第69話 斥候を、追い払ったけれど
斥候を路地で追い払った、その翌々日。
街の様子が、少しだけ変わっていた。
露店に並ぶ人たちの目に、これまでとは違う色が混じっている。感謝でも、憧れでもない。もっと切実な――すがるような色だ。
「聖女様。……聞きましたよ。国の兵を、たった一人で追い返したそうじゃないですか」
最初にそう切り出したのは、常連の職人だった。
「剣で斬りかかられても、かすり傷ひとつつかなかったって。……ねえ、聖女様。あなたがいてくれれば、もし帝国が攻めてきても、この街は安全なんじゃないですか」
――ああ。
私は、おたまを持つ手を止めそうになった。かろうじて、いつもの間の抜けた笑顔を顔に貼りつける。
「はは。……買いかぶりすぎですよ。私、ただの料理人ですから」
「またまた。ご謙遜を」
職人は笑った。悪気なんて、これっぽっちもない笑顔で。
でも、その後ろに並んだ人たちも、みんな、同じ目をしていた。「聖女様なら」「聖女様さえいれば」。その言葉が、列のあちこちで、さざなみみたいに広がっていく。
……この感じ。
私は知っている。痛いほど、知っている。
◇
その日を境に、街の空気は、はっきりと動き出した。
もともと、帝国の影に怯えていた街だ。斥候がうろつき、不穏な噂が流れて、みんな、どこかで身構えていた。そこへ、「聖女様が国の兵を退けた」という話が転がり込んだ。
溺れかけた人が、藁をつかむみたいに。街の人たちは、私にすがり始めた。
「どうか、この街の守り神に」
「聖女様がいてくれるだけで、みんな、安心なんです」
自警団をまとめている顔役の男が、わざわざ露店まで、頭を下げに来たりもした。
「聖女様。厚かましいお願いだが……いざというとき、この街を守ってはもらえんだろうか。あんたの、あの力があれば。帝国が来ても、わしらは戦える」
その、まっすぐな目を見て、私は言葉に詰まった。
断れば、この人たちを突き放すことになる。冬を支え合った、大切な街の人たちを。
でも――頷けば。
私はまた、"みんなの期待"を背負うことになる。
「……少し、考えさせてください」
やっとのことで、私はそう返した。顔役は「もちろんだ。無理は言わん」と、恐縮しながら帰っていった。いい人だ。みんな、いい人なのだ。だからこそ、たちが悪い。
露店を片付けながら、私はこっそり、ため息をついた。
冷害の冬を、一緒に乗り越えた。だからこそ、みんな、私を頼ってくれる。それは、嬉しいことのはずだった。なのに、その"頼られる"が、こんなにも、重い。
◇
その夜。箱庭で、私は一人、かまどの火を見つめていた。
ティルもヒノも、もう眠っている。あたたかい寝息が、部屋に二つ重なっている。それを聞いていても、今夜は、胸の奥がざわついて、静まらなかった。
守り神。
街を、守ってほしい。
……その言葉を聞くたびに、前世の記憶が、じくじくとうずく。
「君ならできるよね」。「君に任せれば、安心だ」。「君がいないと、回らないんだ」。
あの頃の私も、そう言われた。最初は嬉しかった。頼られるのが。必要とされるのが。だから、断れなかった。断ったら、みんなが困る。私が、なんとかしなきゃ。そうやって、一つ、また一つと荷物を背負い込んで。
気づいたときには、もう、下ろし方がわからなくなっていた。
そして、あの深夜の非常階段で。冷えたおにぎりを片手に、私の電池は、ぷつりと切れた。
……また、同じことをしようとしている。
私は、そのことに気づいていた。気づいていて、なお、断り切れずにいる自分にも。
だって、放っておけない。目の前で、誰かが怯えている。私には繭がある。守れる力が、ある。それなら――背負えばいい。私一人が我慢すれば、みんなが安心できるなら。
……そういう考え方が、私を殺したのに。
火の粉が、ぱち、と爆ぜた。その小さな音が、やけに大きく、部屋に響いた。
その夜の静けさは、これから始まる“お別れ”の、前触れのようだった。




