エピローグ
着替えてロビーへ出ると、堀江さんがお弟子さんと並んで待っていてくれた。
私たちに気づき、手を上げる。
「お疲れさま。いい演奏会だったね」
「ありがとうございます」
潤と一緒に頭を下げた。肩に掛けたケースが動き、腕に抱えた花束の薄紙がかさりと鳴った。
「最後まで聴くと、こっちもなかなか帰る気になれなくてね」
堀江さんが笑った。その隣で、お弟子さんも頷く。
「アンコール、皆さん楽しそうでした」
「もう、腕が上がらないんですけど」
私が言うと、潤が隣で笑った。
「弾いてる間は、そんなこと忘れてたな」
「でしょうね。見ていれば分かったよ」
その言葉が嬉しくて、私も笑った。
ロビーには、まだ何人ものお客さんが残っていた。奏者を見つけて手を振る人、プログラムを開いて話している人。少し離れたところでは、遥が誰かに声をかけられ、照れたように頭を下げていた。
堀江さんたちを見送ると、今度は演劇サークルの人たちがこちらへ来た。
「お疲れさまです。すごかったですね」
「来てくれてありがとう」
「こっちこそ。いつも会館で聞こえてくる音が、あんなふうになるんだなって」
そう言って、手に持ったプログラムを見せてくれた。表紙の角が、少し丸くなっている。
何人かと言葉を交わしたところで、私はふと思い出した。
「そういえば、あのとき白い手袋をしていた人は、今日は?」
「ああ、彼。バイトが忙しくなっちゃったみたいで、このところ顔を出してないんです。大学の方にも、あまり来てないらしくて」
「そうなんだ」
「それから、あの劇の脚本を書いた人も、大学を辞めたんですよ」
潤が顔を上げた。
「辞めた?」
「ええ。北海道の小樽にある劇団に入ることになったそうです。そこの文芸部で、書く仕事を本格的にやっていくんだって」
「小樽の劇団?」
「星燈座っていうんですけど。女性だけでシェイクスピアをやるところで」
「あ……名前、聞いたことあるかも」
どこで聞いたのだったか、すぐには思い出せなかった。隣の潤も、考えるように少し首を傾けている。
「今度、公演があったら教えて」
「はい。あの人にも、今日の演奏会のこと、伝えておきますね」
彼らは笑って、出口へ向かった。
ガラスの扉の向こうへ、その背中が遠ざかっていく。
あの劇をもう一度見たら、何か分かるのだろうかと思ったこともあった。けれど、書いた人も、演じた人も、私の知らないところで、それぞれの暮らしを始めている。
潤を見ると、彼も扉の方を見ていた。
やがて私に気づき、静かに頷く。
それ以上、何も尋ねなかった。
「打楽器の積み込み手伝える人、こっちお願いー!」
廊下の奥から声がした。
潤が振り返る。
「行ってくる」
「うん。私も荷物、置いてくるね」
今夜は、大きな楽器や打楽器をサ館へ戻す仕事が残っている。打ち上げは、その人たちも揃って参加できるよう、明日になっていた。
楽屋へ戻る途中、台車を押す沢村とすれ違った。
「お疲れ。明日な」
「明日ね」
台車の車輪が、廊下を転がっていく。
*
片付けを終えてホールを出ると、夜の空気が頬に冷たかった。
花束を抱え直す。潤はチェロのケースを背負い、私が歩き出すのを待っていた。
「寒い?」
「少し。でも、気持ちいい」
舞台の上にいたときの熱が、まだ身体の奥に残っていた。
駅へ向かう道を、二人で歩く。少し前には仲間たちがいて、信号に近づくたび、誰かが後ろを振り返っていた。
「潤」
「ん?」
「イデー・フィクスって、演奏が終わっても残るんだね」
潤がこちらを見た。
「まだ、頭の中で鳴ってる?」
「うん。……でも、曲だけじゃなくて」
花束のリボンが、歩くたびに揺れる。
「今日、潤がどんなふうに弾いてたかとか。帰ってからも、きっと何度も思い出すと思う」
「俺も」
返事はすぐだった。
「お前が弾いてるところ、何度も思い出すと思う」
「楽譜、見てたでしょう」
「見てたよ」
潤は笑った。
「それでも、分かるだろ」
私は頷いた。こちらを見ていなくても、潤の音が分かった。あの長い演奏の間、何度も。舞台の熱も、息を合わせた瞬間も、きっとこの先、ふとした拍子に蘇る。
「また一緒に弾きたいな」
口にすると、明日の練習を待つような気持ちが、胸の奥に灯った。
「今日、こんなに弾いたのにね」
「俺も、もう思ってる」
「それも、イデー・フィクス?」
「そうかもな」
潤が少し考え、それから私を見た。
「でも、弾いてないときも会いたい」
私は足元へ目を落とした。笑っているのを隠そうとしても、口元が緩んでしまう。
「……私も」
花束を左腕へ寄せる。
空いた右手に、潤の手が触れた。指を重ねると、そのまま握ってくれる。
「明日も会えるね」
「打ち上げでな」
「その前も、会いたい」
潤が笑った。
「じゃあ、少し早く行こうか」
「うん」
前を歩く仲間が、私たちを呼んだ。
顔を上げ、返事をする。信号はまだ青かった。
演奏会は終わった。けれど、音の熱は身体の中に残り、潤の手の温度は、つないだ指から静かに広がっていく。
また楽器を取り出し、いつもの場所で音を合わせる日が来る。うまくいかない日も、笑ってしまう日も、そこにはきっと潤もいる。
放課後になれば、私はまた彼を探すだろう。
楽器を持っている日も、持っていない日も。
つないだ手を揺らしながら、私たちはみんなの待つ角へ歩いていった。舞台の向こうに続く、いつもの明日へ。
Fin.




