第80話 深層の我が家で、初めての夕食
準備の合間に、私は、もう一つ大事なことをしていた。
街のみんなへの“贈り物”の支度だ。
こそこそ消えるんじゃない。ちゃんとお別れをして、旅立つ。だから、せめて、お世話になった人たちに、何か残していきたかった。
ジオじいさんには、節々の痛みに効く鎮痛ゼリーをたっぷり。それと、一人でもあたたかいものが作れるように、発酵調味料をひと壺。あの人は、私がいなくなったら、また、一人の食卓に戻ってしまう。……せめて、あたたかいものを、切らさないように。
ガーゴさんには、狩りのお供に、日持ちする精のつく干し肉を。無茶な狩りで、怪我をしないように、鎮痛ゼリーも、こっそり、忍ばせておこう。
パン屋の子や、街の子どもたちには、甘い焼き菓子を。あの子たちが、私のことを、あたたかい思い出として、覚えていてくれたら。それで、十分だ。
そして――ネルさんには。
……ネルさんには、何を贈ろう。考えて、考えて。私は、あの人がいちばん疲れたときに、そっと出した、あの甘いデザートのレシピを、丁寧に書き記すことにした。「私がいなくても、自分で、自分を甘やかせるように」と。
あの人は、また一人で抱え込む。仕事を山ほど背負って、倒れるまで頑張ってしまう。……だから、レシピのいちばん下に、こう書き添えた。「疲れたら、これを作って、ちゃんと休むこと。あなたも、便利な道具じゃ、ないんだから」と。
一つひとつ、贈り物を用意しながら、私は、この街で過ごした日々を思い返していた。
毒を出汁に変えて、ガーゴさんが初めて叫んだ日。ティルを拾った、あの寒い夜。ネルさんが、共犯者になってくれた日。ジオじいさんに、初めてスープをあげた、あの午後。冬を、みんなで乗り越えた日々。豊穣祭の、街いっぱいの「いただきます」。
……たくさん、あったな。いろんなことが。この街で、私は、ようやく"生きている"実感を取り戻したのだ。
◇
その夜。深層の新しい我が家で、私たちは、初めて、ちゃんとした夕食を囲んだ。
途中の我が家。でも、かまどには火が入って、あたたかい湯気が、岩室に満ちている。壁には、ティルが摘んできた光る苔を、飾ってみた。ほのかな光が、まるで星空みたいに瞬いている。
「いただきます」
二人と一匹の声が、地の底の岩室に、ぽうっとあたたかく響いた。
ティルが、しみじみと言った。
「……ここ、すき。あったかい。……もう、ぼくたちの、おうち、みたい」
「うん。……もうすぐ、本当に、私たちのお家になるよ」
私は、あたたかいスープをひと口すすった。地の底でも、ちゃんと美味しい。どこにいても、あたたかいごはんさえあれば、そこは“帰れる場所”になる。……それが、私のいちばん大事な力だった。
でも――ふと、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
この、あたたかい夕食を囲みながら、私は思い出していた。街での、たくさんの食卓を。ネルさんの憎まれ口。ジオじいさんのしみじみとした声。ガーゴさんの豪快な笑い。子どもたちの、はしゃぎ声。
……あの、あたたかい人たちと、もう、こうして囲めなくなる。
わかっていた。覚悟もしていた。それでも、いざ、その日が近づくと、胸が締めつけられた。
◇
「レン。……かおいろ、わるい」
ティルが、心配そうに私を覗き込んだ。
……ああ、いけない。また、一人で抱え込むところだった。
「……うん。ちょっとね。……街のみんなとお別れするの、寂しいなあ、って」
私は、今度はちゃんと口に出した。飲み込まずに。……これも、練習だ。一人で背負わない、という。
ティルは、少し考えて、それから、私の手をぎゅっと握った。
「……おわかれ、じゃ、ないよ」
「え?」
「だって。ネルねえちゃんたち、“ほんとうのいきさき”、しってるでしょ。まちの、まうえだって。……だから、いつでも、あえる。ちゃんと、あいに、いける」
その言葉に、私は、はっとした。
……そうだ。そうだった。
これは、今生の別れじゃない。街の真下に引っ越すだけ。ネルさんとも、ガーゴさんとも、こっそり会える。ちゃんと繋がっていられる。扉ひとつ、開ければ。私は、いつでも、あの、あたたかい街に、戻れるのだ。
「……そっか。そうだね、ティル。……お別れじゃ、ないんだ」
胸のつかえが、すっと軽くなった。
この子は、いつも、私のいちばん大事なことを思い出させてくれる。守られる子だったのに、今は、私を支えてくれる。……いつのまに、こんなに、頼もしくなったんだろう。
◇
その夜。街の箱庭に戻ってから。
私は、寝床の二つの寝顔を眺めながら、静かに思った。
いよいよ、明日。……いや、明後日には、送り出す会だ。この街での、最後の大きな一日。
寂しくない、と言えば嘘になる。でも、もう、うつむいてはいなかった。
だって、これは逃げじゃない。前を向いた旅立ちだ。大切なものを、ぜんぶ守るための。そして――お別れじゃない。すぐ会える。ちゃんと繋がっている。
私は、明日、街のみんなに贈り物を渡して、一人ずつ、ちゃんとお別れの挨拶をしよう。笑って。ありがとうを込めて。
悲しい顔で、送られたくない。私が、この街で、幸せだったこと。この街に、心から感謝していること。それを、笑顔で、伝えたい。湯気の立つ、あたたかい一皿みたいに。まるごと、渡していきたい。
……あたたかい、この街で過ごした日々。その最後の時間を、ひと口ずつ味わうみたいに、大切に過ごそう。
そう心に決めて、私は、あたたかい箱庭の火を、そっと見つめた。窓の外は、私が選んだ穏やかな夕暮れ。……その景色を、この街で見るのも、あとわずかだった。
新しい我が家で、初めての夜。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




