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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第五章 夜明けの約束、そして魔女の宴
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夜明けの約束、そして魔女の宴(1)

 目を覚ますと、カーテンの端が白く光っていた。

 昨夜、少しだけ残してもらった灯りよりも明るい。天井の模様も、壁際に寄せたテーブルも、眠る前と同じ場所にあった。冷蔵庫の低い音に混じって、どこかで食器の触れ合う音がした。

 私は布団の中で、隣へ手を伸ばした。

 指先に触れたのは、掛け布団だった。顔を向けると、潤の枕は空いている。布団は半分だけめくられ、その上に朝の光が落ちていた。


 起き上がると、折ってもらった袖口が片方だけ戻っていた。

 指先を隠す袖をまくり、膝の上へ置く。昨夜、そこへ触れた潤の手を思い出した時、台所から彼が顔を出した。

「起きた?」

 私はうなずいた。

「おはよう」

「おはよう。もう少し寝ててもよかったのに」

「……何時?」

「七時半、少し前」

 枕元のスマートフォンを取った。画面の日付は、十一月一日になっていた。

 母へ、おはよう、よく眠れた、と送る。それから、朝ごはんをいただいて帰ることを付け足した。

 文字を打ちながら、台所のほうを見た。潤はフライパンへ目を落とし、何かを箸で寄せていた。昨夜とは違う服の袖を、肘の下までまくっている。

「顔、洗っておいで。タオル、出してある」

「うん」


 廊下へ出ると、洗面所の扉が開いていた。

 鏡に映った髪の片側が、少し跳ねている。指で押さえても戻らず、私は水で濡らした。

 潤は、もうこれを見たのだろう。

 そう思ってから、昨日の私を思い出した。濡れた髪も、泣きそうな顔も見られている。それなのに、朝の寝癖のほうが気になった。

 冷たい水で顔を洗い、置いてくれたタオルを使った。


 戻ると、潤がテーブルを元の位置へ動かしていた。畳まれた布団が、ソファの前に重なっている。

「手伝う」

「じゃあ、これ」

 渡された皿には、スクランブルエッグと、軽く焼いたソーセージが載っていた。台所からトースターの音がして、潤が振り返る。

 私は皿を二枚、向かい合わせに置いた。

 昨夜、ココアを飲んだマグカップも並んだ。今日は湯気の向こうに、カーテン越しの光が見える。


「ちゃんと朝ごはんだ」

 私が言うと、潤はパンの載った皿を置きながら、少し眉を上げた。

「何だと思ってた?」

「ううん。作ってくれるって言ったから」

「言っただろ」

「覚えてる」

 潤が笑った。

 私は椅子へ座った。借りた服の裾が、膝まで下りてくる。自分の家ではないところで、こんな格好のまま朝ごはんを待っていることが、急に落ち着かなくなった。

 けれど、潤が向かいへ座ると、そのままでいいようにも思えた。


「いただきます」

 二人の声が重なった。

 卵をひと口食べる。まだ温かく、思っていたより柔らかかった。

「おいしい」

「よかった」

「いつも作るの?」

「朝は、このくらい。時間ない時はパンだけ」

「私も」

 パンの端をちぎると、小さな音がした。昨日の夜には、食べ物の味まで考える余裕がなかった。今は、焼けたところの香ばしさが分かる。

 潤が私の皿を見てから、自分のパンを取った。


「眠れた?」

「うん。潤は?」

「俺も」

 それから彼は、マグカップへ手を伸ばした。

「途中、一回起きたけど」

「起こしてくれればよかったのに」

「寝てたから」

 私は彼を見た。

 潤はカップを持ち上げず、取っ手へ指を掛けたままでいた。

「手、つないだままだった?」

「うん」

「……そっか」

 いつ離したのか、私は覚えていなかった。

 彼の手が届く場所に自分の手を置いたまま、朝まで眠っていた。そのことを向かい合って聞くと、昨夜よりも恥ずかしかった。


      *


 朝ごはんのあと、私は皿を流しへ運んだ。

「洗うよ」

「いいって」

「作ってもらったから」

 潤は少し考え、私の隣へ来た。

「じゃあ、俺、拭く」

 水を出すと、昨夜使ったカップの底に残っていたココアが薄く流れた。スポンジで洗い、すすいで渡す。潤は布巾で包み、食器棚へ戻した。

 皿を洗う間、彼の腕が何度か私の袖に触れた。どちらも、場所を空けようとはしなかった。


 最後の皿を渡して、水を止めた。

 急に静かになる。潤が食器棚を閉め、布巾を掛けた。

「帰る時間、調べる?」

 私はリビングのテーブルを見た。スマートフォンは、そこへ置いたままだった。

「……あとで」

 潤は何も言わず、私へ顔を向けた。


 帰りたくない。

 昨夜も、同じことを言った。

 けれど、窓の外は明るかった。道路を走る車の音がする。顔を洗って、温かい朝ごはんを食べて、家へ連絡もした。帰ろうと思えば、帰れた。

 それでも私は、隣にいる彼から離れたくなかった。


「昨日は、ありがとう」

「うん」

「泊めてもらって。朝ごはんも」

「そんなの、いいよ」

 そこで話を終えれば、いつもの私たちに戻れそうだった。

 また練習で会って、譜面を開いて、気になるところを言い合う。帰り道で昨夜の話になっても、怖かったね、と言えば済むのかもしれない。

 私は濡れた手をタオルで拭いた。もう乾いているのに、指の間までゆっくり拭いた。


