第70話 眠れない夜に、思うこと
翌日。こっそり、ネルさんが箱庭を訪ねてきた。
私の顔をひと目見るなり、ネルさんは眉をひそめた。
「……レンちゃん。あなた、ひどい顔してるわよ」
「そうですか? ……ちゃんと、寝たつもりなんですけど」
「嘘。目の下、まっくろ。……街のこと、でしょ。守り神になれって話」
さすが、耳が早い。私は苦笑して、あたたかいお茶をネルさんの前に置いた。
「……参りましたよ。断りたいのに、断れなくて。みんな、悪気がないから、余計に」
「で。どうするの」
「……たぶん、引き受けます。私が街の前に立てば、みんな、安心する。繭があれば、私は傷つかない。だったら――私が、なんとかすればいいのかなって」
言い終わる前に、ネルさんが湯呑みを、こつん、と置いた。
その音が、やけに響いた。
「……ねえ。それ、昔の私と、そっくり」
ネルさんは、じっと私を見た。いつもの軽口じゃない。真剣な目だった。
「『私が、なんとかすればいい』。『私が、我慢すればいい』。……その顔よ。倒れる直前の、私がしていた顔」
どきり、とした。
「あなた、前に言ったわよね。前世で、便利な道具になって、壊れたって。……なのに、また、同じことしようとしてる。一人でぜんぶ背負って、誰にも頼らないで」
「……でも。私には、力があるから」
「力があるから、って、なんでも一人で背負っていい理由には、ならないでしょ」
ネルさんの声が、少しだけやわらかくなった。
「あのね、レンちゃん。守るとか、守られるとか。そういうの、一人で決めなくていいの。……あなたがこの街を大事に思うのと、同じくらい。この街も、あなたを大事に思ってる。それ、忘れないで」
私は、何も言えなかった。ただ、あたたかいお茶の湯気を、ぼんやりと見つめていた。頭では、ネルさんの言うことが、正しいと、わかっている。わかっているのに、私の手は、どうしても、荷物を下ろせなかった。
◇
ネルさんが帰ったあとも、私はしばらく、その言葉を噛みしめていた。
一人で、背負わなくていい。
……頭では、わかる。わかるのに。
なぜだろう、と考えて、ふと気づいた。
私はたぶん、怖いのだ。
誰かに頼ること。背負ってもらうこと。それは、その人に"迷惑をかける"ことだと、前世の私は、そう刷り込まれていた。だから、いつも一人で抱えた。誰にも寄りかからずに。そのほうが楽だと思っていた。……本当は、いちばんしんどいやり方だったのに。
そして、もうひとつ。もっと、根の深い問題があった。
仮に、私が街の守り神になったとして。
帝国は、どうするだろう。
……決まっている。この街を、狙う。「聖女は、この街を守っている」とわかれば、帝国は、街ごと私を手に入れようとする。私を守り神にすることは――この街を、標的のど真ん中に据えることに、ほかならない。
守るつもりが、危険に晒す。
なんて、皮肉な話だろう。
私がこの街にいればいるほど、この街は、危なくなる。それが、"守り神"の正体だ。
……その考えに行き着いたとき、私の胸に、冷たい石が一つ、落ちた。
◇
その夜も、私はなかなか寝つけなかった。
寝床では、ティルがヒノの背中にもたれて、すやすやと眠っている。この子たちの、穏やかな寝顔。この、あたたかい食卓。それを守りたい。ただ、それだけなのに。
守ろうとすればするほど、答えは、私を望まない方向へ押していく。
「……責任って。いちばん、重いなあ」
私は、暗闇の中で、ぽつりと呟いた。
前世でも、いちばん嫌いだったものだ。責任。期待。「あなたなら」の一言で、背中に積み上げられていく、見えない荷物。それに押し潰されて、私は死んだ。
なのに、この世界でも、また。私は、その、いちばん重い荷物を背負おうとしている。しかも今度は――背負えば、大切な人を危険に晒す、という、おまけつきで。
答えは、たぶん、もう出かかっている。
私は、この街の守り神になっては、いけない。むしろ、逆だ。この街を守るためには――私が、この街から消えるしかない。
そうすれば、帝国は、この街に用がなくなる。追うのは、私だけ。街の人たちは、平穏な日々に戻れる。
……わかっている。頭では、ちゃんとわかっている。
でも。
私はまだ、その答えを、口に出せずにいた。この、あたたかい暮らしを手放す決心が、どうしてもつかなかった。
ティルの、小さな寝息。ヒノの、あたたかい体温。ネルさんの、心配そうな顔。ジオじいさんの、皺だらけの笑顔。ガーゴさんの、豪快な声。……ようやく、手に入れた、ぜんぶ。
それを、自分から手放すなんて。
「……もう少し。もう少しだけ」
私は、自分に言い聞かせるように呟いて、目を閉じた。
一人で背負う癖は、そう簡単には抜けない。誰かに寄りかかる勇気も、まだ、持てない。
だから私は、今夜も。この重すぎる荷物を、一人で抱えたまま。浅い眠りに落ちていった。
……その頑なな、"一人で背負う癖"が、いつか、私自身を、いちばん苦しめることになるなんて。このときの私は、まだ気づいていなかったのだ。
眠れない夜も、あります。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




