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【新版】痛いのも苦労するのも嫌なので、お家で美味しいご飯を作って静かに暮らしたい(※ただしダンジョン最深部)  作者: 翠碧ノ人


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第76話 もう、迷いはない

 男が見えなくなってから。


 私は、ようやく、繭を解いた。


 腕の中で、ティルが、ぷるぷると震えていた。怖かったのだ。あんなふうに値踏みされて。"出来損ない"と、また呼ばれて。里の、いちばんつらい記憶を抉られて。


「……レン。ぼく、また、"できそこない"、って」


「違う」


 私は、ティルの前にしゃがんで、震える両肩を掴んだ。


「あなたは、出来損ないなんかじゃない。あなたは、ティル。私の大事な家族。……あんな男の言うことなんて、ひとつも聞かなくていいの」


 ティルの金色の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。私は、その小さな体を、ぎゅっと抱きしめた。


 ……そして、その瞬間。私の中で、ずっと迷っていたものが、すとん、と決まった。


 もう、限界だ。


 私のことはいい。狙われようが、値踏みされようが、笑って受け流せる。でも――この子を。ティルを。あんな目に遭わせるのは。あんなふうに怯えさせるのは。……二度と、御免だ。


 この街にいる限り、帝国は何度でも来る。そのたびに、ティルは、あの里で刻まれたいちばん深い傷を抉られる。……それだけは、絶対にさせない。


    ◇


 その夜。箱庭で。私は、ティルとヒノを両腕に抱き寄せて、静かに言った。


「ねえ、ティル。ヒノ。……私、決めたよ」


「なにを……?」


「この街を、出る。……もっと静かで、誰にも邪魔されない場所へ。私たちだけの、あたたかいお家を作りに行こう」


 ティルが、目をまんまるにした。


「……まちを、でるの? ネルねえちゃんや、ジオじいちゃんと、はなれるの?」


「うん。……寂しいよね。私も、寂しい。でも」


 私は、ティルの頭を、そっと撫でた。


「この街にいたら、あなたが、また、あんな目に遭う。街のみんなも、危ない目に遭う。……それは、嫌なの。私、痛いのも嫌だけど。大事な人が傷つけられるのは、もっと嫌なんだ」


 ティルは、しばらく考えて、それから、こくり、と頷いた。


「……うん。ぼくも。レンと、ヒノと、いっしょなら。どこでも、いい。……あたらしいおうち、いっしょに、つくる」


 ヒノも、ぐるる、と鳴いて、私の手にあたたかい鼻先をすり寄せた。「どこへでも、ついていく」というように。


 その、あたたかさに、私は、胸がいっぱいになった。


    ◇


 迷いは、もう、なかった。


 私は、痛いのも苦労するのも嫌いだ。面倒事は、もっと嫌いだ。だから、ずっと"静かに暮らしたい"と願ってきた。


 でも、この街での暮らしは、もう"静か"ではいられない。帝国が、来る。ティルが、怯える。街が、危険に晒される。……ここは、もう、私たちの"静かな場所"では、なくなってしまった。


 だったら――行こう。


 誰もたどり着けない、地の底へ。世界でいちばん危険で、私にとっては、世界でいちばん静かで、安全な場所へ。


 あの、深層の隠れ家を、本物の"我が家"にするのだ。


「……もう限界。静かに、させてもらいます」


 私は、暗闇の中でぽつりと呟いた。それは、帝国への宣言でもあった。あなたたちの届かない場所へ。私は、大切なものをぜんぶ連れて、消えてみせる、と。


 でも――ネルさんとの約束があった。一人で決めない。ちゃんと相談する。こそこそ逃げるんじゃなくて、ちゃんとお別れを告げてから。


 だから、この決意を実行に移すには、もう一つ、大事な準備が必要だった。


 ……あたたかい、この街のみんなに、笑って送り出してもらうための。そして、帝国を、まんまと欺くための。とっておきの"作戦"が。


 その相談を、ネルさんに持ちかけるのは、もう明日にでも。私は、そう心に決めて、あたたかい二つの寝息をそっと抱き寄せた。

迷いは、もうありません。

次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。

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