「私、また来たい」

 潤の視線が、手元から上がった。

「ここに?」

「うん」

「来ればいいだろ」

 いつもの言い方だった。

 それで少しだけ、続ける勇気が出た。

「昨日みたいなことがなくても」

 潤は黙った。

 私はタオルを掛け直した。端が斜めになって、直そうと手を伸ばしたところで、彼が私の名前を呼んだ。


「未央」

 振り向くと、潤がまっすぐこちらを見ていた。

「俺も、来てほしい」

 胸の奥が、遅れて強く鳴った。

 昨夜、布団の隣で聞いた声を思い出す。けれど今は、目を閉じずに聞けた。

「昨日だけじゃなくて?」

「昨日だけじゃない」

 彼は一度、唇を結んだ。それから、小さく息を吸った。

「ずっと、一緒にいたかった」


 私は潤の顔を見ていた。

 返事をしようとしたのに、喉の奥で言葉がほどけた。指先だけが、行き場をなくして冷えていく。

 潤のほうが先に、少し困ったように笑った。

「そういう意味で」

 その声が、静かな部屋の中でやけに近く聞こえた。

「……分かってる」

「本当に?」

 私はうなずいた。うなずいたはずなのに、首が小さく震えた。

「今は、分かってる」

 答えると、笑いかけていた彼の顔が真剣になった。


「好きだよ、未央」


 台所の時計が、一つ音を立てた。

 その音のあとに残った沈黙が、長く感じられた。潤は返事を待っていた。譜面について話す時のように、先へ言葉を重ねずに。

 私は彼の手を見た。昨日、弓を持っていた手。階段で私をつかみ、眠るまで離さなかった手が、今は身体の横に下りていた。

 手のひらが熱くなる。

 私は一歩だけ近づき、その指へ自分から触れた。


「私も、潤が好き」


 声にした途端、胸の奥が大きく揺れた。

 顔が熱い。耳のあたりまで熱が広がっていく。それでも、目を逸らしたくなかった。

 潤の指が動き、私の手を握った。強くはないのに、逃げられないほど確かだった。

 彼は何か言おうとして、言わずにうつむいた。


「潤?」

「……うん」


 それだけで、息が少し戻った。

 しばらくして顔を上げた時、目元が緩んでいた。

 練習のあとに見たことのある笑顔だった。けれど、今日は私も、それを見て笑ってよかった。


「言うの、遅くなった」

 潤が言った。

「私も」

「未央は、今気づいたんじゃないの」

 私は少し考えた。

 披露宴で、潤が笑うのを待っていたこと。彼のチェロを近くで聴きたいと、自分から誘ったこと。キルシェの帰りに、手が触れる場所を歩いたこと。

 思い出すたび、胸の奥がまた熱くなった。

「……もっと前からだと思う」

「思う?」

「まだ、全部うまく言えない」

 潤はうなずいた。

「いいよ」

 その言い方に、私は首を振った。

「でも、好きなのは、ちゃんと言える」

 握った指に力を込めた。

「潤と一緒にいたい」

 言葉にしたあと、今度は沈黙が怖くなかった。

 彼の空いている手が、私の背中へ回った。


 少し近づいただけで、借りた服の袖が彼の胸に触れた。

 布越しの体温が伝わる。昨夜、肩に寄りかかった時よりも、心臓が速かった。

 私はつないだ手を二人の間に残したまま、彼の肩へ額を寄せた。

 潤の腕にも、そっと力が入った。

 その力に包まれていると、さっきまで身体の内側にあった緊張が、ゆっくりほどけていった。

 廊下の向こうで、スマートフォンが短く鳴った。


「お母さんかな」

 潤が言った。

「たぶん」

「見なくていい?」

「……もう少ししたら」

 彼が小さく笑った。その振動が、額の触れているところへ伝わった。


 あとで顔を上げたら、母へ返事をしよう。

 布団をしまうのも手伝って、借りた服を着替えて、忘れ物がないか確かめる。今日も大学へ行かなければならない。

 けれど、次にここへ来る時の理由を、もう探さなくてよかった。


「また、朝ごはん食べに来てもいい?」

 顔を上げて聞くと、潤は私を見て笑った。

「朝ごはんだけ?」

「……それは」

 言葉に詰まる私を見て、彼はつないだ手を少し持ち上げた。

「一緒に食べよう。また」

 私はうなずいた。


 カーテンの向こうで、車が通り過ぎていった。

 雨は、もうやんでいた。

 その雨上がりの朝に、私たちは初めて、これからを約束した。

 また会うための理由は、もういらない。

 ただ、また一緒にいたいと、二人とも知っていた。


      *


 十一月に入っても、水曜と土曜の練習は続いた。

 大練習室の窓に映る自分たちの姿は、来るたびに少しずつ厚着になっていく。入口に近い椅子へコートが重なり、休憩になると、温かい飲み物を買いに行く人が増えた。


 潤は、いつものチェロの席にいた。

 私は譜面を開く前に、まずそちらを見た。彼もこちらを見ていることがあり、目が合うと、どちらからともなく視線を譜面へ戻した。けれど、しばらくすると、また気配を探してしまう。

 弓の毛を張りながら顔を上げると、潤がこちらを見ていた。今度は彼のほうが先に目を逸らし、私は遅れて譜面へ目を戻した。

 隣で樹がケースの蓋を閉めた時、私は何でもないふりをして鉛筆を取り上げた。


 音を出し始めれば、やることは変わらなかった。

 弓順を確かめ、後ろのプルトへ変更を伝え、管楽器と重なるところでは自分たちの音量を聴き直す。前にできたことが、今日はうまくいかない。ようやく揃ったと思うと、今度は別のところが気になった。

