第75話 舐めるような、男の視線
それは、よく晴れた昼下がりのことだった。
私とティルは、街の市場に買い出しに来ていた。移住の備えで、日持ちする食材を少し多めに。……とはいえ、まだ、心のどこかで、私は決めきれずにいた。この街を出ること。この、あたたかい日々を手放すこと。
その迷いを断ち切ったのは、皮肉にも、帝国の差し向けた男だった。
市場の外れで。ふいに、ティルが足を止めた。鼻をひくつかせて。
「レン。……あの、におい」
振り返ると、仕立てのいい服を着た見慣れない男が、こちらをまっすぐ見ていた。腰に、上等な剣。感情の読めない、冷たい目。斥候とは、少し格が違う。もっと上の――帝国の"先触れ"のような男だった。
男は、ゆっくりと近づいてきた。そして、私には目もくれず、ティルをじろじろと値踏みするように眺めた。
「……ほう。竜鱗族の子どもか。それも、これほど珍しい個体は、初めて見る」
◇
男の舐めるような視線に、ティルが、びくり、と私の後ろに隠れた。
「……薄い鱗。ふむ。里で弾かれた"出来損ない"、といったところか。だが、竜鱗族というだけで、希少価値はある。……皇女殿下は、珍しいものがお好きだ。聖女と、この竜鱗族の子。二つまとめて献上すれば」
二つまとめて。献上。
まるで、私たちを品物みたいに言う。
男は、値踏みを続けた。ティルの怯えなど、まるで目に入らないというように。
「おい、そこの子ども。名は、なんという。……いや、"出来損ない"に、名などあるまいな。里で、餌にもならぬと捨てられた、鱗の薄い――」
――ぴきり。
私の中で、何かが、冷たく、静かに凍りついた。
◇
「……その子の、名前は」
私は、静かに言った。
自分でも驚くくらい、低い声だった。市場のざわめきが、すっと遠のく。
「ティル、といいます。私がつけました。しずく、という意味です。……"出来損ない"でも、"餌"でも、ありません」
男が、片眉を上げた。
「ほう。聖女様は、ずいぶんと、この餌にご執心のようだ。……安心しろ。連れて行くのは、お前も一緒だ。丁重に扱ってやる」
「……あなたは、ひとつ、大きな勘違いをしています」
私は、ティルを、そっと自分の後ろに庇いながら、男をまっすぐ見た。
いつもの、間の抜けた笑顔は、もう作らなかった。
「私は、痛いのも、苦労するのも嫌いです。面倒事も、大嫌い。だから、たいていのことは、笑って受け流します。国に狙われようが、聖女に祭り上げられようが、正直、どうでもいい」
一歩、前に出る。
「でも――この子を、"品物"扱いすることだけは。この子を傷つけることだけは。……どうしても、我慢ができないんです」
◇
男は、私の、その静かな圧に、一瞬たじろいだ。
でも、すぐに鼻で笑って、ティルに向かって手を伸ばした。「つべこべ言わず、来い」とでもいうように、その細い腕を掴もうとして。
――かきん。
乾いた音がした。
男の手は、ティルに触れる寸前、見えない壁に阻まれて、ぴたりと止まった。
【硝子の繭】。私が、ティルごと包み込んだ、伝説の盾。男の指がどれだけ力を込めても、そよ風ほどの意味もなさなかった。
男の顔から、余裕が消えた。
「な……なんだ、これは」
「言ったでしょう。……この子には、手を出させません」
私は、ティルを繭の中にしっかりと庇ったまま、男を見据えた。
「あなたがどれだけ剣を振るっても。どれだけ力ずくで来ても。この子には、指一本触れさせない。……それだけは、絶対です」
男は、剣の柄に手をかけた。でも、抜けなかった。目の前の小さな子どもが纏う得体の知れない力に、本能が警鐘を鳴らしていた。
しばらく、私と男は、睨み合った。
やがて、男は、ちっ、と舌打ちをして、手を引いた。
「……いいだろう。今日のところは引く。だが、覚えておけ。近く、正式な部隊が来る。そのときは、こんな子どもだましは通用せん。聖女も、その餌も、まとめて、皇女殿下のコレクションだ」
そう吐き捨てて、男は、人混みの中へ消えていった。
その背中を見送りながら、私の中で、ひとつの決意が固まっていく。




