第57話 静かな暮らしの、お値段
帝国の密偵が現れてから、私の心には、小さな、けれど消えない影が差していた。
露店に立っていても、ふと視線を感じる。誰かが遠くから私を見ている気がする。……気のせいかもしれない。でも一度気になると、もう止まらなかった。
あたたかいものを作って、誰かに食べてもらう。それだけのことだったのに。今はその一挙一動が、誰かに“監視”されているような、そんな心細さがあった。
露店に立っていても、楽しくない。いつもなら、みんなの「美味しい」の一言で心があたたまるのに。今はその笑顔の向こうに、冷たい視線が隠れていないか、つい探してしまう。
料理をするのが、私にとっていちばんの“癒し”だったはずなのに。その大好きな時間まで、監視の気配が濁らせていく。……それがいちばんつらかった。
夜、眠るときも、ふと目が覚める。物音がするたびに、「帝国の兵が来たのでは」と心臓が跳ねる。
もちろん、私には繭がある。何があっても傷つかない。理屈ではわかっている。でも――“また狙われる”という、その恐怖は、理屈じゃなかった。
前世で擦り切れた心の傷が、うずくのだ。「できる奴」だと見つかって、国だの組織だのに目をつけられて、逃げられなくなって。……そういう恐怖を、私の心はまだ覚えている。
あたたかい暮らしを手に入れた。大切な人もできた。……だからこそ、それを失うのが、前世よりもずっと怖かった。
◇
その夜、箱庭で、私はぽつりと呟いた。
「……私が、ただの料理下手な、目立たない子だったら。こんなこと、なかったのかな」
毒を出汁に変えなければ。硬い肉を蕩けさせなければ。飢えた人にスープを配らなければ。……私は目立たずに、静かに暮らせていたかもしれない。
私の“料理の力”は、たくさんの人をあたためた。冬を越させた。笑顔にした。
でも――その同じ力が、今、私を危険にさらしている。目立たなければ、狙われなかった。
……皮肉な話だ。
人を幸せにする力。それがそのまま、自分を不幸にするかもしれない種になる。あたたかいものを作れば作るほど、私は狙われやすくなる。
前世でもそうだった。「できる奴」は重宝される。頼られる。でも、その“できる”がそのまま、私を使い潰す理由になった。……有能さは、時に呪いだ。
なら、いっそ、何もできない無能なふりをしていれば、楽だったのだろうか。あたたかいものなんて作らずに、誰にも関わらずに、息を潜めていれば。
……でも。そう考えて、私はすぐに首を横に振った。
……あたたかいものを作る、というだけのことに、こんな“お値段”がついて回るなんて。
私は少し、ため息をついた。
◇
昼間、露店を手伝いに来てくれたネルさんも、私の様子のおかしさに気づいた。
「レンちゃん。……なんか、元気ないわね。……例の監視の件、気にしてる?」
「……はい。少し」
「そうよね。……気にするな、って言っても無理よね。国に狙われてるんだもの」
ネルさんは私の隣に腰を下ろして、少し考えてから言った。
「……あのね、レンちゃん。私、思うの。あなたは“目立ちすぎた”って後悔してるかもしれない。でも――もし、あなたが目立たずにいたら、この街はあの冷害の冬を越せなかった。ジオじいさんも、あの子も、今、生きてない。……あなたがあたたかいものを配ったから、この街は救われたのよ」
「……」
「だからね。……あなたの“目立った”ことは、失敗なんかじゃない。……たくさんの人を救った証よ。それだけは、忘れないで」
その言葉が、少しだけ私の心を軽くした。……でもまだ、胸の奥の影は、完全には晴れなかった。
「レン、どうしたの? げんき、ない」
夜、箱庭で、ティルが心配そうに私の顔を覗き込んだ。ヒノもそっと、あたたかい鼻先を私の手にすり寄せる。
……ああ。だめだ。この子たちに心配をかけて。
「ごめんね。……ちょっと、弱気になってた」
「レン、こわいの? ていこく」
「うん。……正直、怖い。……前世で私、“できる奴”だって目をつけられて、使い潰されて死んだから。……また、あんなふうになるのが怖いんだ」
ティルにはたぶん、“前世”とか“使い潰される”とか、難しい言葉はわからない。でも、この子は、私の声の震えから何かを感じ取ったらしい。ぎゅっと私の手を握ってくれた。
その小さな手のあたたかさが、少しだけ私の怯えを和らげる。
「……ぼく、むずかしいこと、わからない。でも、レンが、こわいのは、わかる。……ぼくも、さとを、おいだされたとき、すごく、こわかった。もう、どこにも、いばしょが、ないって」
ティルは、ぽつり、ぽつりと続けた。
「でも、いま、ぼくには、レンが、いる。ヒノが、いる。おうちが、ある。……こわくても、ひとりじゃ、ないから。だいじょうぶ」
その言葉に、救われたのは、私のほうだったのかもしれない。




