夜明けの約束、そして魔女の宴(2)
演奏会の前日、ホールのロビーには、長机が二列に並んでいた。
いつもは開場を待つ人が立っている場所に、色とりどりのチラシが重なっている。クリスマスツリーの写真、指揮者の横顔、楽器を並べた図案。十二月の演奏会に混じって、二月の卒業演奏会の速報もあった。
「これで、全部?」
奈緒が机の端から見渡した。
「もう一団体、来るって。今、駅だそうです」
受付係の後輩が、スマートフォンを見ながら答えた。
「じゃあ、そこの分を空けておこう」
机の上でチラシの山を少しずつずらすと、隣にいた女の子も手を貸してくれた。吹奏楽のクリスマス演奏会のチラシを届けに来た、一年生だった。
楽器の搬入は、ひとまず終わっていた。舞台ではまだ椅子や譜面台を直していて、開いた扉の向こうから、沢村の声が聞こえてくる。
今日のゲネプロは、明日の本番と同じ時刻から始まる。それまでに、明日配るプログラムを用意しておくことになっていた。
明日。
その言葉を思うだけで、弓を持つ右手の感覚を確かめたくなる。私は指を一度曲げ伸ばししてから、机の上のチラシを揃えた。
「未央、久しぶり」
顔を上げると、ジュニアオケでお世話になった弦楽トレーナーの先生が、紙袋を提げて立っていた。
「先生!」
「クリスマスのチラシ、持ってきた。遅くなってごめんね」
「ありがとうございます。こちらへ」
受け取った袋からチラシを出す。赤い背景に、白い音符が散っていた。
「今年も、ここですか」
「小ホール。高校三年生は受験で抜けている子もいるけど、残った子たちで頑張ってるよ」
私はチラシの曲目を読んだ。自分がいた頃にも弾いた曲が、一つ入っていた。
「懐かしい」
「聴きにおいで。今度は客席で」
「はい。行きたいです」
先生はコートを脱ぎ、近くの椅子へ掛けた。
「挟むの、手伝っていい?」
「いいんですか?」
「このくらいなら。未央のところにも、いつもお願いしてるし」
隣の机では、他大学のオケの人が、同じように袖をまくっていた。届けたら帰るつもりだったらしい人も、列を見て、そのまま加わってくれる。
受付係の後輩が、最後に届いたチラシを置いた。
「では、一枚ずつ取って、最後のところでプログラムに挟んでください。二枚重なってないかだけ、確認お願いします」
私は最初のチラシを取り、隣へ進んだ。
同じサ館を使っているマンドリンオーケストラ。その次が吹奏楽で、もう一つの吹奏楽団体は、卒業演奏会の速報も持ってきていた。ジュニアオケ、他大学の定期演奏会、社会人オケ。プロオケの第九のチラシの隣には、映画音楽の演奏会のチラシがある。
一枚ずつ重ねるうちに、手元の束が厚くなった。
「今年、そっちは何やるの?」
「クリスマスは、毎年の曲が半分くらい。そちらの《幻想》、楽しみにしてます」
「うちも来月なんです。よかったらぜひ」
机の向こう側でも、こちら側でも、話が続いていた。
紙の端を指でこする音に混じって、久しぶり、と呼び合う声がする。他大学の人が、社会人オケのチラシに知っている指揮者の名前を見つけ、届けに来た人へ話しかけていた。
机の端まで来て、プログラムを一冊取った。
表紙を開き、集めたチラシを挟む。両手で端を揃えてから、隣の箱へ収めた。
印刷された表紙には、サ館のポスターと同じ図案が使われていた。明日には、これを持って客席へ入る人がいる。その人たちの前で、私たちは弾く。
箱の中へ置いた一冊を、私はもう一度見た。
「サ館、取り壊しになるんですって?」
次の一冊を作り始めたところで、向かいから声がした。
他大学のオケの女の子が、マンドリンの人へ顔を向けている。
「そうなんです。再来年」
「ええ、あのサ館、素敵なのに。残念ですね」
「ですよね。絵葉書にもなってる建物ですし。階段とか、窓とか、通路の感じも好きなんですけど……老朽化と言われると、仕方ないですよね」
マンドリンの人が、チラシを取る手を少し止めた。
「でも、新しいサ館には中規模のホールもできるらしいですよ。ちょっとした演奏会に向いてるって。外部の団体にも貸し出すそうです」
「それ、いいですね。うちもお借りできたらいいなあ」
「合同で何かできたら楽しそうですよね」
