第96話 こっそり、地の底へ帰ります
私は、街道の脇の茂みに、そっと隠れた。誰も見ていないのを確かめて。
そして、ヒノに乗せていた荷物を、【箱庭】にしまい込んだ。……もう、旅の荷物はいらない。ここから先は、帰り道だ。
「じゃあ、帰ろうか。……私たちの、あたたかいお家に」
私たちは、来た道を、こっそりと引き返し始めた。街の灯りを目指して。でも、街には入らない。街のすぐ手前。ダンジョンの入り口へと。
闇に紛れて、静かに、静かに。誰にも見られないように。
……不思議な気分だった。ついさっき、あんなに盛大に見送られて、街を出たのに。今は、こそこそと、その街の真下へ、戻ろうとしている。
「なんだか、へんなかんじ」
ティルが、くすっと笑った。
「うん。……堂々と出て、こっそり戻る。……変な旅立ちだよね」
でも、これがいちばんいい。街のみんなは、笑って送り出してくれた。帝国は、まんまと騙された。そして、私たちは、大切なあたたかい暮らしを、まるごと抱えて。誰もたどり着けない、地の底へ帰る。
……逃げるが勝ち。でも、うつむいて逃げるんじゃない。前を向いて、堂々と。大切なものを、ぜんぶ守り抜いて。
◇
ダンジョンの入り口に着いた。
昼間は、冒険者で賑わう場所も、夜のこの時間は、ひっそりと静まり返っている。誰も、いない。
私は、暗い縦穴を見下ろした。……世界でいちばん危険な場所。誰もが恐れる、地の底。でも、私にとっては、世界でいちばんあたたかい我が家への、入り口だ。
「じゃあ、帰ろう。……私たちのお家に」
「うん!」
ヒノが、ぐるる、と嬉しそうに鳴いた。……もう、狭い通路で留守番する必要もない。地の底のあたたかい我が家では、ヒノも堂々と、一緒に暮らせる。
私たちは、暗い縦穴の中へ、下りていった。
闇の中を、慣れた足取りで進む。何度も通った道だ。もう、怖くなんてない。むしろ、この先に、あたたかい我が家が待っていると思うと、足取りは、自然と軽くなった。
◇
深層の我が家の扉が、見えてきた。
その、あたたかい木の扉。……街の箱庭にあったのと同じ、素朴で、あたたかい色の扉が、今は、この地の底にある。
私は、その扉に、そっと手をかけた。
「ただいま、って言おうか」
「うん!」
扉を、開ける。
中は、あたたかい灯りに満ちていた。窓辺の、光る白い花。ずらりと並んだ、椅子。あたたかい、かまど。……私たちが、丹精込めて作り上げた、我が家。
「「ただいま」」
私とティルの声が、あたたかい我が家に響いた。ヒノも、ぐるる、と、あたたかく鳴いた。
……ただいま。
この、地の底のいちばん深いところに。私たちの新しい暮らしが、今、始まったのだ。
◇
その夜。
私は、地の底の我が家で、あたたかい夕食を作った。長い一日だった。送り出す会。旅立ちの芝居。こっそりの帰り道。……くたくただったけれど、心はあたたかかった。
「いただきます」
二人と一匹の声が、響く。
あたたかいスープをすする。……ちゃんと、美味しい。地の底でも。どこにいても。あたたかいごはんさえあれば、そこは“帰れる場所”になる。
ふと、私は、思った。
……街のみんなは、今頃、私が西へ旅立ったと思っている。少し、寂しい思いをしているかもしれない。でも、それも、いつか、こっそり会いに行って。「実は、すぐ近くにいたんだよ」と、種明かしをしよう。……ネルさんと、ガーゴさんは、もう知っているけれど。
帝国は、今頃、私を西の彼方に探し始めている。……いつまでも、いない聖女を追いかけて。空振りを続けるだろう。
皮肉で、痛快で、あたたかい。……そういう、旅立ちだった。
「レン。……ぼくたち、ぶじに、ひっこせたね」
「うん。……無事に、引っ越せたね。……これから、ここで、たくさん、あったかいごはん、作ろうね」
「うん!」
私は、あたたかい我が家を見回して、笑った。
――「いってきます」を告げて、「ただいま」を始める。街のみんなを守って。帝国を欺いて。大切なものを、ぜんぶ抱きしめて。
私の新しい暮らしは、この、地の底のいちばんあたたかい場所で、今、静かに始まったのだった。
ただいま、いちばん近い場所へ。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




