第63話 大きくなったね、と言われても
最初に気づいたのは、ティルだった。
その日、露店でいつものようにスープを煮込んでいたとき。ティルがふと鼻をひくつかせて、眉をひそめた。
「レン。……へんな、におい」
「変な匂い? なにか焦げた?」
「ううん。……ひとの、におい。しらない、におい。……ずっと、こっちを、みてる、におい」
私は、おたまを動かす手を止めた。
竜鱗族のティルは、人一倍鼻が利く。食材の良し悪しも、人の嘘も、匂いで嗅ぎ分ける。そのティルが「ずっとこっちを見ている、知らない匂い」と言う。
……気のせいなんかじゃない。
私はさりげなくあたりを見回した。露店の行列。通りを行き交う人々。一見、いつもと変わらない賑やかな風景。
でも――そのどこかに、私をじっと観察している者がいる。
その日、私はさりげなく、その“視線”の主を探した。
いた。通りの向かいの建物の影に、旅装の男が一人。壁に寄りかかって、手持ち無沙汰なふりをしながら。……でも、その目は時々、ちらり、ちらりと、私の露店を確かめている。
冒険者ではない。街の住人でもない。あの、以前の密偵と同じ種類の目。感情を殺した観察者の目。
私はあえて気づかないふりをして、いつも通りのんびりとスープを配り続けた。
……下手に動揺すれば、「やましいことがある」と教えるようなものだ。私はあくまで「ただの料理好きな女の子」。それを崩してはいけない。
でも内心では、心臓が嫌な音を立てていた。監視されている。狙われている。……その事実の重さが、じわり、じわりとのしかかってくる。
◇
その夜、私はネルさんに相談した。
「ネルさん。……たぶん私、見張られてます」
ネルさんの顔がこわばった。
「……やっぱり来たか。帝国の斥候ね。この前の密偵の報告を受けて……本格的にあなたを“監視”し始めた、ってことよ」
「監視して……どうするつもり、なんでしょう」
「たぶん、“回収する価値があるか”を見極めてる。あなたの力が本物か。連れ去るなら、どういう手を使うのがいいか。……そういうのを調べてるのよ」
ネルさんは声をさらに低くして続けた。
「帝国は乱暴なようで、案外慎重なの。確実に“手に入る”と踏むまでは動かない。逆に言えば……一度“確実だ”と判断したら、容赦なく来る。街ごと囲んででも、あなたを連れ去りにね」
街ごと囲む。……その言葉の重さに、私はぞっとした。私のせいで、このあたたかい街が兵に踏み荒らされる。そんなことには、絶対にさせたくない。
「……ネルさん。教えてくれてありがとうございます。おかげで、覚悟ができました」
連れ去る。……その言葉に、背筋が冷えた。
でも同時に、私は少し冷静にもなっていた。
……前世の私なら、ここでパニックになっていた。どうしよう、どうしよう、と頭が真っ白になって、何もできずに立ち尽くして。
でも今は違う。守るものがあるから、私はちゃんと頭を働かせられた。
「ネルさん。……相手はまだ“監視”の段階なんですよね。すぐに手を出してくるわけじゃない」
「ええ。斥候はあくまで情報収集。本格的な回収部隊が来るのは……もっとあとよ。少なくとも、今すぐじゃない」
「なら……その間に、ちゃんと備えをしておきます」
私は静かに言った。
◇
備え、と言っても、難しいことはしない。
ひとつめ。【箱庭】のいちばん奥の“隠れ家”を、もっと住めるように整えておくこと。深層のあの良い場所。あそこにちゃんとした家を建てて、いつでも逃げ込めるように。食料もたっぷり貯めて。
ふたつめ。人前では絶対に、料理以外のスキルを使わないこと。私が鑑定に「ランク1・調理」としか映らない限り、帝国は“確実な証拠”を掴めない。斥候がどれだけ私を見張っても、見えるのは「ちょっと料理が上手なだけの女の子」だけ。
……嘘はつかない。ただ、見せる手札を選ぶ。前世でいちばん鍛えられた処世術だ。皮肉なもので、あんなに嫌だった社畜時代の“世渡り”が、今、私と家族を守る武器になっている。
みっつめ。周りの人たちを巻き込まないこと。
これがいちばん大事だった。帝国が狙っているのは私だ。もし私がこの街にいることで、ジオじいさんや女将さんや街の人たちが危ない目に遭うようなことがあれば……それは絶対に避けたい。
だから私は、いざとなったら誰にも迷惑をかけないように、すっと姿を消せるようにしておく。……あの、地の底の隠れ家に。
もっとも、ガーゴさんやネルさんは「水くさい」と怒るかもしれない。「一人で抱え込むな」と。……そう言ってくれる人がいることが、今の私には何より心強かった。
でも、だからこそ、その人たちを危険にはさらせない。守られるだけじゃなくて、私も、私の大切な人たちを守りたいのだ。
「レン。……ぼくたち、だいじょうぶ?」
ティルが不安そうに、私の服の裾を握った。
私はしゃがんで、ティルとヒノを両腕でそっと抱き寄せた。
「大丈夫。何があっても私が守るから。……それに、私たちには“逃げ場所”があるでしょ。誰もたどり着けない、地の底の隠れ家が。いざとなったら、そこに逃げ込めばいい。……だから、怖がらなくていいの」
「……うん」
ティルはこくりと頷いた。ヒノも私に身を寄せて、ぐるる、と鳴く。
この子たちを守る。それだけは、絶対だった。
私は、静かに、“もしも”への備えを、始めることにした。