話しながら列が進み、私も次のチラシへ手を伸ばした。
大練習室の窓や、玄関へ続く石畳を思い浮かべた。
新しいホールで練習する頃には、今の一年生が前の席に座っているのだろうか。サ館へチラシを届けに来た人たちとも、今度は違う建物で会うことになる。
その頃、潤と私はどうしているのだろう。この仲間たちと同じ舞台に乗る明日も、いつかは思い出になる。そう思うと、練習でまだ気になっているところを、もう一度確かめておきたくなった。
「未央、止まってる」
後ろから奈緒に言われ、私は慌てて一枚取った。
「ごめん」
「まだ本番も終わってないよ」
「分かってる」
奈緒は笑い、私の手元を確かめてから、自分も同じチラシを取った。
何周かすると、初めは高かった山が、目に見えて低くなっていた。
空いたところへ後輩がチラシを補充する。完成したプログラムの箱を運んだ人が戻ってきて、また列の後ろへついた。
私はロビーの時計を見た。舞台へ行くまでに、あと何冊できるだろう。
「そういえば」
奈緒が言った。
「潤の曲目解説、読んだ?」
私は次の山へ伸ばしかけた手を止めた。
「……読んだよ」
「ちゃんと全部?」
「全部」
「そっかあ」
奈緒はそれだけ言って、チラシの端を揃えた。
私は横顔を見た。
「何」
「何って、曲目解説の話」
向かいで話していた二人の声が、少し小さくなった。
「ずいぶん熱心に書いたよね。《幻想》」
「潤、こういうの詳しいし」
「うん。詳しいね」
奈緒は一枚取って、次へ進んだ。
「でも、あれだけ書いた人が、最近は帰る前になると、いつも同じ人を探してるから」
「奈緒」
「前は二人で言い合ってることのほうが多かったのにね」
隣の列で、誰かが小さく笑った。
顔を上げると、吹奏楽の一年生が、急いでチラシへ目を戻した。他大学の女の子は口元を結んでいる。先生まで、何も言わずにこちらを見ていた。
「もう、奈緒やめて」
言った声が思ったより大きくなり、私は手元へ顔を伏せた。
「二枚取ってるよ」
「え?」
「それ」
奈緒が指さしたチラシは、確かに二枚重なっていた。
一枚戻すと、今度は向かいの人たちも笑った。
「明日、演奏も解説も楽しみにしてます」
他大学の女の子が言った。
「……ありがとうございます」
私は答え、次のチラシを取った。指先が熱く、紙をうまく一枚だけつかめない。
机の端へ来て、プログラムを開いた。
《幻想交響曲》のページが見える。
――舞踏会でも、野原でも、死を夢見る場面でも姿を現す《幻想交響曲》の「固定楽想」は、愛する女性の姿であると同時に、彼女を思い続ける青年の心の動きでもある。
同じ人の姿が、何度も心に浮かび、そのたびに音楽の中へ現れる。
読み慣れたはずの一節なのに、今は奈緒の言葉まで一緒に思い出してしまった。
下にある千堂潤の名前へ目が行き、私はチラシを載せる位置を少し直した。
この文章も、明日、客席へ届く。
初めて読んだ時には気づかなかった言葉が、今は、目に入るたびに私を立ち止まらせた。あとで二人になったら、聞いてみたいことがあった。けれど、答えを聞く前から顔が熱くなりそうで、私はそっと表紙を閉じた。
「何、笑ってるんだよ」
声に顔を上げると、潤が箱の向こうに立っていた。
「笑ってない」
「笑ってたけど」
彼は奈緒を見て、それから私を見た。
奈緒は何でもない顔で、出来上がった一冊を箱へ入れた。
「曲目解説、好評だよ」
「ああ。……ありがとう」
素直に答えた潤を見て、私はますます顔を上げられなくなった。
「これ、運べばいい?」
彼が箱へ手を掛けた。
「うん。受付のところ。まだ重ねるから、そっちは蓋しないで」
「分かった」
潤は箱を持ち上げた。通り際に、私の手元へ目を落とす。
「あと、どのくらい?」
「もう少し」
「終わったら、舞台に来て。椅子の位置、見てほしい」
「うん」
その言葉で、私は舞台のことへ気持ちを戻した。自分の席から後ろのプルトまで、弓を動かす余裕があるか。潤たちや管楽器の席が、どこまで見えるか。座って確かめたいことがいくつもあった。
彼が離れてから、奈緒が私の肩へ軽く触れた。
「よかったね」
私は奈緒を見た。
