続けなかった。何度も練習室で音を合わせ、うまくいかない箇所を繰り返し、少しずつ明日の形へ近づけてきた。その時間を、言葉にしなくても互いに分かっていた。
客席で聴きたいほどの演奏を、自分たちが舞台で作る。そう考えると誇らしかったが、同時に、その責任の重さも感じた。明日は、今日のようにやり直すことができない。
楽屋の手前で、私たちは足を止めた。
向こうから来た後輩が、お疲れさまです、と挨拶して通り過ぎる。潤が返事をし、私も顔を上げた。
明日も、この廊下を通って舞台へ行く。
同じ廊下なのに、明日はまったく違って見えるのだろう。今はまだ静かな床も、明日は足音や話し声で満ちる。その先にある舞台を思うと、逃げ出したいような、早く立ちたいような気持ちになった。
「明日」
私が言うと、潤はこちらを見た。
「うん」
「いい演奏、しようね」
彼はまっすぐにうなずいた。
「しよう」
私はケースを持っていないほうの手を、彼へ伸ばした。
潤がその指を握り、すぐに離した。短い間だったが、手のひらに温かさが残った。
その温かさが、明日まで消えずにいてくれればいいと思った。不安になった時、この感触を思い出せば、隣にも後ろにも一緒に音を出す人がいると信じられる気がした。
「じゃあ、コート取ってくる」
「うん、待ってる」
私はうなずき、楽屋の扉を開けた。
明日は、本番だ。
期待も不安も、もう置いていくことはできない。全部抱えたまま、私たちは明日の舞台へ向かう。
*
楽屋の扉を開けると、奈緒が鏡の前で髪をまとめていた。
「おはよう。眠れた?」
「うん。奈緒は?」
「一回、目が覚めた。寝坊したと思って」
鏡越しに目が合って、二人で笑った。
空いている椅子に荷物を置く。昨日もここにいたのに、今日はケースを開ける手が少し急いだ。楽器を取り出してから、まず深呼吸をした。
廊下では、誰かが沢村を呼んでいる。返事に続いて、台車の車輪がごろごろと遠ざかっていった。
「もうチューブラーベルを見に行ってるのかな」
「たぶん。さっきも見てたよ」
「昨日、あんなに確かめたのに」
「未央だって、もう弓見てるじゃん」
手元を見る。確かに、ケースから取り出した二本を並べていた。
「……これは、いつものことです」
「はいはい」
奈緒が笑いながら、最後の一本のピンを髪に留めた。
*
舞台では、譜面台の間を縫って奏者たちが席に着いていた。
樹はもう第一プルトの裏に座っていて、私が近づくと、膝に置いていた楽譜を譜面台へ戻した。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「ちょっと早く着いちゃって」
開かれていたのは《幻想》の第五楽章だった。書き込みの多いページの隅を、樹の指が押さえている。
私も椅子に座り、譜面台の高さを確かめた。隣の第二ヴァイオリンでは、奈緒と範子が同じ小節を覗き込んでいた。二人が顔を上げたので、軽く会釈を交わす。
その向こうに、潤がいた。
チェロを抱えたまま、後ろのプルトの子と話している。やがてこちらに気づくと、口元を緩めた。
私も笑って、弓を持ち直した。
今日のリハーサルは、アンコールから曲順を逆にたどる。昨日のように全曲を通す時間はない。必要なところを確かめて、夜の本番に備える。
昨日は、ただ音を追いかけるだけで精いっぱいだった。けれど今日は、誰がどこで息を吸い、どの音を受けて次の音を出すのかが、少し先まで見える気がした。昨日一日をかけて重ねた音が、身体の中に道筋を作っている。
マエストロが指揮台に立つと、舞台のあちこちで鳴っていた音が止んだ。
「おはようございます。では、《バッカナール》からいきましょう」
楽譜をめくる音が重なった。
理沙のオーボエから、あの旋律が流れ出す。
弓を構え、マエストロの手を見る。昨日までに何度も合わせた動きが、身体の中にある。入りの瞬間、樹の弓が私と一緒に動いた。
金管が加わると、舞台の空気が一気に熱くなった。
ひと区切りしたところで、マエストロが両手を下ろす。
「はい。そこまでにしましょう。皆さん、続きは本番で」
後ろの方から、誰かの小さな笑い声がした。
私も弓を膝に置く。これを《幻想》の後に弾くのだと思うと、少しだけ可笑しかった。たぶん、その頃には腕も背中もくたくたになっている。
それでも、今から楽しみにしていた。
《幻想》では、楽章のつなぎや、響きの中で互いの音を拾いにくい箇所を確かめた。マエストロが止めるたびに、鉛筆を持つ手が上がる。
第五楽章に入る前、沢村が後輩に何か声をかけてから、チューブラーベルの方へ移った。後輩は頷いて、ティンパニの前でマレットを持ち直す。
鐘の音が、舞台の上を渡った。
弦の音を重ねながら、客席の奥へ消えていく響きを聴いた。潤の弓が見える。奈緒も、樹も、後ろのプルトも、同じ拍の中にいた。
昨日は一人ずつの音を確かめていたのに、今日は音の流れそのものが見える。誰かの音が生まれ、別の誰かが受け取り、また次へ渡していく。その輪の中に自分もいるのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
《レ・プレリュード》を確かめる頃には、楽器も身体も十分に温まっていた。
最後に《牧神》。
遥がフルートを唇に当てた。客席を向いていたマエストロの身体が、わずかに彼女の方へ開く。
最初の音が、静かなホールに伸びた。
私は楽譜を見ながら、その息の行方を聴いた。自分の入りまで、まだ少しある。弓を持つ指から、余分な力が抜けていった。
昨日なら、入りを待つ時間に不安ばかりが膨らんでいたかもしれない。けれど今は、遥の音が次の場所まで連れていってくれるとわかる。私が音を出せば、誰かが受け取ってくれる。そう思うと、待つことさえ楽しみになった。
*
リハーサルを終えると、舞台の上は急に賑やかになった。
椅子から立ち上がる人。もう一度だけ音を確かめる人。譜面台を挟んで話す人。
私と樹も、書き込んだ箇所を一緒に見直した。
「ここ、さっきので大丈夫そうだね」
「はい。後ろにも伝えておきます」
「ありがとう」
樹が楽譜を持って後ろのプルトへ向かう。その姿を見送り、私は楽器をケースに収めた。
昼食を済ませて、楽屋で本番の服に着替える。
奈緒と話しているうちにも、廊下の足音は増えていった。開場の時刻が近づくと、係の人が扉を開けて、予定どおりに進んでいることを知らせてくれた。
プログラムを一冊、手に取る。
昨日、みんなで挟んだチラシが、紙の間から少し覗いていた。角を揃えて閉じ、荷物の上に置く。
「あとでゆっくり読もうね」
奈緒が、私の手元を見て言った。
「……もう読んだよ」
「知ってる」
鏡の前で笑う奈緒を、軽く睨んだ。
そのとき、廊下から声がかかった。
「そろそろ、舞台袖にお願いします」




