第66話 受付嬢が、こっそり訪ねてきた
男が去ったあと。
私はふう、と、詰めていた息を吐いた。膝が少し笑っていた。
「レン……だいじょうぶ? かおいろ、わるい」
ティルが心配そうに、私の顔を覗き込む。
「……うん。大丈夫。ちょっと、危なかったけどね」
私はティルの頭を撫でた。
……綱渡りだった。あと一歩間違えれば、私の正体がバレていた。ティルを庇おうとして、反射的に力を使いかけた。あれは、私の油断だ。
でも同時に、私は思い知った。
……ティルのことになると、私は冷静でいられなくなる。この子を守ろうとすると、頭より先に、体が力を使おうとする。
それは私のいちばんの弱点かもしれない。でも同時に、いちばん大事な“譲れないもの”の証でもあった。
「レン。……ぼくのせいで、あぶなくなった? ぼくがいるから、レン、ばれそうに……」
ティルの声が、少し震えていた。自分のせいで私が危険になったと、責任を感じているのだ。
私はティルの両肩を掴んで、まっすぐ目を見た。
「違うよ、ティル。あなたのせいじゃ、絶対にない。……私があなたを守りたくて動いた。それは私がそうしたかったから。あなたがいるから危なくなったんじゃなくて、あなたがいるから私は頑張れるの。……わかる?」
「……でも」
「でも、じゃない。……あなたは私の大事な家族。守るのは当たり前。あなたが責任を感じることなんて、ひとつもないの」
ティルの金色の目に、じわりと涙が滲んだ。それから、こくり、と小さく頷いた。
……この子はすぐ、こうやって自分を責めようとする。里でずっと「お前が悪い」と言われ続けた癖だ。だから私は何度でも言う。「あなたは悪くない」と。「あなたがいてくれてよかった」と。
◇
その夜、ネルさんがこっそり箱庭を訪ねてきた。
「レンちゃん。……昼間のあれ、見てたわ。斥候に鑑定されかけたでしょ」
「……はい。なんとか切り抜けましたけど。……ちょっと、綻びも見せちゃって」
「そう。……もう、時間の問題かもね」
ネルさんの顔は深刻だった。
「あいつら、確信を持てないでいる。でも“怪しい”とは思ってる。……このまま監視を続けて、決定的な証拠を掴もうとするはず。あるいは……もっと手荒な手段に出るか」
「手荒な手段?」
「あなたを直接“試す”のよ。攻撃したり、ティルちゃんを人質に取ったり。……あなたが“ただの子ども”じゃないと証明させるために」
その言葉に、私はぞっとした。
でも――同時に、少しだけ冷静にもなっていた。
「……ネルさん。もし向こうが手荒に来るなら、それは逆に、私のいちばん得意な“土俵”かもしれません」
「……どういうこと?」
「私、絶対に傷つかないので、どんな攻撃も効かない。……もし向こうが私を攻撃してきたら、それを“のらりくらり”といなして。『ただのまぐれ』『ただの幸運』だって、とぼけ続ければ……向こうは逆に困るはずです」
嘘はつかない。ただ、“何も起きていないふり”をし続ける。攻撃が効かないのを「たまたま」で押し通す。
それは確かに、私にしかできない綱渡りだった。
「……あなたって子は、ほんと規格外ね」
ネルさんはあきれたように笑って、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも……油断はしないで。相手は国よ。……いよいよあなたがこの街を離れる日が、近づいてる気がする」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「……はい。覚悟はしています。……深層の隠れ家も、だいぶ住めるようになってきました。いざとなれば、いつでもあそこに移れます」
「そう。……準備があるなら、少しは安心ね。……でも、レンちゃん」
ネルさんは少し、寂しそうに言った。
「行っちゃう前に……ちゃんとお別れさせてよ。こそこそ消えるみたいな別れ方は嫌。あなたはこの街をあたためてくれた、大事な子なんだから。……ちゃんと笑って送り出させて」
その言葉が、じんと胸に染みた。
こそこそ逃げるんじゃない。ちゃんと別れを告げて、笑って旅立つ。……そういう別れを、この人は望んでくれている。
「……はい。約束します。そのときは、ちゃんとみなさんにご挨拶してから」
あたたかい、この街での暮らし。その終わりが、少しずつ近づいている。
……でも、まだだ。まだぎりぎりまで、私はここであたたかいごはんを作る。大切な人たちと笑う。それがなくなる、その日まで。
私はそう心に決めて、あたたかい箱庭の火を見つめた。窓の外は私が選んだ穏やかな夕暮れ。でも、その扉の向こうの現実の街には、冷たい影が着実に忍び寄っていた。
そっと、かわして。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