今度は、からかう顔ではなかった。
「……うん」
小さく答えると、彼女はうなずき、最後のチラシを取った。
作業が終わる頃には、ロビーの窓から差す光が傾いていた。
残ったチラシを種類ごとにまとめ、机の上を片づける。手伝ってくれた人たちにお礼を言うと、明日聴きますね、と何人も返してくれた。先生もコートを着ながら、私へ手を振った。
「楽しみにしてるよ」
「ありがとうございます」
楽屋へ戻り、買っておいたおにぎりを食べた。隣では奈緒がパンの袋を開けている。ゲネプロが終わるまで長いから、今のうちに食べておかないと、途中でお腹が空いてしまう。お茶を飲み、包みを片づけてから、ヴァイオリンを持って舞台へ向かった。
廊下を歩く間、ケースの持ち手を握り直した。今は空いている客席も、明日には人が座っている。先生や、チラシ挟みを手伝ってくれた人たちも、あの中で聴いてくれる。
扉を開くと、木の床と、段になった客席が見えた。客席は舞台の横へも回り込み、正面奥にはパイプオルガンの管が並んでいる。
春も秋も弾いてきた場所だった。それでも、譜面台が並び、仲間たちが音を出しているのを見ると、胸の内側が少しずつ張っていった。
私はファーストヴァイオリンの先頭へ行き、ケースを置いた。
セカンドの向こうにチェロ、その隣にヴィオラが並んでいる。チェロの後ろでは、コントラバスの二人が譜面台の位置を直していた。
自分の椅子へ腰を下ろし、後ろを振り返る。奈緒も楽器を持ってこちらへ来るところだった。
「少し、後ろを広げてもいい?」
後ろのプルトへ聞くと、二年生がうなずいた。椅子をずらし、互いに弓を動かして確かめる。
正面へ向き直ってから、チェロの席を見た。
潤が顔を上げた。
「どう?」
「こっちは大丈夫」
私が答えると、彼はうなずき、後ろのチェロの席へも目を配った。
楽器を取り出し、肩へ載せた。
まだ少し指先が冷たかった。開放弦へゆっくり弓を通すと、音が客席へ広がり、自分のところへ返ってきた。
その響きを聴きながら、もう一度弾いた。
明日、この席から最初の音を出す。
私は弓を止め、譜面を開いた。鉛筆で書き込んだ言葉も、直した弓順も、いつもの場所にある。
顔を上げると、離れた席で潤も弓を構えていた。
ゲネプロが始まる時刻まで、あと少しだった。
譜面の書き込みを確かめていると、潤が指揮台の前まで来た。
「後ろ、見える?」
「うん。さっき少し広げてもらった」
彼は私の席から管楽器のほうを見て、うなずいた。
私も顔を上げた。木管の後ろに金管、そのさらに奥には打楽器が並んでいる。沢村が後輩と何か話しながら、チューブラーベルの位置を確かめていた。
視線を上げると、オルガンの管が照明を受けて光っていた。
「ガン付き、懐かしいな」
私が言うと、潤もそちらを見た。
「ジュニアの?」
「うん。あの時、ここで弾いた」
ジュニアオケで最後に弾いた、サン=サーンスの交響曲第三番《オルガン付》。オケによって様々な略称があるようだが、私たちは「ガン付き」と呼んでいた。オルガンの音が加わった瞬間、低い振動が床を伝い、足の裏から胸の奥まで一気にせり上がってきた。天井から光が降り注ぐように、音が頭上から全身を包んだ。客席から聴いた時とは違って、音は耳だけでなく、足元からも身体へ入ってきた。
「またやりたい?」
「やりたい」
答えると、潤が笑った。
「まず、明日だな」
「うん」
短い返事の中に、これまで何度も同じ舞台を思い浮かべながら練習してきた時間が重なっていた。明日も、この場所で音を出す。そう考えると胸が高鳴る一方で、今の響きを本番でも保てるのか、急に不安になった。
コンクールの優勝特典でプロオケと共演した時、私はブラームスのヴァイオリン協奏曲を選び、この指揮台の脇に立った。
あの時、後ろにいたのはプロオケの人たちだった。今日は自分の隣に樹が座り、その向こうにはセカンドの奈緒と中村範子がいる。後ろのプルトには、三年間一緒に練習してきた仲間や、入ったばかりの後輩が並んでいた。
私は椅子に座り直した。
潤もチェロの席へ戻っていった。
あの時とは違う。自分の入りが曖昧になれば、隣の樹や後ろの後輩にも影響する。そう思うと指先が少し強張ったが、それ以上に、みんなとこの舞台を作れることが嬉しかった。
