第85話 発酵蔵と、畑と
我が家が形になった翌日。
私は、暮らしの“中身”を地の底に移す作業にとりかかった。
家の骨組みができただけでは、まだ暮らしとは言えない。あたたかい暮らしには、もっとこまごまとした大事なものがいる。……たとえば、発酵蔵。たとえば、畑。たとえば、花。
「今日は、発酵蔵のお引っ越しだよ」
私が言うと、ティルが、ぱっと目を輝かせた。
「ぼくの、つぼ! ぼくの、はっこうしょくの、つぼも、もっていく!?」
「もちろん。あなたがいちばん最初に仕込んだ、あの壺もね」
◇
発酵蔵は、我が家のいちばん奥にこしらえた。
街の箱庭から、大事な壺を一つずつ、丁寧に運び込む。半年、一年と、じっくり寝かせてきた、宝物みたいな壺たち。深層きのこの発酵調味料。光る苔の、不思議な旨味。深層の木の実を漬け込んだ、芳醇なもの。……この地の底の食材とも、発酵は驚くほど相性がいい。
温度は、ヒノの炎で一定に保つ。湿度は、ティルの鱗を壁に埋め込んで整える。……街の箱庭でやっていたのと、同じやり方だ。ふたり(一人と一匹)の力があれば、地の底でも、変わらず、いい発酵ができる。
ティルが、自分で仕込んだ壺を、いちばん見やすい場所に、大事そうに置いた。
「これ、あと、どれくらいで、たべられる?」
「んー。あと、ひと月くらいかな」
「ひとつき……! たのしみ」
ティルは、その壺を宝物みたいに、そっと撫でた。……“待つ楽しみ”を、ちゃんと知っている。今、食べられなくても、明日も、あさっても、あたたかいごはんがあると信じられている証だ。飢えていた頃のこの子には、なかった余裕だった。
◇
発酵蔵の次は、畑だった。
地の底で、野菜を育てる。……普通なら、無理な話だ。日の光がないのだから。
でも、私には心当たりがあった。
深層には、淡く光る食用の苔が生えている。あの光を集めれば。それに、ティルの鱗を床に敷けば、土もあたたかく保てる。ヒノの優しい熱もある。泉の水もたっぷり。……日の光がなくても、あたたかさと、水と、光る苔さえあれば、何かは育つはずだ。
私は、我が家の一角に、小さな畑をこしらえた。深層で採ってきた山菜や、きのこの種や株を植えてみる。それから、街から持ってきた野菜の種も少し。
「そだつ、かな……」
ティルが、心配そうに土を見つめる。
「どうかな。……でも、やってみないとわからないでしょ。だめだったら、また別のやり方を試せばいい。……ほら、料理と同じ。失敗したら、やり直せばいいんだから」
「うん!」
ティルは、こくり、と頷いて、それから毎日、その畑にせっせと水をやり始めた。……気の長い話だ。でも、この子は、もう“待つ”ことを覚えている。
◇
そして、いちばん、私がやりたかったこと。
花を植えることだった。
畑や発酵蔵は、暮らしのため。でも、花は違う。花は――ただ、心をあたためるため。役に立つとか、立たないとか、そういうのとは関係ない。あたたかい暮らしには、そういう“なくてもいいけど、あると嬉しいもの”がいる。
私は、深層を探し回った。地底に咲く、珍しい花を探して。
やがて見つけたのは、暗闇の中で、ぼうっと淡く光る、白い花だった。日の光を必要とせず、光る苔のわずかな光で咲く、地底の花。
「わあ……ひかってる。きれい……!」
ティルが、その花を見て、うっとりと目を細めた。
私は、その花をそっと、我が家の窓辺に植えた。(本物の窓じゃないけど。景色を映す、あの窓の下に。)淡く光る白い花が、地の底のあたたかい我が家を、優しく彩る。
「……きれいだね」
私は、しみじみと呟いた。
地の底の暗い岩室。危険なダンジョンのいちばん深いところ。でも、ここには、あたたかい灯りと、湯気と、そして――ぼうっと光る白い花がある。
これは、もう、ただの隠れ家じゃない。逃げ込むための仮の場所じゃない。……ちゃんとした“帰りたくなる場所”だ。
あとは――そう。あの、いちばんやりたかったことを。




