第10話 硬すぎるお肉は、時間で美味しくします
それは、奇妙な戦いだった。
鋼牙イノシシが、何度突進しても、私の繭に阻まれる。私は、繭を張ったまま、猪の進路に、のんびりと立ちはだかり続けた。壁になるだけ。ただ、それだけ。
やがて、猪の動きが、苛立ちで、単調になってきた。頭に血が上って、まっすぐ突っ込んでくるだけになる。
「――ティル、今だっ」
私の合図で、ティルが、飛び出した。
薄い鱗の、小さな拳。里で「出来損ない」と嗤われた、その腕が、鋼牙イノシシの鼻先に、渾身の力で叩き込まれた。
ごつっ、と、鈍い音。
急所に一撃をもらった鋼牙イノシシは、ぐらり、と傾いで――どしん、と、地面に倒れ伏した。
静寂。
ティルが、自分の拳を、信じられないものを見るように、見つめていた。
「……たおした? ぼくが……?」
「うん。あなたが、倒したの」
私は、ぱちぱちと、手を叩いた。
厳密には、私が動きを完全に封じたから当てられた一撃だ。でも、最後に急所を打ち抜いたのは、間違いなく、ティルだ。守られる子から、獲物を仕留める子へ。この一発の意味は、きっと、この子の中で、とても大きい。
ティルは、わなわなと震えて、それから、ぱあっと、破顔した。
「たおした……! レン、ぼく、たおしたよっ!」
「見てた見てた。かっこよかったよ。……さて」
私は、倒れた鋼牙イノシシの、立派な巨体を見下ろして、にんまりと笑った。
「じゃあ、こっからが、本番ね。このお肉を――世界一美味しくします」
◇
倒した鋼牙イノシシは、あまりに巨大で、とても運べる大きさではなかった。
でも、そこは【箱庭のおままごと】の出番だ。私は、猪の巨体に手を触れ、そのまま亜空間の収納へ、まるっと仕舞い込んだ。ティルが、また「まほうみたい」と目を丸くする。
「あなたの鱗も、私のこの家も、火をぬるくするのも――ぜんぶ、みんなが『そんな使い方、思いつかなかった』ってだけの話なの」
森を歩いて帰りながら、私は、なんとなく、そう言った。
「世界は、たぶん、便利な道具で、あふれてる。ただ、使い方が、まだ見つかってないだけ。……宝探しみたいで、けっこう、楽しいよ」
ティルは、隣を歩きながら、うんうん、と頷いていた。倒した猪の余韻で、その足取りは、来た時より、ずっと、しっかりしていた。
箱庭に持ち帰った鋼牙イノシシの肉は、確かに、岩みたいに硬かった。生のまま切ろうとしても、包丁が弾かれる。噂は本当だ。
でも、私には、勝算があった。
硬い肉が硬いのは、繊維が詰まっていて、火を通すと縮んで、さらに硬くなるからだ。だったら――縮ませなければいい。低い温度で、時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり、火を通せばいい。
私は、肉を、【箱庭】の涼しい一角で、まず数日、寝かせた。熟成させて、繊維を、じっくりとほぐしていく。それから、ぬるいと感じるくらいの、ごく低い温度の湯に沈めて、半日、放っておいた。ティルの鱗を落とし蓋に使えば、熱は、驚くほど均一に、優しく伝わる。
急がない。待つ。ただ、待つ。
この「待つ」が、ティルには、いちばん難しかったらしい。
寝かせている間、ティルは、何度も何度も、肉の様子を見に来た。「まだ?」「まだ、かたい?」と、そわそわしながら。早く食べたくて、たまらないのだ。
「ティル。美味しいものはね、待った時間の分だけ、美味しくなるの」
私は、笑いながら言った。
「すぐに手に入るものは、それなりの味。じっくり待ったものは、とんでもない味になる。……人も、たぶん、同じ。焦らなくて、いいの」
「……ぼくも、まてば、つよくなる?」
「なるなる。あなたは、もう、ちゃんと強くなってるよ。今日、あの猪、倒したでしょ」
ティルは、えへへ、と、照れくさそうに笑った。それから、肉の番を、大真面目にやり始めた。落とし蓋の鱗の位置を、まっすぐに直して。火加減を、じっと見つめて。「待つ」ことを、覚えようとしていた。
その横顔が、なんだか、いっぱしの料理人みたいで、私は、こっそり、笑った。
――そして、その晩。
できあがった肉を、ひと切れ、口に運んだティルが、絶句した。
「…………とろ、とろ」
岩みたいだった肉は、ほろりと、箸で切れるほど柔らかく、蕩けていた。噛むと、旨味が、じゅわりと溢れる。半年間、誰も食べられなかった肉が、今、世界一のごちそうに、化けていた。
「硬すぎるお肉はね」と、私は、自分のぶんを頬張りながら言った。「時間で、美味しくするの。急がず、諦めず、ただ、待てばいい」
ティルは、蕩ける肉を噛みしめながら、また、ちょっと泣いていた。
二人ぶんの「いただきます」が、今夜も、あたたかい湯気の中に、そっと重なった。
鋼牙イノシシは、大きい。二人では、とても食べきれない量の肉が、まだ、たっぷり残っている。
「これだけあると、余っちゃうね。……ティルの鱗があれば、いくらでも美味しくできるし。少し、ギルドで、売ろうか」
半年間、誰にも食べられなかった伝説の魔物肉が、蕩けるごちそうに化けて、ギルドに並ぶ。
――それが、翌日、どれだけの騒ぎを起こすことになるのか。
このときの私は、まだ、ちっとも、わかっていなかった。
ただ「余り物を、無駄にしたくないな」と、それだけを考えていたのだ。相変わらず、静かな暮らしから、少しずつ、遠ざかりながら。
硬いお肉も、時間をかければごちそうに。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




