第74話 帝国の回収部隊が、来る
しばらく、二人とも黙っていた。
かまどの火だけが、ことこと、と静かに燃えている。この、あたたかい箱庭の、いつもの音。それが今夜は、ひどく頼りなく聞こえた。
「……ねえ、レンちゃん」
先に口を開いたのは、ネルさんだった。
「私はね。あなたに、この街にいてほしい。ずっといてほしいと思ってる。あなたのスープが好きだし。あなたがこの街にくれたものは、大きいから」
「……ネルさん」
「でも」
ネルさんの声が、少し震えた。
「……正直に言うわ。このまま、あなたがこの街にいたら。……帝国は、この街ごと狙う。街の人を脅して、乱暴して、あなたを探し出そうとする。……最悪の場合、この街が、戦火に巻き込まれる」
その言葉は、私がずっと、目を逸らしてきた答えそのものだった。
一人で抱えて、飲み込んで、見ないふりをしてきた。でも、こうしてはっきりと口に出されると、もう、逃げようがなかった。
私がこの街にいる限り、この、あたたかい街は危険に晒される。ジオじいさんも。ガーゴさんも。パン屋の子も。……冬を一緒に越えた、みんなが。
「……わかって、ます」
私は、静かに言った。
「私がいると、この街は危ない。……守り神になるどころか、私自身が、いちばんの"呼び水"なんですよね」
◇
ネルさんは、何も言わなかった。ただ、痛そうな顔で、私を見た。それが、答えだった。
私は繭がある。何をされても傷つかない。捕まらない。逃げられる。
でも――繭は、私しか守れない。街のみんなまでは、守れない。
その、当たり前の事実が、今、はっきりと、私の前に突きつけられていた。
守るために、いる。そのつもりだった。でも、本当は、逆だった。私がいることが、この街を危険にしている。
だとしたら、答えは、ひとつしかない。
――私が、この街から消えること。
そうすれば、帝国は、この街に用がなくなる。追うのは、私だけ。街の人たちは、平穏な日々に戻れる。……ずっと目を逸らしてきた、その答えが。今、静かに、私の胸に降りてきた。
「……レンちゃん。今すぐ、どうこう、って話じゃないの」
ネルさんが、慌てたように言い添えた。
「部隊が編成されて、この辺境まで来るには、まだ時間がある。少なくとも、数週間は。……だから、その間に、ちゃんと考えて、備えて」
「……はい」
「一人で、決めないで。……ね? 昨日、言ったでしょ。一人で背負わないで。私にも、ガーゴにも、相談して。……あなたの味方は、ちゃんといるんだから」
その言葉に、私は、ふっと、胸があたたかくなった。
昨日、ティルにも、同じことを言われた。一人で背負わないで、と。……今度は、ちゃんと頼ろう。そう決めたばかりだった。
「……はい。ありがとうございます、ネルさん。……ちゃんと相談します。一人で決めたりしません」
ネルさんは、少しだけほっとした顔で笑った。
◇
ネルさんを見送ったあと。
私は、しばらく、かまどの前に座っていた。
寝床では、ティルとヒノがあたたかく眠っている。何も知らずに。穏やかな寝顔で。……この子たちを連れて、私はたぶん、この街を出る。
覚悟は、していた。いつか、こんな日が来ると。深層に隠れ家を、少しずつ整えてきたのも、すべて、この日のためだった。
でも――いざ、その"いつか"が目の前に迫ってくると、胸が、ぎゅっと締めつけられた。
この街での暮らし。露店の賑わい。ネルさんの憎まれ口。ジオじいさんの皺だらけの笑顔。ガーゴさんの豪快な声。豊穣祭の、あの、あたたかい「いただきます」。
……ぜんぶ、置いていくのか。
まだ、決めきれない自分がいた。頭では、答えが出ている。でも、心が追いつかない。
それでも。
この、あたたかい街を、私の問題で踏み荒らされるのだけは、絶対に嫌だった。
私は、静かに火を見つめた。
……もう少しだけ。あと少しだけ、考える時間がほしい。
そう思っていた私に、決定的な"最後の一押し"がやってくるのは、それから、ほんの数日後のことだった。
――そしてそれは、私のことでは、なかった。私が、この世界でいちばん、傷つけられたくないもの。……ティルに関わることだったのだ。
その報せが、静かに迫ります。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




