第90話 その夜、ティルと話したこと
その夜。我が家に帰って。
私は、ティルに、あの里の素朴なシチューを作ってやった。お婆さんが分けてくれたという、あの味に似せたもの。前に、街で作ったときと、同じように。
ひと口食べて、ティルは、目を細めた。
「……ばあちゃんの、あじ」
「うん。……お婆さんの味、ちゃんと覚えてるでしょ。……その味がある限り、お婆さんは、ずっと、あなたの中で生きてるんだよ」
ティルは、シチューを大事そうに味わいながら、こくり、と頷いた。
あたたかい味は、時を越えて、人を支える。もう、いない人の優しさも。一杯の料理に込めれば、ちゃんと、この子の心をあたためられる。……それが、料理の、いちばん素敵なところだ。
シチューを食べながら、ティルは、ぽつり、ぽつりと、お婆さんの思い出を、話してくれた。
こっそり食べ物を分けてくれた、あの日のこと。里のみんなが寝静まった夜、お婆さんの小屋で、二人だけで、あたたかいものを食べたこと。「お前は、いい子だよ」と、頭を撫でてくれたこと。……この子にとって、たった一つの、あたたかい記憶。
「ばあちゃん、いつも、いってた。……『うろこの、うすいあついで、ひとの、ねうちは、きまらない』って。『おまえには、おまえの、いいところが、ある』って」
ティルは、そのシチューを、いとおしそうに、見つめた。
「……あのとき、ぼく、しんじられなかった。だって、みんなが、ぼくのこと、できそこないって、いうから。……でも、いまなら、わかる。ばあちゃんの、いってたこと、ほんとうだった」
その言葉に、私は、胸が熱くなった。
あのお婆さんが、蒔いた、小さな種。「あなたには、いいところがある」という、たった一つの、あたたかい言葉。それが、この子の中で、ずっと、消えずに残っていた。そして今、ようやく、芽を出したのだ。……お婆さんの優しさは、ちゃんと、時を越えて、この子を、救っていた。
「ねえ、レン」
シチューを食べながら、ティルが、ぽつりと言った。
「ぼく、まえは、さとのこと、かんがえると、くるしかった。……でも、いまは、ちょっと、ちがう」
「どう、違うの?」
「……いまは、ぼくに、かぞくが、いる。おうちが、ある。……だから、さとのことも、こわいけど。……ちゃんと、むきあえる、きがする」
その言葉に、私は、深く頷いた。
……そうだ。守るものがあれば。帰る場所があれば。人は、怖い過去にだって向き合える。ティルは、あたたかい家族と、あたたかい家を得て。ようやく、自分の傷と向き合う力を、手に入れたのだ。
◇
その夜。ティルが眠ったあと。
私は、あの、竜鱗族のしるしのことを、思い返していた。
里は、すぐ近くにある。……いつか、ティルの心の準備ができたら。私たちは、あの里を訪ねることになるだろう。
どんな里なのだろう。ティルを捨てた、冷たい大人たち。鱗の厚さで、人の値打ちを決める、あの傲慢な物差し。……正直、いい気持ちはしない。この子を、あんなに傷つけた場所だ。
でも――同時に。そこには、あの優しいお婆さんの、お墓がある。ティルの、たった一つのあたたかい記憶が眠る場所。
いつか、この子と、あの里へ行こう。お婆さんのお墓に、あたたかいシチューを供えに。そして、里のみんなに見せてやろう。「出来損ない」と捨てた子が、こんなに立派な料理人に、こんなに幸せな家族の一員に育ったことを。
……でも、それは、まだ先の話。今は、この、あたたかい家での暮らしを、しっかり始めよう。
私は、そう思いながら、眠るティルの頭を、そっと撫でた。窓の外には、私が選んだ、穏やかな星空。……その光が、地の底の我が家を、優しく照らしていた。
――地の底の、あたたかい暮らし。それは、もう、すぐそこ。あとは、街のみんなに、笑顔で「いってきます」を告げる、送り出す会を、残すのみだった。
里は、すぐそこに。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




