第56話 帝国の影が、動き出す
男が人混みに消えたあと、ティルがこわばった顔で、私の手を握った。
「レン……あのひと、こわい。……ぼくたちのこと、“けんじょう”っていってた」
「うん。……大丈夫。あなたのことは、私が絶対に守るから」
私は努めて明るく言った。でも、内心は穏やかじゃなかった。あの感情の読めない目。品物を見定めるような視線。あれは間違いなく、“良くないもの”の気配だった。
男が去ったあと、ネルさんが血相を変えて飛んできた。
「レンちゃん! 今の男……気をつけて。あれ、たぶん、スキリア帝国の密偵よ」
「帝国……」
「そう。“スキルは国家資源”を掲げてる、あの管理国家。珍しいスキル持ちを見つけては囲い込む……いえ、はっきり言えば、“連れ去る”ことで有名なの」
ネルさんは声をひそめて続けた。
「あの国では、生まれた子はみんなスキルを鑑定されて、ランクで選別されるの。強いスキルの子は英才教育。弱いスキルの子は下働き。……人間の価値を、スキルのランクで決めるのよ。冷たい国」
「……ひどい」
「でしょ。しかも、他国の優秀なスキル持ちを“回収”するための部隊まで持ってる。今の男は、その下見役。あなたを“回収する価値がある”と判断したら――次は、もっと本格的なのが来る」
人間の価値を、ランクで決める。
それは、私がいちばん嫌いな考え方だった。ティルの里が鱗の厚さで序列を決めて、あの子を「出来損ない」と切り捨てたように。数字で人を測る。それでこぼれ落ちた者を、平気で踏みつける。
……絶対に、ティルをそんな国には渡さない。
鱗の厚さで。スキルのランクで。人の値打ちを決める。そんな冷たい物差しは、この世界でいちばん、私が嫌いなものだった。
だって、その物差しで測れば、私の四つのスキルだって二つは「ランク1」。ティルの鱗は「使えない」。ヒノは「災厄」。……でも、そんなもの、使い方次第でとびきりの宝物になる。人の値打ちも同じだ。数字なんかで決まるもんか。
帝国のその傲慢な考え方が、私は心の底から腹立たしかった。……でも同時に、だからこそ、彼らには絶対に、私やティルを渡してはいけない、と強く思った。
連れ去る。
その言葉に、私はぞっとした。私のいちばん恐れていたことだ。有能だとバレて、国に目をつけられて、逃げられなくなって、使い潰される。前世で死ぬほど味わった、あの構図のいちばん悪い形。
「……私、そういうの、いちばん嫌なんです」
「でしょうね。……でも、もう噂は広がりすぎてる。あなたは有名になりすぎた」
ネルさんは深刻な顔で言った。
「正直に言う。この街にいる限り、あなたはいつか帝国に目をつけられる。……逃げるなら、目立たない場所に身を隠すなら、早いほうがいい」
私は黙って聞いていた。
ティルが不安そうに、私の服の裾を握る。
このあたたかい街。ジオじいさんも、ガーゴさんも、ネルさんもいる、この場所。ようやく手に入れた、賑やかで幸せな食卓。
それを脅かす影。
「……ネルさん。ひとつ確認、いいですか」
「なに」
「もし私がこの街からいなくなったら。……この街のみんなに、迷惑はかかりませんか。帝国が私を追って、この街を荒らしたり」
ネルさんは少し驚いた顔をした。それから優しく笑った。
「……あなた、そういうとこよね。自分が狙われてるのに、真っ先に街の心配をするんだから」
「だって。私のせいでみんなが危ない目に遭うのは、嫌ですから」
「大丈夫。あなたがいなくなれば、帝国もこの街には用がなくなる。追うのは、あなた自身。だから――あなたがうまく姿を消せば、それで丸く収まるのよ。皮肉な話だけど」
私が消えれば、みんなは守られる。
それは少し寂しい結論だったけれど、……頭の片隅にしっかりと刻まれた。
◇
その夜、箱庭に帰った私は、ふと、あの下見のことを思い出していた。
ダンジョンの深層。“いつかの隠れ家”の候補地。……あれはただの、夢のような思いつきのはずだった。
でも。
もし本当に、帝国が私を狙って来るのなら。あの“誰もたどり着けない地の底”は、ただの夢じゃなくなる。……この街とみんなを守るための、本物の逃げ場所になる。
私には繭がある。どんな攻撃も効かない。【箱庭】があれば、どこでも暮らせる。深層の宝の山もある。時渡り羊もいる。
……世界でいちばん危険な場所は、私にとって、世界でいちばん安全な隠れ家。
あの突拍子もないアイデアが、じわじわと現実味を帯びてきた。
もちろん、今すぐ引っ越すわけじゃない。この街も、みんなも大好きだ。まだ、ぎりぎりまでここにいたい。
でも――“いざ”というときの備えはしておこう。あの隠れ家を、少しずつ住めるように整えておこう。
備えあれば憂いなし。冷害の冬を乗り切ったときと同じだ。ちゃんと備えておけば、何が来てもあわてず、大切なものを守れる。
「……ティル、ヒノ。私たち、少しずつ“もしものときのお家”の準備を始めようか」
寝ぼけ眼のティルと、あくびをするヒノに、私はそっとそう呟いた。
あたたかい日々を守るための備え。それは、静かに始まろうとしていた。
静かな暮らしに、影が差す。
次回もどうぞ、あたたかくお過ごしください。