片桐先生が舞台へ出てくると、あちこちで鳴っていた音が、波が引くように止まった。
「お疲れさまです」
先生は譜面を置き、客席を一度振り返った。
「今日は本番どおりに通します。気になったところは、あとで戻りましょう」
鉛筆を持っていた人たちが、それぞれ譜面台へ置いた。
先生が私を見た。
「では、お願いします」
立ち上がり、理沙へ顔を向けた。
オーボエのAが、静かな空間へ細い線を引くように伸びた。音は舞台の上を滑り、客席の奥へ吸い込まれていく。私はその響きが落ち着くのを待ってから、開放弦へ弓を置いた。
周囲の弦が重なってくる。音の中心に耳を澄ますと、ホールの壁から返ってくる響きが、わずかに遅れて背中へ触れた。うなりを聴き、ペグをわずかに動かした。いつもの大練習室より空間が深く、音は近くで鳴っているのに、輪郭だけが遠くへほどけていく。
最後にもう一度Aを弾いて、弓を下ろした。
音程は合っている。けれど、本番で客席が埋まったら、この響きはどう変わるのだろう。考え始めると、弓を持つ手に余計な力が入りそうになった。私は一度だけ深く息を吸い、椅子へ戻った。
隣で樹が譜面の最初を開いた。
私も《牧神の午後への前奏曲》のページへ目を落とし、最初の休みを確かめた。
先生の指揮棒が上がった。
遥がフルートを構えた。
横顔の頬が、わずかに動く。
最初の音が聞こえた時、私は譜面から目を上げた。
何度も聴いてきた旋律だった。
けれど、その音がホールへ伸びていくのを聴いていると、次にどこへ進むのか、知っているはずなのに待ってしまった。音は舞台の上で細く揺れながら、客席の奥へ向かってほどけていく。下りていく音の端にも、戻ってくる息にも、急ぐところがない。
細い音なのに、空間全体を薄い光のように満たしていた。遠くへ行くほど消えるのではなく、壁に触れて静かに広がり、こちらへ戻ってくる。
明日の客席にも、この音は届くのだろうか。今日のように、聴く人の身体を一瞬止めることができるだろうか。期待が膨らむほど、もし届かなかったらという不安も、同じ場所から顔を出した。
右腕に鳥肌が立った。
私は弓を持った手を動かさず、遥を見ていた。音が耳から首筋へ流れ込み、肩のあたりで冷たくほどけていく。隣の樹も顔を上げている。
先生の左手が、次に入る奏者へ向いた。
休みを数えていたはずなのに、一瞬、聴くほうへ気持ちが傾きすぎた。
私は譜面へ目を戻した。自分の入るところを確かめ、弓を弦へ近づける。
あの音のあとへ、自分たちも入る。
ここで迷ってはいけない。明日も同じように、聴きながら、遅れずに入らなければならない。
弦が重なった時、遥の音が消えないように、右手の重さを聴き直した。弓の毛が弦を擦る感触を指先で確かめ、音の表面を薄くなぞる。
樹の弓が隣で動く。後ろのプルトからも同じ息遣いが伝わってきた。先生は大きく振らず、音が続いていく先を示していた。
自分たちの音の中から、またフルートが聞こえる。弦の響きに埋もれず、遠くの空気を震わせるように浮かび上がってくる。
私はその旋律を聴きながら、弓を返した。
今はできている。けれど、本番の緊張の中でも同じようにできるのか。そう思うと、胸の奥がわずかに狭くなった。それでも、隣の弓の動きと先生の手を見ているうちに、不安は音の流れへ押し戻されていった。
最後の響きが薄くなっても、先生の手は下りなかった。
音は消えたはずなのに、ホールの奥でまだかすかに揺れている。私は弓を止めたまま、客席の奥を見た。
やがて先生が腕を下ろすと、舞台のどこかで、深く息を吐く音がした。張りつめていた空気が、その吐息とともにゆっくり沈んだ。
この音を明日、客席にいる人たちと分かち合えたらいい。そう思うと、怖さよりも先に、もう一度この響きの中へ入りたいという気持ちが湧いた。
遥はフルートを膝へ下ろしていた。
先生は彼女へうなずき、それから譜面をめくった。
「では、《レ・プレリュード》へ」
セカンドの席から奈緒が私を見た。
声は出さず、腕をさする仕草をした。
私は小さくうなずいた。まだ、そこに鳥肌が残っていた。