 潤とも、意見が違うことはあった。


「そこ、もう少し前へ行けない?」

 先生が来る前の合わせで、彼が言った。

「行けるけど、後ろがついてこられる速さで」

「速くするんじゃなくて、音が出る前から」

「じゃあ、もう一回。今の振り方だと、急ぐように見えた」

 潤は一度うなずき、指揮棒を上げ直した。

 私は後ろを振り返った。

「テンポは変えないで。弓を置いて、待ちすぎないように」

 奈緒がうなずき、その後ろへも声が伝わっていく。

 弾き直すと、同じ速さのまま、音の出るところが揃った。潤の左手が開き、私たちの音をその先へ運んだ。


「今の」

 彼が言った。

「うん。分かった」

 私は譜面の余白へ短く書き込んだ。

 顔を上げると、潤はもう管楽器のほうを向いていた。私も鉛筆を置き、次のところへ弓を構えた。

 その後も、音が途切れるたびに、彼の視線がこちらへ向くのが分かった。私がうなずくと、潤はそれを合図にするように、次の小節へ進んだ。


 休憩になると、潤は少し離れたところで私が譜面を閉じるのを待っていた。

 目が合うと、彼が顎で廊下を示した。

「何か飲む?」

「一緒に行く」

 並んで歩き出す。最初は肩が触れないくらいの距離だったが、廊下の狭いところで人を避けるうちに、自然と歩幅が揃った。

 自販機の前で潤が立ち止まり、私の手元を見る。

「冷たいの?」

「今日は温かいのにする」

 ボタンを押して取り出した缶を、両手で包んだ。潤は自分の飲み物を取り、私の隣で壁に寄りかかった。

 少し間を置いて、彼の肩が触れた。

 私は離れずにいた。潤も、触れた肩を引かなかった。


「あと、少しだね」

「うん」

 廊下の向こうで、誰かが《幻想》の一節をさらい始めた。途中で止まり、同じ音からもう一度。

 私は缶へ目を落とした。

「本番、終わってほしくない気もする」

 潤は少し黙ってから言った。

「でも、弾きたいだろ」

「弾きたい」

「俺も」

 返事をして、二人で笑った。

 笑い声が落ち着くと、潤の手が壁と私の間に下りてきた。触れそうで触れない距離にある指先を見ていると、彼がこちらを見た。

 私は缶を持ち替え、空いた手を少しだけ彼のほうへ寄せた。潤の指が、確かめるように私の指へ触れた。


 練習が終わると、潤がチェロをしまうのを待った。私のほうが遅い日は、彼が戸口で待っていた。

 以前は並んで歩くだけだった門までの道を、その日は潤が少しだけ先に進み、門の手前で立ち止まった。

「今日は、こっち」

 彼が空いている手を差し出した。

 私は一瞬だけその手を見てから、指を重ねた。

 門を出てから、手をつないだまま歩く。

 初めの何度かは、近くを通る人が気になった。けれど、潤の手は思っていたより自然に私の手を包み、私が指を絡めると、彼も同じように握り直した。

 横顔を見ると、潤は前を向いたまま、少し笑っていた。


 帰り道で話すことは、今日の練習や、大学のことだった。

 夕飯は何にするのか。提出するものが終わらない。先生に言われたところを、次はどう弾くか。

 話が途切れると、つないだ手の温度だけがはっきりした。潤が歩く速さを少し緩め、私もそれに合わせる。

 手は、もう離さなかった。


      *


 演奏会が近づいたある夜、鍵を返しに事務室へ行くと、窓口の向こうに、見覚えのある顔があった。

