夜明けの約束、そして魔女の宴(1)
目を覚ますと、カーテンの端が白く光っていた。
昨夜、少しだけ残してもらった灯りよりも明るい。天井の模様も、壁際に寄せたテーブルも、眠る前と同じ場所にあった。冷蔵庫の低い音に混じって、どこかで食器の触れ合う音がした。
私は布団の中で、隣へ手を伸ばした。
指先に触れたのは、掛け布団だった。顔を向けると、潤の枕は空いている。布団は半分だけめくられ、その上に朝の光が落ちていた。
起き上がると、折ってもらった袖口が片方だけ戻っていた。
指先を隠す袖をまくり、膝の上へ置く。昨夜、そこへ触れた潤の手を思い出した時、台所から彼が顔を出した。
「起きた?」
私はうなずいた。
「おはよう」
「おはよう。もう少し寝ててもよかったのに」
「……何時?」
「七時半、少し前」
枕元のスマートフォンを取った。画面の日付は、十一月一日になっていた。
母へ、おはよう、よく眠れた、と送る。それから、朝ごはんをいただいて帰ることを付け足した。
文字を打ちながら、台所のほうを見た。潤はフライパンへ目を落とし、何かを箸で寄せていた。昨夜とは違う服の袖を、肘の下までまくっている。
「顔、洗っておいで。タオル、出してある」
「うん」
廊下へ出ると、洗面所の扉が開いていた。
鏡に映った髪の片側が、少し跳ねている。指で押さえても戻らず、私は水で濡らした。
潤は、もうこれを見たのだろう。
そう思ってから、昨日の私を思い出した。濡れた髪も、泣きそうな顔も見られている。それなのに、朝の寝癖のほうが気になった。
冷たい水で顔を洗い、置いてくれたタオルを使った。
戻ると、潤がテーブルを元の位置へ動かしていた。畳まれた布団が、ソファの前に重なっている。
「手伝う」
「じゃあ、これ」
渡された皿には、スクランブルエッグと、軽く焼いたソーセージが載っていた。台所からトースターの音がして、潤が振り返る。
私は皿を二枚、向かい合わせに置いた。
昨夜、ココアを飲んだマグカップも並んだ。今日は湯気の向こうに、カーテン越しの光が見える。
「ちゃんと朝ごはんだ」
私が言うと、潤はパンの載った皿を置きながら、少し眉を上げた。
「何だと思ってた?」
「ううん。作ってくれるって言ったから」
「言っただろ」
「覚えてる」
潤が笑った。
私は椅子へ座った。借りた服の裾が、膝まで下りてくる。自分の家ではないところで、こんな格好のまま朝ごはんを待っていることが、急に落ち着かなくなった。
けれど、潤が向かいへ座ると、そのままでいいようにも思えた。
「いただきます」
二人の声が重なった。
卵をひと口食べる。まだ温かく、思っていたより柔らかかった。
「おいしい」
「よかった」
「いつも作るの?」
「朝は、このくらい。時間ない時はパンだけ」
「私も」
パンの端をちぎると、小さな音がした。昨日の夜には、食べ物の味まで考える余裕がなかった。今は、焼けたところの香ばしさが分かる。
潤が私の皿を見てから、自分のパンを取った。
「眠れた?」
「うん。潤は?」
「俺も」
それから彼は、マグカップへ手を伸ばした。
「途中、一回起きたけど」
「起こしてくれればよかったのに」
「寝てたから」
私は彼を見た。
潤はカップを持ち上げず、取っ手へ指を掛けたままでいた。
「手、つないだままだった?」
「うん」
「……そっか」
いつ離したのか、私は覚えていなかった。
彼の手が届く場所に自分の手を置いたまま、朝まで眠っていた。そのことを向かい合って聞くと、昨夜よりも恥ずかしかった。
*
朝ごはんのあと、私は皿を流しへ運んだ。
「洗うよ」
「いいって」
「作ってもらったから」
潤は少し考え、私の隣へ来た。
「じゃあ、俺、拭く」
水を出すと、昨夜使ったカップの底に残っていたココアが薄く流れた。スポンジで洗い、すすいで渡す。潤は布巾で包み、食器棚へ戻した。
皿を洗う間、彼の腕が何度か私の袖に触れた。どちらも、場所を空けようとはしなかった。
最後の皿を渡して、水を止めた。
急に静かになる。潤が食器棚を閉め、布巾を掛けた。
「帰る時間、調べる?」
