第91話 送り出す会の、前夜
送り出す会の、前夜。
街の箱庭に、ネルさんがこっそり訪ねてきた。
明日は、いよいよ、街ぐるみの送り出す会。私が「遠くの街へ旅立つ」と、みんなに見送られる、大事な一日だ。その最後の打ち合わせと――たぶん、それだけじゃない、大事な話のために。
「レンちゃん。……準備は、できてる?」
「はい。だいたいは。……明日の料理の仕込みも、済ませました」
「そう。……じゃあ、最後の確認、しましょうか」
私たちは、あたたかいお茶をはさんで、向かい合った。ティルとヒノは、もう、地の底の我が家で眠っている。今夜のこの街の箱庭には、私とネルさんだけだった。
◇
「段取りは、こう」
ネルさんが、指を折りながら説明する。
「明日の昼、街の広場で、送り出す会。あなたが、たっぷり料理を振る舞って、みんなと最後の食卓を囲む。……そのあと、夕方、街の西門から、堂々と旅立つ。『西の街へ、修行に行く』ってことで」
「はい」
「西門を出たら、街道をしばらく歩いて。……人目が完全に消えたところで、こっそり引き返す。そして、誰にも見られずに、ダンジョンの入り口から、地の底の我が家へ。……ここまでが、明日の流れ」
「わかりました」
「ガーゴが、もう街じゅうに噂を広めてくれてる。『聖女様は、西の遠い街へ旅立つ』ってね。……帝国の密偵の耳にも、きっと届いてるはず。あなたが堂々と西門から出れば、連中は、西を追いかける」
……完璧な作戦だった。私が西へ去ったと、誰もが思う。でも、本当の私は、街の真下の地の底にいる。帝国は、いつまでも、いない聖女を、西の彼方に探し続ける。
「……ネルさん。本当に、ありがとうございます。ここまでしてくれて」
「お礼は、いいってば。……何度も、言わせないで」
ネルさんは、つん、とそっぽを向いた。でも、その耳が、少し赤かった。
◇
「せっかくだから、明日の料理、味見してってください。……ネルさんの、お墨付きが欲しいので」
私がそう言うと、ネルさんは、「しょうがないわね」と言いながら、ちゃっかり、身を乗り出した。
私は、仕込んでおいた料理を、少しずつ、器に取り分けた。琥珀色の出汁のスープ。蕩ける肉の煮込み。甘い焼き菓子。……明日、街のみんなに振る舞う、とっておきのごちそう。
ネルさんは、ひと口ずつ、味わって。それから、はあ、と、幸せそうな息を、ついた。
「……はぁ。美味しい。……ほんと、これが食べられなくなるの、いちばん、寂しいわ」
「あはは。……大丈夫ですよ。さっき言ったでしょう。疲れたときは、いつでも、作りに来ますから」
「……うん。そうね。……その言葉、忘れないでよ」
ネルさんは、名残惜しそうに、スープを、もうひと口、すすった。
◇
打ち合わせが済んでも、ネルさんは、すぐには帰らなかった。
あたたかいお茶を両手で包んで、しばらく黙って。それから、ぽつりと言った。
「……ねえ、レンちゃん。あなたと、初めて会った日のこと、覚えてる?」
「もちろん。……ネルさんが、帳簿と私の鍋を、何度も見比べて。『ランク1が、こんなことできるはずない』って、詰め寄ってきた日」
「そうそう。……あのとき、私、思ったの。『この子、絶対、面倒なことに巻き込まれる』って。だから、深入りしないでおこう、って」
ネルさんは、ふっと笑った。
「……でも、気づいたら、どっぷり共犯者。あなたのために、記録を盾にして、役人を追い返して。専属になれって商人を、追い払って。……挙句、こんな大がかりな作戦まで、練っちゃって」
「……ご迷惑、おかけしました」
「迷惑なんて、思ってないわよ。……むしろ」
ネルさんは、少し言葉を探すように、間を置いて。それから、まっすぐ私を見た。
「あなたと出会って、私、久しぶりに、“誰かのために本気になる”っていうのを、思い出したの。……昔、便利な道具になって、壊れてから。私、ずっと、深入りしないように生きてきた。定時で帰って、目立たないように。……でも、あなたのことは、放っておけなかった」




