第89話 里は、すぐそこにあった
地の底の我が家で、暮らしの準備を進めていた、ある日のこと。
私とティルは、新しい食材を探して、我が家の周りの、まだ見ぬ通路を探索していた。ヒノは、今日も、狭い通路が苦手なのでお留守番だ。
深層は、宝の山だ。歩くたびに、街では見たこともない食材が見つかる。淡く光る苔。ぷりぷりの地底きのこ。透きとおった地下水の魚。……料理人としては、たまらない場所だった。
でも、その日、私たちが見つけたのは、食材じゃなかった。
◇
通路をしばらく進んだ、その奥。
開けた空間の岩壁で、ティルが、ふと足を止めて、鼻をひくつかせた。
「レン。……この、におい」
「どうしたの? なにか、危ない匂い?」
「ううん。……なつかしい、におい。……りゅうりんぞくの、におい」
私は、はっとした。
ティルが指さした先。岩壁に、古い印が、いくつも彫られていた。以前、中層で見つけたのと同じ――竜鱗族のしるしだ。でも、今度は、ずっとはっきりしている。風化も、少ない。……つまり、そう遠くない昔に刻まれたものだ。
「これ……りゅうりんぞくの、みちしるべ。……さとが、ちかい。……この、おくに」
ティルの声が、少し震えていた。
◇
ティルの里。
あの子を「出来損ない」と嗤い、殴り、飢えさせ、そして置き去りにした、あの里。
里が上位のダンジョンへ移り住むことになったとき、ティルは「足手まといはいらない」と捨てられた。……その里が、まさに、この深いダンジョンの奥に、移り住んだのだ。
そして今、私たちは、その里のすぐ近くに住んでいる。
……皮肉な話だ。ティルを捨てた里と、ティルが新しい家族を得た我が家が、同じ地の底の、そう遠くない場所にあるなんて。
私は、そっとティルの様子をうかがった。
この子の横顔は、複雑に揺れていた。怖いような。懐かしいような。会いたくないような。でも、少しだけ、気になるような。……故郷への、断ち切れないいくつもの気持ちが、そこに混ざり合っていた。
私は、その先へ、進もうとは、しなかった。
しるしをたどれば、里に、たどり着けるだろう。でも、今日は、やめておく。……ティルの心が、まだ、追いついていない。無理に近づけば、この子の古い傷を、また、抉ってしまう。
私は、その場所を、しっかりと、覚えておくことにした。いつか、ティルの準備ができた、そのときのために。しるしの位置。通路の分かれ道。……頭の中に、そっと、地図を、描いておく。
「……今日は、帰ろうか。ここは、ちゃんと、覚えておくから。……行きたくなったら、いつでも、来られるように」
ティルは、こくり、と小さく頷いた。ほっとしたような、でも、少し名残惜しそうな。そんな、複雑な顔で。
◇
「……ティル。大丈夫?」
私が聞くと、ティルは、しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。
「……ぼく、こわい。さとのこと。……でも、ちょっとだけ、きになる。ばあちゃんの、おはか。……まだ、あるのかな、って」
あの、お婆さん。
里でただ一人、ティルに優しくしてくれた人。飢えたこの子に、こっそり、自分の食事を分けてくれた人。「鱗の厚さで、生きる値打ちが決まるなんて、誰が決めたんだろうねえ」と、笑ってくれた人。……冬に亡くなった、あの優しいお婆さん。
この子が里を思うとき。憎しみでも、恐怖でもなく、あたたかい懐かしさで胸が震えるのは。いつも、あのお婆さんのことだ。
「そっか。……お婆さんのお墓、気になるよね」
「うん。……ぼく、ばあちゃんに、ちゃんと、いいたいことが、ある。……『ぼく、しあわせだよ』って。『かぞくが、できたよ』って」
その言葉に、私は、胸があたたかくなった。
◇
私は、しゃがんで、ティルと目線を合わせた。
「ティル。……いつか、行こうか。あの里に。お婆さんのお墓に、会いに」
「……いいの?」
「うん。……でも、急がなくていい。あなたの心の準備が、ちゃんとできたときに。……無理は、しなくていいの」
ティルは、こくり、と頷いて、それから、少し考えて言った。
「……いまは、まだ、こわい。でも、いつか、ぜったい、いく。……ぼくが、もっと、つよくなって。ちゃんと、『できそこないじゃ、なかった』って、いえるように、なったら」
その、まっすぐな目に、私は、微笑んだ。
逃げるのでもない。憎むのでもない。ちゃんと向き合って、自分の値打ちを証明しに行く。……前に、この子が言った、あの決意を。今も、ちゃんと、胸に持っている。
「うん。……そのときは、私も、ヒノも、一緒に行く。あなたが“出来損ない”なんかじゃないって。……あなたの美味しい料理で、里のみんなに、思い知らせてやろう」
「うん!」
私は、小指を差し出した。ティルが、小さな小指を絡める。……前に交わしたのと、同じ約束。「いつか、一緒に里へ行く」という、あたたかい約束を。私たちは、もう一度、そっと結び直した。