私はリビングのテーブルを見た。スマートフォンは、そこへ置いたままだった。
「……あとで」
潤は何も言わず、私へ顔を向けた。
帰りたくない。
昨夜も、同じことを言った。
けれど、窓の外は明るかった。道路を走る車の音がする。顔を洗って、温かい朝ごはんを食べて、家へ連絡もした。帰ろうと思えば、帰れた。
それでも私は、隣にいる彼から離れたくなかった。
「昨日は、ありがとう」
「うん」
「泊めてもらって。朝ごはんも」
「そんなの、いいよ」
そこで話を終えれば、いつもの私たちに戻れそうだった。
また練習で会って、譜面を開いて、気になるところを言い合う。帰り道で昨夜の話になっても、怖かったね、と言えば済むのかもしれない。
私は濡れた手をタオルで拭いた。もう乾いているのに、指の間までゆっくり拭いた。
「私、また来たい」
潤の視線が、手元から上がった。
「ここに?」
「うん」
「来ればいいだろ」
いつもの言い方だった。
それで少しだけ、続ける勇気が出た。
「昨日みたいなことがなくても」
潤は黙った。
私はタオルを掛け直した。端が斜めになって、直そうと手を伸ばしたところで、彼が私の名前を呼んだ。
「未央」
振り向くと、潤がまっすぐこちらを見ていた。
「俺も、来てほしい」
胸の奥が、遅れて強く鳴った。
昨夜、布団の隣で聞いた声を思い出す。けれど今は、目を閉じずに聞けた。
「昨日だけじゃなくて?」
「昨日だけじゃない」
彼は一度、唇を結んだ。それから、小さく息を吸った。
「ずっと、一緒にいたかった」
私は潤の顔を見ていた。
返事をしようとしたのに、喉の奥で言葉がほどけた。指先だけが、行き場をなくして冷えていく。
潤のほうが先に、少し困ったように笑った。
「そういう意味で」
その声が、静かな部屋の中でやけに近く聞こえた。
「……分かってる」
「本当に?」
私はうなずいた。うなずいたはずなのに、首が小さく震えた。
「今は、分かってる」
答えると、笑いかけていた彼の顔が真剣になった。
「好きだよ、未央」
台所の時計が、一つ音を立てた。
その音のあとに残った沈黙が、長く感じられた。潤は返事を待っていた。譜面について話す時のように、先へ言葉を重ねずに。
私は彼の手を見た。昨日、弓を持っていた手。階段で私をつかみ、眠るまで離さなかった手が、今は身体の横に下りていた。
手のひらが熱くなる。
私は一歩だけ近づき、その指へ自分から触れた。
「私も、潤が好き」
声にした途端、胸の奥が大きく揺れた。
顔が熱い。耳のあたりまで熱が広がっていく。それでも、目を逸らしたくなかった。
潤の指が動き、私の手を握った。強くはないのに、逃げられないほど確かだった。
彼は何か言おうとして、言わずにうつむいた。
「潤?」
「……うん」
それだけで、息が少し戻った。
しばらくして顔を上げた時、目元が緩んでいた。
練習のあとに見たことのある笑顔だった。けれど、今日は私も、それを見て笑ってよかった。
「言うの、遅くなった」
潤が言った。
「私も」
「未央は、今気づいたんじゃないの」
私は少し考えた。
披露宴で、潤が笑うのを待っていたこと。彼のチェロを近くで聴きたいと、自分から誘ったこと。キルシェの帰りに、手が触れる場所を歩いたこと。
思い出すたび、胸の奥がまた熱くなった。
「……もっと前からだと思う」
「思う?」
「まだ、全部うまく言えない」
潤はうなずいた。
「いいよ」
その言い方に、私は首を振った。
「でも、好きなのは、ちゃんと言える」
握った指に力を込めた。
「潤と一緒にいたい」
言葉にしたあと、今度は沈黙が怖くなかった。
彼の空いている手が、私の背中へ回った。
少し近づいただけで、借りた服の袖が彼の胸に触れた。
布越しの体温が伝わる。昨夜、肩に寄りかかった時よりも、心臓が速かった。
私はつないだ手を二人の間に残したまま、彼の肩へ額を寄せた。
潤の腕にも、そっと力が入った。
その力に包まれていると、さっきまで身体の内側にあった緊張が、ゆっくりほどけていった。
廊下の向こうで、スマートフォンが短く鳴った。
「お母さんかな」
潤が言った。
「たぶん」
