第11話 伝説の熟成肉、売り出します
翌朝、私は、蕩けるまで熟成させた鋼牙イノシシの肉を少しだけ切り分けて、ギルドの隅っこの、いつもの場所に並べた。
余り物を無駄にしたくない。ただ、それだけの気持ちだった。せっかくの良い肉だ。腐らせるより、食べてくれる人がいたほうがいい。
値段は控えめに。銅貨、数枚。
「鋼牙イノシシの煮込みです。柔らかいですよ」
私が小さな声でそう言うと。
最初は誰も、見向きもしなかった。「鋼牙イノシシの煮込み」なんて、この街の人間からすれば、「岩の煮込み」と同じ意味だ。食えたものじゃない。そういう常識だった。
でも、匂いは嘘をつかない。
鍋からふわりと立ちのぼる、香ばしくてまろやかな匂い。その匂いが、通りをゆっくりと満たしていく。
通りかかった冒険者が、けげんな顔で足を止めた。
「……嬢ちゃん、今、なんつった? 鋼牙イノシシ、だと?」
「はい」
「あれは、討伐しても食えねえ肉の代名詞だぞ。岩みてえに硬くて、どんな名人でも――」
言いながら、彼は私の鍋を覗き込んで――固まった。
鍋の中で、ほろほろと崩れるほど柔らかく煮えた鋼牙イノシシの肉。つやつやと照りを帯びて、湯気を立てている。硬いどころか、見るからに蕩けそうだ。
「……は?」
彼は、震える手で銅貨を置いて、ひと切れ口に運んだ。
そして。
「うっ、まぁぁぁぁっ!?」
ギルド中に、その叫びが響き渡った。
◇
そこからは、もう、あっという間だった。
「あの鋼牙イノシシが、食えるだと!?」「柔らかいってどういうことだ!」「隅っこの聖女様が、また、とんでもねえことを……!」
昨日のスープの一件も記憶に新しい冒険者たちが、われもわれもと私の鍋に殺到した。あっという間に、長蛇の列。
いや、列というより、もはや争奪戦だった。
「おい、抜かすな! 俺が先だ!」「一杯、銀貨一枚で買う!」「馬鹿を言え、俺は二枚だ!」
……あの。値段、銅貨、数枚なんですけど。
勝手に競りが始まっていた。誰も食べられなかった伝説の魔物肉が、蕩けるごちそうになって目の前にある。冒険者たちの目は、完全に血走っていた。
「みなさん、落ち着いて。並べば、みんな買えますから」
私がのんびりそう言っても、興奮は収まらない。むしろ、「聖女様が平等に分け与えてくださる……!」と、感涙する者まで出る始末。
……なんで。私はただ、余り物を処分したいだけなのに。
用意した肉は、結局、瞬く間に売り切れた。それでも、列はまだ続いていた。「明日もあるのか!?」「聖女様、次はいつだ!」と、口々に。
私は遠い目をして、空になった鍋を見つめた。……常連が、また増えてしまった。
しかも。
例によって、私の【秘密の隠し味】のバフは、この肉にもしっかり乗っている。食べた冒険者たちは、次々とみなぎる力に目を見張り、いつもより格上の依頼を軽々とこなして帰ってきた。
「あの肉を食うと、力が湧く……!」
「鋼牙イノシシを喰らう者は、鋼の力を得る……そういうことか……!」
いや、そういうことじゃないです。ただのバフです。
私は隅っこで、こっそり頭を抱えた。目立ちたくない。静かに暮らしたい。それなのに、どうして私のやることは、いちいち、こう騒ぎになるんだろう。
ちなみにこの日、ティルは私の隣で売り子を手伝ってくれた。
「いらっしゃい、ませ。……おにく、おいしい、です」
たどたどしい呼び込みだったけれど、その一生懸命さが、逆に評判を呼んだ。「聖獣様が、直々に接客を……!」と、また勝手な尾ひれがつく。ティルは、お客さんに「ありがとう」と言われるたびに、はにかんで、嬉しそうにしっぽをぱたぱたさせていた。
里で「使えない子」と言われ、誰の役にも立てないと信じ込まされていた子が。今、こうして人の役に立って、感謝されて、誇らしそうにしている。
その姿を見ているだけで、私はなんだか、胸がいっぱいになった。
……いけない。私まで、涙腺がゆるむ。大人なのに。
隣で、ティルがきらきらした目で私を見上げていた。
「レン、すごい。みんな、レンのごはん、だいすき」
「……うん。まあ、それは嬉しいんだけどね」
嬉しくないと言えば、嘘になる。自分の作ったものを、こんなに喜んで食べてもらえるのは、料理人として、素直に嬉しい。
ただ、その喜びと、目立ちたくないという願いは、どうにも両立が難しいのだった。
行列の中には、腕を組んで、疑わしげにこちらを見ている初老の男もいた。街でそこそこ名の知れた、料理屋の親父らしい。
「ふん。子どものまぐれ当たりだろう。鋼牙イノシシが、そう簡単に柔らかくなるものか」
そう吐き捨てて、彼は一杯買っていった。腕試し、というやつだろう。プロの舌で粗を探すつもりだ。
彼は、ひと口口に運んで――そのまま動きを止めた。
スプーンを持つ手が震えている。しばらく無言で肉を噛みしめて、それから彼は、がばっと私に頭を下げた。
「……参った。嬢ちゃん、あんた、どんな手品を使った。この硬さの肉を、ここまで……いや、聞くだけ野暮か。長年、包丁を握ってきたが、こんな肉は食ったことがねえ」
「低温でじっくり寝かせただけですよ。時間をかければ、誰でも」
「その『時間をかける』が、いちばん難しいんだよ。誰も、そこまで手間をかけようとしねえ。……あんた、大した料理人だ」
プロにそう言われるのは、正直、悪い気はしなかった。
目立ちたくない。それは本当だ。でも、料理の腕を、本物の料理人に認めてもらえる。その一点だけは、どうしても嬉しさが隠せなかった。
……料理人としての私は、たぶん、思っているよりずっと負けず嫌いなのかもしれない。
その負けず嫌いが、次にどんな騒ぎを起こすか。……このときの私は、まだ気づいていなかった。




