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放課後のイデー・フィクス  作者: 佐伯 奏
第五章 夜明けの約束、そして魔女の宴
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エピローグ

 着替えてロビーへ出ると、堀江さんがお弟子さんと並んで待っていてくれた。


 私たちに気づき、手を上げる。


「お疲れさま。いい演奏会だったね」


「ありがとうございます」


 潤と一緒に頭を下げた。肩に掛けたケースが動き、腕に抱えた花束の薄紙がかさりと鳴った。


「最後まで聴くと、こっちもなかなか帰る気になれなくてね」


 堀江さんが笑った。その隣で、お弟子さんも頷く。


「アンコール、皆さん楽しそうでした」


「もう、腕が上がらないんですけど」


 私が言うと、潤が隣で笑った。


「弾いてる間は、そんなこと忘れてたな」


「でしょうね。見ていれば分かったよ」


 その言葉が嬉しくて、私も笑った。


 ロビーには、まだ何人ものお客さんが残っていた。奏者を見つけて手を振る人、プログラムを開いて話している人。少し離れたところでは、遥が誰かに声をかけられ、照れたように頭を下げていた。


 堀江さんたちを見送ると、今度は演劇サークルの人たちがこちらへ来た。


「お疲れさまです。すごかったですね」


「来てくれてありがとう」


「こっちこそ。いつも会館で聞こえてくる音が、あんなふうになるんだなって」


 そう言って、手に持ったプログラムを見せてくれた。表紙の角が、少し丸くなっている。


 何人かと言葉を交わしたところで、私はふと思い出した。


「そういえば、あのとき白い手袋をしていた人は、今日は?」


「ああ、彼。バイトが忙しくなっちゃったみたいで、このところ顔を出してないんです。大学の方にも、あまり来てないらしくて」


「そうなんだ」


「それから、あの劇の脚本を書いた人も、大学を辞めたんですよ」


 潤が顔を上げた。


「辞めた?」


「ええ。北海道の小樽にある劇団に入ることになったそうです。そこの文芸部で、書く仕事を本格的にやっていくんだって」


「小樽の劇団?」


「星燈座っていうんですけど。女性だけでシェイクスピアをやるところで」


「あ……名前、聞いたことあるかも」


 どこで聞いたのだったか、すぐには思い出せなかった。隣の潤も、考えるように少し首を傾けている。


「今度、公演があったら教えて」


「はい。あの人にも、今日の演奏会のこと、伝えておきますね」


 彼らは笑って、出口へ向かった。


 ガラスの扉の向こうへ、その背中が遠ざかっていく。


 あの劇をもう一度見たら、何か分かるのだろうかと思ったこともあった。けれど、書いた人も、演じた人も、私の知らないところで、それぞれの暮らしを始めている。


 潤を見ると、彼も扉の方を見ていた。


 やがて私に気づき、静かに頷く。


 それ以上、何も尋ねなかった。


「打楽器の積み込み手伝える人、こっちお願いー!」


 廊下の奥から声がした。


 潤が振り返る。


「行ってくる」


「うん。私も荷物、置いてくるね」


 今夜は、大きな楽器や打楽器をサ館へ戻す仕事が残っている。打ち上げは、その人たちも揃って参加できるよう、明日になっていた。


 楽屋へ戻る途中、台車を押す沢村とすれ違った。


「お疲れ。明日な」


「明日ね」


 台車の車輪が、廊下を転がっていく。


      *


 片付けを終えてホールを出ると、夜の空気が頬に冷たかった。


 花束を抱え直す。潤はチェロのケースを背負い、私が歩き出すのを待っていた。


「寒い?」


「少し。でも、気持ちいい」


 舞台の上にいたときの熱が、まだ身体の奥に残っていた。


 駅へ向かう道を、二人で歩く。少し前には仲間たちがいて、信号に近づくたび、誰かが後ろを振り返っていた。


「潤」


「ん?」


「イデー・フィクスって、演奏が終わっても残るんだね」


 潤がこちらを見た。


「まだ、頭の中で鳴ってる?」


「うん。……でも、曲だけじゃなくて」


 花束のリボンが、歩くたびに揺れる。


「今日、潤がどんなふうに弾いてたかとか。帰ってからも、きっと何度も思い出すと思う」


「俺も」


 返事はすぐだった。


「お前が弾いてるところ、何度も思い出すと思う」


「楽譜、見てたでしょう」


「見てたよ」


 潤は笑った。


「それでも、分かるだろ」


 私は頷いた。こちらを見ていなくても、潤の音が分かった。あの長い演奏の間、何度も。舞台の熱も、息を合わせた瞬間も、きっとこの先、ふとした拍子に蘇る。


「また一緒に弾きたいな」


 口にすると、明日の練習を待つような気持ちが、胸の奥に灯った。


「今日、こんなに弾いたのにね」


「俺も、もう思ってる」


「それも、イデー・フィクス?」


「そうかもな」


 潤が少し考え、それから私を見た。


「でも、弾いてないときも会いたい」


 私は足元へ目を落とした。笑っているのを隠そうとしても、口元が緩んでしまう。


「……私も」


 花束を左腕へ寄せる。


 空いた右手に、潤の手が触れた。指を重ねると、そのまま握ってくれる。


「明日も会えるね」


「打ち上げでな」


「その前も、会いたい」


 潤が笑った。


「じゃあ、少し早く行こうか」


「うん」


 前を歩く仲間が、私たちを呼んだ。


 顔を上げ、返事をする。信号はまだ青かった。


 演奏会は終わった。けれど、音の熱は身体の中に残り、潤の手の温度は、つないだ指から静かに広がっていく。


 また楽器を取り出し、いつもの場所で音を合わせる日が来る。うまくいかない日も、笑ってしまう日も、そこにはきっと潤もいる。


 放課後になれば、私はまた彼を探すだろう。


 楽器を持っている日も、持っていない日も。


 つないだ手を揺らしながら、私たちはみんなの待つ角へ歩いていった。舞台の向こうに続く、いつもの明日へ。


         Fin.


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