「見なくていい?」
「……もう少ししたら」
彼が小さく笑った。その振動が、額の触れているところへ伝わった。
あとで顔を上げたら、母へ返事をしよう。
布団をしまうのも手伝って、借りた服を着替えて、忘れ物がないか確かめる。今日も大学へ行かなければならない。
けれど、次にここへ来る時の理由を、もう探さなくてよかった。
「また、朝ごはん食べに来てもいい?」
顔を上げて聞くと、潤は私を見て笑った。
「朝ごはんだけ?」
「……それは」
言葉に詰まる私を見て、彼はつないだ手を少し持ち上げた。
「一緒に食べよう。また」
私はうなずいた。
カーテンの向こうで、車が通り過ぎていった。
雨は、もうやんでいた。
その雨上がりの朝に、私たちは初めて、これからを約束した。
また会うための理由は、もういらない。
ただ、また一緒にいたいと、二人とも知っていた。
*
十一月に入っても、水曜と土曜の練習は続いた。
大練習室の窓に映る自分たちの姿は、来るたびに少しずつ厚着になっていく。入口に近い椅子へコートが重なり、休憩になると、温かい飲み物を買いに行く人が増えた。
潤は、いつものチェロの席にいた。
私は譜面を開く前に、まずそちらを見た。彼もこちらを見ていることがあり、目が合うと、どちらからともなく視線を譜面へ戻した。けれど、しばらくすると、また気配を探してしまう。
弓の毛を張りながら顔を上げると、潤がこちらを見ていた。今度は彼のほうが先に目を逸らし、私は遅れて譜面へ目を戻した。
隣で樹がケースの蓋を閉めた時、私は何でもないふりをして鉛筆を取り上げた。
音を出し始めれば、やることは変わらなかった。
弓順を確かめ、後ろのプルトへ変更を伝え、管楽器と重なるところでは自分たちの音量を聴き直す。前にできたことが、今日はうまくいかない。ようやく揃ったと思うと、今度は別のところが気になった。
潤とも、意見が違うことはあった。
「そこ、もう少し前へ行けない?」
先生が来る前の合わせで、彼が言った。
「行けるけど、後ろがついてこられる速さで」
「速くするんじゃなくて、音が出る前から」
「じゃあ、もう一回。今の振り方だと、急ぐように見えた」
潤は一度うなずき、指揮棒を上げ直した。
私は後ろを振り返った。
「テンポは変えないで。弓を置いて、待ちすぎないように」
奈緒がうなずき、その後ろへも声が伝わっていく。
弾き直すと、同じ速さのまま、音の出るところが揃った。潤の左手が開き、私たちの音をその先へ運んだ。
「今の」
彼が言った。
「うん。分かった」
私は譜面の余白へ短く書き込んだ。
顔を上げると、潤はもう管楽器のほうを向いていた。私も鉛筆を置き、次のところへ弓を構えた。
その後も、音が途切れるたびに、彼の視線がこちらへ向くのが分かった。私がうなずくと、潤はそれを合図にするように、次の小節へ進んだ。
休憩になると、潤は少し離れたところで私が譜面を閉じるのを待っていた。
目が合うと、彼が顎で廊下を示した。
「何か飲む?」
「一緒に行く」
並んで歩き出す。最初は肩が触れないくらいの距離だったが、廊下の狭いところで人を避けるうちに、自然と歩幅が揃った。
自販機の前で潤が立ち止まり、私の手元を見る。
「冷たいの?」
「今日は温かいのにする」
ボタンを押して取り出した缶を、両手で包んだ。潤は自分の飲み物を取り、私の隣で壁に寄りかかった。
少し間を置いて、彼の肩が触れた。
私は離れずにいた。潤も、触れた肩を引かなかった。
「あと、少しだね」
「うん」
廊下の向こうで、誰かが《幻想》の一節をさらい始めた。途中で止まり、同じ音からもう一度。
私は缶へ目を落とした。
「本番、終わってほしくない気もする」
潤は少し黙ってから言った。
「でも、弾きたいだろ」
「弾きたい」
「俺も」
返事をして、二人で笑った。
笑い声が落ち着くと、潤の手が壁と私の間に下りてきた。触れそうで触れない距離にある指先を見ていると、彼がこちらを見た。
私は缶を持ち替え、空いた手を少しだけ彼のほうへ寄せた。潤の指が、確かめるように私の指へ触れた。