「あ」

 声を出した私を見て、おじさんが眼鏡の奥で笑った。

「お疲れさま。今日は早いね」

 私は時計を見た。九時を少し回ったところだった。

 潤も隣で足を止めた。


「もう、戻られたんですね」

「昨日から。ずいぶん休んじゃった」

「お身体、大丈夫ですか」

「大丈夫。寝てばっかりだったから、階段がきついけどね」

 おじさんは椅子から腰を浮かせ、私の差し出した鍵を受け取った。鍵の札を裏返して確かめ、壁のフックへ掛ける。

 その手つきも、机の端に置かれた湯飲みも、前と同じだった。


「もうすぐ演奏会だろう」

「はい」

「ポスター、見たよ」

 窓口の脇に、私たちの演奏会のポスターが貼ってあった。ほかの掲示物に隠れないよう、上の角が留め直されている。

 奈緒によると、春定の時と同じ人にデザインを頼んだのだという。《幻想》の第三楽章を思わせる図案が、私はかなり好きだった。学部の友達にも、ポスターを見て興味を持ってくれた人がいて、チケットのノルマは思いのほか早く達成できた。

「たくさん来てくれるといいね」

「ありがとうございます」

 潤が答えた。

 私は事務室の奥へ目を向けた。濃紺の上着は、今日は椅子の背に掛かっていた。


「あの」

 おじさんがこちらを見る。

「お休みになる前、地下を見てくださったこと、覚えてますか」

「地下?」

「日曜の練習のあとに。音がするって、お話しして」

 おじさんは少し首を傾けた。

「そんなこと、あったかな」

 私は潤を見た。

 彼は何も言わず、窓口へ目を向けていた。

「戸締まりの時に、確かめてくださるって」

「そうか。ごめんね、覚えてないな。熱が出る前から、ぼんやりしてたのかもしれない」

 おじさんは眉を寄せ、それから私たちの顔を順に見た。

「何か、困ったことがあった?」

 私は窓口の縁へ置きかけた手を下ろした。

 話そうとすると、何から言えばいいのか分からなくなった。止まった時計も、廊下の向こうから聞こえた声も、この明るい窓口の前では、うまく言葉にならなかった。


「今は、大丈夫です」

 潤が言った。

 おじさんは、すぐにはうなずかなかった。

「そう。何かあったら、言ってね」

「はい」

 私は答えた。

 その声を聞くと、戻ってきてくれてよかったと、改めて思った。


 玄関へ向かう途中、地下階段の前を通った。

 下の灯りは消えていた。壁には次の公演の準備を知らせる紙が貼られていた。


「気をつけて帰ってね」

 窓口から声がした。

 振り返ると、おじさんがこちらへ手を上げていた。

「おやすみなさい」

 二人で挨拶をして、玄関の扉を開けた。


 冷たい風が頬へ当たった。

 門へ向かう石畳には、落ち葉が寄っている。前を歩く仲間たちの話し声が聞こえた。

 私は潤の手に触れた。

 彼が握り返してから、こちらを見た。


「覚えてなかったね」

「うん」

 潤はそれ以上、何も言わなかった。

 私も、聞き直さなかった。


 門の前で一度だけ振り返ると、玄関の窓に事務室の灯りが映っていた。

 あの窓口に、またおじさんがいる。

 潤の手が、少し強く私の手を握った。

 私はその手を握り返し、彼と並んで歩き出した。


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