第86話 地の底に、花を育てよう
その日の夕方。
私は、育て始めた花を眺めながら、ふと思った。
……前世の私の部屋には、花なんて、一輪もなかった。
花を飾る余裕なんて、なかった。心も、時間も、いつもぎりぎりで。部屋はただ、眠るためだけの冷たい箱だった。……“帰りたい場所”ではなかった。ただ、“帰らなきゃいけない場所”だった。
でも、今は違う。
花を育てている。畑に水をやっている。発酵の壺が、そろそろかな、とわくわくしている。……そういう、なんてことない小さな楽しみが、暮らしをあたためる。
帰りたい、と思える場所。それを私は、この手で作っている。地の底の、いちばん深いところに。
「レン。……このおうち、だんだん、あったかく、なってくね」
ティルが、白い花をそっと撫でながら言った。
「うん。……もっとあったかくしようね。花を増やして。畑で、野菜が採れるようになって。発酵の壺が、いい味になって。……少しずつ、少しずつ」
急がなくていい。焦らなくていい。発酵と同じだ。じっくり時間をかけて、あたたかいものを積み重ねて。……そうすれば、この家はきっと、とびきりいい味の“我が家”になる。
◇
花を植え終えて、ひと息ついたところで。私は、あたたかいお茶を淹れて、ティルとヒノと、窓辺で一休みした。
淡く光る白い花を眺めながら、あたたかいお茶をすする。窓の外には、私が映した、なだらかな緑の丘。……地の底にいるとは、とても思えない、のどかな時間だった。
「レン。……ぼく、ここ、だいすき」
ティルが、ぽつりと言った。
「うん。私も。……なんだかね、ティル。私、この花を見てると、思うんだ。あなたにも、ヒノにも、私にも。……ちゃんと、咲ける場所が、あったんだなあ、って」
「さける、ばしょ?」
「うん。……この花はね。日の光がなくても、こうやって、地の底で、ちゃんと綺麗に咲いてる。“こんな暗い場所じゃ、咲けない”なんて、誰も、決められない。……人も、同じ。どんな場所でも、ちゃんと、居場所さえあれば、咲けるの」
ティルは、少し考えて、それから、にっこり笑った。
「……ぼく、いま、さいてる?」
「うん。……ばっちり、咲いてるよ。とびきり、綺麗にね」
その言葉に、ティルは、へへ、と、照れくさそうに笑った。ヒノも、そうだそうだ、と言うように、あたたかい鼻先を、私の手にすり寄せた。
◇
夜。あたたかい夕食を囲みながら。
私は、ティルとヒノに話した。
「もうすぐ、送り出す会だね。……それが終わったら、私たち、本当に、この家で暮らし始めるんだよ」
「うん! はやく、ここで、くらしたい!」
ティルが、張り切って言う。ヒノも、ぐるる、と嬉しそうに鳴いた。
……最初は、帝国から逃げるための隠れ家だった。仕方なく選んだ場所。でも、こうして家を建てて、発酵蔵を作って、畑を耕して、花を植えて。……いつのまにか、ここは“逃げ場所”じゃなくなっていた。
私たちが、心から“帰りたい”と思える、あたたかい我が家。
皮肉なものだ。帝国が、私たちを追い詰めた。でも、そのおかげで、私たちは、こんなに素敵な場所を手に入れた。……ピンチは、やっぱり、暮らしのきっかけに変わる。
「窓の外、今日は、どんな景色にしようか」
私が聞くと、ティルは、少し考えて言った。
「……はなばたけ! そとにも、はなが、いっぱいの、けしき!」
「いいね。じゃあ、花畑にしよう」
私が窓の外に、一面の花畑を映すと、地の底の我が家は、まるで、あたたかい丘の上の小さな家みたいになった。窓辺には、本物の、光る白い花。窓の外には、映し出された、色とりどりの花畑。
「わあ……きれい」
ティルが、うっとりと、それを眺める。
……うん。悪くない。むしろ、最高だ。
地の底の、いちばん深いところ。世界でいちばん危険な場所に。私たちは、世界でいちばんあたたかくて、綺麗な我が家を作っている。
◇
その夜。ティルとヒノが眠ったあと。
私は、窓辺の白い花を、そっと見つめた。
淡く光るその花は、まるで、この家の小さな灯りみたいだった。……役に立つわけじゃない。食べられるわけでも、暮らしを便利にするわけでもない。ただ、そこにあるだけで、心をあたためてくれる。
人も、たぶん、同じだと思う。
ティルの鱗は、“戦えない”と里で嗤われた。ヒノの炎は、“災厄”と恐れられた。私のスキルは、“最弱”と鑑定された。……でも、みんな、居場所さえあれば、ちゃんと輝ける。この、光る花みたいに。
役に立たないものなんて、ない。綺麗なだけの花にだって、心をあたためる、といういちばん大事な役目がある。
私はそう思いながら、あたたかい我が家の灯りを、そっと落とした。
――地の底の、あたたかい暮らし。その準備は、もう、ほとんど整っていた。あとは、街のみんなに、笑顔で「いってきます」を告げる、その日を待つばかりだった。
地の底に、花を。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