練習が終わると、潤がチェロをしまうのを待った。私のほうが遅い日は、彼が戸口で待っていた。
以前は並んで歩くだけだった門までの道を、その日は潤が少しだけ先に進み、門の手前で立ち止まった。
「今日は、こっち」
彼が空いている手を差し出した。
私は一瞬だけその手を見てから、指を重ねた。
門を出てから、手をつないだまま歩く。
初めの何度かは、近くを通る人が気になった。けれど、潤の手は思っていたより自然に私の手を包み、私が指を絡めると、彼も同じように握り直した。
横顔を見ると、潤は前を向いたまま、少し笑っていた。
帰り道で話すことは、今日の練習や、大学のことだった。
夕飯は何にするのか。提出するものが終わらない。先生に言われたところを、次はどう弾くか。
話が途切れると、つないだ手の温度だけがはっきりした。潤が歩く速さを少し緩め、私もそれに合わせる。
手は、もう離さなかった。
*
演奏会が近づいたある夜、鍵を返しに事務室へ行くと、窓口の向こうに、見覚えのある顔があった。
「あ」
声を出した私を見て、おじさんが眼鏡の奥で笑った。
「お疲れさま。今日は早いね」
私は時計を見た。九時を少し回ったところだった。
潤も隣で足を止めた。
「もう、戻られたんですね」
「昨日から。ずいぶん休んじゃった」
「お身体、大丈夫ですか」
「大丈夫。寝てばっかりだったから、階段がきついけどね」
おじさんは椅子から腰を浮かせ、私の差し出した鍵を受け取った。鍵の札を裏返して確かめ、壁のフックへ掛ける。
その手つきも、机の端に置かれた湯飲みも、前と同じだった。
「もうすぐ演奏会だろう」
「はい」
「ポスター、見たよ」
窓口の脇に、私たちの演奏会のポスターが貼ってあった。ほかの掲示物に隠れないよう、上の角が留め直されている。
奈緒によると、春定の時と同じ人にデザインを頼んだのだという。《幻想》の第三楽章を思わせる図案が、私はかなり好きだった。学部の友達にも、ポスターを見て興味を持ってくれた人がいて、チケットのノルマは思いのほか早く達成できた。
「たくさん来てくれるといいね」
「ありがとうございます」
潤が答えた。
私は事務室の奥へ目を向けた。濃紺の上着は、今日は椅子の背に掛かっていた。
「あの」
おじさんがこちらを見る。
「お休みになる前、地下を見てくださったこと、覚えてますか」
「地下?」
「日曜の練習のあとに。音がするって、お話しして」
おじさんは少し首を傾けた。
「そんなこと、あったかな」
私は潤を見た。
彼は何も言わず、窓口へ目を向けていた。
「戸締まりの時に、確かめてくださるって」
「そうか。ごめんね、覚えてないな。熱が出る前から、ぼんやりしてたのかもしれない」
おじさんは眉を寄せ、それから私たちの顔を順に見た。
「何か、困ったことがあった?」
私は窓口の縁へ置きかけた手を下ろした。
話そうとすると、何から言えばいいのか分からなくなった。止まった時計も、廊下の向こうから聞こえた声も、この明るい窓口の前では、うまく言葉にならなかった。
「今は、大丈夫です」
潤が言った。
おじさんは、すぐにはうなずかなかった。
「そう。何かあったら、言ってね」
「はい」
私は答えた。
その声を聞くと、戻ってきてくれてよかったと、改めて思った。
玄関へ向かう途中、地下階段の前を通った。
下の灯りは消えていた。壁には次の公演の準備を知らせる紙が貼られていた。
「気をつけて帰ってね」
窓口から声がした。
振り返ると、おじさんがこちらへ手を上げていた。
「おやすみなさい」
二人で挨拶をして、玄関の扉を開けた。
冷たい風が頬へ当たった。
門へ向かう石畳には、落ち葉が寄っている。前を歩く仲間たちの話し声が聞こえた。
私は潤の手に触れた。
彼が握り返してから、こちらを見た。
「覚えてなかったね」
「うん」
潤はそれ以上、何も言わなかった。
私も、聞き直さなかった。
門の前で一度だけ振り返ると、玄関の窓に事務室の灯りが映っていた。
あの窓口に、またおじさんがいる。
潤の手が、少し強く私の手を握った。
私はその手を握り返し、彼と並んで歩き出した。




