第9話 鋼牙イノシシに、突進されました
鋼牙イノシシ、というらしい。
ギルドの掲示板に、討伐依頼が、もう半年も貼りっぱなしになっている魔物だ。街外れの森に棲む、巨大な猪。全身が鋼のように硬く、牙は鉄板をも貫く。厄介なのは、その頑丈さで、討伐しても、肉が硬すぎて食べられないこと。
「どんな鍋で煮ても、岩を煮てるみたいになる」「歯が立たん、文字どおりな」――そう酒場で聞いた。だから誰も、好んで狩ろうとしない。討伐報酬は、そこそこ良いのに。
私は、それを聞いて、むくむくと、料理人の血が騒ぐのを感じた。
誰も食べられない、硬すぎる肉。
結構。上等だ。
硬いなら、柔らかくすればいい。誰も方法を知らないなら、私が見つければいい。毒を出汁に変えたときと、同じ話だ。
「ティル。ちょっと、狩りに行こうと思うんだけど」
朝ごはんのあと、私がそう言うと、ティルは、ぴくっと反応した。
「かり……ぼくも、いく」
「んー。危ないと思うけど」
「いく。……レンを、まもる」
まっすぐな目で、そう言われた。
この前まで「ぼくなんて」と俯いていた子が、「守る」なんて言葉を口にする。三日で、ずいぶん、変わったものだ。
……まあ、危なくなったら、私が繭を張ればいい。何があっても、私もティルも、傷ひとつつかない。それだけは、絶対の保証がある。
「わかった。じゃあ、一緒に行こう。その代わり、無理はしないこと。約束」
「うんっ」
◇
森の奥で、そいつは、あっさり見つかった。
鋼牙イノシシは、噂どおりの、とんでもない巨体だった。私の背の、三倍はある。鋼色の剛毛は日の光を鈍く弾き、地面を掻く蹄の一撃で、太い木がへし折れた。牙は、確かに、鉄板でも貫きそうだ。
ティルが、ごくり、と喉を鳴らす。
「……おおきい」
「うん、大きいね。お肉、いっぱい取れそう」
「そっち!?」
ティルのツッコミが、なかなか様になってきた。いいことだ。
……というのは、半分は、強がりだった。
正直に言えば、あの巨体を前にして、私の中の"元・普通の社会人"の部分は、しっかり怯えていた。あんなものに突進されたら、痛いに決まっている。痛いのは、嫌だ。世界で、いちばん、嫌だ。
でも、私には、【硝子の繭】がある。理屈では、絶対に、傷つかない。
問題は――その「理屈」を、体が、まだ、完全には信じきれていないことだった。頭でわかっていても、巨大なものが迫ってくれば、体は勝手にすくむ。前世で染みついた「危険には近づくな」という本能は、そう簡単には、消えてくれない。
だから、これは、ちょっとした、私自身の実験でもあった。
私の繭は、本当に、何があっても、私を守ってくれるのか。
それを、信じきれるかどうか。ティルに「守る」と言わせておいて、私自身が、自分の力を信じられないままでは、格好がつかない。
鋼牙イノシシが、こちらに気づいた。血走った目が、私たちを捉える。そして、地響きを立てて、突進してきた。あの巨体と速度。まともに受ければ、人間なんて、一瞬でミンチだ。
ティルが、真っ青になって、私の前に飛び出そうとする。薄い鱗の腕を、盾みたいに構えて。守ろうと、してくれている。
でも、その必要は、ない。
私は、ティルの肩を、そっと掴んで、後ろに下がらせた。
「大丈夫。見てて」
そして、一歩、前に出る。
迫りくる鋼の巨体に向かって、私は、退屈そうに、手をかざした。
「【硝子の繭】」
ふわり、と、私の体を、儚げな光の膜が包んだ。
◇
次の瞬間、鋼牙イノシシの突進が、私に激突した。
地面が揺れ、木々の葉がざわめく。凄まじい衝撃――のはずだった。
でも、私は、その場から、一歩も動かなかった。
鋼の牙も、鉄の巨体も、私を包む光の膜に触れた瞬間、ぴたりと止まった。まるで、見えない壁にぶつかったみたいに。痛くも、痒くもない。むしろ、そよ風程度の感触すら、ない。
鋼牙イノシシが、ぽかん、とした顔をした。魔物でも、そういう顔をするらしい。渾身の突進を、小さな子どもに、完全に受け止められたのだ。無理もない。
「これ、いくら攻撃しても、無駄なんだよね」
私は、あくび混じりに言った。
【硝子の繭】は、あらゆる物理・魔法ダメージを、百パーセント、カットする。神様の攻撃だって通さないと言われる、伝説級のスキルだ。鋼牙イノシシの突進くらいで、どうにかなるはずがない。
問題は、この繭は「守る」ことしかできない、ということだ。攻撃力は、ゼロ。だから、私一人では、この猪を倒せない。
でも――倒すのは、私の仕事じゃない。
「ティル」
私は、後ろで固まっているティルを、振り返った。
「今から、この子の動きを、私が止める。あなたは、私が『今だ』って言ったら、思いっきり、鼻先を殴って。あなたの鱗なら、大丈夫。守りは、私が全部する」
ティルの目が、揺れた。
「で、でも、ぼく、よわいから」
「弱くていい。守りは要らないの、私がいるから。あなたは、ただ、一発、当てるだけでいい。……信じて。私が、絶対、痛い思いはさせない」




