第92話 受付嬢の、涙
「あなたのスープ、美味しかった。……ううん、それだけじゃない」
ネルさんの声が、少し震えた。
「あなたは、私に、“あったかいごはんを一緒に食べる相手”を思い出させてくれた。仕事帰りに、冷めたパンを一人でかじってた私に。……あったかい食卓が、どんなにいいものか。教えてくれた」
「……ネルさん」
「だから。……本当は、行ってほしくない。ずっと、この街にいてほしい。毎日、あなたのまかないを食べに来たい。……でも」
ネルさんは、ぐいっと目元を拭った。
「あなたと、ティルちゃんを守るには、これがいちばんいい。……それも、わかってる。だから、送り出す。笑って。……ちゃんと、ね」
その言葉に、私は、こみ上げるものをこらえられなかった。
「……ネルさん。私も、同じです。……ネルさんがいてくれたから、私、この街で、こんなに幸せに暮らせました。共犯者で。友達で。……家族みたいな人でした」
「……もう。そういうこと、さらっと言うの、ずるいって、いつも言ってるでしょ」
ネルさんは、とうとう、ぽろぽろと泣き出した。いつものしっかり者の受付嬢じゃなくて、ただの、寂しがりの優しい人の顔で。
◇
ひとしきり泣いて、少し落ち着いてから。
私は、あの贈り物を、ネルさんに渡した。あの甘いデザートのレシピを、丁寧に書き記した、一冊。
「これ、ネルさんに。……私がいなくても、自分で、自分を甘やかせるように」
ネルさんは、それを大事そうに受け取って、ページをめくって――ふっと笑った。
いちばん下に、私が書き添えた、あの一文を見つけたのだ。「疲れたら、これを作って、ちゃんと休むこと。あなたも、便利な道具じゃないんだから」。
「……ほんと、あなたって子は。最後まで、私の心配してくれるのね」
「当たり前です。……ネルさん、放っておくと、また、倒れるまで頑張っちゃうから」
「……はいはい。わかってますよ」
ネルさんは、笑いながら、また少し泣いた。
「……ねえ、レンちゃん。約束、して。……地の底に行っても、たまには、こっそり顔を見せに来ること。まかない、作りに来ること。……ちゃんと、繋がっていること」
「はい。約束します。……扉ひとつ開ければ、すぐですから。ネルさんが疲れたときは、いつでも、あったかいスープ、作りに来ます」
「……うん。絶対よ」
私たちは、そっと、小指を絡めた。共犯者の約束。……お別れじゃない。ちゃんと繋がっている、という、あたたかい約束を。
◇
ネルさんが帰る前。
彼女は、ふと立ち止まって、振り返った。
「……レンちゃん。最後に、ひとつだけ」
「はい?」
「あなたが、この街に来てくれて。……本当に、よかった。この街は、あなたのおかげであたたかくなった。私も。ジオじいさんも。ガーゴも。街のみんなも。……あなたのくれたあたたかさ、ちゃんと覚えてるから。だから、どこにいても、忘れないで。あなたには、いつでも帰ってこられる場所が、ここにあるってこと」
その言葉が、じんと胸に染みた。
帰ってこられる場所。……私が、この街にいなくなっても。この街は、ずっと、私の“帰れる場所”でいてくれる。
「……はい。ありがとうございます、ネルさん。……絶対、忘れません」
ネルさんは、にっこり笑って。それから、いつもの、少し照れた口調で言った。
「じゃ、また明日。……送り出す会、盛大にやりましょ。あなたの旅立ちを、笑って送り出せるように」
「はい。……美味しい料理、たくさん作りますね」
◇
ネルさんを見送ったあと。
私は、一人、あたたかいお茶を飲み干した。
……いよいよ、明日だ。この街での、最後の一日。街のみんなに、笑顔で「いってきます」を告げる、その日。
寂しくない、と言えば嘘になる。でも、もう、うつむいてはいなかった。
だって、これは逃げじゃない。前を向いた旅立ちだ。そして、お別れじゃない。ネルさんとも、ガーゴさんとも、ちゃんと繋がっている。すぐ会える。
明日、私は、笑って旅立つ。ありがとうを込めて。そして、あたたかいこの街の、すぐ真下で。新しい「ただいま」を始めるのだ。
私は、窓の外の穏やかな夕暮れを、そっと見つめた。……この、街の箱庭で見る夕暮れも、今夜が最後だった。
――送り出す会は、もう、明日。あたたかい、この街での最後の食卓が、私を待っていた。
受付嬢の、本当の気持ち。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




